明史紀事本末建文帝の遜国(建文遜國)
建文四年(1402年)の金川門落城から正統五年(1440年)の帰還まで、建文帝が国を遜って僧となり各地を流離した三十九年間を扱う。太祖が遺した鉄の箱から度牒・袈裟・剃刀が出て、帝は程済に髪を剃らせ、楊応能・葉希賢ら二十二人と亡命に出た。廖平の議で随行は少数に絞られ、程済ら三人が常に付き従い、馮㴶・郭節ら六人が衣食を運んだ。雲南の白龍山・鶴慶を拠点に重慶・天台・楚粤を巡り、史彬の家を三度訪れた。正統五年、偽の建文帝を称した僧の一件から身元が知れ、宦官の呉亮が左趾の黒子で確かめ、帝は西内に迎えられて天寿を全うし西山に葬られた。
年表(7件)
- 建文四年 夏六月乙丑— 遺篋と出亡1402年遺篋の度牒で剃髪し、鬼門から出て神楽観で二十二人が会する
- 洪武三十五年— 追及と各地流離1402年遁れた諸臣四百六十三人の籍が削られ、帝は襄陽から雲南へ向かう
- 永楽元年〜五年(〜1407年)— 雲南と各地の遍歴1403年永嘉寺に入り、胡濙の張三丰探索を知って跡を隠す
- 永楽七年〜十四年(〜1416年)1409年厳震が駅亭で自尽し、楊応能・葉希賢が没して従者が減る
- 永楽十五年〜二十二年(〜1424年)1417年蜀・粤・楚を巡り、成祖の崩御を聞いて史彬の家に至る
- 洪熙元年〜宣徳十年(〜1435年)1425年鶴慶の静室に移り、従亡の諸臣を祭りつつ各地を遊ぶ
- 正統元年〜五年(〜1440年)— 身元の露見と帰還1436年僧楊応祥の詐称から身元が露見し、呉亮の確認を経て西内に入る
建文四年 夏六月乙丑(1402年)— 遺篋と出亡
- 帝は金川門が失われたと知り、長く嘆息して東西に走り、自殺しようとした。翰林院編修の程済が「逃れられるに越したことはありません」と言った。
- 少監の王鉞が跪いて進言した。「昔、高帝が崩ぜられたとき遺された箱があり、『大難に臨めば開け』と仰せでした。謹んで奉先殿の左に収蔵してあります」。群臣は一斉に「急ぎ出せ」と言った。
- まもなく赤い箱を一つ担いで来た。四囲はみな鉄で固め、二つの錠も鉄を流し込んであった。帝は見て大いに慟き、急ぎ火を放って大内を焼かせた。皇后・馬氏は火に投じて死んだ。
- 程済が箱を砕くと、度牒(僧の身分証)三通が入っていた。一つは応文、一つは応能、一つは応賢の名。袈裟・帽・鞋・剃刀がすべて備わり、白金十錠があった。箱の内側には朱書で「応文は鬼門から出よ。他は水関の御溝を行け。夕暮れに神楽観の西の部屋で会せ」とあった。
- 帝は「運命だ」と言った。程済が帝の髪を剃った。呉王教授の楊応能が剃髪して亡命に随うことを願い、監察御史の葉希賢は毅然として「臣の名は賢、応賢は疑いなく私です」と言い、これも剃髪した。各々衣を替え、度牒を身に着けた。
- 殿にいた五、六十人がみな痛哭して地に伏し、揃って随行を誓った。帝は言った。「人が多ければ失敗がないとは限らぬ。事に任じて名の知れた者は必ず追及される。妻子が任地にある者は心が繋がれる。それぞれ都合に従うがよい」。御史の曽鳳韶は「すぐ死をもって陛下に報いたい」と言った。帝が諸臣を退けさせると、大いに慟いて幾人かが去った。
- 九人が帝に従って鬼門に至ると、一艘の舟が岸につけてあった。神楽観の道士・王昇が帝を見て叩頭し万歳を称え、「臣はもとより陛下がお越しになると存じておりました。先に高皇帝が夢に現れ、臣にここに来るよう命じられたのです」と言った。
- そこで舟に乗って太平門に至り、昇が導いて観に至ったときには既に夕暮れだった。まもなく楊応能・葉希賢ら十三人が同じく至り、合わせて二十二人となった。
- 兵部侍郎の廖平(襄陽の人)、刑部侍郎の金焦(貴池の人)、編修の趙天泰(三原の人)、検討の程亨(沢州の人)、按察使の王良(祥符の人)、参政の蔡運(南康の人)、刑部郎中の梁田玉(定海の人)、監察御史の葉希賢(松陽の人)、程済(績渓の人)、中書舎人の梁良玉・梁中節(ともに定海の人)、宋和(臨川の人)、郭節(連州の人)、刑部司務の馮㴶(黄巌の人)、所鎮撫の牛景先(沅の人)、王資・楊応能・劉仲(ともに把県の人)、翰林待詔の鄭洽(浦江の人)、欽天監正の王之臣(襄陽の人)、太監の周恕(和州の人)、徐王府賓輔の史彬(呉江の人)。
- 帝は「今後はただ師弟と称し、主臣の礼にこだわるな」と言い、諸臣は泣いて承諾した。
- 廖平が言った。「諸人が随行を願うのはもっともですが、随行は多くを要せず、むしろ多くてはいけません。この中で家室の累がなく、膂力があって護衛に足る者を選び、多くとも五人まで。残りは遠くから応援すればよいでしょう」。帝は「もっともだ」と言い、そこで地に車座になった。
- 道士が夜食を出した。取り決めでは、左右を離れぬ者三人——楊応能と葉希賢はともに比丘と称し、程済は道人と称する。道々を往来して衣食を運ぶ者六人——馮㴶は塞馬先生、あるいは馮翁、馬公、馬二子と称し、郭節は雪菴、のち雪和尚と称し、宋和は雲門僧、稽山主人、槎主と称し、趙天泰はたまたま葛衣を着ていたので衣葛翁、また天肖子と称し、王之臣は家が代々鍋の修理を業としていたので生計に使おうと「老補鍋」と号し、牛景先は東湖樵夫、また東湖主人と称した。
- 帝が「私は今から滇南(雲南)へ行き、西平侯(沐氏)を頼ろう」と言うと、史彬が言った。「あの家は勢いが盛んで耳目が多く、まして新主の意はまだ解けていません。報せずにいられましょうか。名勝を往来されるに越したことはありません。東西南北みな我が家です。臣らの中に朝夕の備えが足る家があれば、そこに錫を駐められればよいでしょう」。帝は「もっともだ」と言った。
- そこで七家を宿として交替することにした。廖平・王良・鄭洽・郭節・王資・史彬・梁良玉である。
- 帝は「これは暫くはよいが長くはできぬ。まして郊壇の近く。明朝は必ず発つ。どこへ行こうか」と言った。衆は浦江を挙げた。鄭氏も大族で忠孝、住むに足るというのである。
- 夜半、帝は脛が痛んで歩けそうもなかった。夜明けに景先と彬が中河橋まで歩いて乗せる手立てを探すと、一艘の小舟があり呉の人のものだった。急ぎ叩くと、彬の家が彬の吉凶を偵察するために遣わした舟だった。彬と景先は急ぎ帝を迎えた。
- 彬の家に行くことになり、諸人はこれを聞いて悲しみかつ喜んだ。同乗したのは八人——程・葉・楊・牛・馮・宋・史。残りはみな散り去り、月末に再会することを期した。
- 溧陽を通り、八月にようやく呉江の黄渓、史彬の家に至った。彬は帝を居宅の西寄りに住まわせた。そこを清遠軒といった。衆が出て拝すると、帝は「水月観」と改題し、自ら篆文を書いた。
- 三日後、諸臣が彬の家に至り、五日間相集まったのち、帝は帰省を命じた。
洪武三十五年(1402年)— 追及と各地流離
- 成祖が即位すると、在任の諸臣で遁れ去った者四百六十三人を名簿に編み、いずれも籍を削るよう命じた。
- 八月、礼部に文を州県へ回して革除の誥勅を追徴させた。そこで蘇州府が呉江の邑丞・鞏徳を史彬の家に遣わして追奪させ、かつ「建文皇帝が君の家におられると聞く」と言った。彬は「おりません」と答え、鞏徳は薄く笑って去った。
- 翌日、帝は二人の比丘と一人の道人とともに発ち、残りはみな星のように散った。八月十六日である。
- 帝は舟に便乗して京口に至り、六合を過ぎ、陸路で襄陽に至り、十月に廖平の家に着いた。折しもその跡を探る者があり、そこで雲南行きを決した。
永楽元年〜五年(1403年〜1407年)— 雲南と各地の遍歴
- 永楽元年春正月十三日、建文帝が雲南の永嘉寺に至った。もともと帝は従亡の臣と三月に再び廖平の家で会う約束をしていたが、永嘉寺に留まってかなり安適だったので、翌年に天台へ遊ぶこととした。諸臣は旧約どおり襄陽の廖平の家に集まったが、折しも馮㴶が雲南から来て帝の命を伝えて止めさせ、諸臣に往来を煩わさずそれぞれ散るよう令した。
- 二年春正月、建文帝は雲南を離れ、重慶を経て襄陽に至り、六月に呉に入り、八月八日に再び史彬の家に至った。日が暮れかけ、彬の家は既に灯をともしていた。帝が突然現れ、彬と家人が出て拝した。
- 酒を挙げて半ば酣となったころ、帝は「私は明朝すぐ発つ」と言った。彬は「臣は門を掃いて久しくお待ちしておりました。行き届かぬところはお許しください。数か月お留まりいただきたいのに、なぜ明朝、急がれるのですか」と言った(帝は従亡の者に師弟と称させたので、彬らは「師」と呼んだ)。
- 帝は泣いて言った。「彼は今、急ぎ私を図っている。先日、西安の道中で冠蓋の一行に会ったが、目を見張って私を見た。これは私が自らうまく処するが、彼は必ず奏するだろう。東南の逋臣で指を折れば、お前が先だ。私が去るのは、まさにお前のためを思ってのことだ」。
- 長く相対して哭し、さらに「ここは宮闕に近く不便だ」と言った。彬は「害はありません」と言い、帝の衣履がひどく破れているのを見て強く留めて三日、家人に布の衣を作らせてから発たせた。
- 帝は両浙を遊び、杭州に二十三日、天台・雁蕩に三十九日遊んだ。石梁の辺りで馬二子(馮㴶)・稽山主人(宋和)・金焦とも会い、「諸臣はみなここへ来る約束です」と言われたが、ついに現れなかった。当時、天気は寒く、帝は雲南に戻り、諸臣を固く却けて去った。
- 三年春二月、建文帝は重慶の大竹・善慶里に至った。杜景賢が室を築いて共に住んだが、まもなく去った。かつて金陵の諸臣が惨死したことを聞き、泫然として「私は神明に罪を得た。諸人はみな私のためだ」と言った。
- 四年夏四月、建文帝は西平侯・沐晟の家に至り、十日ほど留まり、五月に白龍山に苑を結んだ。
- 五年冬十二月、建文帝は死難の諸人を祭り、自ら文を作って哭した。当時、朝廷は帝を甚だ密かに探っており、戸科都給事の胡濙が張三丰を訪ね求めたのも、実は帝のためだった。帝はこれを知って跡を隠して出なくなった。
- 六年夏六月、白龍菴が火災に遭い、程済が山を出て修繕の募財をした。
永楽七年〜十四年(1409年〜1416年)
- 七年春正月、太監の鄭和に航海して西南の諸国と通じるよう命じた。当時、胡濙と鄭和はたびたび雲貴の間を往来して建文帝の踪跡を探った。帝は東行して三月に善慶里に至り、五月に再び襄陽の廖平の家へ行ったが、既に蜀へ移っていたので滇に還った。
- 八年春三月、建文帝は再び菴に至った。工部尚書の厳震が安南へ使いする途中、密かに帝を訪ねた。震は突然、雲南の道中で帝と出会い、相対して泣いた。帝が「私をどうするか」と問うと、「上はご随意に。臣は自ら処すところがあります」と答え、その夜、駅亭で縊れて死んだ。
- 帝は再び白龍山に菴を結んだ。顔色は憔悴し、形容は枯槁していた。夏、痢を患い、警戒心から山を出て食を求められず、狼狽は甚だしかった。折しも史彬・程亨・郭節が訪ねて来て、帝は相対して大いに慟いた。
- ついで「お前たちは土産を携えているか」と問い、各々が献じた。史彬だけは下僕がおり、献じた物も豊かで、しかも当時、職が禁中に近く帝の好みを知っていた。帝はあまねく味わって「これを食べなくなって三年になる」と言った。
- 三人はしばらく留まり、帝は帰らせた。別れるとき痛哭して声を失った。帝は「今後は二度と来るな。道路が険しく遠いのが一つの難、関津の詮議が二つ目の難だ。まして私は安らかに暮らしている。案ずるには及ばぬ」と言い、彬らは叩頭して命を承けて去った。のち帝は白龍菴も捨てて他所へ去った。
- 九年春、有司が菴を毀った。夏四月、建文帝は浪穹の鶴慶山に至った。その地はかなりよかったので募って一菴を建て、大喜と名づけた。
- 十年春三月、応能が死に、四月に希賢が死んだ。建文帝は一人の弟子を納れ、応慧と名づけた。
- 十一年夏五月、建文帝は南行して甸に至り、六月に還った。冬十二月、馬嶺を渡って賊に遭ったが、折よく官軍が来て辛うじて免れた。
- 十二年夏四月、程済を遣わして糧を募らせた。秋九月、建文帝は易の数を学んだ。
- 十三年秋八月、建文帝は衡山に遊び、冬十月に菴に還った。
- 十四年夏六月、建文帝の足の病が発した。程済が城西に薬を乞い、三日かけて戻り、帝は飲んで癒えた。冬十一月、帝は済に従亡伝を録述させ、山巌の中に蔵し、帝が自ら序を作った。
永楽十五年〜二十二年(1417年〜1424年)
- 十五年春二月、史彬が再び白龍の旧道に至ったが、菴はまったく見当たらなかった。山の傍らで一人の老婆に尋ねると「官司が毀ちました」と言い、僧徒のことを問うと「行方は分かりません」と言った。ここに至って彬は突然、鶴慶の大喜菴で帝と出会った。深い林と密な樹が数里に及んでいた。
- 先に楊応能と葉希賢が建てた菴は、落成したばかりで二人が死んだので、菴の東に葬った。十一月、帝は騒がしさを避けて東行し、衡山に至った。
- 十六年春三月、建文帝は還って黔(貴州)に至った。
- 十七年夏六月、建文帝は初めて仏書を読んだ。
- 十八年夏六月、建文帝は程済に菴の西寄りに移り住むよう命じた。冬十月、帝は蜀に入り、程済が従って諸勝をあまねく遊び、峨眉に登って詩を作った。「高きに登るに東を待たず、首を翹げれば、ただ雲の故国より飛ぶを見る」。
- 十九年秋七月、建文帝は粤に入り、海南の諸勝を遊び、十一月に菴に還った。
- 二十年夏四月、建文帝は騒がしさを避けて菴の南四十里、渌泉という所へ移った。
- 二十一年春二月、建文帝は楚に入り、程済が従った。章台山に登り、弔古の詩を賦した。「楚歌趙舞、今いずこにか在る。ただ見る寒鴉の樹を繞りて啼くを」。六月、帝は漢陽を遊び、晴川楼に登って吟じた。「江波なお湧いて恨み、林靄まさに翻えらんとして愁う」。七月、帝は大別山に留まった。
- 二十二年春二月、建文帝は東行した。冬十月、旅店で史彬と出会った。楡木川(成祖の崩御地)の話に及ぶとやや色を喜ばせた。史彬が道中の起居を問うと、「近ごろは飯もよく食べ、精気は常より倍している」と答え、そのまま彬とともに江南へ下って彬の家に至った。
- 彬が居宅の重慶堂に酒肴を用意し、帝が上座、程済が東、彬が西に列した。彬に従叔祖の史弘という者があり、嘉興県史家村の人だったが、まっすぐ堂に上がって来た。彬はやむを得ず同席させた。
- 弘が「師はどこから来られたか」と問い、彬が答えぬうちに、弘は立って外へ出、彬を招いて「これは建文皇帝だ」と言った。彬は「違います」と言った。弘は「私はかつて東宮でお目にかかった。我が家が籍没されたとき、帝でなければ私は死に場所もなかった。帝がまことに私を活かされた。恩に報いるすべもない」と言った。
- 彬はやむを得ず事実を告げた。弘は堂下に叩頭し涕泣して、これまでの様子を尋ねた。帝は「従亡の者たちが私に衣食を給し、険阻の間を周旋してくれたおかげだ。二十年来、戦々兢々としてきた」と言い、また大いに慟いた。慟き終わって「今は老いて終われそうだ」と言った。
- 弘が「帝は今どこへ行かれるのですか」と問うと、「天台の諸勝を遊ぶ」と答えた。弘は「私が一日分の食料を用意して随行します」と言い、数日いた。帝は発つとき彬に戒めた。「叔父上がおられる。お前は来るな」。弘が従って去った。
- 十一月、寧波に至り、蓮花洋を渡った。
洪熙元年〜宣徳十年(1425年〜1435年)
- 洪熙元年春正月、建文帝は潮音洞の大士に謁した。五月、閩・粤から山に還った。ただ程済だけが従った。仁宗の崩御を聞いて、帝は「私の心はもう下ろした。今後は往来もあまり意のままにはなるまい」と言い、悲しみかつ喜んだ。
- 宣徳元年秋八月、建文帝は従亡の諸臣を菴の前で祭った。
- 二年春正月、建文帝は鶴慶の静室に移り住んだ。秋八月、滇で賊が乱を起こし、帝は蜀に入り、程済が従った。冬十月、永慶寺に泊まって詩を題した。「錫杖を杖いて来遊すること歳月深し、山雲水月の傍らに閑吟す。塵心消え尽きて些子もなし、人間の物色の侵すを受けず」。
- 三年夏五月、建文帝は神女廟を遊び、秋七月に黄牛磯を遊び、冬十月に漢中を遊んだ。
- 四年春正月、建文帝は成都に至り、二泊して去った。五月、浪穹に還り、六月に鶴慶の山中に至った。
- 五年夏四月、建文帝が菴をやや広げようとし、程済らが出て募った。
- 六年春二月、建文帝は陝西へ向かい、夏四月に延安に至り、秋七月に南行して蜀に入り、九月に夔に至って雪に阻まれた。
- 七年春正月、建文帝は楚に入って公安に至り、夏五月に武昌に至り、秋八月に九江へ下り、九月に杭州の呉山を遊び、冬十一月に天台を遊んだ。
- 八年春正月、建文帝は赤城にあった。
- 九年夏五月、建文帝は再び呉江の史彬の家に至り、程済が従った。当時、彬は既に死んでおり、帝は長く悲悼し、その子を手厚く慰労した。改めて会稽を遊び、八月に還った。
- 十年春三月、建文帝は粤西へ向かった。
正統元年〜五年(1436年〜1440年)— 身元の露見と帰還
- 英宗正統元年秋八月、建文帝は滇に還り、かつての浪穹に居を卜した。
- 二年夏五月、建文帝は再び峨眉を遊び、冬十一月に浪穹に還った。
- 三年秋七月、建文帝は粤西へ行こうとして果たさなかった。折しも一人の弟子が逃げ去り、帝は跡が露見するのを恐れて粤西行きを決した。
- 四年夏四月、程済が建文帝に滇へ還るよう勧めたが聴かなかった。
- 五年春三月十三日、建文帝は程済に言った。「私は東行を決意した。お前は私のために筮ってくれ」。兌の帰妹を得た。済は机を叩いて大声を上げた。「大凶です。今、太歳の干支はいずれも金。火は必ずこれを剋します。夏の時に行くのは危うい」。
- 帝は文章を好み詩歌をよくした。かつて詩を賦した。 「牢落たり西南四十秋、蕭々たる白髪すでに頭に盈つ。乾坤に恨みあり家いずくにか在る、江漢無情にして水おのずから流る。長楽宮中、雲気散じ、朝元閣上、雨声収まる。新蒲細柳、年々緑なり、野老、声を呑んで哭して未だ休まず」。
- のち貴州の金竺長官司・羅永菴に至って壁に詩を題した。 その一。「風塵一夕にして忽ち南に侵し、天命ひそかに移りて四海の心。鳳は丹山に返りて紅日遠く、龍は滄海に帰して碧雲深し。紫微に象あり、星なお拱し、玉漏に声なく、水おのずから沈む。遥かに想う、禁城の今夜の月、六宮なお望まん翠華の臨むを」。 その二。「楞厳を閲し罷めて磬を敲くに懶し、笑って看る黄屋の団瓢に寄するを。南来の瘴嶺、千層迥かに、北望の天門、万里遥かなり。欵叚(駑馬)久しく忘る飛鳳の輦、袈裟新たに換う衮龍の袍。百官この日、何処にか知る、ただ群烏の早晩に朝するあるのみ」。
- ここに至って出亡してから三十九年になっていた。折しも同じ宿に泊まっていた僧が帝の詩を盗み、自ら建文帝と称して思恩知州の岑瑛のもとへ行き、大言して「私は建文皇帝である」と言った。瑛は大いに驚いて藩司に報せ、僧を繋ぎ、あわせて帝にも及び、飛報して奏聞し、詔して枷をはめて京師へ送らせた。程済が従った。
- 八月に金陵、九月に京に至った。御史に廷で鞫問させた。僧は年九十余と称し、「死期が近い。祖父の陵の傍らに葬られたいだけだ」と言った。御史は「建文君は洪武十年の生まれ。正統五年まででは六十四歳のはずだ。どうして九十歳であろうか」と言い、その素性を調べると、僧は実は楊応祥、鈞州白沙里の人だった。奏上して僧を死罪に論じ、錦衣獄に下し、従者十二人を辺境に戍らせた。
- 帝はちょうど南へ帰りたいという思いがあり、実を明かした。御史はひそかに奏聞した。宦官の呉亮は老いていたが帝に仕えた者なので、探らせた。
- 建文帝は亮を見るなり「お前は呉亮ではないか」と言った。亮は「違います」と言った。建文帝は「私が昔、便殿にいたとき、お前は食事の給仕をしていた。子鵝の肉の一片を地に落とし、お前は手に壺を持ったまま地に伏せて犬のように舐めた。それでも違うというのか」と言った。亮は地に伏して哭した。
- 建文帝は左趾に黒子があった。亮は撫でて見、その踵を持って再び哭し、仰ぎ見ることができなかった。退いて自ら縊れた。
- かくて建文帝を迎えて西内に入れた。程済はこれを聞いて嘆じた。「今日、ようやく臣の職を終えた」。雲南へ行って菴を焼き、その徒を散じた。
- 帝は宮に入ると、宮中の人はみな「老仏」と呼んだ。天寿を全うし、西山に葬られた。封もせず樹も植えなかった。
史論(谷応泰曰)
- 聞くところ、国君が社稷に死ぬのは義の正しさである。しかし機に乗じ変を察し、恥を忍んで存立を図り、一旅で中興を奏し、五年で天の節を反すこともある。周の恵王は櫟に居てついに子頽を殺し、襄王は鄭に居てついに太叔を誅した。建文の倉皇の出奔にも、あるいは深意があったのかもしれない。
- まして鉄の函、鎖した櫃、度牒、剃刀は先皇の遺したもの。龍嫠の帝后、妖讖が周を亡ぼし、燕が皇孫を啄み、天心が漢を割いたのと同じで、定数があって智力の移しうるものではない。
- 遜国の期は壬午六月十三日。建文だけが地道から出、余臣はみな水関から出た。痛哭して地に伏したのは五十余人、自ら亡命に随うと誓ったのは二十二士。廖平の議で「人が多ければ必ず失敗が生ずる。遠くから応援するに越したことはない」となった。
- そのとき謹んで左右に侍したのは三人——楊応能・葉希賢は比丘、程済は道人と称した。道々を往来して資糧を用立てたのは六人——馮㴶・郭節・宋和・趙天泰・王之臣・牛景先で、各々名を諱み号でひそかに通じ合った。
- その経由した地は、神楽観から発し、松陵を経て滇南に入り、西は重慶を遊び、東は天台に到り、転じて祥符に入り、粤西に仮寓し、その間、白龍に菴を結び、羅永に詩を題し、二度、荊楚の郷に入り、三度、史彬の邸に幸した。踪跡の去来は何と明々白々であることか。
- ただ年が桑楡(晩年)に迫り、骸骨を返されることを願い、岑瑛がそれに拠って奏聞し、呉亮がその妄でないことを弁じた。国を復さずに国に帰り、君とならずして師となる。天寿を全うしたとはいえ、恥じるべきことである。
- しかし私見では、仮に成皇(成祖)が沙場で死んだばかりで、昭帝(宣宗)が諒闇に居たばかりの時であれば、兵力は辺関で消耗し、内難は高煦に伏し、国勢は危うく疑わしく、人情は牽制されて、必ず万里の外を長駆遠馭して経営できなかったであろう。
- 滇黔は地が険しく沐氏の兵は強い。この遁跡の時に乗じて控告の義を申し、周の厲王が彘に流されて共和が政を摂ったように、あるいは東遷して晋・鄭に依ったようにし、一軍を荊門から出せば襄・鄧を揺るがし、一軍を漢南から出せば長江に拠れた。狐偃の河水の功、馮異・鄧禹の雲台の業は、他人が担うものではなかった。
- ところが枕席には涕泣の痕があり、旅には糧食の給を仰ぐばかりで、興復の大計は欠けて講ぜられなかった。喩えれば危うい葉が疾風を畏れ、驚いた禽が落ちやすいようなもの。まさに「亡国の大夫とは事を言うに足らず」である。
- 正統に改元した頃には、帝は四朝を易え、統は五紀を踰えた。内に恵帝・懐帝の乱なく、外に連なる管叔の謀なく、嗣位が相承して天が定めた。まして主君は既に老い、従者は凋落し、険阻を嘗め尽くした時はまさに精志の消え失せる日であった。魯の展喜は既に衰え、晋の銅鞮は既に死んだ。崦嵫(日没)を待つばかりで、どうして再興を望めよう。
- 従亡の諸臣は国のために家を忘れ、艱難のうちに王を捍り、四十余年、風雨に晒された。申包胥が楚王を郢に復した義はなくとも、子家が昭公を野井に哭した忠はある。この志を推せば、日月と光を争ってもよい。
- 議する者は成祖の実録に拠って、建文は自焚したとし、一龍がまだ出ていないのに衆蛇を退けて載せなかったのだと疑う。だが隠太子・巣剌王の事は貞観の記録に率直には序されず、燭影斧声の疑いも興国の記録では曖昧にされている。時の史書に書かれたものに曲筆がなかったとは言えない。
- まして胡濙の仙人探索、思恩での抜擢、さらに陵が西山にあって封も樹もないことは、目のある者が共に見たところである。どうして伝聞の異説として片づけられようか。