明史演義第一十七回 夏主を降し巴蜀を平らぐ/元将を撃ち朔方に転戦す (降夏主蕩平巴蜀 擊元將轉戰朔方)
太祖の建国回顧
- 太祖は功臣を封じた後、群臣に開国の経緯を語った。張士誠は富に頼り昏庸で敗れ、陳友諒は強さに頼り軽率で敗れたが、自分は殺戮を好まず信義と節倹を貫いたことが勝因と述べた。陳友諒を先に討った理由(張士誠は器が小さく脅威が少ない)、北伐で秦・隴より先に燕都を攻めた理由(王保保らを分断してから各個撃破する狙い)などを説明し、群臣は感服した。
諸王分封
- 太祖は宋・元の孤立滅亡を教訓に封建制を復活させ、九人の子と孫一人を諸王に封じた(秦王・晋王・燕王〈後の成祖〉・呉王〈後の周王〉・楚王・斉王・潭王・魯王・靖江王)。親王には手厚い禄と護衛が与えられ、後にこれが燕王靖難の禍の遠因となる。
蜀(夏)平定
- 洪武四年正月、太祖は湯和・傅友徳らに蜀討伐を命じた。蜀を治める夏の明昇は、父明玉珍(隻眼の猛将で自立し「夏」を建国)の跡を継いだ若い君主。太祖はたびたび降伏を勧めたが応じず、楊璟の書簡にも返答しなかった。
- 蜀軍は瞿塘峡に鉄索を張り防備したが、傅友徳は間道から迂回して階州・文州・綿州を落とし、木牌を漢水に流して味方に戦果を知らせるなど心理戦も駆使。廖永忠は青蓑衣で偽装した兵を山中に潜行させ、水陸挟撃で鄒興を討ち取り瞿塘の防衛線を突破。
- 重慶に迫ると、明昇の母彭氏は「早く降伏すべき」と説得し、明昇は湯和・廖永忠に降伏。成都・保寧も傅友徳・周徳興の攻撃で陥落し、蜀は平定された。
明昇・戴壽らのその後
- 明昇は南京で太祖に厚遇され、幼少を理由に伏地の礼を免除された上、帰義侯に封ぜられた。戴壽・向大亨は護送中に投身自殺、吳友仁は市中で斬首。後に陳理(陳友諒の子)とともに、讒言を警戒した太祖により高麗へ移された。
擴廓帖木児との激戦と滅亡
- 擴廓は和林で元の太子に仕え、辺境を脅かし続けた。太祖は徐達を征北大将軍として再出兵させたが、藍玉の先鋒が嶺北で擴廓・賀宗哲の伏兵に包囲され大敗、一万余の死者を出す苦戦となった。徐達は自らの油断を悔い、自劾の上表を行った。
- 一方、右路の馮勝は西涼・瓜沙州で連戦連勝、左路の李文忠も阿魯渾河での激戦(曹良臣ら戦死)を経て敵を撃退し、青海まで進んで凱旋した。
- 太祖は徐達の敗戦も不問とし、以後は防御中心の方針に転換。洪武七年、崇礼侯買的里八剌を元へ送還し和議を促したが応答なし。擴廓も七度の招降の書簡に応じないまま、洪武八年八月、哈拉那海で病没した。妻も殉死した。
評語
太祖は宴席で「天下の奇男子は誰か」と問い、群臣が常遇春と答えると、太祖は「遇春は人傑だが我が臣であった。ついに臣従しなかった王保保(擴廓)こそ真の奇男子だ」と語った。作者はこれに応じ、擴廓が逆賊のように見えても実は乱世に忠節を貫いた人物であったと詩に詠んで称えている。