明史紀事本末太子の監国(太子監國)
成祖の皇太子(のちの仁宗)が監国を務めた永楽二年(1404年)から二十二年(1424年)までの二十年余りを扱う。解縉・黄淮・尹昌隆の議によって長嫡が立てられ、成祖が北京巡幸と漠北親征で都を離れるたび、太子が蹇義・金忠・黄淮・楊士奇らに輔けられて庶政を決した。潁川の飢民には報告を待たず倉を開き、鄒県では草の実を拾う民を見て粟六斗の賑給を命ずるなど恤民に努める一方、漢王・高煦と宦官の讒言により黄淮・楊士奇・楊溥らが獄に下され、賛善の梁潜と司諫の周冕は死んだ。礼部左侍郎の胡濙が密奏七事で太子の誠敬を報じて成祖の疑いは解け、趙王・高燧を擁立しようとした孟賢らの遺詔偽造の陰謀も王瑜の告発で潰える。成祖が楡木川で崩ずると太子が即位し、翌年を洪熙元年とした。
年表(9件)
- 永楽二年 四月— 皇太子の冊立1404年解縉・黄淮らの議で長嫡が皇太子に立てられる
- 永楽六年〜七年(〜1409年)— 監国の開始1408年北京巡幸にあたり太子に監国を勅し、蹇義ら四人が輔導する
- 永楽七年〜八年(〜1410年)— 太子の治政1409年潁川の飢民に啓を待たず倉を開かせ、『大学衍義』を重刻させる
- 永楽十一年〜十二年(〜1414年)— 讒言と獄1413年迎えの遅れと高煦の讒で黄淮・楊士奇・楊溥らが獄に下される
- 永楽十三年〜十六年(〜1418年)— 治政と再びの獄1415年讒言により賛善の梁潜と司諫の周冕が獄中で死ぬ
- 永楽十六年 六月— 胡濙の密奏1418年胡濙が東宮の誠敬七事を密奏し、成祖は二度と太子を疑わない
- 永楽十八年— 北京への赴任と道中の民情1420年北上の途上、鄒県の飢民を見て石執中に粟六斗の賑給を命ずる
- 永楽十九年〜二十一年(〜1423年)— 讒言と趙王の陰謀1421年孟賢らの遺詔偽造と趙王擁立の謀が王瑜の告発で露見する
- 永楽二十二年— 成祖の崩御と仁宗の即位1424年成祖が楡木川で崩じ、皇太子が即位して翌年を洪熙元年とする
永楽二年 四月(1404年)— 皇太子の冊立
- 世子を皇太子に冊立した。先に洪武二十八年、太祖が自ら燕の世子に冊した。当時、秦・晋・燕・周の四世子を太祖はみな教えて試した。
- ある日、衛士を分けて閲兵させたところ、燕の世子だけが遅れて戻った。理由を問うと「寒さが甚だしく、士がちょうど食事をしておりました」と答え、太祖は喜んだ。章奏を閲して施行すべきものを選んで復命させると、太祖はいよいよ愛した。
- のち成祖が即位して儲君を建てる議をした。武臣の多くが高煦を立てることを請い、扈従の功があると言った。金忠は不可とした。上は猶予して定まらず、そこで解縉を召して議に与らせた。
- 縉は「嫡を立てるには長をもってします」と言い、さらに「聖なる孫がよろしい」と言った。宣宗を指したのである。上はさらにひそかに黄淮に問い、淮も「長の嫡が統を承けるのは万世の正法です」と言った。改めて尹昌隆に問うと、昌隆の答えも淮と同じで、上の意はついに定まった。
- 『文華宝鑑』が成ると、上は皇太子を召して諭した。「己を修め人を治める要はこの書に備わっている。堯舜が相伝えたのはただ『允に厥の中を執れ』であった。帝王の道は要を知ることを貴ぶ。お前は励め」。皇太子は拝受して退いた。
- 上は侍臣の解縉らを顧みて言った。「朕の皇考が太子を訓戒するにあたり、かつて経伝の格言を採って書とし、『儲君昭鑑録』と名づけた。この書はそれをやや拡充し、皇考の聖謨・大訓を加えて子孫万世の帝王の法としたものだ。まことにこれを守れれば賢君となるに足る。 昔、秦の始皇は太子に法律を教え、晋の元帝は太子に韓非の書を授けた。帝王の道を廃して講じなかったから乱れ亡んだ。朕のこの書はみな大経大法である。卿らは東宮を兼ね輔けるのだから、ゆったりとした閑暇にもこれを説くべきだ。その徳業を成し、他日、守成の令主たるを失わぬようにせよ」。
- 侍講学士の王達が皇太子に侍って乾の九四の爻を進講し、儲貳(皇太子)を引いて説いた。講が終わると皇太子は楊士奇を召して問うた。「経の趣旨はここで儲貳の説を含まぬのではないか。達は諷刺を含んでいないか」。
- 士奇は「講臣は正道でなければ陳べません。どうして諷刺を含みましょうか。これはもと宋儒の胡瑗の説です」と答えた。皇太子は「では常人がこの爻を得ても、やはりこの説を挙げるのか」と問うた。
- 士奇は「殿下のこのお問いは甚だよろしい」と言い、程子の「およそ卦の六爻は人ごとに用がある。聖賢には聖賢の用、衆人には衆人の用、君には君の用、臣には臣の用があり、通じないところがない」を挙げた。太子は喜んだ。
永楽六年〜七年(1408年〜1409年)— 監国の開始
- 六年八月、詔した。「成周は洛を営んで初めて二都を啓き、有虞は民に勤めてとりわけ巡省を重んじた。朕は天下に君臨して謹んで旧典に率う。極に登った初め、既に順天府を北京とした。今、四海は清寧、万民は業に安んじ、国家は無事である。方を省みるに時をもってす。明年二月に北京へ巡幸し、皇太子に監国を命ずる。朕の通過する所の親王は王城から一程だけ離れて迎接し、軍民の官吏は境内で朝見せよ。一切の供給はみな既に備えてあり、民を煩わさぬ。諸司は進献してはならぬ」。
- 冬十一月、丘福・蹇義・金忠・胡広・黄淮・楊栄・楊士奇・金幼孜らに皇長孫の輔導を兼ねさせ、諭した。「朕の長孫は天章日表、玉質龍姿、孝友英明、寛仁大度である。年はまだ一紀(十二年)に満たぬのに夙夜孜々として日に万言を誦し、必ず要義を領する。朕はかつて事をもって試したが、そのつどよく裁決した。まことに宗社の霊である。卿らは心を尽くして輔導せよ」。
- 七年春正月、皇太子に監国を勅した。ただ文武の除拝、四裔の朝貢、辺境の調発は行在に上請し、その他の常務は報告に及ばぬこととした。
- なお吏部尚書兼詹事の蹇義、兵部尚書兼詹事の金忠、左春坊大学士兼翰林侍読の黄淮、左諭徳兼翰林侍講の楊士奇に監国を輔導させ、義らに諭した。「居守の事は重い。今、文臣の中からお前たち四人を留めて監国を輔導させる。唐の太宗が輔けを簡んで監国させるとき必ず房玄齢らに付したように。お前たちは朕のこの意を心得、敬み恭しく怠るな」。
- 学士の胡広、侍講の楊栄・金幼孜および戸部尚書の夏原吉らに扈従を命じた。
- 皇太子に『聖学心法』を賜った。上は一書を出して胡広らに示した。「朕は政の暇に聖賢の言、たとえば『中を執り極を建つ』の類で修身・斉家・治国・平天下に切なるものを採り、今、既に書を成した。卿らは試みに観よ」。広らは覧終わって「帝王の道徳の要はこの書に載っております」と奏し、そこで『聖学心法』と名づけ、司礼監に刊行を命じた。
- 上は黄淮と楊士奇に言った。「東宮が側に侍していたとき、朕は『今日、講官は何の書を説いたか』と問うた。『論語の君子・小人の和と同の章です』と答えた。そこで『なぜ君子は進みにくく退きやすく、小人は進みやすく退きにくいのか』と問うと、『小人は才をほしいままにして恥がなく、君子は道を守って欲がありません』と答えた。 また『なぜ小人の勢いは常に勝つのか』と問うと、『これは上に立つ人の好悪によります。明主が上にあれば必ず君子が勝ちます』と答えた。また『明主が上にあれば小人はまったく用いぬのか』と問うと、『小人でも果たして才があれば、すべて棄てるべきではありません。ただ常に謹んで備え、過ちを犯させぬようにすればよいのです』と答えた。朕はその学問の進んだのを甚だ喜んだ。お前たちは心を尽くして輔けよ」。
- 二月、帝は京師を発し、三月に北京に至った。
永楽七年〜八年(1409年〜1410年)— 太子の治政
- 都御史の虞謙と給事中の杜欽が命を奉じて両淮を巡視し、「潁川の軍民が食に欠き、倉を開いて賑貸することを請います」と啓した。太子は人を馳せて諭した。「軍民が困乏して哺を待って嗷々としている。卿らはゆったりと啓し請うて返答を待つのか。汲黯はどういう人であったか」。直ちに倉を開いて賑わせ、緩めさせなかった。
- 賛善の王汝正がしばしば皇太子の前で賦詩の法を論じ説いた。皇太子が楊士奇に「古人の詩の高下・優劣はどうか」と問うた。
- 士奇は答えた。「詩は志を言うもの。明良喜起の歌、南風解愠の詩は、唐虞の君の志が高いことを示します。後世、漢の高帝の大風の歌、唐の太宗の『百王の恥を雪ぐ』の作は、尚ぶところが覇力であっていずれも王道ではありません。漢の武帝の秋風の辞は志気が既に衰えており、隋の煬帝や陳の後主の作は万世の鑑戒です。 殿下が文事に意を娯しませたいなら、両漢の詔令もご覧になれます。文辞が高古なだけでなく、その間に治道を裨益するものもあります。詩のような無益の辞は、なさるに足りません」。
- 太子は視朝の暇に文事に専念し、真徳秀の『文章正宗』を覧てその学識の純正を羨んだ。楊士奇が「徳秀の著した『大学衍義』一書はとりわけ学ぶ者に益があり、君たる者も臣たる者も知らずにはおれません」と言った。太子はすぐ翰林の典籍を召して取り寄せて閲し、大いに喜んで「これは治の鑑戒だ。なくてはならぬ」と言い、重刻して諸皇孫と廷臣に賜るよう命じた。
- 八年冬十月、上は南京に還った。
永楽十一年〜十二年(1413年〜1414年)— 讒言と獄
- 十一年、上は北京に行幸し、皇太孫が従った。尚書の蹇義、学士の黄淮、諭徳の楊士奇および洗馬の楊溥らに太子の監国を輔導させた。
- 十二年三月、帝は北京を発してオイラトを親征し、六月に班師して沙河に駐蹕した。太子は兵部尚書の金忠らに表を持たせて迎えに行かせた。
- 八月、帝は北京に至った。太子の遣わした使者の迎えが遅く、しかも上奏文の辞に失があったので怒って「これは輔導する者の咎だ」と言った。漢王・高煦がまた讒言し、そこで使者を遣わして尚書の蹇義、学士の黄淮、諭徳の楊士奇、洗馬の楊溥、芮善および司経局正字の金問らを逮捕させた。
- 途中で旨があって蹇義を宥して南京に戻し、黄淮が先に北京に至って獄に下された。翌日、士奇と金問が続いて至った。上は「楊士奇はひとまず宥す。朕は金問を知らぬ。どうして東宮に侍えたのか」と言い、法司に鞫問させた。
- まもなく士奇を召して東宮の事を問うた。士奇は叩頭して「太子は孝敬が誠に至っております。滞ったことはすべて臣らの罪です」と称えた。そこで士奇を錦衣衛の獄に下したが、まもなく特に宥して復職させた。当時、金問の供述が溥らに及び、相次いで獄に下された。
- ある者が事を申し上げて「殿下は讒言する者をご存じですか」と言った。太子は「私は知らぬ。ただ子であることを知るだけだ」と言った。
永楽十三年〜十六年(1415年〜1418年)— 治政と再びの獄
- 十三年秋九月、直隷塩城県が颶風で海水が氾濫し、民田二百十五頃余を損なった。太子は田租一千一百七十余石を免除させた。帝が京師に至った。
- 十二月、『歴代名臣奏議』が成った。先に上は璽書で太子に諭し、翰林院の儒臣・黄淮、楊士奇らに古の名臣の直言を採って彙録し、閲覧に便宜とするよう命じていた。ここに至って書が進められ、上は覧て嘉し、刊印して皇太子・皇太孫および諸大臣に賜った。
- 十五年春三月、上は北京を巡り、吏部尚書兼詹事の蹇義、翰林学士兼諭徳の楊士奇、侍読兼賛善の梁潜に太子の監国を輔けさせた。七月、皇太子に「務本の訓」を賜った。
- 十六年春三月、太子が自ら書いて賛善の徐善述に賜った。
- 「卿が私のために詩を改めてくれたのを見た。甚だ善い。ただ今、卿は年が高く、私を輔けるのが労であろう。卿のように朴直で苦言を呈する者は百に一、二もなく、顔色を窺って諂う者ばかりだ。卿は労を憚らず私の業を輔け成してほしい。ただ薬石の言が日に日に増すことを望む。逆鱗に触れ諱を犯す憂いを持つな。 私は今、表を作ることを学びたい。卿は詩題と同様に例を立て、詩題と表題を用意して一日おきに封じて進めてほしい。琢磨を広げるためである。春の暖かさに時に順って養生し、私の心を慰めてほしい」。書函には「皇太子、書を賛善・好古先生に賚る」とあった。好古とは善述の字である。
- 太子は視朝の暇に手から巻を離さず、衣服は寛やかで、大いに儒者に類していたという。
- 夏五月、上が賛善の梁潜と司諫の周冕を殺した。当時、太子は監国し、上は不時に病があり、両京は数千里隔たっていた。ひそかに漢府(高煦)に附く小人が百端の讒構をなし、侍従・監国の臣は朝夕、戦々恐々として身を保てなかった。
- 折しも陳千戸なる者が擅に民財を取り、事が発覚した。太子は交趾に謫して功を立てさせるよう令した。数日後、その軍功を思って宥した。ある者が上に讒言した。「上が謫された罪人を太子が曲げて宥されました」。そこで陳千戸を逮捕して殺し、潜と冕が諫止しなかったとして、あわせて逮捕して獄に下し、いずれも死んだ。
永楽十六年 六月(1418年)— 胡濙の密奏
- 上は礼部左侍郎の胡濙を遣わして江浙の諸郡を巡らせた。辞去に臨んで上は諭した。「人は東宮に失当が多いと言う。京師に至ったら数日多く留まって、どうであるか観てみよ。密奏で来い。奏の字は大きくせよ。夜に着いてもすぐ観たいからだ」。
- 濙は京師に至り、日々朝に随い、東宮の行うところで善いものを見るたび、退いてすぐ記録した。
- 勲臣の某が言葉を慎まず、侍衛が打ち据えた。それをそのまま階下で口頭で奏すると、旨があって不問とされた。退くとすぐ侍衛の者を宣して鈔を若干錠賞した。かくて群臣はみな「大臣を顕わに責めずして禁衛を旌するのは、その罪を寛くしてその心を愧じさせるもの。殿下の仁明が見える」と言った。
- やや久しくして楊士奇が「公は使命を受けた身。速やかに行かれるべきです」と言った。濙は「ちょうど冬衣を仕立てていて終わっていないだけだ」と言葉を濁して謝した。
- 安慶に至って初めて奏を書き、見たところがみな誠敬・孝謹である七事を密疏で報告した。上は覧て大いに悦び、これより二度と皇太子を疑わなかった。
永楽十八年(1420年)— 北京への赴任と道中の民情
- 秋九月己巳、北京の宮殿が完成に近づき、欽天監が「明年正月朔が吉です。新殿に御されますよう」と言った。戸部尚書の夏原吉に京師の太子・太孫を召させ、十二月末までに北京に至るよう期した。
- 太子は北京へ赴く途中、滁州を過ぎて瑯琊山に登り、楊士奇に指し示して「これが醉翁亭の故址だ」と言い、欧陽修が朝に立って正言したのは得がたいと嘆じた。「今の人はその文を知って、その忠を知る者は少ない」。太子は文章にかけてとりわけ修を善しとし、常々「三代以下の文人で、独り修だけに雍容和平の気象がある」と言い、とりわけその奏議の切直を愛した。かつて修の文を刊行して群臣に賜り、あわせて諭した。「修の賢は文にとどまらぬ。卿らはその君に仕えたところを考えて励め」。
- 十一月、太子は鳳陽を過ぎて皇陵に謁して祭り、終わって陵の傍らを歩き回り、張本と楊士奇を顧みて「国家の帝業が始まった所だ」と言い、久しく徘徊した。耆老が進み謁し、太祖の時のことを知る者があったので、ゆったりと語り、労いを厚く賜った。
- 先に原吉は南京から先に馳せて上奏し、上はさらに命じて迎えさせ、あわせて「東宮はゆっくり来い」と言った。ここに至って原吉は鳳陽の道上で太子を迎え、旨を伝えた。太子は「遅らせるわけにはゆかぬ」と諭し、あわせて自ら書いて原吉と士奇に渡し、沿道の軍民の利病、政事の得失を訪ね聞いて顧問に備えさせた。
- 太子が鄒県を過ぎたとき、男女が籠を持って路で草の実を拾っているのを見た。馬を止めて何に用いるか問うと、民は跪いて「年が荒れましたので食べるためです」と答えた。太子は惻然として、少し前に進んで馬を下り、民家に入った。民はみな百に継いだ衣を着、竈も釜も倒れていた。太子は嘆じた。「民の隠れた苦しみがここまで上聞に達しないのか」。中官を顧みて鈔を賜り、郷老を召してその苦しみを問い、自分の食を分けて賜った。
- 当時、山東布政の石執中が迎えに来た。太子は責めて「民を牧する身でありながら民がこれほど窮しているのに、心を動かすこともないのか」と言った。執中は「およそ被災した所はみな今年の秋税の停止を奏請しております」と言った。皇太子は「民が飢えて死のうというのに、まだ徴税に及ぼうというのか。速やかに官の粟を発して賑わせ。事は緩められぬ」と言った。
- 執中が一人につき三斗を給することを請うと、「六斗与えよ。お前は擅に倉廩を発することを恐れるな。私が上に会って自ら奏する」と言った。
- 十二月、太子と太孫が北京に至ろうとし、原吉が先に入って奏した。上が「東宮はなぜこう速く来たのか」と問うと、「陛下の慈しみの深さと、東宮の孝思の切なるゆえです」と答えた。上は喜んで鈔二百錠を賜り、諸臣に期日前に官を分けて良郷に出て待たせた。
- 太子は北京に至り、先に山東の境内を過ぎて民の飢えに遭い、直ちに布政司に粟を発して賑わせたことを奏した。上は「昔、范仲淹の子は麦を積んだ舟を挙げて父の旧友を済うた。まして百姓は我が赤子ではないか」と言った。
永楽十九年〜二十一年(1421年〜1423年)— 讒言と趙王の陰謀
- 十九年、礼部尚書の呂震が太子に言った。「殿下が先に南京におられたとき、たびたび中使を遣わして案牘を進めましたが、そのつど事にかこつけて殿下の過失を上に告げました。上はその妄言を指摘されました。今、この人を疎んじられるべきです」。太子は「過失が私にないはずがない。今、至尊が既に信じておられぬのに、私がまた人と較べようか」と言った。
- 二十年春三月、上が北征し、秋九月に京師に還った。
- 二十一年夏五月、常山中護衛総旗の王瑜が変を上告した。「常山中護衛指揮の孟賢が羽林衛指揮の彭旭らを糾合して兵を挙げ、趙王・高燧を主に推そうとし、その謀は上および皇太子に不利です」。
- 上は急ぎ賊を捕らえさせ、ことごとく捕らえると、太子・趙王および文武の大臣をみな召し、右順門に出て自ら鞫問した。
- 先に上は病で朝に出ぬことが多く、中外の事はすべて太子に啓して処分させた。太子はしばしば宦侍を裁き抑え、宦官の黄儼と江保がとりわけ疎んじ斥けられた。儼らは日々、上に讒言し、しかも日ごろ高燧を厚遇していたので、常にひそかにその地歩を固めていた。そこで毀誉の言を偽造して外に伝播させ、「上は高燧に意を注いでおられる」と言って外廷を欺いた。
- これによって賢らは邪心を起こした。欽天監官の王射成が賢にひそかに「天象を観るに、主を易える変があるはずだ」と言った。賢らの邪謀はいよいよ急となり、弟の孟三、常山左護衛の老軍・馬恕、田子和、興州後屯衛の老軍・高正、通州右衛鎮撫の陳凱らと日夜ひそかに謀り、貴顕の近臣と結んで宮中で毒薬を上に進め、上が崩じたら兵で内庫の兵仗と符宝を奪い、兵を分けて府部の大臣を捕らえようとした。
- あらかじめ高正に遺詔を偽撰させて中官の楊慶の養子に渡し、期日に禁中から議して御宝を持ち出させ、皇太子を廃して趙王・高燧を帝に立てる手筈だった。
- 布置が定まると、正はひそかに甥の瑜に告げた。瑜は「これは舅氏の滅族の計だ」と言い、力を尽くして止め、従わず、そのまま入って上に告げた。
- 上は偽撰の遺詔を覧て震怒し、直ちに楊慶の養子を捕らえて誅し、高燧を顧みて「お前がやったのか」と言った。高燧は震えて言葉が出なかった。太子が取りなして「高燧は必ず謀に与っておりません。これは下の者の仕業です」と言った。
- 上は文武の大臣および三法司に鞫治させた。群臣は「賢らの犯したのは大逆であり、しかも明白な事実があります。並べて極刑に処すべきです」と奏した。上は「まずその家を没収せよ。王射成は天象で人を誘った。速やかに誅せ。賢らはさらに厳しく鞫問し、急に死なせるな」と言い、錦衣衛に下して厳しく治めさせた。まもなくその党を逮捕してことごとく誅した。
- 八月、帝は京師を発して北征し、十一月に京に還った。
永楽二十二年(1424年)— 成祖の崩御と仁宗の即位
- 春三月、上は北征を議し、夏四月、太子に監国を詔して駕は京師を発した。
- 秋七月庚寅、上は楡木川で崩じた。大学士の楊栄と少監の海寿が遺命を奉じて馳せて太子に訃を告げた。太子は慟いて気を失い、強いて拝して受け、直ちに太孫を居庸から開平へ遣わして梓宮を迎えさせた。
- 出発に臨んで太孫が啓した。「外に出て封章で事を白すには、印の識がなければ偽を防げません」。太子は「言はもっともだ。だが急な出発で新造は間に合わぬ」と言った。士奇が「殿下はまだ位に践んでおられません。事があれば自ずと常用の宝を用いるべきです。その東宮の小さな図書を貸されるがよろしい。これは一時の権宜、帰ればすぐ返上させればよい」と言った。
- 太子はすぐ取って太孫に渡し、「啓す事があればこれで封じて識せ。久しからずしてお前のものとなる。お前が留めておけ」と言った。
- 出発したのち、太子は士奇を顧みて言った。「昔、大行(成祖)が御位にあったとき、儲位が久しく定まらず浮議が喧しかった。今、直ちにこれを付せば、浮議がどこから起ころうか」。
- 壬子、太孫が大行の柩を奉じて郊に至った。太子および親王以下、文武の群臣がみな喪服で哭して迎え、大内に至って仁智殿に安置し、加殮して梓宮に納めた。
- 八月十五日丁巳、皇太子が即位し、天下に赦し、明年を洪熙元年とした。
史論(谷応泰曰)
- 古の太子を教える者は、慎んで師傅を選び、徳義を訓えた。龍楼を過ぎて寝所を問い、虎闈に入って年齢の順に学んだ。かくも慎重だった。六師が撻伐して行陣に事あれば、従えば「撫軍」、守れば「監国」といった。単に重器を託すだけでなく、艱難を周く知り、治乱を練り察するのが嗣王の要務だからである。
- 仁宗がまだ青宮に正されなかったとき、睿智な資質は仁明で、天姿は愷惻だった。しかし如意が上に類し、申生が寵を得なかったように、黄淮が賈詡の謀を進め、解縉が李泌(鄴侯)の議を効さなければ、鳥烏の向背のように羽翼が成らず、金玦と偏褧の憂いは大きかっただろう。
- 幸いに皇祖が自ら冊し、嫡と長の分が定まり、危きに乗り険を履んでよく重輪を正した。重耳が艱阻を嘗め尽くし、楚王が朝も夕も側に侍したように、単に深宮の中に生まれ阿保の手に育っただけの者ではない。
- 『儲君昭鑑』は高皇帝から伝えられ、『聖学心法』は成祖から頒たれた。始皇が法律を教え、元帝が韓非を授けたのに比べれば、その遺した謀は遥かに優れている。何と偉大なことか。
- まして金忠・蹇義・夏原吉が前で輔導し、黄淮・楊士奇が後で糾し正した。商山の芝を茹んだ四皓の佐けである。学識では特に真徳秀を崇び、文章では独り欧陽公を許した。家丞の秋の実りを採ったのである。潁川の飢えを賑わすのに先に発して後に報せ、鄒県の荒れを恤むのに鈔を賜り食を分けた。豳風の農事の規範である。
- また成祖が順天に巡幸し漠北を親征したこと、駕はおよそ五度出、年は二紀に垂んとした。その間、大官・大邑のことは報告させたが、庶政も庶獄もみな諮って決させた。名は儲位でも実は長君、名は監国でも実は御宇である。ゆえに人は仁宗の在位が短いと言うが、私は仁宗の恵沢が長いと思う。
- 宮闈が禍を煽り、国本が傾こうとし、管叔・蔡叔の流言のような讒構が極まって一時に集まった。どういう心地であったか。しかも迎駕の遅れで官属を逮捕させたのは高煦が仕組んだこと、遺詔を偽撰してひそかに廃立を行おうとしたのは高燧が主導したこと。
- 陣を突くことを自ら任じた黄鬚(曹彰)のごとく、功を樹てたと侈って天の策を談じ、しかも敬礼の密なるを加えて曹植を推し、輔国が交々両宮を闘わせた。それゆえ勢いは孤児のごとく、危うきは累卵のごとく、過ちを救う暇もなかった。
- もし胡濙の密書七事、王瑜の上変の一言がなければ、あらかじめ教えられた淑質は上聞を塞がれ、含沙(毒虫)の口が四方の国を交々乱し、戻園(衛太子)の誅を蒙らずとも必ず扶蘇への詔を賜っただろう。そうなれば仁宗の一年の郅治も、どうしてその盛んなものたりえたか。
- ああ、安慶(胡濙の密奏)があってのちの良郷(無事の帰還)、孟賢の敗があってのちの楡川(成祖の崩御)。天が人の国に福したからこそ、これがあったのである。