明史紀事本末山東の盗賊を平定する(平山東盗)

永楽十八年(1420年)に山東で起こった唐賽児の乱と、その平定・後始末を扱う。蒲台県の民・林三の妻である唐賽児は自ら「仏母」と号し、妖書と宝剣を得たと称して愚民を集め、董彦杲・賓鴻らを従えて益都の卸石棚寨に拠った。青州衛指揮の高鳳は敗死し、勅を受けた安遠侯・柳升も囲みを破られ都指揮の劉忠を失う。安丘では知県の張璵らが死守し、備倭都指揮の衛青が千騎で駆けつけて賊を破り、王貴も諸城で破って山東は平定された。柳升は命に背き功を妬んだ罪で獄に下され、賽児の行方を追う大捜索で天下の尼・道姑一万人近くが逮捕されたが、賽児自身は獄を脱して終わりを知られぬまま篇は閉じる。

年表(2件)

永楽十八年 三月(1420年)— 唐賽児の乱

  • 山東蒲台県の妖婦・唐賽児が乱を起こした。賽児は県の民・林三の妻で、若い頃から仏を好んで経を誦み、自ら「仏母」と称し、前後の成敗を知りうると偽り、また紙を切って人馬を作り戦わせられると言った。
  • 益都・諸城・安州・莒州・即墨・寿光の諸州県を往来して愚民を煽り誘い、かくて奸人の董彦杲らがそれぞれ衆を率いて従い、五百余人を擁して益都の卸石棚寨に拠って出没した。
  • 青州衛指揮の高鳳が兵を率いて捕らえに行ったが、賊は夜に隙に乗じて撃ち、官兵は潰散し、鳳らはみな陥没した。都指揮使司・布政司・按察司の三司が報告し、人を駅馬で遣わして招撫した。
  • 直隷沂州衛も「莒州の賊・董彦杲らが衆二千余人を集め、紅白の旗を号として大いに劫殺しております。莒州千戸の孫恭らが招撫に行きましたが服さず、その従者を殺し、勢いは甚だ猖獗です」と奏した。
  • 上は安遠侯の柳升に勅して兵を分けて剿滅させた。柳升の兵が益都に至って賊を卸石棚寨に囲むと、賊は人を遣わして降を乞い、偽って「寨中は食が尽き、しかも水がありません」と言った。升は東門にもともと水を汲む道があるので、そこへ行って占拠した。
  • 夜二更、賊が官軍の営を襲い、都指揮の劉忠が力戦して死んだ。夜明けに柳升はようやく気づき、兵を分けて追捕し、賊党の劉俊ら男女百余人を捕らえたが、賽児らはついに逃げた。
  • 当時、賊党の賓鴻らが安丘を攻めた。知県の張璵と県丞の馬撝が民夫八百余人を集めて死を賭して拒み戦い、賊は攻めきれなかった。そこで莒州・即墨の衆を率いて合わせて一万余人となり、力を併せて攻め、城を屠ると触れた。
  • そこへ都指揮の衛青が海上で倭に備えていたが、安丘の囲みが急と聞いて千騎を率いて昼夜兼行し、奮撃して破った。賊は残兵を収めて再び戦い、城中の人も鬨の声を上げて出撃し、賓鴻は逃げた。賊二千余人を殺し、四十余人を生け捕っていずれも斬った。当時、城中は既に支えきれず、衛青の到着がやや遅ければ陥落していた。
  • まもなく柳升が至り、青が迎えて謁したが、升はその専断を怒って引き出した。青は屈しなかった。
  • 同じ日、鰲山衛指揮の王貴も兵百五十人で賊衆を諸城で破り、ことごとく殺した。山東はすべて平定された。

永楽十八年(1420年)— 柳升の処罰と大捜索

  • 行在の刑部尚書の呉中らが柳升を弾劾して奏した。
  • 「柳升は命を奉じて征剿しながら直ちに道に就かず、『賊は高きに憑るが水なく、しかも資糧に乏しい。座して困らせよ、近い功を図るな』と勅諭されたのに、賊が境に臨んでも備えを設けず、賊の夜討ちで軍士を殺傷させました。 当時、都指揮の劉忠が升と挟撃し、忠は軍士に先んじてほとんど賊の塁を破ろうとしましたが、升はその成功を忌んでかえって救援せず、忠は力尽きて斃れ、賊は隙に乗じて逃げました。升は指揮の馬貴らを遣わして追わせましたが、通過する先々で騒擾しても升は問いませんでした。 また備倭都指揮の衛青が安丘の囲みを聞いて急ぎ自ら部下の兵を率いて昼夜兼行し賊衆を破りましたが、三日後にようやく升が至り、逆に青の功を忌んで故意に摧きにかかりました。人臣の不忠、これより甚だしいものはありません。その罪を治めることを請います」。
  • 上は言った。「朕は将に命じ師を遣わすたび、必ず丁寧に告げ戒めて万全を図らせる。今、升は命に背いて機を失い、功を妬み能を忌んだ。罪は宥せぬ」。そこで升を獄に下した。
  • 上は唐賽児が長く捕らえられぬので、髪を剃って尼となったか、女道士に紛れているのではないかと慮り、法司に命じて北京・山東の境内の尼と道姑をすべて京に逮捕して詰問させた。
  • 七月、段民を山東左参政とした。当時、唐賽児の大捜索は甚だ急で、山東・北京の尼をことごとく逮捕し、さらに天下の出家した婦女をことごとく逮捕して前後ほぼ一万人に及んだ。段民が撫定し綏輯し、曲げて弁解に努めたので、人情はようやく安んじた。
  • もともと唐賽児は夫が死んで墓を祭った帰り、山麓を通ったとき石の割れ目に石の匣の角が露出しているのを見た。掘り出すと妖書と宝剣を得、そのまま諸術に通暁した。剣もまた神物で、賽児だけが使えた。
  • そこで髪を剃って尼となり、その教えを里の間に施すと、ことごとく験があった。細民は靡いて従い、衣食や財物を望めば、求めに応じて術で運んで来た。はじめは大志もなかったが、妖徒がいよいよ盛んになって数万に至り、官の捕縛が急なので、賽児はついに叛いた。軍兵の殺傷は甚だ多く、三司はみな早く発覚させなかったとして獄に繋がれた。
  • やがて捕らえられ、法に伏そうとしたとき、怡然として恐れなかった。裸にして縛って刑に臨むと刃が入らず、やむを得ず再び獄に下した。三木を体に着け鉄の鈕で足を繋いだが、まもなくいずれも自ずと解け、ついに逃げ去って、その終わりを知る者はない。三司・郡県・将校らの官はみな賊を取り逃がした罪で誅に伏した。

史論(谷応泰曰)

  • 古来、盗賊が起こるとき、妖しい術で人を惑わし乱さぬものはない。陳勝は篝火に狐の声を使い、張角は米五斗を取り、号は「天公」「地公」といい、霧を三里・五里と起こしたという。何と怪しいことか。私は思うに、男ならまことにありうるし、あるのも当然である。
  • 史書に、琅邪の呂母が党数千人を集めて海曲の宰を殺し、海中に入って盗となったとあり、同時に平原の女子・遅昭平もまた数千人を集めて河阻の中に屯したという。これで婦女が軽剽で乱を好むのも、おおむね少なからず見られると分かる。
  • 成祖の時、蒲台の唐賽児という者があり、自ら仏母と号し、紙を切って人馬とし戦わせられたので、衆はいよいよ信じた。かくて莒州・即墨の諸奸民が蜂起し、賊党の董彦杲・賓鴻らも兵を掠めて呼応した。
  • 幸い拠った所は数州に過ぎず、転戦は旬月に過ぎなかった。衛青と王貴の両軍が急撃すると、旗は靡き轍は乱れ、魚のように腐って亡んだ。ならば賽児の妖術は結局どこにあったのか。王凝之の鬼兵が助けたのに大道はついに信じられなかったのか。それとも費長房が鬼物を使役してついに群鬼に殺されたのと同じか。いずれも知りようがない。
  • ただ、柳升は通侯の尊さで鉞を授かって師を出しながら、駅を騒がせ供給を煩わせ、河上に逍遥した挙句、衛青を厳しく責めて功ある者を妬んだ。仮に大敵が前にあって将校が和さなければ、王師は一戦で潰えていた。
  • とはいえ、成祖の用兵は南に金陵を定め、北に沙漠を征し、地を三獠に拓き、威を万里に行き渡らせた。それを賽児という一人の愚かな婦人がその間をうろつき、娘子の軍を結んで夫人の城に乗ろうとした。喩えれば薄い石で柱を撃つようなもので、身の程を知らぬことの表れである。
  • しかし私が思うに、賽児の乱は黷武の招いたところである。秦の風は首級の功を尚び、「小戎」の詩も車戦を語り、河北は藩鎮が甚だしく、女子も剣器に通じた。牝鶏の晨は、あるいは怒れる蛙への礼(士気の尊重)と同じ理か。
  • 賽児が逃げ去ったのち、燕・斉の諸尼から天下の仏に仕える婦女まで、逮捕された者は一万人近い。石閔が羯の部で髯が多く鼻の高い者を戮し、あわせて誅した例、袁紹が宦官を斬るのに顔に鬚のない者まで殺した例と同じで、玉石ともに焚かれるのは勢いとして当然である。
  • とりわけ怪しむべきは、賽児の踪跡がまったく問いようもないことである。軍中の張燕が群号して河上を飛び越えたというのか、孫恩が水に化したと伝えられるのと同じか。妖か人か、私には分からない。