明史紀事本末中原を北伐する(北伐中原)

明の北伐と元都攻略を、至正十九年(1359年)の情勢偵察から洪武二年(1369年)の薊北平定までの約十年間にわたって扱う。太祖はチャガン・テムル、ついで甥のココ・テムルと通好を試みたが使者を拘留され、呉元年(1367年)に徐達を征北大将軍、常遇春を副将軍として二十五万を発した。直ちに元都を衝くという常遇春の案は退け、まず山東の屏蔽を撤し、河南の羽翼を断ち、潼関を押さえてから元都に向かう順序を定める。沂州・益都・済南から汴梁・河南へ進み、洪武元年(1368年)閏七月に通州で元軍を破ると、元主は夜に建徳門から上都へ逃げ、八月に元都は陥落して北平府と改められた。翌年、李文忠が開平まで追撃して薊北を平定した。

年表(21件)

至正十九年 九月(1359年)— 元の情勢偵察

  • 太祖は千戸の王時を方国珍のもとへ遣わし、海船に便乗させて元の都に至らせ、元の政情およびチャガン・テムル、李思斉の軍馬の状況を偵察させた。当時、チャガンは汴梁を克ち山西・秦隴などを平らげ、兵を分けて関陝・荊襄・河洛を鎮守し、重兵を太行に屯して日々練兵し穀を積み、山東の回復を謀って軍声は大いに振るっていた。そのため王時を送って探らせたのである。

至正二十一年 八月(1361年)— チャガン・テムルへの通好

  • 都事の汪河を遣わして元のチャガン・テムルと好を通じた。当時、チャガンは山東で用兵し、東平の田豊、楽安の兪宝らを招き降して勢いは盛んだった。
  • 太祖は左右に言った。「チャガン・テムルは義師と称して恢復を図っているが、ボロ・テムルとの兵争が絶えず、たびたび君命に背いている。これが忠臣のすることか。また名を好むと聞く。田豊のような変節の徒すら腹心として遇するとは、人を知るに暗い。今、人を送って好を通じ、その行いを見てから議することにする」。

至正二十三年 春正月(1363年)— ココ・テムルとの通好

  • 元の平章ココ・テムルが使者を送って通好してきた。ココはチャガンの甥・王保保で、チャガンが養子としていた。
  • 先にチャガンが汴梁に駐屯していたとき、太祖が使者を送って好を通じ、のちチャガンも書を送って聘したが、太祖は先に送った使者が帰らないので答えなかった。チャガンはまもなく叛将の田豊・王士誠に刺殺され、ココが父の衆を代わって率い、尹煥章に我が使者を海路から送り返させた。太祖は改めて都事の汪河を同行させて答礼させたが、河は河南に至るとココに留められ陝州に拘禁され、三年余りしてようやく帰り、吏部侍郎となった。

至正二十六年 夏四月〜秋九月(1366年)

  • 四月壬戌、元の徐州守将・枢密同知の陸聚が、徐達らが既に淮安を克ったと聞いて徐州・宿州の二州をもって達の軍に降った。太祖はその天命を知る見識を嘉し、江淮行省参政としてそのまま徐州を守らせた。かくて邳州・蕭県・宿遷・睢寧の諸県もみな降った。
  • 九月、太祖は書を添えて元の宗室・神保大王および黒漢ら九人を元主のもとへ送り返した。

呉元年(元至正二十七年、1367年)春正月 — ココ・テムルへの最後通牒

  • 使者を遣わして書で元のココ・テムルを諭した。先に使臣の汪河がココに拘留され、太祖が書で諭しても返答がなかった。ここに至って改めて書を送った。その要旨。
  • 「私が義を挙げて以来、江左に地を拡げてきた。閣下の先代は興復を名として河北に兵を提げた。古人の朝聘往来は誠意を伝えるにすぎぬ。今、汪河は行ったきり帰らない。拘留したものは小さく、失うものは大きい。 閣下は地が遠くないわけではなく、兵が多くないわけでもない。だが憂うべきは、張思道が潼関で刃を操り、李思斉が秦隴で衝を抗し、兪宝が肘腋で変を蓄え、王信が近郊で釁を生じていることだ。閣下は功成って泰山のごとく安泰だと自ら思っているが、座して群雄を連結させ、禍機が一たび発すれば首尾ともに救えなくなる。私は閣下のために深く惜しむ。それゆえ何度も人を遣わして書を奉り、お耳を煩わせている。私の一得の愚見を閣下に尽くしたいのだ。閣下はなぜ自ら誇るのか。 もし使者を遣わして期日を切って汪河・銭禎らを返してくれるなら、前の盟を失わぬどころか天下の信を得られる。そうでなければ、私は襄陽の師に唐州・鄧州の郊を経て北のかた嵩州・汝州に向かわせ、安陸・沔陽の兵に徳安を掠めて信息へ向かわせ、安豊・濠州・泗州の将に陳州・汝州から汴梁を衝かせ、徐州・邳州の軍に済寧を取らせ、淮安の衆に王信と約させ、海路の舟師を兪宝と会して同時に山東へ入らせる。そのとき閣下の境は必ず土崩瓦解する。それは我が南国の兵端を開き、彼の後日の戦禍となる。閣下はよく考えて後悔を残すな」。

呉元年 二月丁未(1367年)— 徐州での勝利

  • 傅友徳に徐州を守らせた。二月丁未、元のココ・テムルが驍将の左丞・李弐を侵入させ、兵は陵子村に駐屯した。友徳は塁を固めて敵が掠奪に出るのを待ち、歩騎三千余を率いて舟で呂梁までさかのぼり、舟を捨てて上陸して撃った。李弐は裨将の韓乙に大軍で迎え撃たせたが、友徳は馬を躍らせ槊を奮って韓乙を刺し落とし、敵は敗れて去った。
  • 友徳は李弐が必ず兵を増して戦いに来ると読み、急ぎ城に戻って門を開いて兵を出し、城外に陣を敷き、士卒に槍を寝かせて伏せさせ、鼓の音を聞いたら起って撃てと令した。まもなく李弐が果たして衆を率いて来ると、友徳は鼓を鳴らさせ、我が師は奮い起こって前鋒を衝いた。李弐の衆は大潰し、溺死者は数知れなかった。李弐を生け捕り、将士二百余人と馬五百匹を獲た。友徳を江淮行省参知政事に抜擢した。

呉元年 十月甲子(1367年)— 北伐の戦略決定

  • 太祖は将に命じて北のかた中原を取ろうとし、信国公の徐達らに言った。
  • 「元が政を失って以来、生民は塗炭に苦しんできた。私と諸公は義を仗んで起こり、生民を安んずる者が現れることを願った。ところが大難は解けず、衆に推されて陳友諒を平らげ張士誠を滅ぼし、閩と広の地も順に定まろうとしている。 なお中原は騒然としている。山東には王宣父子がいて去就が定まらず、河南には王保保がいて上は疑い下は叛き、関隴には李思斉と張思道がいて互いに猜疑し、王保保とも嫌隙がある。元が滅びようとする機はここにある。今、諸公に北伐を命じたい。どうすべきか」。
  • 常遇春が答えた。「今、南方は既に定まり兵力に余裕があります。まっすぐ元都を衝くべきです。我らの百戦の師で、彼の久しく安逸に慣れた兵に当たれば、竿を掲げただけで勝てましょう。都城を克ったら勝ちに乗じて長駆すれば、残りは瓴を建てるように下ります」。
  • 太祖は言った。「そうではない。元が都を建てて百年、城守は必ず固い。卿の言のように孤軍を深入りさせて堅城の下に留まれば、糧食が続かず援兵が四方から集まり、我らに利がない。 私はまず山東を取ってその屏蔽を撤し、師を河南に転じてその羽翼を断ち、潼関を抜いて守り、その戸口の敷居を押さえたい。天下の形勢が我が掌中に入る。しかるのち元都に兵を進めれば、彼は孤立して援けが絶え、戦わずして克てる。都を克ったら鼓を鳴らして西へ進み、雲中・九原から関隴まで席巻して下せる」。諸将はみな同意した。
  • 太祖は達を顧みて「兵法に、廟算に勝つ者は算が多い、とある」と言った。

呉元年 十月(1367年)— 出師と将帥への訓示

  • 徐達を征北大将軍、常遇春を征北副将軍とし、甲士二十五万を率いて淮から河に入り、長駆して北伐させた。
  • 諸将を召して諭した。「征伐は天命を奉じて禍乱を平らげるためのもの、ゆえに将に命じて師を出すには人を得ることが肝要だ。今、諸将は戦上手でないことはないが、慎重で紀律を保ち、戦って勝ち攻めて取り、将たる体を得ている点で大将軍・徐達に及ぶ者はない。百万の衆に当たって勇敢に先登し、鋒をくじき陣を陥れ、向かうところ靡かせる点で副将軍・常遇春に及ぶ者はない。 だが私は遇春が戦えないことを憂えるのではなく、敵を軽んずることを憂える。私は先に武昌で、遇春が数騎の挑戦に遭っただけで軽々しく自ら出て行くのを見た。陳氏の張定辺のような者すら城に拠って指揮していたのに、遇春は大将でありながら小校と技を競おうとする。まことに期待に反する。切に戒めよ。 もし大敵に遭ったら、遇春は前鋒を率い、参将の馮宗異と左右の翼に分かれ、それぞれ精鋭を率いて撃て。右丞の薛顕と参政の傅友徳は勇略が諸軍に冠たるものだから、一面を独りで担当させてよい。孤城や小敵があれば、胆略ある一将に総制の権を与えて遣わせば功を成せる。達は専ら中軍を主宰し、諸将を励まし、籌を運らして勝を決せよ。軽々しく動いてはならぬ。古人は『将が軍にあって君が制さぬ者は勝つ』と言った。お前たちはこれを心得よ」。
  • また傅友徳に言った。「今回はお前が努めるべきだ。昔、漢の高祖が項羽と覇を争ったとき、彭越が山東で力を尽くした。今、山東から用兵を始める。励め」。
  • この日、太祖は自ら北門外の七里山で上下の神祇を祭った。祭を終えて再び将士を召して諭した。「今回は必ずしも地を略し城を攻めるためではない。要は禍乱を削平して生民を安んずることにある。敵に遭えば戦え。だが通過する所や落城の日に、みだりに人を殺すな、民財を奪うな、民家を壊すな、農具を廃するな、耕牛を殺すな、人の子女を掠めるな。捨てられた孤児が営にいて父母や親戚が求めに来たら、すぐ返せ」。

呉元年 十月丙寅(1367年)— 北伐の檄文

  • 斉魯・河洛・燕薊・秦晋の人に檄を馳せた。その要旨。
  • 「宋の命運が移って元主が中国に君臨したのは人力ではなく天授である。だがそれ以後、元の臣子は祖訓を守らず綱常を壊した。大徳には長を廃して幼を立て、泰定には臣が君を弑し、天暦には弟が兄を毒殺した。弟が兄の妻子を娶り、父の妾に通ずるに至って、上下がそれに慣れて怪しまなくなった。 君たる者は民の主、朝廷は天下の本、礼義は世を治める防ぎである。その行いがあのようであっては、天下に範を示せようか。後嗣は荒淫で道を失い、加えて宰相が権を擅にし、憲台が怨みを晴らし、有司が毒虐を行った。かくて人心は離叛し天下に兵が起こり、我が中国の民は死者が肝脳を地に塗り、生者は骨肉を保てなかった。人事の招くところとはいえ、実は天がその徳を厭うて棄てたのである。 この時に当たり、天運は循環し、億兆の中に聖人が降生して綱を立て紀を陳べ、この民を救済すべきである。ところが今に至るまで一紀(十二年)、世を済い民を安んずる者を聞かない。ただお前たちは戦々恐々として、朝は秦に夕は楚にという境遇に置かれている。まことに憐れむべきである。 今、河洛・関陝には数人の雄が兵を構え険に拠って互いに食い合っているが、いずれも人民の主ではない。 私はもと淮右の一布衣、天下の乱によって衆に推され、師を率いて渡江し、形勝の地・金陵に居して長江の天塹の険を得た。今や十三年、西は巴蜀に至り、東は滄海に連なり、南は閩越を制し、湖湘・漢沔・両淮・徐邳がみな版図に入り、南方はことごとく我が有となった。民はやや安んじ、食はやや足り、兵はやや精鋭になった。弓を引き矢を執って、我が中原の民が長く主を持たぬのを日々見て、深く心を痛めている。 私は恭しく天命を承け、あえて自ら安んぜず、兵を北伐に遣わして生民を塗炭から救い、漢官の威儀を復そうとする。だが民人が知らずにかえって私を仇と見なし、家を挙げて北へ走り、いっそう深く陥ることを恐れる。ゆえにあらかじめ告げる。兵が至っても民人は避けるな。私の号令は厳粛で秋毫も犯さない。お前たちよ、これを体せよ」。

呉元年 十一月壬子(1367年)— 沂州の攻略と王宣父子

  • 沂州を克った。揚州興化の人・王宣は元末に司農掾となり、治水に功があって招討使に任じられ、イスに従って徐州を回復し、義兵都元帥を授かった。宣の子・信はチャガン・テムルに従って田豊を破り、宣と信は沂州の鎮守に戻されていた。
  • 達の師が淮安に至ると、書で宣父子を諭して降らせようとし、信は書を得て使者を送って帰順を申し出た。太祖は徐唐臣らを沂州に遣わして信に江淮平章政事を授け、兵を率いて大将軍の征討に従わせようとした。
  • ところが宣父子はひそかに二股をかけ、信をこっそり莒州へやって密かに兵を募らせ、一方で偽って軍を犒う使者を送って我が軍を緩めた。達は受け取って使者を帰した。使者が帰ると宣は夜に兵で徐唐臣を襲って殺そうとし、混乱の中で唐臣は身一つで達の軍に逃げた。
  • 達は即日、師を率いて沂州に至り、兵を分けて急攻した。都督の馮宗異が軍士に堰を切って水を放たせ、宣は支えきれぬと悟って門を開いて降った。達は宣に書を書かせ、鎮撫の孫惟徳を遣わして信を招降させたが、信は従わず孫鎮撫を殺して山西へ逃げた。
  • かくて嶧州の趙蛮子、莒州の周黼、海州の馬驪、および沭陽・日照・贛楡の諸県、ならびに信に従っていた将士がみな降った。達は宣の反覆を咎めて捕らえて誅し、韓温に沂州を守らせた。
  • 太祖は使者を送って達に諭した。「将軍が既に沂州を下したと聞く。もし益都へ向かうなら、精鋭を遣わして黄河の要衝を扼し、その援兵を断てば必ず克てる。もし益都が下らなければ、済寧・済南を取れ。二城が下れば益都と山東は勢い窮まり力尽きて、袋の中の物となる」。
  • 達は平章の韓政に楡行・梁城の諸鎮寨を攻略させ、続いて兵を分けて黄河を扼して山東の援兵を断たせた。政は千戸の趙実に滕州を攻略させ、元の守将・楊知院は逃げた。
  • 達は益都路へ進攻した。宣慰使のブヤン・ブハが城を守って力戦したが支えきれず、城は陥ちた。ブハは帰って母に訣別し、「私は忠と孝を両立できません」と言った。達はその賢を聞いて使者を送って召したが行かず、捕らえられても屈せず、総管の胡濬、知院の張俊とともに死んだ。ブハの妻アルジャンも子女を抱いて井に投じて死んだ。その平章の婁ボロと白知県らを捕らえ、士馬・兵糧を万単位で得た。

呉元年 十二月(1367年)— 東平・済南・済寧の攻略

  • 十二月丁未、都督同知の汪興祖の師が東平に至ると、元の平章・馬徳が城を棄てて逃げた。興祖は指揮の常守道と千戸の許秉を東阿に進ませ、元の参政・陳璧が部下五万余人を率いて降った。秉はさらに舟師で安山鎮へ向かい、元の右丞・杜天祐と左丞・蔣興がみな降った。
  • 徐達が済南に至ると、元の平章ホリンタイ・ジャントンとトイン・テムルが人民を先に逃がして軍を率いて逃げ、アルブダ・ドルジ・ジンバらが城を挙げて降った。将士三千八百五十五人、馬四百二十九匹を得、指揮の陳勝に守らせた。
  • 庚戌、汪興祖が済寧に至ると、元の守将・陳秉直は城を棄てて逃げた。
  • 甲子、徐達は参政の傅友徳を遣わして莱陽を取らせた。
  • 丙辰、太祖は再び使者を送って達と遇春に諭した。「大軍が山東を下し、通過した郡県で元の省院の官で降った者が甚だ多く、二将軍がみな軍中に留めていると聞く。私はそれが混在していて、昼に敵に遭い夜に盗に遭えば不測の変が生じ、我らの利にならぬことを憂える。この輩は当初は勢いに屈しただけで、必ずしも心まで得ているとは限らない。こちらへ送って我が官属の間に置き、日々親しませてから用いれば患いがない。済寧・東平から帰服した将士の家族も送ってこさせよ。厚遇する」。

洪武元年 二月(1368年)— 東昌・楽安と山東の平定

  • 二月癸卯、湯和に明州へ戻って海船を造り、北征の軍糧を漕運させた。都督同知の康茂才に師を率いて済南へ行かせ、大将軍・達の北征に従わせた。
  • 癸丑、常遇春が東昌を克ち、元の平章・申栄は自ら縊れて死んだ。荏平などの県はみな降った。
  • 丙寅、徐達が楽安を平らげた。先に楽安の兪勝が帰順を申し出、達は礼をもって帰したが、勝は帰るとまた叛いた。達は進攻し、師が土河、楽安から五里の地点に至ると、軍士に堰を埋めさせて進んだ。郎中の張仲毅が出て降り、勝は逃げた。達は指揮の華雲龍に守らせた。
  • 戊子、中書省に高札を出して山東の郡県を撫安させた。当時、山東はすべて平定され、各地で賢才を訪ねさせたが、元に仕えていた者は疑い恐れて落ち着かなかったので、高札で諭したのである。
  • 丙申、太祖は別に征南将軍の鄧愈に襄陽・安陸・景陵などの兵を率いて北のかた地を攻略させた。愈は別将の王成・李廷琛に唐州を攻めさせて克ち、進んで南陽路を取り、その将・史国新を捕らえた。

洪武元年 二月〜四月(1368年)— 汴梁・河南の攻略

  • 徐達は兵を率いて黄河をさかのぼり、永城・帰徳・許州を克ち、師は陳橋に至った。己亥、左君弼とジュチェが汴梁をもって降った。
  • 先に君弼は唐州から安豊へ走り、安豊からまた汴梁へ走り、元の汴梁守将・李克彝に陳州を守らされていた。太祖は使者に書を持たせて諭した。
  • 「先の兵乱は一人の失ではない。私は暑い季節に師を労して足下と事を構えたが、足下は身内を捨てて異国へ奔った。いずれも臣下の言を軽々しく信じてここに至ったのだ。今、足下は異国の命を奉じて私と境を接している。もし師を興して境を侵そうというなら、その軽重は自ずと量れよう。 しかも我が国は足下の父母の国であり、合肥は足下の墳墓の郷である。天下に兵が起こり豪傑が並び立つのは、時に乗じて功名を成すためだけでなく、乱世に父母妻子を保全するためでもある。足下は身を人質として人に安を求めた。既に失策であるうえ、白髪の母と糟糠の妻を天の一方に置き、一日を一年のように過ごさせている。足下がたとえ妻子を思わぬとしても、老母に情を忘れて忍びえようか。功名富貴は再び図れるが、身を生んだ親は再び得られない。足下がこれに留意して翻然と来れば、私は前非を棄てて元どおりに遇する」。
  • 君弼は書を得ても迷って決められなかった。太祖はその母を陳州へ帰し、君弼は感泣した。ここに至って大軍が山東を下して西の汴洛を指すと、克彝は夜に軍民を駆り立てて河南へ逃げ、君弼はジュチェらと部下を率いて達のもとに降った。
  • 達は都督僉事の陳徳に汴梁を守らせ、歩騎を率いて中灣から河南攻略に進んだ。
  • (このころ)彗星が昴の北に現れた。
  • 四月、徐達は大軍を率いて虎牢関から河南の塔児湾に進んだ。元将のトイン・テムルが五万で迎え撃ち、洛水の北に陣を敷いた。我が軍が陣を成すと、常遇春が単騎で弓矢を執ってその陣に突入した。敵が二十騎を出して槊を揃えて刺そうとしたが、遇春は一矢でその前鋒を斃し、大喝して斬り込んだ。達が指揮して乗じ、捕虜と斬首は数知れなかった。トイン・テムルは散卒を率いて陝州へ逃げた。
  • 達は河南城の北門に営を進め、李克彝はまた陝西へ逃げ、元の河南行省平章・梁王アルウェイが軍門に帰順を申し出た。戊申、河南は平定され、達は左丞の趙庸に守らせた。
  • 壬子、副将軍の常遇春が兵を率いて嵩州に至ると、守将の李知院が出迎えて降った。甲寅、入城し、兵を分けて未帰属の諸山寨を下した。
  • 戊子、元の鞏県孟夏寨の参政・李成が降った。庚申、元の福昌知院の張興、鈞州守将のハラロウ、許州右丞の謝李、陳州知院の楊崇が、それぞれ人を遣わして大将軍のもとに降った。辛酉、参政の傅友徳が兵を分けて福昌の山寨を取り、元の右丞・潘マルが降った。副将軍の常遇春が海州を下して兵を留めて守らせ、そのまま郟県を攻略した。
  • 壬戌、都督同知の馮宗異が陝州を克ち、元の守将トイン・テムルはまた城を棄てて逃げた。都督同知の康茂才に守らせた。
  • 大軍が裕州を克ち、元の守将・平章の郭雲を捕らえた。雲は勇敢で謀略があり、河南の諸郡がみな下る中で独り裕州を守り、たびたび戦って克てず、招いても従わなかった。のち孤軍が敗れて捕らえられた。太祖はその忠義を嘉して釈放して用いた。
  • 山東の夏税・秋糧を免ずる詔を下し、中原の兵乱の後に流離して生業を失った者が多かったので、使者を送って賑恤した。

洪武元年 四月〜五月(1368年)— 太祖の汴梁行幸と元都攻略の方策

  • 甲子、車駕が京師を発して汴梁に行幸した。当時、天下に君臨するには中土に居るべきで、汴梁は宋の故都だと言う者があり、帝に視察を勧め、あわせて大将軍と元都攻略を謀るためだった。
  • 五月庚午、大将軍・徐達が指揮の王臻に兵を率いさせて虢州へ行かせ、毛葫蘆の山寨を取らせた。
  • 甲申、登封・鞏県の鶏翎山ならびに天堂山の寨が再び叛き、徐達は指揮の豊諒に兵を率いさせて討ち平らげた。指揮の任亮が露豹・王山などの寨を克ち、参政の傅友徳が凌青・黒山の二寨を取った。
  • 庚寅、車駕が汴梁に至った。辛卯、常遇春と馮宗異が行在に至って謁見し、徐達もまもなく河南から来た。太祖はいずれも慰労し、達らは叩頭して謝した。
  • 退出後、太祖は改めて達を召して元都攻略の計を問うた。達は答えた。「臣が斉魯を平らげ河洛を下してから、王保保は太原で逡巡して観望し進みません。今、潼関も我が有となり、張良弼・李思斉は勢いを失って西へ逃げ、元の声援は既に絶えました。臣らが勢いに乗じてその孤城を撃てば、必ず克てること疑いありません」。
  • 太祖は図を示して指し示した。「卿の言はもっともだ。しかし北の土地は平坦で騎戦に利がある。備えなしではいけない。裨将を選んで兵を率いさせ先鋒とし、将軍は水陸の師を督して後に続け。山東の粟を下して糧食に充て、秦から趙へ向かい、臨清を経て北上し、まっすぐ元都を衝け。彼は外援が間に合わず、内から驚き潰えて、戦わずして下せよう」。達は命を受けて退いた。
  • 丁酉、江西行省左丞の何文輝に河南を、任亮に嵩州を守らせた。都督同知の康茂才の兵が河北に至り、安邑・夏邑はみな降った。
  • 七月、鄧愈が進んで随州を克ち、元の守将・右丞の王誠が降った。壬午、新寨のマジャンらが叛き、愈は指揮の呉復を遣わして討ち平らげた。

洪武元年 七月(1368年)— 元都進撃の訓示

  • 潼関以東はすべて平定され、太祖は諸将に師を返して元都を取るよう命じた。汴梁を発つにあたり、大将軍の徐達らが陳橋から入って辞去の挨拶をした。太祖は諭した。
  • 「朕は公らと衆を率いて渡江し、禍乱を除いて天下を安んずると誓った。士卒は父母妻子を捨てて矢石の間で戦い、百死に一生を得て、久しく休息していない。朕は思うたびに心が痛むが、やむを得ぬことだ。 今、中原の民は久しく群雄に苦しめられ、死亡と流離が道に満ちている。天の監視はここにあり、朕は忘れない。ゆえにお前たちに師を率いて北征させ、民を水火から救わせる。 昔、元の世祖が中国に入って主となったが、子孫が怠り荒れて民の艱難を恤まず、天が厭い棄てた。君に罪があるとして、民に何の罪があろう。前代、革命のたびに兵戈を交え仇讐のように扱ったが、朕は忍びない。お前たち諸将帥は、城を克った日に掠奪するな、焼き払うな、みだりに人を殺すな。必ず市を変えさせず、民がその生を安んじるようにせよ。元の宗室・親戚はみな善く待遇せよ。上は天心に答え、下は人望を慰め、朕の罪を伐ち民を救う志を成すのだ。命に恭しく従わぬ者は必ず罰して赦さぬ」。
  • 丙申、車駕が汴梁を発って京師に還り、副将軍の馮宗異を留守とした。徐達は都督同知の張興祖、平章の韓政、都督副使の孫興祖、指揮の高顕らに檄して、益州・済寧・徐州の師を東昌に会させた。
  • (このころ)元の大都に紅い霧と黒い風が起こった。

洪武元年 閏七月(1368年)— 河北の攻略

  • 徐達らは士馬を分布して河北攻略を図り、中灣から黄河を渡った。
  • 庚子、右丞の薛顕と参政の傅友徳の兵が衛輝に至り、元の守将・平章の龍二は城を棄てて彰徳へ逃げた。
  • 辛丑、徐達らの師が淇門鎮に至り、傅友徳が獲嘉県尹の胡仲信を捕らえた。達は従軍の鎮撫・王処仁に衛輝を守らせた。
  • 癸卯、師が彰徳に至ると龍二はまた逃げ出し、陳同知らが軍門に来て降った。達は左丞の楊思祖に守らせた。翌日、龍二の部将・楊義卿が船八十艘で帰服した。
  • そのまま磁州を下し、広平に進攻すると元の平章・周昱が城を棄てて逃げ、邯鄲尹の都文玉が父老を率いて降った。趙州を克ち、元将の候僉院らを捕らえた。
  • 己酉、臨清に進んだ。人を東昌に遣わして都督同知の張興祖に師を率いて合流するよう促し、また楽安を守る指揮の華雲龍に兵を率いて従軍するよう檄した。
  • 庚戌、傅友徳の遊騎が元将の李宝臣と都事の張処仁を捕らえ、道案内とした。達は友徳に道を開いて歩騎を通し、都督副使の顧時に閘を浚って舟師を通した。
  • 当時、諸将が長く臨清に駐屯していたが、知府の方克勤が飼葉と糧を按配して欠乏がなかった。朱亮祖が民夫五千を徴して河を浚おうとしたとき、克勤は民を労するに忍びず、泣いて天に祈った。すると大雨が降って水が増し、舟が通った。
  • 癸丑、平章の韓政と都督副使の孫興祖がともに師を率いて臨清に合流した。かくて大将軍・徐達は馬歩・舟師を率いて北へ発し、韓政に東昌を守らせて臨清も鎮撫させた。
  • 達の師が徳州に至ると、常遇春・張興祖および指揮の高顕・毛譲・程華らがみな合流した。
  • 戊午、達らの師が長蘆に至ると、元の守将・左僉院は逃げた。達は指揮の費子賢に守らせ、兵を分けて青州を下した。
  • 師が直沽に至ると、その海船七艘を獲て浮橋を造って師を渡した。常遇春と張興祖がそれぞれ舟師を率いて河の東西を並び進み、歩騎は陸を進んだ。元の丞相イスらが海口を防いでいたが、風を望んで潰走し、元都は大いに震えた。

洪武元年 閏七月〜八月(1368年)— 通州の戦いと元都の陥落

  • 癸亥、大将軍・徐達らの師が河西務に至り、元の平章アルブダ・ドルジ・ジンバを大破し、その知院ハイラスら三百余人を捕らえた。達は通州へ進んで河の東岸に営し、常遇春は西岸に営した。
  • 衆は速攻を望んだが、指揮の郭英は「我が師は遠来、敵は逸をもって労を待っている。城攻めは我らの利ではない。不意を突いて攻めるべきだ」と言った。
  • 翌日、濃霧が立ちこめた。英は千人を道の傍らに伏せ、精騎三千を率いてまっすぐ城下に迫った。元将の五十八国公が決死の士一万余を率い、両翼を張って出撃した。長く戦ったのち、英が偽って敗走すると、敵は勝ちに乗じて追い、伏兵が起こってその軍を二つに断ち、数千級を斬り、その将バヤン・テムルを捕らえた。
  • 丙寅、達が諸将を率いて通州に入った。この月の二十七日である。
  • 元主は報せを聞いて大いに恐れ、后妃と太子を集めて兵を避けて北行することを議し、夜明けに群臣を端明殿に召して会議した。当時、元都はボロとココの変を再度受けており、民は乱に苦しみ、守備の多くは設けられていなかった。
  • 元主はためらい嘆じて「今日、どうしてまた徽宗・欽宗のようになれようか」と言い、北へ移ることを決した。左丞相のシレムン、知枢密院事のハスらはみな京城の固守を勧めたが聞かなかった。淮王テムル・ブハに監国を、丞相の強通に留守を命じた。
  • その夜三更、元主と后妃・太子は建徳門を開いて居庸関から北へ走り、上都へ向かった。
  • 八月二日庚午、徐達らが進んで元都を取った。斉化門に至り、将士が濠を埋めて城に登って入った。達は斉化門の楼に登り、監門の宗室・淮王テムル・ブハ、および太尉・中書左丞相の強通、平章のドルヘ・メセ・バイ・サインブハ、右丞相の張康伯、御史中丞のムチェらを捕らえて誅した。
  • あわせて宣府・鎮南・威順の諸王子六人、玉印二、成宗の玉璽一を獲た。府庫の図籍と宝物、および旧宮殿の門を封じて兵に守らせた。宮人・妃・公主はその宦官に護らせ、士卒に令して侵し暴くことを禁じ、人民は安堵した。
  • 達は令して、元朝の大小の諸臣はみな任命書を官に提出し、民籍に入れとした。違反する者は罰した。
  • 元の翰林待制・黄殷仕は井に投じようとしたが下僕に見張られていた。そこで偽って「私は甚だ恥じている。どこかで酒を得て酔ってから出て会いたい」と言った。下僕は喜んで市へ酒を買いに行き、殷仕は井に投じて死んだ。左丞の丁敬可、総管の郭允中もみな死んだ。
  • 学士の危素は僧寺に寓居しており、同じく井に投じようとしたが、一人の僧が「公が死ねば亡国の史も亡ぶ」と止め、そこで達に会いに行った。
  • 翌日、順徳の守将・吉右丞、胡参政、鄭参政がみな西山から来て降った。武徳衛の軍校が、先に楽安から逃げた将・兪勝と南参政・張郎中らを捕らえた。達は将を京師に遣わして勝報を献じ、あわせて薛顕・傅友徳・曹良臣・顧時らに兵を率いて古北の諸隘口を偵察させた。

洪武元年 八月(1368年)— 北平の設置

  • 甲戌、徐達は人を東昌に遣わして韓政に兵を分けて広平を守らせた。徐達は指揮の華雲龍に旧元都の城壁を新築させ、張興祖が永平路を攻略して下した。
  • 癸未、大将軍・徐達に詔して、飛熊衛を大興左衛、淮安衛を大興右衛、楽安衛を燕山左衛、済寧衛を燕山右衛、青州衛を永清左衛、徐州五所を永清右衛と改め、兵三万を留めて六衛に分属させ、都督副使の孫興祖と僉事の華雲龍に北平を守らせた。大将軍・徐達と副将軍・常遇春らは大軍を率いて山西を取りに向かった。

洪武二年 二月庚辰(1369年)— 通州の防衛

  • 元の丞相イスが通州を侵した。城中の守兵はわずか千人、イスは万騎で白河に営した。守将の曹良臣は部下に言った。「我が兵は少なく戦えぬ。彼は衆が多いとはいえ亡国の後、たびたび挫かれた兵だ。計略で破れる」。
  • そこでひそかに指揮の許勇らを遣わして沿河の舟にそれぞれ赤い旗を立てさせ、三十余里にわたって連ね、鉦鼓の音を響き合わせた。イスはこれを望んで驚いて逃げた。

洪武二年(1369年)— 唐州の再平定

  • 大将軍・達は制を承けて楊璟らを唐州征討に戻した。先に鄧愈が唐州を下して宋指揮に守らせたが、まもなく唐州で兵乱が起こり、賊将の老馬劉と南陽の郡県がみな呼応した。事が報じられてこの命があった。璟は南陽に至り、唐州を攻めて一気に破り、その首謀を誅し、南陽は再び平定された。

洪武二年 六月(1369年)— 開平の攻略と薊北の平定

  • 元のイスが再び通州を侵した。太祖は常遇春に部下の軍を率いて鳳翔から戻って防がせ、また李文忠を偏将軍として遇春の副とし、北平から開平へ向かわせた。
  • 三河を通り鹿児嶺を経て会州を過ぎ、錦川で元将の江文清を破って士馬を千単位で得た。全寧に至るとイスが再び兵で迎え撃ったが、これも破り、イスは逃げた。
  • 大興州へ進攻するにあたり、文忠は敵が必ず逃げると読んで千余の兵を八つに分けて退路に伏せた。イスは果たして夜に逃げ、伏兵に遭って大敗して逃げた。その丞相トホチを捕らえた。
  • そのまま兵を率いて新開嶺の道を通って開平へ進攻した。元主は先に北へ走っていたので数百里追撃し、その宗王・慶生と平章の鼎珠らを捕らえて斬った。将士一万人、車一万輛、馬三万匹、牛五万頭を得た。薊北はすべて平定され、元都を北平府と改めた。

史論(谷応泰曰)

  • 高帝は淮右の布衣から起こって金陵に鼎を定め、呉と漢を削平し、荊楚を有し、閩越を開拓した。既に中原を清める志があり、気は大河の北を呑んでいた。呉元年、徐達・常遇春に六師を大挙させ、詔を奉じて罪を伐たせた。
  • ところが鋭気に任せて幽燕を直撃せず、まず山東を取ってその屏蔽を撤し、河南に転戦してその羽翼を断ち、さらに潼関を取ってその敷居を押さえ、しかるのち弾丸の孤城を向かうところ必ず克った。酈食其が漢に説いてまず陳留を下させ、光武が新を滅ぼすのにまず宛と洛を収めたのと同じである。事を論ずる者はとかく高皇帝の英武を言うが、その平生の慎重さを知らない。
  • 猛虎のごとき臣、貔貅のごとき佐は、いずれも汗馬の功高く風雲の気壮んであった。それゆえ塔児湾の勝、河西務の勝、通州・開平の勝は、垓下の合囲に四面から悲歌が起こったのに、昆陽の大戦で屋根瓦が飛んだのに比べられる。開国して家を承け、鐘鼎に銘を勒するにふさわしい。
  • しかし当時をよく考えれば、大軍が戦って平定した所はむしろ少なく、先声を聞いて帰命した所の方が多い。青州・徐州の各郡は千里にわたって手を携えて降り、兖州・豫州の諸司は百城が分かれ潰えた。東河・茌平は小邑だが降り、済南・汴梁は堅城だがやはり降った。馬徳・陳秉直は漢人だが逃げ、ホリンタイ・トインは元人だがやはり逃げた。
  • 当時、朝廷の綱紀は緩み、人心は散り、権臣が尾大となって帝后・東宮を誅し、腹の膨れた者が擅に討伐を行い、邪佞が横行した。運河を開いては大業の愁いを招き、櫂を鼓しては海山の遊びに耽り、さらに素女の図を並べて手を拱いて滅亡を待ち、日々淫楽をほしいままにして瓦解を座視した。太祖の興隆は天が啓いたのではないか。
  • まして軍旗を祭って北へ出、乱を伐ち民を救い、たびたび軍中に殺戮を禁ずる詔を下し、都を破った日も市は店を変えなかった。彼は暴、我は仁、彼は昏、我は義。紂の都を克って殷の弊政を除き、咸陽に入って秦の苛法を除いたのと同じで、天命の帰する所は人心の進んで附くところにあると知れる。
  • 端明殿の会議に至っては、(南朝陳の)陳叔宝が肝も心もなかったように、紀侯が国を大きく去ったように、徳を審らかにし力を量ったのだ。私は何を責めよう。
  • ただ、バヤンが宋に入ったときは妃后がみな捕虜となったが、明室が元を破ったときは嬪嬙に手を触れなかった。忠厚をもって基を開いた。天道の報いを待つまでもないことである。