明史演義皇太子再び世を去る/功臣を除き党獄相次ぐ(第二 十回 鳳微德杳再喪儲君 鳥盡弓藏迭興黨獄)

馬皇后の徳と崩御

  • 馬皇后は倹約を旨とし、殺生を戒め、飢饉の際は率先して質素な食事をとるなど、内助の功で知られた賢后であった。子の周王橚には厳しく躾け、貧しい生徒の家族への配慮を促すなど、太祖の善政を陰で支えた逸話が多く語られる。
  • 病篤くなった際も加持祈祷を退け、天命として受け入れ、太祖に「賢者を親しみ諫言を用いよ」と遺言して逝去(洪武十五年、五十一歳)。太祖は深く哀惜し、以後皇后を立てなかった。宮中では追悼の歌が作られ、僧宗泐の偈により葬儀の折の風雨も収まったという。

太子標と諸王の悲劇

  • 太子標は李善長の処刑に諫言するなど仁厚な人柄で知られたが、太祖の粛清方針とは度々摩擦を生んだ。
  • 魯王檀は丹薬の毒で死去、潭王梓は妻の一族が胡惟庸党に連座したことに絶望し、王妃とともに焼死する事件が起きた。
  • こうした事件が続く中、太子標自身も秦王樉の弁護を巡る心労が重なり、洪武二十五年に病没、懿文太子と諡された。

李善長の死と党獄

  • 胡惟庸事件の連座で、李善長の弟・存義一族の関与が発覚し、湯和の密告などもあって李善長への疑いが強まった。星変を口実に太祖は李善長に自尽を命じ、七十七歳の善長は一族七十余人とともに処刑された。多くの功臣が連座で処断された。

皇太孫允炆の擁立と藍玉の獄

  • 太子標の死後、太祖は燕王棣の立太子も検討したが、学士劉三吾の諫言により嫡孫允炆を皇太孫とした。
  • かねて太子標に燕王への警戒を進言していた藍玉は、皇太孫冊立後に冷遇され不満を募らせ、謀反の疑いをかけられて処刑、関係者一万五千人が連座で誅殺される大獄となった。傅友德・王弼・馮勝ら開国の元勲も相次いで死を賜った。
  • 結局、開国の功臣で天寿を全うできたのは徐達・常遇春・李文忠・湯和・鄧愈・沐英の六人のみであったとされる。

太祖の崩御と建文帝の即位

  • 太祖は晩年、辺境の守りを皇子に委ね、特に燕王棣の武勇を評価して諸王の統率を任せた。
  • 洪武三十一年、太祖は七十一歳で崩御。遺詔により皇太孫允炆が即位し、翌年を建文元年とした(諸王は入京不要との遺詔もあった)。

評語

  • 太祖の生涯を称える詩で本回は結ばれ、濠梁で身を起こした英雄の天与の武勇を讃えつつ、晩年の過度な粛清によって忠臣が少なくなったことを惜しむ内容となっている。