明史演義第一十八回 徴書を下すも高人志を抗す/逆謀泄れ奸相誅に伏す (下徵書高人抗志 泄逆謀奸相伏誅)
遼東平定と科挙の開始
- 擴廓死後も元の太尉納哈出が遼東を侵し続けたが、太祖は馬雲・葉旺らに命じて伏兵で撃退し、北辺はやや落ち着いた。
- 太祖は文治に転じ、洪武二年に各郡県に学校設置を命令、洪武三年には科挙を再開(郷試・会試、三場試験)。作者は科挙が人材を旧套に縛り、後の八股文重視によって実学を軽視する弊風を生んだと批判し、太祖の「科挙で天下の英雄を籠絡する」という本音を紹介している。
隠士・遺臣の招聘
- 山東の田興は太祖の微時からの義兄弟で、不法を働く兵士を密告するなど陰で助けていた。洪武三年、虎害を除いて名を知られ、太祖の招きに応じず、太祖自ら情理を尽くした手紙を送ってようやく上京。旧知の情を重んじ国事には関与しなかった。
- 元の行省参政蔡子英は最後まで元に忠節を尽くし、捕らえられても屈せず、太祖に上書して官職を固辞し、旧主のもとへ帰ることを願い出た。太祖はこれを許し塞外へ送り返した。
- 元の行省都事伯顏子中も守節を貫き、明への出仕を拒んで七章の歌を作り、祖父・師友を哭してから毒を仰いで自尽した。
太祖の微行逸話
- 太祖はしばしば変装して民情を視察した。多宝寺での対句遊び(江懷素が機知で応じ吏部侍郎に抜擢)、旧知の陳君佐との軽妙なやりとり(対句・神農にたとえた諧謔)、重慶府監生との対句遊びなどの逸話が伝わる。
- 元宵節の灯籠に馬皇后(大足の淮西出身)を揶揄する謎かけがあり、太祖はこれを大不敬として作った者を杖殺させた。
沈万三の悲劇
- 太祖の自嘲めいた詩をきっかけに、江南の富豪沈万三の逸話が語られる。沈万三は南京城壁の築造を太祖と分担して競ったが、太祖より早く完成させたため妬まれ、後に些細な罪(山脈を掘ったとの咎)で投獄・流刑となり道中で死去、家財は没収された。馬皇后の諫言(「民が富むのは不祥事ではない」)にもかかわらず、太祖はその後も富商への圧迫を続けた。
胡惟庸の専横と誅殺
- 太祖の文武の功臣として徐達・常遇春(武)、李善長・劉基(文)が挙げられる。劉基は太祖から丞相候補(楊憲・汪広洋・胡惟庸)について問われ、いずれも器量不足と評し、特に胡惟庸については「小さな牛を重用すれば車を壊す(大禍を招く)」と強く警告した。
- 楊憲は誣告の罪で誅殺され、李善長は罷相、汪広洋を経て胡惟庸が右丞相に昇進。劉基は「惟庸は必ず民の害となる」と嘆いた。惟庸は劉基への恨みから、談洋の一件で刑部尚書呉雲に劉基を誣告させ、太祖は劉基の俸給を止めるにとどめたが、劉基は憂憤のうちに病を発し、後に惟庸の毒殺と判明する(太祖は深く悔いたが手遅れであった)。
- 惟庸はさらに専横を強め、徐達を陥れようとするも失敗。李善長の一族と縁を結んで後ろ盾とし、瑞兆を装う噂を広めるなど自負を強めた。廖永忠の粛清、葉伯巨の獄死、陸仲亨・費聚への厳責などで官吏が萎縮する中、惟庸は李存義(李善長の弟)を通じて善長に謀反への荷担を促し、明州衛指揮林賢を通じて倭寇と、元の旧臣封績を通じて元の後継者とも通謀した。
- 汪広洋も劉基毒殺への関与を疑われ賜死となり、惟庸はさらに焦って涂節を抱き込み日本の使者とも結んだ。洪武十三年正月、惟庸は邸内に醴泉が湧いたと偽って太祖の行幸を誘ったが、内使雲奇が身を挺して異変を訴え、太祖は惟庸邸の不穏な気配を察知して羽林軍に捕縛させた。涂節は保身のため急ぎ密告に走ったが間に合わず、惟庸は取り調べの末、市中で凌遅刑に処された。
評語
作者は詩で、君主が佞臣の追従を好むことの弊害を指摘し、胡惟庸のような佞臣は民を害する害虫であり、市中で処刑されても罪を償いきれないと断じている。