明史紀事本末三衛を設立する(設立三衛)

永楽元年(1403年)から万暦四十六年(1618年)までの二百年余り、大寧の故地を烏梁海に与えて泰寧・福余・朶顔の三衛としたことが、明にとって長い辺患となっていく経緯を扱う。成祖は靖難で助けた烏梁海に三衛の地を与えたが、三衛はアルタイやオイラトに附いて叛き、成祖の親征や宣宗の寛河の急襲でも屈さず、正統十四年には土木の変で郷導となった。景泰以降は互市と貢の増額を迫って侵略を繰り返し、譚綸・戚継光の練兵、李成梁の遼東での連戦がこれに当たった。隆慶以来、朶顔の長昂が四十年にわたり塞上に雄視したが、その死後は諸部が次第に微弱となった。

年表(13件)

永楽元年 三月(1403年)— 大寧の放棄と三衛の設置

  • 北平行都司を大寧都司と改めて保定に移し、大寧の故地を三衛に分け与えた。
  • 大寧はもと烏梁海の地である。烏龍江の南、漁陽塞の北にあり、春秋の時は山戎、秦の時は遼西の北境、漢では奚の拠るところ、後魏では韓の庫莫奚が契丹に服属し、唐では奚・契丹、元では大寧路であった。
  • 洪武年間、元兵が沙漠に逃れてたびたび侵し、降伏を乞うた。高皇帝は錦州・義州・建州・利州の諸州を割いて遼東に属させ、古の会州・大寧の地の北に北平行都司を設け、興州・営州など二十余の衛所を領させた。
  • 洪武十四年、皇子・権を大寧に封じて寧王とした。当時、宋国公の馮勝がナクチュを征して大寧の塞に拠り、守りを並べて制御し、大寧・寛河・会州・富峪の四城を築き、ついにナクチュを破って降した。
  • 二十二年、烏梁海を三衛に封じて降人を置き、アク・ビシェレらを三衛の指揮使・同知とした。大寧から喜峰へ、宣府に近い辺りを朶顔、錦州・義州から広寧を経て遼河を渡り白雲山に至る地を泰寧、黄泥窪から瀋陽・鉄嶺を越えて開原に至る地を福余といった。
  • ただ朶顔が最も強かった。その貢の路は喜峰口から入り、市は遼東に置いた。変を防ぐためである。のちついに叛いて去り、元に附いた。
  • 燕王が兵を起こすと、劉家口からまっすぐ大寧へ向かい、数日ならずして突然至った。寧王は不意を突かれて燕王に降った。燕王は寧王とその軍を内地へ移し、降騎をすべて抜いて北平に還り、従軍して功があった。
  • そこで三衛の地を烏梁海に与え、なお三衛とし、その官は都督から指揮・千戸・百戸まで差を設けた。約して外藩とし、平時は偵察し、警あれば防衛させ、毎年、牛具・種・布帛・酒食を給することは甚だ手厚かった。これが大寧を棄てて三衛を設けた始まりである。
  • 三衛は遼陽・瀋陽から宣府までほぼ三千里。大寧を棄てたことで、天寿山は異域と隣り合い、宣府と遼東は左右の腕を断たれた。
  • そこで営州の左屯衛を順義、右屯衛を薊州、中屯衛を平谷、前屯衛を香河、後屯衛を三河に移し、衛には左・右・中・前・後の五所を設け、なお大寧都司に属させた。また東勝の中・前・後の三所千戸を懐仁などに設けて守備させた。だが諸部落は既に我が門前に並んだのである。
  • まもなく三衛は再び叛いてアルタイに附いた。明の世を通じて泰寧・福余は常に東と合し、朶顔は常に西と合して中国の膏肓の患いとなったが、いずれも三衛が郷導となったのである。

永楽二十年 秋七月(1422年)— 烏梁海の討伐

  • 上は自らアルタイを親征し、師を返して烏梁海を討ち、大破した。
  • 永楽の初め、福余衛が馬を売ることを請い、広寧・開原で互市させた。まもなく三衛はブニヤシリに脅されて我が辺境の卒を掠め、上は使者を遣わして諭し、馬を納めて罪を贖わせた。しかし当時はアルタイに附いて塞下に出没していた。
  • ここに至って上は北征から師を返し、諸将を召して諭した。「アルタイがあえて悖逆をなすのは、烏梁海が羽翼だからだ。兵を分けて剪るべきである」。
  • そこで歩騎数万を選んで五道に分けて向かわせ、自らは鄭亨・薛禄らを率いて大軍でその西を邀えた。師が奇拉爾河に至ると、烏梁海は数万の衆を駆って西へ奔り、沢中に陥った。上が騎兵を指揮して撃つと数百級を斬り、彼らは互いに踏み合って死者は数知れなかった。
  • 上が高みから望むと、その衆がまた集まっていた。そこで左右の翼を張り、厳しく陣を敷いて挟撃し、吏士に神機弩を持たせて深い林に伏せさせ、賊が来てから発せよと戒めた。まもなく賊騎が突進して左へ回り、左師が馳せると林中へ逃げ、伏に当たって驚き潰え、死傷はほぼ尽きた。三十余里追撃してその巣を蕩って還った。これより三衛はやや懲りた。

宣徳三年 九月(1428年)— 宣宗の親征

  • 烏梁海が大寧を犯し、上は自ら親征して喜峰口を出、寛河に至って大破した。
  • 宣徳の初め、朶顔衛指揮のハラハスンらが朝貢に来なかった。武進伯の朱栄が遼東を鎮め、掩撃を請うたが上は許さなかった。
  • ここに至って上は自ら諸関塞を歴巡し、石門駅に駐まった。守将が「烏梁海の万の衆が辺を盗み、既に大寧に入り、会州を経て寛河に及ぼうとしている」と奏し、諸将は増兵を請うた。
  • 上は言った。「孽賊は何もできぬ。ただ我が辺に備えがないと思って来たのだ。朕がここにいると知れば驚いて逃げよう。今、喜峰口を出る路は狭くしかも険しく、単騎でなら行ける。諸軍の到着を待って並び進めば機を逸する恐れがある。朕が鉄騎三千で先に進み、不意を突けば必ず擒にできる」。
  • ある者が「三千では足りぬかもしれません」と言うと、上は「兵は精にあって多きにあらず。三千で賊を擒にするに足る」と言い、親征を決した。
  • 士三千を選び、一人二騎、十日分の糧を持たせ、夜に枚を銜んで喜峰口を出、四十里を馳せて夜明けに寛河、敵営から二十里の地点に至った。賊は望み見て、砦を守る卒だろうと思い、全軍で前に出た。
  • 上は鉄騎を指揮して両翼に分けて進み挟撃し、自らその前鋒を射て三人を斃した。飛矢は雨のように集まり、神機銃が繰り返し発せられ、賊は当たれず大潰して逃げた。
  • 上が数百騎でまっすぐ前進すると、賊は望み見て黄龍旗により上が自ら臨んでいると知り、大いに驚いてみな馬を下りて羅列して拝し、降伏を請うた。すべて生け捕り、その渠帥を斬った。
  • 寛河に駐蹕し、諸将に分けて命じて窟穴をくまなく捜させた。忠勇王・金忠はもと韃靼の名王子で、その甥の都督バルタイとともに自ら効すことを請い、上は許した。ある者がひそかに「忠は行けば戻りません」と言ったが、上は聴かなかった。忠とバルタイは果たして大いに獲て帰った。
  • 上は金の爵で飲ませ、そのまま賜与した。侍臣を顧みて「王者は誠を推して人を待つべきだ。漢が金日磾を用いたのは、まさか法とするに足らぬわけではあるまい」と言い、そのまま凱旋した。

宣徳五年(1430年)— 開平衛の内遷

  • 開平衛を独石に移した。洪武の初め、李文忠が元の上都を克って開平衛を置いて守らせ、駅八つを置いた。東は涼亭・泥河・賽峰・黄崖の四駅で大寧の古北口に接し、西は桓州・威鹵・明安・隰寧の四駅で独石に接した。
  • 永楽年間に大寧を棄てて開平は孤立し守りにくくなった。ここに至って独石に城を築いて開平衛をそこへ移した。棄てた地はおよそ三百里。これより龍岡・灤河の険を完全に失い、辺陲は断絶していよいよ騒然となった。

宣徳九年〜正統七年(1434年〜1442年)— 三衛の反覆

  • 宣徳九年夏四月、オイラトのトゴンがアルタイを攻めて殺し、そのまま烏梁海と通じた。先に詔して三衛の罪を蠲め自新を許したが、泰寧衛の印が賊に没収されたので、改めて烏梁海に給し、遼東の塞に牧営させた。
  • 正統二年十二月、福余などの衛のアルタイらが五百騎で葭州を掠めた。独石守将の楊洪が西涼亭で遮り撃ち、百戸のチキリらを生け捕り、掠奪品を奪い返した。烏梁海の貢使を集めて市で戮させ、(洪を)都指揮同知に進めた。
  • 正統元年、福余衛が印を失ったので泰寧の例に倣って改めて給した。だがトゴンが使者を遣わして烏梁海と通じ、ひそかにうかがっていた。たびたび諭しても改めず、ここに至って改めて都指揮の安春らに諭して首悪を縛って献ずるよう命じた。
  • 四年夏六月、福余衛都指揮のトンドルらが、たびたび賞が薄く互市も不利で永楽の時とは比べものにならぬと言った。上は使者の帰りに勅した。「文皇帝はお前たちがアルタイと通じたので、毎年、馬三千匹を徴して罪を贖わせた。お前たちは頭を垂れて命を聴いた。朕は実にお前たちに寛くしたのに、みだりに飽くことなきを望むのは敗れを速める。速やかに改めることを図れ」。まもなくオイラトと通じたとして、その部落の貢献を罷めた。
  • 九月、烏梁海が辺を犯し、右参将の楊洪が白塔児三岔口で追撃し、烏梁海の五百騎に遭って撃破し、十二人を射殺し三人を捕らえた。
  • 六年冬十月、左参将の黄直が辺を巡って閔安山に至り、烏梁海の三百余騎に遭って撃破した。福余衛のトホチ・オルハンらが狩猟にかこつけてたびたび辺を犯し、ここで捕らえられて市で磔にされた。まもなくまた遊騎が密雲の扒頭崖の塞を犯して戍卒を射傷し、また牛心山を掠めた。
  • 七年冬十月、烏梁海の千騎が氈帽山から広寧前屯などの衛を犯した。守将の曹義がその将ボディを捕らえ、三衛の来朝の折に戮して示した。

正統九年〜十四年(1444年〜1449年)— 大討伐と土木の変

  • 九年秋七月、烏梁海が侵入し、成国公の朱勇らに諸軍二十万を率いて道を分けて塞を出て撃たせた。朱勇は太監の銭僧保とともに中路から喜峰口を、興安伯の徐亨は太監の曹吉祥とともに南路から劉家口を、左都督の馬諒は太監の劉永誠とともに北路から界嶺口を、都督の劉懐は太監の但住とともに西北路から古北口を出た。
  • 灤河を越え柳河を渡り、大興州・小興州を経て神樹を過ぎ、全寧で福余を破り、さらに虎頭山で泰寧・朶顔を破った。掠奪品は万を数え、都督の楊洪は黒山に出て安出部を俘斬した。それぞれ功を論じて位を加えた。三衛はこれより衰えたが、中国への怨みはいよいよ骨に刺さり、朶顔を糾合して侵入させ、その郷導となった。
  • 十二年春正月、都御史の王翺が総兵の曹義とともに辺を巡って広寧に至った。烏梁海が林中に騎兵を伏せていたが、義が撃破した。当時、オイラトのエセンもまた東の三衛を侵していたので、使者を遣わして勅諭し、オイラトに誘われぬようにさせた。
  • 十四年三月、福余・泰寧がともにひそかにエセンと結んで侵入したが、朶顔だけは険を扼して従わなかった。エセンは至っても入れず、二衛の人畜を大いに掠めて去った。
  • その秋、そのままエセンと合し、土木の変で北狩となった。都御史の鄒来学に京東を経略させ、あわせて参将・総兵を設け、朶顔・三衛の互市を罷めた。

景泰年間(1450年〜1457年)— 互市と要求

  • 景泰六年、朶顔の諸衛が来朝して耕地および犂鏵・種糧を乞い、詔して糧三十石を与えた。まもなく独石を侵した。
  • 先に三衛の互市を罷めたが、景泰二年に改めて貢を許すことを議した。しかし三衛は常にオイラトの使いの中に名を紛れ込ませて我が方をうかがい、北の使者への待遇が厚いのを見て望みを抱かぬではなく、しかも漠北と婚を結んでそれを重しとし、少しずつ侵犯して遼河の東西、三岔河の北の故地をすべて奪った。薊遼の多事はここから始まる。
  • 四年、兵部尚書の于謙が、三衛の使いが重ねて来てかなりオイラトの間諜となっていると言い、辺臣に厳重に備えさせるよう請い、防禦の事を条陳した。詔して、以後、使者が至れば伴の二、三人だけ入京させ、他は関に入れぬこととした。
  • まもなく泰寧衛都督僉事のダルハン・テムルが大寧の廃城および甲盾を乞うた。于謙は不可と主張した。帝は三衛の歓心を失うことを重んじ、通訳に「大寧城は塞に近すぎて馳猟に不便であり、また炎暑で疫が多く生ずる。甲楯は賊が至ってから給する」と言わせ、その謀を挫いた。ここに至って辺を侵し、参将の葉盛が兵を督して撃退した。

成化年間(1465年〜1487年)— 貢道と要求

  • 成化元年春二月、保喇(ボラ)が三衛のために賞を請うたが許さなかった。景泰の末から三衛の多くが保喇と通じ、貢使が定員を超えて保喇の使者に従って雲中へ走った。朝廷は羈縻して問わなかった。
  • ここで保喇が賞を請うと、勅諭した。「四方の貢使への賞には定額がある。三衛はかつて東路の喜峰口から朝貢していた。今、朶顔都督の多羅干らは擅に貢道を易え、賞を混ぜようとしている。朝廷が例に照らして区別するのを、なぜ責めるのか」。
  • まもなくまた勝手に辺に入り、都督の季鐸を遣わして諭させたが、泰寧まで至って戻った。兵部は使いの体をなさぬとして逮捕・処罰を請い、詔して赦した。
  • 十二月、泰寧衛都督の劉玉、ウフネ・テムルらが牛および農具を塞下で買うことを請い、あわせて蟒の衣を賜ることを乞うた。上は蟒衣は与えず、他は民との交易を許すよう諭した。朶顔衛のウヤン・テムルがそれに乗じて職事を請うたが、兵部は功績もないのに昇授の例はないとして許さなかった。
  • 二年十二月、オイラトが使者を遣わして馬を貢し、三衛を挟んで喜峰口から入った。詔して三衛の礼で待遇し、その渠帥アシ・テムルに、朶顔を糾合してみだりに貢道を変えぬよう勅した。
  • 十四年秋七月、三衛の部落がそれぞれ便利な道から入貢することを請い、あわせて開市を求めた。当時、太監の汪直がちょうど兵部侍郎の馬文升と遼東の撫と剿の是非を争っていたので、三衛が隙に乗じて我が方を挟んだのである。詔して辺吏に朝廷の恩義を諭させた。

弘治年間(1488年〜1505年)

  • 弘治二年、兵部尚書の馬文升が辺備の修繕を請うた。先に天順以後、保喇がひそかに三衛と通じてたびたび塞に入り、中国は羈縻して絶たず、誘い寄せたので大きな寇害にはならなかった。
  • ここに至って文升が奏した。「先年、三衛が漠北の馬を盗んで大同・宣府を経たとき、敵の老営を報じた。今、両鎮は年を経ても報じない。彼此が通じているのではないか。団営から馬歩三千を選んで永平へ、三千を密雲へ赴かせて防禦させ、あわせて両鎮の巡操に会させることを乞う」。従われた。
  • 十一年冬、朶顔が侵入した。先に辺軍が焼き草のため塞を出て賊騎に遭って掩殺し、辺の釁がそこから起こった。馬文升は守臣に檄して要害に分け拠り、機を見て剿殺させ、なお璽書で三衛の頭目を厳しく責めるよう請い、従われた。
  • 十七年秋七月、朶顔が小王子を導いて大同に侵入した。上は煖閣に出て大学士の劉健らを召して出兵を議した。李東陽は「朶顔は潮河川・古北口に通じ、京師から一日の近さです。根本を固めるべきで、遠く師を出して自ら疲れるべきではありません」と言い、上は深く同意した。
  • 当時、朶顔の部落はいよいよ繁殖してたびたび侵盗した。諸部のうち和坦だけがオンジャル・テムルの裔で種姓が最も貴かった。和坦の次子・バルスは驍勇で敢えて深入りし、小王子と婚を結んで中国の患いはいよいよ甚だしくなった。

正徳年間(1506年〜1521年)

  • 正徳四年冬、泰寧衛の満満が部落二万余を率いて塞下に寄住して北の敵を避けたいと願い出、旧鎮安堡に住まわせ、周囲を侵さぬよう戒めた。
  • その後、和坦の部がたびたび貢の増額を迫った。詔して暫時一年だけ増し、定額とはしなかった。和坦の部は強く請うたが従わず、そこでいっそう小王子を誘って合謀した。
  • 十年夏四月、朶顔のバルスが鮎魚関から垣を毀って馬蘭谷に入り、参将の陳乾を殺した。都督の桂勇に討たせた。巡撫順天都御史の王倬が謀った。「敵は我が兵が西に屯していると知れば、必ず東から入る」。指揮の葉鳳を山下に伏せさせ、敵は果たして入り、伏が発して破った。
  • バルスはトクトらを遣わして貢を請い、あわせて馬を献じて陳乾を殺した罪を贖おうとした。兵部尚書の王瓊は必ずバルスをもって乾に償わせるべきだと主張した。そこで兵を罷めて貢を与えることにしたが、バルスは平然と嘘をつき、トクトらを呼び返した。結局バルスに貢を与えて班師したが、まもなくまた侵入し、参将の魏祥は全軍が死んだ。正徳の世を通じて討伐できなかった。

嘉靖年間(1522年〜1566年)

  • 嘉靖十一年十二月、朶顔三衛が辺を侵した。先に朶顔都督の和坦の長子・ゲルボロが早く死に、次子のバルスが嫡を奪おうと謀って果たさず、バルスもまもなく死んだ。ゲルボロの子・ゲレルタイが馬を貢して嗣位を請うたが、兵部は部落に通訳させてから貢を許すこととした。ゲレルタイは漁陽の諸小関堡を侵し、おおむね破壊した。
  • ここに至って巡撫都御史の王大用が朶顔を厚く懲らして霧霊山に城を築こうとしたが果たさなかった。折しもアドハラチがしきりに建昌・喜峰口に入って殺掠をほしいままにした。ゲレルタイがさらに昇進を請い、御史が連続して疏を上って大用を詆り、毛伯温を代えるよう請うた。大用が去ると諸衛はいよいよ辺を盗み、辺の人はみな耕牧を廃し、朶顔の諸部の頭目はいよいよ横暴になった。
  • 二十年秋七月、ゲレルタイが貢の増員を求め、衛あたり三百人としようとしたが許されず、二百人も許されなかった。当時、塞下を剽掠し、小王子と結んで侵入すると触れていた。
  • 折しもアルタン(諳達)が雲中から太原へ深入りし、辺吏は恐れて偽って「山海関の諸辺に警報がないのは朶顔の諸衛の功である」と言った。詔して以前の貢で期日に遅れた分を補い、衛あたり二百人とした。
  • 二十三年、朶顔が薊州の塞を侵した。先に薊鎮総兵の郤永が塞を出て朶顔の別部・李家荘を襲い、四十余級を斬った。李家荘は少数の騎が独石の近くに住み、大部と通じず、常習的に馬を盗み、狡猾で射を善くし、敵が追えばすぐ険に逃げ、我が方の辺を守る面もあった。この役で怨みを買い、転じて敵と合し、遼東の塞も朶顔のためにしばしば辺警を受けた。
  • 二十六年冬十月、朶顔はさらに海西の諸部と結んで遼東の西塞へ出て投じた。まもなくゲレルタイが死に、子のイクが襲った。旧例では三衛は貢のとき自ら職を受けたが、ゲレルタイ父子から人を代わりに遣わして請うようになった。イクは父より剽悍で、いよいよアルタンを誘って大挙して塞に入った。
  • 二十九年九月、初めて薊遼総督を置き、薊州・保定・遼東の三鎮を属させた。孫禬を兵部侍郎・総督薊遼に転じ、まもなく何棟に代えた。
  • もともとアルタンが都城に迫ったとき、たびたび「遼陽軍」と言った。遼陽軍とはアルタンが朶顔を呼んだ名である。ここに至って初めて薊遼総督を設けて兵で戍らせた。
  • しかし朶顔の部はたびたび塞を犯した。咸寧侯の仇鸞はイクが実は禍の首謀と知って兵を発して掩撃しようとした。何棟は言った。「朶顔は狠な敵だが、たとえ反覆しても患いはまだ小さい。もし朶顔を剪除すれば、漠北が隙をうかがって必ずそこを巣穴とする。それは藩籬を毀って賊を招き寄せるようなものだ」。上は棟の言に従った。まもなく棟は計を設けて叛人ハジャル・陳通事を捕らえ、首を九辺に伝えた。
  • 二十六年(三十六年ヵ)三月、土黙特のダラスが初めて三衛を収め、薊州の長林口に導き入れ、建昌営・灤河を越えて永平の諸邑を掠めた。
  • 三十八年二月、薊州の塞で警報があった。練兵の議が起こって以来、鎮の兵は十分の二を減じ、春の防備は秋の防備よりさらに十分の五を減じていたので、最も手薄だった。
  • バトル・シリンアが数万騎を擁し、朶顔のイクを郷導として侵入した。総督侍郎の王忬が遣わした偵諜はみな殺され、そのまま塞下に迫った。忬が疏を上って援兵を請うと、大学士の厳嵩は「忬は賊にかこつけて重きをなし、金銭を空費させようとしている」として返答しなかった。
  • 敵騎は灤水を渡り潘家口から入って薊を大いに掠めた。忬は総兵の馬芳らに軽兵八千を率いさせて夜に馳せてその背後に出、牽制させたので、敵は深入りできず三日で引き揚げた。忬の兵は尾行して撃ち、かなり斬獲があった。詔して忬および総兵の欧陽安を逮捕し、いずれも死罪に論じた。
  • 六月、宣大総督の楊博を薊遼に転じた。博は命を聞いて鎮に馳せ至り、戦守を区画した。朶顔の諸衛が常に外と通じて我が用にならぬので、諸将帥と約して同時に烽燧を挙げ旄纛を掲げさせた。居庸から山海関まで千余里にわたって旌旗が空を蔽い、砲石が山谷を震わせた。こうすること三度、幕北は大いに驚いて辺兵が急増したと思い、一年中、塞に近づかなかった。
  • 三十九年三月、イクが再びバトル・シリンアらを糾合して一片石を犯したが、参将の佟登が防いで退けた。
  • 四十年冬十月、イクが東西の数万騎を糾合して墻子嶺を潰して入り、通州を大いに掠めた。総督侍郎の楊選は逮捕されて死罪に論じられた。

隆慶年間(1567年〜1572年)— 譚綸・戚継光の防備

  • 隆慶元年九月、朶顔のドンフリが朶顔の数万騎を糾合して界嶺口に入った。援師が四方から集まり、引き揚げる際に道を失って崖から落ちて死ぬ者が甚だ多かった。ドンフリもゲレルタイの子である。当時、イクが義院口を出、辺軍が火槍で撃って斃した。子の長昂がドンフリと肩を並べるようになった。
  • 二年夏四月、侍郎の譚綸を総督とし、戚継光を大将軍に拝して専ら練兵を掌らせた。綸が上言した。
  • 「今、辺防を策する者はみな『障に乗れ』と言います。だが薊・昌の現在の卒は十万に満たず、しかも老弱が半ば、二千里の間に散らばって地を画して守っています。彼が十万の衆で我が一軍を攻めれば、破られずにいられません。 ゆえに臣は思うに、敵を防ぐには遊兵に如くはない。燕趙の士は辺警以来、鋭気が尽きました。呉越の戦に習熟した卒一万二千人を募って交ぜて教えなければ、必ず成功しません。この一万二千人は臣と戚継光が召せばすぐに集まり、用いればすぐ効を挙げ、散らせば農に帰して後憂がありません。 ところが今、他意を疑われています。臣と継光を信じられぬとして、どうして敵に勝てましょうか。我が兵は日ごろ一度も敵に当たっていません。戦って勝っても彼は心服しませんが、再び破れば終身の痛手となります」。
  • 継光もまた上言した。
  • 「辺鎮の卒は壮健な者が私門に使役され、老弱だけが伍を埋めています。火器があっても使えず、土着を棄てて練らず、弓矢の力は賊に勝らず、しかも賊と共通です。しかも『長は短を衛り、短は長を救う』という兵法の数を知りません。教練の法は、実用ならば見栄えせず、見栄えすれば実用でない。今はみな虚名で、実はありません。 臣はまた聞きます。薊の地には三つある。平易で内地の形勢に近いもの、険と易が相半ばして辺に近い形勢のもの、山谷が深く狭く林や藪が鬱蒼として辺外の形勢のもの。敵が平原に入れば車が有利、辺に近ければ騎が有利、辺外では歩が有利。三者を代わる代わる用いてこそ勝を制せます。 今の辺兵はただ馬に習熟するだけで、山戦・谷戦・林戦の道に習っていません。ただ浙兵だけがこれをよくします。臣は浙江から身を起こし、浙人を用いたいと思います。願わくは陛下、臣にさらに浙江の殺手三千・鳥銃手三千を与え、さらに西北で募って得た馬軍五枝・歩兵十枝を臣に統べて練らせてください。 今、朝議は紛々として弦を改めやすく、臣は重兵を擁して嫌疑を生じやすい。監軍の科道官一人を設けて臣を督させ、臣に掣肘の虞いがないようにしてください」。
  • 疏が上ってみな許された。綸と継光は濠を浚え城壁を増し、辺備は甚だ整った。折しもアルタンも和議を奉じ、隆慶年間を通じて三衛は職を修めて謹み、辺鄙はやや息んだ。長昂が職を襲って都督となった。

万暦年間(1573年〜1620年)— 長昂・巴延らとの攻防

  • 万暦元年、ドンフリが喜峰口で賞を求めて釁を開いた。総兵の戚継光が突然、兵を整えて青山で囲み、フリはかろうじて身一つで免れ、まもなく首悪を縛って献じたので、和議を与えた。喜峰口守備を参将に改めて彈圧させた。
  • 三年二月、総兵の戚継光が長昂を追い、落馬させてほとんど捕らえるところだったが、跳んで免れて馳せ去った。その叔父のチャクトを生け捕って董家口に繋いだ。昂が馬を納め刀を鑽って盟うと釈放した。まもなくチャクトはまた叛き、ドンフリと合して掠奪をほしいままにした。
  • 六年三月、泰寧衛のスバルガが遼東を犯し、総兵の李成梁がまっすぐ劈山を衝いて大いに懲らした。長昂は賞を求めて諸部の入貢を阻み、弟のマンギルに精騎を率いさせて喜峰の西をうかがい、前屯を掠め、山海の一片石に迫った。
  • 十一年五月、泰寧衛のバヤン・バトが衆とフダらを糾合して大挙して鎮寧堡を攻めた。バヤンはスバルガの子である。先にスバルガが鎮夷堡に入ったとき、李成梁は裨将の李平胡を迎え撃たせ、スバルガの脇を射て落馬させ、蒼頭の李有名が斬った。ここに至って仇を報いに侵入したのである。
  • 成梁は黒山に出兵して偽って北伐と見せかけ、夜に李得全を鎮寧に馳せ入らせて内応とし、翌日、自ら搏戦した。李寧が刀でフダを撃って額を傷つけ、さらに矢が膊を貫き、フダは大いに哭して声を失って逃げた。
  • まもなくバヤンはまた長昂・ドンフリとともに三万騎で広寧を犯し、吏士百二十余人を殺掠した。李平胡が跳ね返して撃つと、折しも大風が砂を巻き上げて昼も暗くなり、まもなく雷雨が大いに起こって水が数尺の深さになり、塞外へ逃げ出た。当時、三衛の属部は八十余種あり、昂とドンフリの兵が最も強かったが、部落は一万を超えなかった。
  • 十二年春、ドンフリが前屯を犯し、錦義備禦の祖承訓が撃破した。総兵の李成梁が太康・大定堡まで追って多く斬獲した。
  • 八月、長昂が下荘に入り、総兵の楊四畏と副総兵の徐従義が撃退し、老鴉嶺まで追って戻った。まもなくまたヘバザルら数万騎を糾合し、狩猟を名として辺を盗もうと図った。折しも上が山陵を視察したので、昂は紅螺川を往来して射猟し、部落を東西に馳せさせて甚だ恣だった。だが辺を犯したことで賞を罷められ、かなり窮した。
  • 十三年夏四月、バヤン・バトが再び塞に入り、遊撃の周思孝が追ったが遼河へ逃げた。河は深くて急には渡れなかった。李成梁が追撃し、丁字浦堡から出て陣を「一」「二」の字に布いた。一字が衝鋒、二字が後続である。
  • バヤンは兵の到来を望み見て騎を躍らせて挑戦した。成梁が馳せ、巡撫の李松が二字の陣を進め、鼓を鳴らして前進して大破し、八百級を斬り、名王のチェチェン・ボラら十三人を得た。
  • 六月、ドンフリがその属三百余を率いて関を叩き、帽を脱いで甚だ哀れに請うた。「遼を犯したのはみな東西の部落で同姓同名の者。私の罪ではありません。撫賞を賜りたい」。長昂も李成梁が巣穴を衝くと聞いて一夜に幾度も帳を移し、これも哀願して和議を求めた。だが撫を得るといよいよ驕った。
  • 十四年春正月、フダ・バヤンらが再び土黙特を糾合して前屯を犯した。李成梁は軽騎を選んで塞を出、背後を回り、自ら兵を率いて当たり、挟撃して大破して敗走させた。
  • 九月、バヤン・バトが再び塞に入って鎮夷堡を攻めた。辺軍が防ぎ、三昼夜、甲を解かず、また大敗して去った。バヤンは痛哭して「父の怨みはついに報いられぬ」と言った。
  • 十八年春正月、長昂の部落が入貢して賞を奪い、会同館で大いに騒いで殺そうとした。礼部尚書の于慎行と主事の張我績が諭して解いた。のち長昂は弟のジャントブジクを遣わして石門で盟を探らせた。遊撃の陳愚聞が欺いて通事の張五烈らを捕らえて戮した。長昂は弟のマンギルとともに董家口を犯した。
  • 二十二年冬十二月、バヤンが再び塞に入った。総兵の董一元が精騎を鎮武堡に伏せ、深入りを待って士卒を中から起こし、墻に沿って進んで搏戦し大破した。バヤンは流れ矢に当たって死んだ。
  • 哨騎が伏せていた諜者のランダルハンら七人を生け捕った。ランダルハンは長昂の腹心である。昂は二年分の旧賞を返上して贖うことを願い、上は幸いに許した。昂はこれよりやや慎んだ。
  • 二十四年冬十月、福余衛のバヤルが羅文峪で賞を迫ったが撃退した。まもなく千騎で青山口に突入し、続けて扒頭崖・三道嶺を犯したが、いずれも利あらず去った。
  • 二十九年冬十月、バヤルの妻タンタス・アブガイが関を叩いて和議を求め、半分の賞を給するよう命じた。
  • 十二月、長昂が和議を求め、朶顔の諸衛に寧前で馬市・木市を復すよう命じた。まもなくジャントブジクが石門を修めるついでに車厰荘を掠め、総兵の尤継先が塞を出て紅草溝に至って八十余を撃斬した。昂とマンギルは代わって関を叩いた。
  • 三十四年冬十一月、ブジクが葦子谷で賞を迫った。長昂とマンギルが再び西部の本衛のラシらの万騎を勾引して山海関を犯し、総兵の姜顕謨が撃った。当時、督税太監の高淮が遼東にあり、警報を聞いて慌てて兵を調えて自衛し、長昂が退くと斬獲の功と称した。
  • まもなく長昂が狩りの折に落馬して死に、子の賚雲丹が昂の轍を踏み、マンギルとともにアクジャンらを糾合して擦崖子関で賞を迫った。
  • 三十六年冬十一月、賚雲丹が建昌の河流口に入って大いに掠めて去り、さらにチャガントタイジらを糾合して連山駅に侵入した。総兵の杜松が中左所を出て長嶺山から夜にハリュトに至り、拱兔の営を襲って大いに斬獲した。しかし諸部はいよいよ騒ぎ、そのため大勝堡に入った。総督侍郎の王象乾は諸部にそれぞれ撫を受けさせ、専らラバイを剿すよう諭した。ラバイは勢い孤立し、西部のヤクブハ・タイジに属して和議を請うた。
  • 四十年十一月、マンギルと賚雲丹が辺軍の焼き草に乗じて圄山堡に入り、曹荘を掠め、寧遠参将の李応撰は官軍九十人を失った。
  • 四十一年春三月、朶顔衛の頭目トリ、福余衛の頭目ホショチにそれぞれ指揮僉事を授け、勅を賜った。
  • 四月、チョハ・ザイサン・ノムトらが三万騎で玉文谷に屯し、七台を陥れて千総の佟修鳳らを殺し、辺軍は五百人を失った。ビンザ・ヤマルダン・朶顔が続けて掛甲嶺・麻郎谷を犯した。
  • 四十三年夏六月、遼東の辺将が兵を率いて曹荘で狩りをしていたところ、マンギルが機に乗じて侵入し、五十余人を殺掠し、卒二百二十余人を失った。
  • 十二月、杜松が柳門でホルチを撃って破った。
  • 四十六年夏四月、マルダンおよびその子オボ・タイジらが石塘の間をうかがい、馬蘭からもマンギルが桃林・界嶺を犯すと報じられ、薊鎮は戒厳した。まもなく石塘遊撃の朱万良が遼の援けに転じ、マルダン母子はいよいよ恣にして万騎で白馬関および高家堡を攻め、まもなく盟を求めた。
  • 思うに、隆慶以来、長昂は梟桀と称して塞上に雄たり、四十年に垂んとした。土黙特の部落もハンド・チョハ・ザイサン・ノムトの輩が東西に騒ぎ、辺吏は奔命に疲れた。マルダンに至っては一人の婦人でありながら曹荘・石塘の間をうろついて制しきれなかった。しかしこれよりのち、次第に微弱となって自立できなくなった。