明史紀事本末貴州を開設する(開設貴州)
洪武十五年(1382年)から永楽十四年(1416年)までの30年余り、明が貴州を辺外の羅施鬼国から一省へと編成していく過程を扱う。太祖は雲南平定にあわせて貴州都指揮使司を置き、靄翠と宋欽を宣慰使として服属させ、湯和や楊文が思州の洞蛮や林寛の乱を鎮めた。馬煜に辱められた奢香は宋欽の妻・劉氏の訴えを機に太祖へ赴き、馬煜が斬られる代わりに赤水・烏撤の道と龍場九駅を開いた。永楽期には田琛と田宗鼎の私闘を顧成が急襲して二人を捕らえ、宣慰司を府に改めて貴州布政使司が置かれ、黔中は内地並みの一省となった。
年表(6件)
- 洪武十五年 春正月— 貴州都指揮使司の設置1382年都指揮使司を置き靄翠と宋欽が降って宣慰使となる
- 洪武十八年 夏四月— 思州の洞蛮の乱1385年湯和らが蛮民と入り交じって耕させ渠魁を計略で捕らえる
- 洪武三十年— 林寛の乱と苗境の征討1397年林寛の乱を楊文と顧成が討ち苗境の諸洞を平定する
- 永楽九年— 普安安撫司と顧成の褒賞1411年普安安撫司を設け成祖が顧成の辺を安んずる手腕を賞する
- 永楽十一年 二月— 貴州布政使司の設置と沿革1413年奢香が馬煜を訴えて赤水の道と龍場九駅を開く
- 永楽初年〜十一年(〜1413年)— 二田の争いと処断1403年顧成が田琛と田宗鼎を捕らえ思州思南を府として貴州布政司が成る
洪武十五年 春正月(1382年)— 貴州都指揮使司の設置
- 貴州都指揮使司を置き、平涼侯の費聚と汝南侯の梅思祖に司の事を代行させた。
- 貴州は古の羅施鬼国である。蜀漢の頃、夷の火済という者が諸葛亮の孟獲南征に従って功があり、羅甸国王に封じられた。唐・宋を通じていずれも帰順して爵と土地を失わなかった。
- ここに至って傅友徳らを遣わして雲南を平らげるにあたり、太祖は使者を送って友徳に諭した。「先に貴州都指揮使司を置いたが、靄翠らを完全には服させていない。雲南があっても守れまい」。靄翠は旧元の宣慰使である。
- やがて雲南がすべて平定されたのを見て、靄翠は同知の宋欽とともに降った。太祖はそのまま靄翠に宣慰使、欽に宣慰同知を授け、それぞれ部下を率いて水西に居らせ、貴州宣慰使として四川に属させた。
- その思州宣慰使の田仁智、思南宣慰使の田茂安および鎮遠などの府は湖広に属させ、普安・鎮寧などの州は雲南に属させた。
- まもなく靄翠が部落の隴居を討つ兵を請うたが、太祖は「中国の兵がどうして荒服の地の私怨を報いる道具になろうか」と言い、許さなかった。
洪武十八年 夏四月(1385年)— 思州の洞蛮の乱
- 思州の諸洞の蛮が乱を起こした。信国公の湯和、江夏侯の周徳興に楚王・楨に従って討ち平らげさせた。
- 当時、蛮賊は出没が定まらず、王師が至るとすぐ逃げ隠れ、退けばまた出て掠奪した。和らはその地に至ったが、蛮人が驚いて潰えるのを恐れ、諸洞に分屯して柵を立て、蛮民と入り交じって耕させ、疑わせぬようにした。久しくして計略でその渠魁を捕らえ、余党はことごとく潰えた。師は還り、兵を留めて鎮めさせた。
洪武三十年(1397年)— 林寛の乱と苗境の征討
- 三月、古州の洞蛮・林寛が自ら「小師」と号し、衆を集めて乱を起こして龍里を攻めた。千戸の呉得が麾下を率いて馳せ撃ったが、毒弩に当たって死んだ。
- 左都督の楊文を征蛮将軍、都督同知の韓観をその副とし、京衛と江湖の兵を統べて征討させた。まもなく林寛は指揮の朱俊に縛られて京師へ送られた。
- 冬十月、兵は沅州に至り、山を伐って道二百里を開き、天柱に至り、そのまま苗の境に入って小坪に営した。偏師は別に渠陽・零溪から西南の山径を通り、枚を銜んで夜に発し、犄角をなして進んだ。道を分けて挟撃し、まっすぐ洪州・泊里・福禄・永従の諸洞に至って大破した。
- 都督の顧成もまた臻部の六洞、螃蟹・天柱・天堂・大坪・小坪の諸賊を剿平した。凱旋して京に還った。
永楽九年(1411年)— 普安安撫司と顧成の褒賞
- 春正月、普安安撫司を設け、土目の慈長を安撫とし、銀印を賜り、流官を置いて四川布政司に属させた。
- 三月、貴州を鎮守する鎮遠侯の顧成が、金筑安撫司などの諸処の土軍を一律に訓練すべきだと奏した。上は蛮人が拘束を憚るとして止めさせた。
- まもなく貴州が安寧であるとして特に成に銀幣を賜り、侍臣に言った。「漢の武帝は兵を窮め武を黷して遠方に事を構え、中国を疲弊させた。朕は取らぬ。顧成は老成で慎重を保ち辺を安んずる。功を喜び事を好む輩ではない。ゆえに特に嘉奨する」。
永楽十一年 二月(1413年)— 貴州布政使司の設置と沿革
- 貴州等処承宣布政使司および思州・新化・黎平・石阡・思南・鎮遠・銅仁・烏羅の八府を設け、工部侍郎の蔣廷瓚を左布政使とした。
- もともと洪武年間には貴州・思南州の諸宣慰使を置いただけで、思州は二十二長官司、思南は十七長官司を管轄し、なお都指揮使司を設けてその地を鎮守させていた。
- 靄翠が死ぬと妻の奢香が代わって立ち、宋欽が死ぬと妻の劉氏が代わって立った。劉氏は智術に富んだ。
- 当時、馬煜が都督としてその地を鎮守し、政は威厳を尚び、諸羅(羅羅族)をすべて滅ぼして流官に代えようとした。そこで事にかこつけて奢香を裸にして鞭打ち、諸羅を激怒させて兵端を開こうとした。諸羅は果たして憤怒して叛こうとした。
- 劉氏はこれを聞いて止め、代わって京師へ訴えに走った。太祖は召して問い、宮に入って高皇后に会わせ、さらに手紙で奢香を招いた。奢香が至って事情を尋ねた。
- 太祖は「お前はまことに馬都督に苦しめられた。私がお前のために除いてやろう。だが何をもって私に報いるか」と言った。奢香は叩頭して「世々諸羅を戢め、乱を為させぬようにいたします」と言った。太祖は「それはお前の常の職務だ。何が報いか」と言った。
- 奢香は言った。「貴州の東北に四川へ通ずる間道がありますが、塞がって整備されておりません。願わくは山を切り開いて道を通じ、駅使の往来に供したく存じます」。太祖は許した。
- 太祖は高皇后に言った。「私は馬煜が忠実で他意のないことを知っている。だが一人を惜しんで一方を安んじられぬわけがあろうか」。そこで煜を召してその罪を数えて斬り、奢香らを帰らせた。
- 諸羅は大いに感服し、赤水・烏撤の道を開き、龍場の九駅を立てて蜀に達した。のちの安氏は靄翠の後裔である。
永楽初年〜十一年(1403年〜1413年)— 二田の争いと処断
- 永楽の初め、思州宣慰使・田仁智の子の琛と、思南宣慰使・田茂安の子の宗鼎がそれぞれ嗣位し、沙坑を争って日々兵を交えた。上は行人の蔣廷瓚を遣わして検分させた。
- 琛は廷瓚に従って入見し、事を白して「思南はもと思州の地。これに帰すべきです」と自ら言い、また宗鼎の罪状を数え上げた。
- 上は言った。「思南は昔、明玉珍に帰していた。その時、なぜお前は取って自分のものにしなかったのか。今になって言うのか。しかも罪悪はあちらにある。お前が与ることではない。速やかに帰ってお前の土を守り、封疆を靖んじ、慎んで釁を構えて兵端を起こすな。再び犯せば、お前を磔にする」。
- 琛は帰って従来どおり宗鼎と仇殺を続けた。たびたび禁じても止まらなかった。
- ここに至って上はひそかに鎮遠侯の顧成を遣わし、校士数人を率いて二人の境にひそかに入り、琛と宗鼎を捕らえて連れ去らせた。二人が捕らえられても、城中はなお静かで誰も知らなかった。
- 突然、ある日、使者が出て高札を掲げて諸羅に諭した。「朝廷は二人の兇者が日々殺し合って百姓を苦しめるので、特に使者を遣わして事情を問い質した。首悪は既に擒にした。他は一切問わぬ。あえて騒ぐ者は族滅する」。諸羅は静まり返った。
- 琛と宗鼎は京師に至っていずれも斬られた。そこで戸部尚書の夏原吉らに命じた。「思州・思南は田氏に苦しめられて久しい。遺孽に再び乱を継がせてはならぬ。府の治に改めよ」。
- 思州宣慰司を思州府、思南宣慰司を思南府と改め、諸官僚を改置し、そのまま貴州布政司を設け、三司などの官を立てた。
- 貴州宣慰司の本司および思州・思南・鎮遠・石阡・銅仁・黎平の六府、普安・永寧・鎮寧・安順の四州、金筑安撫司、および普定・新添・平越・龍里・都匀・畢節・安荘・清平・平壩・安南・赤水・永寧・興隆・烏撒・威清の十五衛、普市千戸所がみなこれに属した。
- 蔣廷瓚を左布政使に転じた。廷瓚がかつて思州の事を検分し、夷の事情に通じていたからである。
- 十四年、貴州提刑按察司を設け、戸部・刑部にそれぞれ貴州の一司を増した。その郷貢は雲南に附した。
史論(谷応泰曰)
- 秦の始皇は辺を開いて桂林・象郡を置いたが、まもなく尉佗に奪われた。漢の武帝は兵を窮めて越雋・牂牁を得たが、わずかに臣属を附けただけだった。あるいは干戈を集め、あるいは璧幣を通じ、これほど力を用いてあの程度の効しかない。疆域を拓き文教を通ずること、『易』に「面を革む」と称し、『書』に「頑民」と載せるとおり、帝王にとってこれほど難しい。
- 貴州は西に滇・蜀に接し、東は荊・粤に連なり、地は神州に歯するのに、久しく荒服に沈んでいた。ただその地はみな毒霧と瘴山、蛮の峒と夷の寨で、宛の馬も卭の竹もなく、中国の羨望を動かすものがない。しかもその君長は代々藩を奉じて保つのを楽しみ、礼を失わなかったので、辺吏に憂いを残さず、黔はついに上国と通ずる日がなかった。
- 洪武の初め、湯信国(湯和)が民と蛮を入り交じって耕させ、兵と夷が互いに慣れるようにした。天が荒徼を啓いて次第に華風に染めたのではないか。朝鮮が開かれようとして箕子が来、勾呉が治まろうとして初めて姫氏の雍が現れたのと同じである。
- 宋欽の妻(劉氏)は隙に乗じて朝廷に走り、奢香は召しを聞いて闕に赴いた。二人の女は変を観て機を決すること丈夫より勇だった。はなはだしきは高皇后に入見し、高帝についに馬都督を斬らせ、掖門に匍匐して天日を仰ぎ、険阨を指し陳べて河山に誓いを立て、赤水の道を開き龍場の駅を通じた。智は唐蒙に溢れ、功は博望侯(張騫)より高い。その地にこうした異人がいる以上、山川がどうして二度と蛮方を阻めようか。
- 永楽年間、二人の田氏が再び互いに攻め殺した。金鶏の使いを立て、特に遣わして紛争を解かせ、翠華が軒に臨んで親しく戒諭を承けさせたのに、なお怙終して改めず、従来どおり攻め殺した。夜郎が遠さを恃み、于闐が険を負ったのと同じか。あるいは天がその衷を誘って中国に折り入れさせたのか。閩人が侵逼して南粤が漢に帰し、延陀が攻め殺して敕勒が唐に入ったように、廃興には数があり、革置には時があるのだろう。
- しかも顧成が校士数人で入って二田を捕らえ、頸を繋いで檻車に乗せても、誰一人知らなかった。傅介子が楼蘭王の首を酒宴の後に断ち、班超が鄯善で使者を夜半に捕らえたのに比べても、天子の神霊と兵威の測りがたさはここに極まる。これは一時の掩襲で虎穴の子を得たのではなく、実に二祖(太祖・成祖)の英武の先声が人を奪ったのである。
- 二田が首を授けると、群県を処分して布政司一、府六、州四、安撫司一、衛十五とした。かくて黔中の一省は儼然として明堂に進み、符瑞を分かち、冠帯を受け、春秋に祠り、肩を内地に並べて皇輿に附麗した。
- 国家は一斗の粟も一人の甲士の労も費やさず、辺臣は一矢一鏃の失もなかった。古来、疆を開き宇を廓くことで、これほど容易だった例はない。
- されば、天馬・蒲桃といった宝物に志す者は地を略することを知らず、楼船・横海といった略地に志す者は俗を化すことを知らない。詩に「日に国を闢くこと百里」という。それはただ二祖にこそある。