明史演義第一十九回 雲南を定め沐英鎮に留まる/漠北を征し藍玉功を報ず (定雲南沐英留鎮  征漠北藍玉報功)

胡惟庸党の後始末と宋濂の死

  • 太祖は胡惟庸を処刑した後、陳寧らも正法、涂節も自首したが連座扱いで死刑とした。関係者は連座で万余人が誅殺されたが、李善長・陸仲亨・費聚の三名は旧交ゆえに不問とした。
  • 密告者だった雲奇が傷がもとで没すると、太祖は右少監を追贈し鍾山に葬らせた。
  • 宋濂は既に致仕していたが、子の宋璲・孫の宋慎が惟庸党に連座し、宋濂も投獄・死罪とされかけた。馬皇后が「宋濂は皇子の師であり無実のはず」と繰り返し諫めたが太祖は聞き入れず、皇后が食を断って抗議して初めて赦し、茂州へ流罪とした。宋濂は道中の夔州で病没した。生前は太子の師として礼を尽くし、清廉であったことが記される。

雲南平定

  • 洪武十四年、太祖は傅友德を征南将軍、藍玉・沐英を副将軍とし、三十万の軍で元の梁王把匝剌瓦爾密が拠る雲南を征討させた。
  • 沐英の献策で急襲策を用い、白石江で梁王配下の達里麻軍を破り、二万余を捕虜とした。
  • 梁王は敗報を聞き妻子を滇池に投じさせた後、自らも自尽。藍玉・沐英は雲南城に入城し、各地を平定。傅友德も烏撤方面を制圧した。
  • 大理では土酋の叚世が抵抗したが、沐英が王弼・胡海に間道から挟撃させて捕縛、大理も陥落し雲南全域が平定された。
  • 太祖の命により傅友德・藍玉は帰還、沐英が雲南に留まり鎮守し、以後沐氏が代々雲南を守ることとなった。

麓川・平緬の思倫発討伐

  • 平緬の宣慰使思倫発が反乱を起こし景東に侵攻。沐英配下は緒戦で敗れるが、沐英は屯田持久策で対応し、後に精鋭を率いて奇襲・火器・象撃退の策で思倫発の大軍を撃破した。思倫発は謝罪し朝貢を約し、麓川・平緬は平定された。

納哈出の降伏と捕魚兒海の戦い

  • 元の遺臣愛猷識理達臘の死後、子の脱古思帖木児が継いだがなお侵攻を続けた。名将徐達・李文忠が相次いで病没し、太祖は深く悼んだ。
  • 洪武二十年、馮勝を大将軍として納哈出討伐に派遣。藍玉の奇襲で元軍を破り、納哈出も降伏したが、途中で常茂とのいさかいが起き、また濮英の戦死の責任問題もあって馮勝・常茂は処分された。
  • 代わって藍玉が大将軍となり北征を続行、捕魚兒海で元主脱古思の陣営を急襲し、元の家族・官属多数を捕獲する大勝を収めた。太祖は藍玉を衛青・李靖になぞらえて称賛し涼国公に封じた。

藍玉の驕慢

  • 藍玉は功に驕り、捕らえた元の妃を私通の末に自死させるなど不行跡が重なり、太祖の忌避を招いた。この時期、馬皇后・太子標も既に世を去り、諸王の不祥事が相次いでおり、太祖は繰り返し粛清を行っていた。李善長すら死を賜った状況で、藍玉の将来も暗いことが示唆される。

評語

  • 功臣であっても驕り高ぶり兵権を恃めば身を滅ぼすとし、范蠡(朱公)や張良(留侯)のように功成り身退くことこそ賢明であると説く詩で締めくくられる。