明史演義第五十七回 朝門に伏し世宗の怒りに触る/田州を討ち誘いて岑猛を誅す (伏朝門觸怒世宗  討田州誘誅岑猛)

桂萼の上奏と世宗の傾倒

南京主事桂萼は張璁と意気投合し、席書・方献夫の上疏を写し取って自らの意見を添え、「孝宗を皇伯考、興献帝を皇考とし、興国太后を聖母、武宗を皇兄とすべき」と改めて上奏した。世宗はこれを読んで深く感じ入り、廷議にかけたが、禮部尚書汪俊をはじめ多くの官僚が反対した。世宗は反対派の俸給を止めるなどして圧力をかけ、張璁・桂萼・席書を呼び戻した。楊廷和は世宗の意向に抗しきれず辞職を願い出て許された。

生母優遇と諫言の続出

世宗母子は興国太后を慈寿太后(武宗の母)より上位に扱おうとし、これに異を唱えた官僚は次々と譴責を受けた。桂萼・張璁は「加える尊号は皇の字の有無ではなく、考の字の有無こそ本質」と重ねて主張し、世宗はついに興献帝を「本生皇考恭穆献皇帝」、興国太后を「本生聖母章聖皇太后」と追尊し、宮中に専用の廟(観徳殿)を建てるよう命じた。禮部尚書汪俊はこれに反対して罷免され、大学士蔣冕も職責を果たせぬとして辞任、代わって石珤が入閣したが、彼も阿ることなく大礼の見直しを求めた。

張璁・桂萼の召還と左順門の変

世宗は璁・萼を呼び戻すが、京官の反発は激しく、二人は身を隠しながら入朝せざるを得なかった。給事中張淛らは璁・萼を弾劾し続けたが、逆に世宗の怒りを買って多くの官が譴責・投獄された。璁・萼はついに翰林学士に抜擢され、「本生」の字を除いて興献帝后をそのまま孝宗と同格に扱う十三条の意見書を提出、世宗はこれを大いに気に入った。大学士毛紀の抵抗もむなしく、世宗は百官を左順門に集めて手勅を発し、「本生」の字を除いて尊号を改めるよう迫った。楊慎・王元正ら多数の官僚がこれに反発し、左順門前で跪き、高皇帝・孝宗皇帝の名を叫び続けて抗議したが、世宗は激怒して首謀者を投獄、さらに百三十四名を拘束、杖刑により十数名が命を落とすという惨事となった。楊廷和の子楊慎らも処分を受け、最終的に孝宗は皇伯考、献皇帝は皇考、章聖皇太后は聖母と定められ、京師に世廟が建立された。数年後には議禮に関わった楊廷和・毛澄・蔣冕・喬宇・汪俊・何孟春らが罪を問われ、除籍や配流などの処分を受け、逆に張璁・桂萼は尚書・大学士に取り立てられた。

田州の岑猛の乱

広西の土司・田州府の岑猛は、正徳初年に劉瑾に賄賂を贈って官職を回復して以来野心を募らせ、朝廷への貢納を怠り近隣を侵略するようになった。巡撫都御史姚鏌が朝廷の許しを得て八万の大軍を五道に分けて進撃させると、岑猛は妻の実家である帰順州の岑璋を頼って逃げ込んだ。姚鏌の部将沈希儀は、千戸趙臣を遣わして岑璋に「討伐軍が岑璋をも攻めようとしている」と偽って告げさせ、これに驚いた岑璋は、婿である岑猛への恨みもあって寝返りを決意した。岑璋は自軍を差し向けて岑猛の子邦彦を討ち取らせ、動揺した岑猛を美酒美女でもてなして油断させたのち、討伐軍到来を口実に毒酒を勧めてこれを毒殺、首級と印を差し出した。岑猛の他の子は逃亡し、残党の盧蘇・王受も一時逃げ延びたが、翌年再び反旗を翻し田州城を陥落させることとなった。