明史演義第四十三回 貴妃を悼み疾を促し身を亡う/聶女を審し公を秉り譴に遭う (悼貴妃促疾亡身  審聶女秉公遭譴)

天変と李俊の上疏

  • 天空の異変に驚いた憲宗は群臣に闕失を問うた。吏部給事中の李俊は、宦官の乱用・大臣の不作為・爵賞の濫発・過剰な工事・無用な進献・流民の増加を六つの弊政として指摘し、内侍の召還や大臣の粛正、傳奉官の廃止、無用な工事の停止などを訴えた。
  • 憲宗はこの上疏を評価し、李孜省・鄧常恩を降格、国師繼曉を革職、傳奉官五百余人を罷免した。だが盧瑀・汪瑩・張吉ら他の言官の上奏が相次いだため憲宗は嫌気がさし、これらを密かに記録して次第に外へ左遷し、李孜省・鄧常恩らはまもなく復権した。

東宮廃立の企てと万貴妃の死

  • 内帑の蓄えが尽きていることを知った憲宗が梁芳・韋興を詰問すると、梁芳は万貴妃に急ぎ報告し、憲宗が「後人」(東宮=太子)に累が及ぶことを匂わせたと伝えた。万貴妃は幼い頃の太子の言動を根に持ち、梁芳の勧めで興王祐杭への立太子替えを憲宗に迫った。
  • 憲宗は当初拒んだが、万貴妃の泣訴に折れかけた。しかし太監懐恩の反対や、泰山の地震を天意とする上奏により、易儲の企ては立ち消えとなった。
  • 成化二十三年春、万貴妃は宮女を打擲した際に発作を起こし急死。憲宗は深く悲しみ、皇后に準じた葬儀を行い「恭肅端愼榮靖皇貴妃」と諡した。同年八月、憲宗自身も四十一歳で崩御し、太子祐樘が即位して孝宗となった。

孝宗の即位と粛正

  • 孝宗は李孜省・梁芳・万貴妃の弟万喜らを流罪とし、傳奉官二千余人を罷免、僧道の封号も多数剥奪して宮廷を一新した。皇后には張氏が立てられた。
  • 万貴妃の親族の処分を巡る議論の中で、大学士万安は保身に汲々としたが、懐恩が万安の過去の房中術進上の証拠(自筆の書)を突きつけると万安は罷免された。

生母紀氏の追諡と旧臣の粛清

  • 孝宗は生母紀氏の実家を探させたが果たせず、紀氏を「孝穆太后」と追諡し、実家に爵位を与え桂林に廟を建てて祭らせた。廃后呉氏にも太后並みの待遇を与えた。
  • 「紙糊三閣老、泥塑六尚書」と評された無為の重臣たちは次々に退けられ、王恕・徐溥・劉健・何喬新・馬文升・邱濬ら賢臣が登用された。

劉吉の専横と失脚

  • 大学士劉吉は讒言を得意とし、彼を弾劾した張昇・鄒智・李文祥・湯鼐らはかえって罪を受けた。刑部尚書の何喬新や侍郎彭韶の擁護でようやく処分は軽減されたが、劉吉は「劉棉花」(何度弾劾されても復活する意)と揶揄された。
  • やがて劉吉は孝宗の不興を買い、皇后の外戚への冊封をめぐる不手際もあって致仕させられた。

東廠の弊害と徐珪の直諫

  • 東廠の専横は続き、千戸呉能の娘・満倉児をめぐる冤罪事件(刑部の丁哲・王爵が正当な裁きをしたにもかかわらず、東廠の圧力で逆に罪を着せられた事件)が起きた。
  • 刑部吏の徐珪はこれを不当として東廠の廃止を求める上疏をしたが、聞き入れられず革職となり、丁哲・王爵も罷免された。

評語

末尾の詩は、宦官が綱紀を乱し、正しい諫言をした忠臣がかえって処罰される世相を嘆く内容である。