明史演義第二十一回 藩を削り諸王罪を得る/使臣を戕い靖難の師を興す (削藩封諸王得罪  戕使臣靖難興師)

建文帝の即位と燕王への警戒

  • 建文帝は諸王に入京不要の詔を出したが、燕王棣だけは南下しようとし、兵部尚書斉泰の阻止でようやく引き返した。
  • かつて太祖が建文帝の資質を憂い、対句を試した際に燕王が機知に富んだ答えを返した逸話が回想され、太祖が燕王をひそかに愛したこと、それでも学士劉三吾の進言で皇太孫を立てたことが述べられる。

削藩政策の始動

  • 建文帝は斉泰・黄子澄を側近とし、かねて東角門で語らった「諸王抑制策」を実行に移す。戸部侍郎卓敬は燕王の危険性を説き遷封を進言するが、建文帝は決めかねる。
  • 周王橚の子・有㷲の密告を機に、まず周王を捕らえて廃庶人とする策が取られ、李景隆が奇襲でこれを実行、周王は幽閉された。

燕王の備えと道衍の暗躍

  • 星変を予言した程済は投獄され、都督府の高巍は諸王への処遇緩和を上奏するが容れられなかった。
  • 燕王は病と称しつつ、僧道衍(姚広孝)・相師の袁珙・卜者の金忠らと密議し、挙兵の準備を進める。道衍は地下室で密かに兵器を鋳造し、鵞鳥の鳴き声で物音を紛らわせた。
  • 建文帝側も斉泰・黄子澄の進言で北平の守備を固め、燕王配下の兵権を削ぎ始める。方孝孺の議により官制も改められた。湘王柏は自焚、斉王・代王も処分された。

靖難の発端

  • 岷王も処分され、暴昭・夏原吉が視察に派遣される中、燕王の三子(高熾・高煦・高燧)が入京した際、徐輝祖は高煦の危険性を進言するが容れられず、三子は帰国を許された。
  • 燕官の于諒・周鐸が処刑されたことに燕王は激怒し、狂気を装って北平の監視を欺こうとするが、長史葛誠の密告や部下鄧庸の自白により謀反の疑いが確定的となる。
  • 建文帝は張信に燕王逮捕を命じるが、張信は母の忠告もあって逆に燕王に密旨を通報。燕王は道衍らと挙兵を決断し、張玉・朱能に壮士を集めさせる。

張昺・謝貴誅殺と挙兵

  • 燕王は仮病を解いたふりで張昺・謝貴を宴に招き、瓜を落とす合図で伏兵に襲わせて両名と葛誠・盧振を斬殺した。北平都指揮の彭二による抵抗も撃退し、都督宋忠の援軍も足止めされる中、燕王は北平を掌握。
  • 燕王は建文の年号を廃し洪武三十二年と称し、自ら官属を任命して「靖難軍」を称し挙兵した。

評語

  • 大義名分もないまま北平で挙兵し「靖難」を称する燕王の強引さを批判しつつ、晋陽での叛乱の故事に比してその重大さを述べる詩で締めくくられる。