明史紀事本末江南の治水(治水江南)
蘇州・松江・嘉興・湖州など江南の水害に対する明の治水事業を、永楽元年(1403年)から万暦十五年(1587年)まで扱う。戸部尚書の夏原吉が命を受けて現地を歩き、呉淞江が淤塞して浚いきれぬのを見て、嘉定の劉家港と常熟の白茆港へ太湖の水を導き、松江では范家濱を浚って大黄浦の水を海に達しさせる方策を立て、役夫十余万を用いて成し遂げた。宣徳七年(1432年)には蘇州知府の況鍾が再び疏浚を請い、嘉靖年間には巡撫の李克嗣が呉淞江四千余丈を開き、巡按の呂光詢が疏浚・圩岸・板閘の三事を上言する。隆慶四年(1570年)には巡撫の海瑞が飢饉の年に大工事を興して民を養い、万暦十五年(1587年)には水利副使を松江に置いたが、開浚が終わらぬうちに旧道が塞がって功を成さなかった。
年表(5件)
- 永楽元年— 夏原吉の江南治水1403年夏原吉が劉家港・白茆港・范家濱を開いて太湖の水を海へ導く
- 永楽二年〜三年(〜1405年)1404年夏原吉が再び蘇松の旧河を疏通し、四郡の飢民を賑済する
- 宣徳七年 九月— 況鍾の上言1432年況鍾が淤塞した六湖の疏浚を請い、周忱とともに実行を命ぜられる
- 嘉靖年間(〜1566年)— 呉淞江の開鑿と呂光詢の三事1522年李克嗣が呉淞江を開き、呂光詢が疏浚・圩岸・板閘の三事を上言する
- 隆慶四年〜万暦十五年(〜1587年)1570年海瑞が飢饉の年に大浚を成すが、万暦の許応逵の工事は成らない
永楽元年(1403年)— 夏原吉の江南治水
- 夏四月、戸部尚書の夏原吉に江南の水を治めさせた。当時、嘉興・蘇州・松江の諸郡は水害が連年続き、たびたび有司に勅して督治させても功がなかったので、この命があった。
- 六月、侍郎の李文郁を遣わして尚書の夏原吉を佐けさせ、水没した田を測って今年の租税を免じた。
- 秋八月、都察院僉都御史の兪士吉に『水利集』を持たせて夏原吉に賜り、疏治の法を講求させた。
- 原吉が上言した。「江南の諸郡のうち蘇州・松江が最も下流に位置します。常州・嘉興・湖州の三郡は土地に高い所が多く低い所が少なく、太湖に囲まれ、五百里に亘って杭州・湖州・宣州・歙州の諸山の水を納れ、澱山などの諸湖に注いで三泖に入ります。近ごろ浦や港が湮塞し、水が滙まって漲り溢れ、苗稼を害しています。 治める法としては、呉淞の諸浦・港を浚ってその壅塞を泄らして海に入れるべきです。呉淞江は長さ二百余里、幅百五十余丈、西は太湖に接し東は海に通じます。前代たびたび浚いましたが、潮汐に当たって砂泥が淤積し、浚うたびに塞がりました。呉江の長橋から下界浦まで約百二十余里、やや流れが通じてもなお浅く狭い所が多く、下界浦から上海の南倉浦口まで百三十余里は潮汐に塞がれ、茭や蘆が叢生して既に陸地となっています。すぐ開浚しようとすれば工費が莫大です。 臣が視察したところ、嘉定の劉家港は古の婁江で、まっすぐ大海に通じ、常熟の白茆港はまっすぐ大江に入ります。いずれも広い川で流れが深い。呉淞江の南北両岸の安平などの浦・港を浚い、太湖の諸水を引いて劉家・白茆の二港に入れ、まっすぐ海に注がせるべきです。 松江の大黄浦は呉淞に通ずる要道ですが、下流が壅塞して急には浚えません。傍らに范家濱があって南倉浦口に至り、まっすぐ海に達しえます。これを深く広く浚い、上は大黄浦に接して茆湖の水を達しさせるべきです。これぞ『禹貢』の三江が海に入る跡です。 開通したのち地勢を測ってそれぞれ石の閘を置き、時に応じて開閉し、毎年、水の涸れる時に圩の岸を修めて暴流を防ぎます」。
- 疏が上って実行された。役夫は十余万。原吉は布衣で徒歩し、昼夜、計画に努め、盛暑にも蓋を張らず、「百姓は日中に身を晒している。私にどうして忍びよう」と言った。かくて水が泄れて農田は大いに利した。
永楽二年〜三年(1404年〜1405年)
- 二年春正月、改めて戸部尚書の夏原吉を蘇州・松江へ遣わして旧河を疏通させ、大理寺少卿の袁復を副とした。
- 六月、陝西按察司副使の宋性を布政使右参政とし、夏原吉に従って蘇松の治水に当たらせた。
- 九月戊辰、戸部尚書の夏原吉が治水の功を成して帰朝した。
- 三年夏六月、戸部尚書の夏原吉、僉都御史の兪士吉、通政使の趙居任、大理寺少卿の袁復に蘇州・松江・嘉興・湖州の飢民を賑済させた。上は言った。「四郡の民は連年、水患に苦しんでいる。今、旧穀は尽き新苗はまだ実らず、老いも幼きも嗷々としている。朕と卿らだけが飽きられようか。行って郡県を督し、倉廩を開いて賑わせ。至った所ではよく撫綏し、一切の民間の利害で建てるべきもの革めるべきものがあれば速やかに報告せよ」。
宣徳七年 九月(1432年)— 況鍾の上言
- 蘇州知府の況鍾が上言した。
- 「蘇州・松江・嘉興・湖州の地には六つの湖があります。太湖・傍山・陽城・昆承・沙湖・南湖。連なって広がること三千里。その水は東南は嘉定の呉淞江へ、東は崑山の劉家港へ、東北は常熟の白茆港へ出ます。 永楽の初め、朝廷は尚書の夏原吉に督理して疏浚させ、水は患いとなりませんでした。ところが年久しく淤塞し、ひとたび長雨に遭えばたちまち大水となり、田はみな溺れます。改めて大臣を遣わして郡県の吏を督し、農閑期に民を発して疏浚させれば、この一方は永く頼りましょう」。
- 上は周忱と鍾に工力の多寡・難易を計って実行するよう命じた。
嘉靖年間(1522年〜1566年)— 呉淞江の開鑿と呂光詢の三事
- 嘉靖元年、巡撫の李克嗣が呉淞江を開いた。呉淞は周忱の修治の後、天順年間に巡撫の崔恭に大盈浦を浚って呉淞に出させ、弘治年間に水利僉事の伍性を設けて再び呉淞の中股および顧会・趙屯の浦を浚わせ、また工部侍郎の徐貫に呉淞を治め直させて帆帰浦から分荘まで七十余里を修めさせた。ここに至って克嗣が華亭・上海・嘉定・崑山の四県の民力を用いて呉淞江四千余丈を開き、十余年、水旱の憂いがなかった。
- 二十二年、巡按の呂光詢が水利について三事を疏上した。
- 一に「疏浚を広くして蓄水と排水に備えること」。三呉は沢の国で、西南は太湖・陽城の諸水を受けて地勢がとりわけ低く、東北は海に際して岡や丘陵の地が西南よりとりわけ高い。昔の人は下流に塘や浦を疏鑿して諸湖の水を導き、北から江に入れ東から海に入れ、さらに江の潮を引いて岡や丘陵の外に流れさせた。それゆえ蓄泄に法があって水旱がいずれも患いとならなかった。 今はただ二つの江がやや通ずるだけ——一つは黄浦、一つは劉家河。しかし大河の諸水は源が多く勢いが盛んで、二江では泄らしきれず、岡や丘陵の支河もまた多く塞がって絶えている。かくて高きも低きもともに病む。 治める法は、まず要害を先とする。澱山などの菱と蘆の地を治め、太湖の水を導き引いて陽城・昆承・三泖などの湖に散らし、また呉淞江ならびに太石・趙屯などの浦を開いて澱山の水を泄らして海に達しさせ、白茆港ならびに鮎魚口などを浚って昆承の水を泄らして江に注ぎ、七浦・塩鉄などの塘を開いて陽城の水を泄らして江に達しさせ、さらに田の間の水をすべて大浦に入れる。流れる水にみな帰する所があり、溜まる水にみな泄れる所があれば、下流の地は治まり、水害の憂いはなくなる。 そこで臧村・第港を浚って金壇を灌漑し、澡港などの河を浚って武進を灌漑し、艾祁・通波を浚って青浦を灌漑し、顧浦・呉塘を浚って嘉定を灌漑し、大瓦などの浦を浚って崑山の東を灌漑し、許浦などの塘を浚って常熟の北を灌漑する。
- 二に「圩の岸を修めて横流を固めること」。蘇州・松江・常州・鎮江は最も東南の下流にあり、蘇州・松江はさらに常州・鎮江の下流にある。秋の長雨で水が漲り、風と波が相迫ると、河や浦の水が田の間に逆流し、衝き削って患いとなる。宋の転運使・王純臣はかつて蘇州・呉江に田の畦を作らせて水を防がせ、民は甚だ便宜とした。司農丞の郟亶も「河を治めるのは田を治めるを本とする」と言った。田の圩が次第に壊れて年ごとに水災が多いからである。
- 三に「板の閘を復して淤積を防ぐこと」。河や浦の水はみな平原から江海に流れ入る。水は緩く潮は急で、砂が浪とともに湧き、その勢いは淤りやすく、数年ならずして湿地から陸地となる。毎年修めればその費用に堪えられない。 昔の人は便宜を量り、江海から十余里、あるいは七、八里の所で流れを挟んで閘を作った。平時は潮に随って開閉して淤砂を防ぎ、旱の年は閉じて開かずその流れを蓄え、澇の年は開いて閉じずその溢れを宣らせた。志に「閘を置けば三つの利あり」というのはこのことである。 宋の臣・郟僑も「漢唐の遺跡では、松江から東は海に至り、また海を導いて北は揚子江に至り、また江に沿って西は江陰の界に至るまで、一河一浦、大きいものにはみな閘があり、小さいものにはみな堰があった」と言った。臣が郡志を按ずるに僑の言とかなり合う。しかし多くは湮滅・廃絶し、ただ常熟県の福山閘だけが残る。 正徳年間、巡按御史の謝琛が呉塘などの閘の復旧を議したが果たさなかった。今、金壇県は荘家閘、江陰県は桃花閘の復旧を議し、嘉定県は横瀝・練塘・塩鉄にそれぞれ旧のごとく閘を置くことを議している。
隆慶四年〜万暦十五年(1570年〜1587年)
- 隆慶四年、巡撫の海瑞が松江府同知の黄成楽と上海知県の張嵿に委ねて、王渡から宋家港まで合わせて長さ一万一千五百七十一丈、幅三十余丈を開浚させた。議して半分に減じ、河面十五丈、底の幅七丈五尺、深さ一丈五尺六寸とし、合わせて工費銀六万余両を用いた。この年は大飢饉で、畚と鍬が雲のように集まり、二か月ならずして河工は完成し、民は食にありついた。
- 万暦十五年、呉中が毎年、水患に遭うので、特に水利副使一員を設けて松江に駐在させることを奏請した。この年、許応逵に任地へ赴かせ、帑金十万を発して修治の費用とし、まず呉淞を浚い、のちに支流・幹流に及んだ。だが開浚が終わらぬうちに旧道がかえって塞がり、一年ならずしてことごとく平地となり、功は成らなかった。
史論(谷応泰曰)
- 天下の賦の半ばは江南にあり、天下の水の半ばは呉会に帰する。江南の田は水を資として灌ぎ潤し、とくに「塗泥」と称され、水が浸みやすい。偃鼠が河を飲むように、多くから汲み取れる。雍州の土が厚く水が深く、冀州が神々しい高台の地であるのとは違う。
- 浙西および蘇州・松江の諸郡を考えると、杭州・湖州・宣州・歙州の万山の水が奔騰し湧き溢れてことごとく太湖に入る。太湖に蓄えきれぬ分が三江に溢れ、東流して海に入る。いわゆる「三江すでに入り、震沢底定す」である。
- ならば三江に入る道がなければ震沢に定まるべき波もない。それは明らかである。ところが呉淞江も婁江もみな淤塞し、黄浦・白茆はわずかに名を留めるだけ。江海の門は排水が少なく、震沢の汪洋は流れを承けるのが緩やかになった。加えて山水は砂が多く、夏秋の急な増水で勢いに乗って流れ、勢いが緩んで波が平らかになると砂が類を集めて溜まり、湖沿いの諸泖は相次いで埋まって荒れた。
- 井陘に孤軍を懸ければ単騎しか通れず、良将もためらう。君門に告げようにも路が九重の門に隔てられれば忠臣も血の涙を流す。まして天を滔らす大水を一筋の流れに泄らし、峡を倒し江を傾ける水を一握りの土に阻ませては、「我らは魚となるか」という嘆きに寒心せずにおれようか。
- ある者は「渓が湖に入らぬのは、みな呉江の長橋を築いたためだ。水は清く砂は滞り、勢いは壅ぎ塞がる。かつては江流が疾かったので群れを成して流れたが、今は橋梁が立って水勢が迂回し、清いものは浮いて去り、濁って重いものは沈む」と言う。これは賈譲の治河が、民居をすべて移して河を北に放って渤海に入れようとしたのと同じで、宣房で渠を築き、さらに徳州・棣州に分けて八河として民の患いを息めようとしたのを、まことに上策と言うようなものだ。その事は言い難い。
- おおむね嘉興・湖州は上流に地を占めるので、渓が湖に入らねば嘉興・湖州が震沢の水を代わって受ける。蘇州・松江は下流に勢いを占めるので、湖が江に入らねば蘇州・松江が三江の水を代わって受ける。
- 夏原吉は自ら履んで検分し、初めて「太湖の氾濫には呉淞を浚うべし」と唱えた。しかし蘇州の呉淞は砂泥が淤塞して浚うたびに積もり、松江の呉淞は茭と蘆が叢生して次第に陸地となっていた。そこで嘉定に劉家港を開き、常熟に白茆港を開くことを請い、蘇州の水は海に入り、松江ではさらに范家墳を開いて大黄浦に達しさせ、松江の水も海に入った。
- 広く浚って支流を分け、三江の水を受けるのは、いわゆる「三江すでに入る」であり、尾閭を多く作って震沢の怒りを殺ぐのは、いわゆる「震沢底定す」である。『禹貢』の記すところは明快で簡潔を尽くし、原吉の治めたところは委曲を極めて詳らかである。江南の水勢の大略はこれで見て取れる。
- 宣徳七年に至って況鍾が再び夏原吉の緒を修め挙げて民を水没から起こすことを請うた。鍾は夏原吉から三十年しか隔たっていない。芍陂は艾を煩わし、渭渠は荘を要する。まして金城の柳、大滄海の田は、世を紀するうちに移り去り、陵と谷は摧け移る。さらに呂光詢の治水三事、海瑞の浚築の功があった。もし泥橇と山樏(禹が用いた道具)に乗って民の溺れを我がことと視る心がなければ、どうしてこれらを称えられようか。