明史演義第五十五回 豹房に返り武宗崩ず/獣吻を祭り江彬囚に遭う (返豹房武宗晏駕  祭獸吻江彬遭囚)

落水と衰弱

武宗は溺れかけたが、泳ぎに慣れた二人の太監に助けられ、他の従者も含め皆救出された。だが日頃から放蕩を重ね元気を消耗していた武宗は意識朦朧となり、御医の懸命な手当でようやく息を吹き返したものの、体力は以後衰える一方となった。大学士楊廷和らの求めに応じて武宗も帰京を決意し、通州に着くと宸濠の処分を協議、江彬の主張どおり宸濠を自尽させ屍を焼かせた。三日後、京師に凱旋した武宗は正陽門下で盛大な献俘の儀を行い、逆党を裸に縛って罪状を掲げさせ、首謀者は処刑、残る者は投獄した。銭寧は伏誅、陸完は流罪、太監蕭敬だけは賄賂で命を買った。

郊祀での喀血と病臥

武宗は宗廟社稷への告祭と郊祀の大典を自ら執り行おうとしたが、初めの献爵で目眩を起こして倒れかけ、支えられてようやく立ったものの、口から鮮血を吐いて祭礼を続けられなくなった。以後病は篤くなる一方で、年が明けても朝賀を免じるほどであった。その間も江彬らは西官庁を威武団営と改め自ら提督を名乗るなど専横を極めた。司礼監魏彬は御医が匙を投げたことを大学士楊廷和に伝え、廷和は暗に「近親(=皇族)に頼るほかない」と示唆した。まもなく武宗は太監陳敬・蘇進に、国事は太后が閣臣と諮って決めるようにと言い残し、張太后が駆けつけた時にはすでに言葉を発せられず、涙を流しながら息を引き取った。享年三十一。

秘中の後継擁立

張太后は楊廷和らを召し、江彬の謀反を警戒して秘密裏に皇儲を定めるよう相談した。廷和は「兄終弟及」の祖訓に基づき、憲宗の孫・孝宗の甥にあたる興献王の長子(世子厚熜)を立てるべきと説き、梁儲・蔣冕・毛紀らも賛同、太監張永・谷大用も異論なく合意した。吏部尚書王瓊は自分が議に加われなかったことに不満を漏らしたが、すでに遺詔と太后の懿旨が発せられた後で、群臣は驚きつつも従うほかなかった。廷和らは梁儲を正使とする迎立の一行を編成し、興世子を都へ迎えることとした。

弊政の是正と江彬の粛清

廷和は太后の許しを得て威武団営の廃止、辺兵の帰還、豹房の番僧・教坊の楽人の追放、各地から集めた婦女の返還、皇店の廃止など弊政を次々に改めた。専横を極めていた江彬は武宗の死をこれらの詔で初めて知り、都督李琮にそそのかされて謀反を思案するが、許泰に相談すると慎重論を説かれ、まず情勢を探らせることにした。許泰が内閣を訪ねると、楊廷和は巧みに言葉を尽くして江彬を油断させ、坤寧宮の獣吻安置の祭典への参列という口実で江彬を宮中に誘い出し、太監張永の酒席で油断させた隙に太后の名で逮捕させた。江彬は逃走を図るが門を固められて捕らえられ、家宅からは莫大な金銀財宝と隠匿していた奏疏が発見された。世子の即位後、江彬・李琮は凌遅の刑に処され、銭寧も磔にされた。張忠・許泰は減刑され辺地に配された。

世子の入京と即位

楊廷和は約一月余り朝政を代行しつつ迎駕の報を待ち、儀礼を整えて興世子を出迎えさせた。世子は「皇太子として入るのではなく、遺詔により嗣皇帝として入る」と主張して儀注の変更を求め、太后の特旨により郊外での上箋・勧進という形で迎えられることとなった。世子は文華殿に入り、宗廟社稷への告祭、先帝への謁見、皇太后への朝見を経て奉天殿にて即位、翌年を嘉靖元年と定めて大赦を行った。これがのちの世宗である。まもなく母・蔣氏を安陸州から迎える使者が発せられ、興献王を崇祀する典礼を巡ってさらなる議論が起こることとなった。