明史演義劉伯温、計を定め敵を破る/陳友諒、家族を携え逃げ延びる(第 九 回 劉伯溫定計破敵 陳友諒挈眷逃生)
劉基(劉伯温)の出仕
- 青田の名士・劉基(字伯温)は進士出身で経史・象緯学に通じ、諸葛亮に比される人物。元朝や石抹宜孫からも重用されず、方国珍討伐を進言しても聞き入れられず、故郷で自ら義軍を組織していた。
- 胡大海の推薦、元璋の使者、孫炎の書状を経て、ついに応天へ赴くことを決意する。西湖で見た瑞雲から金陵に天子の気を感じていたと語り、朱氏を助ける決意を固めた。
- 元璋は劉基を厚遇し、時事を諮問。基は「まず陳友諒を除き、その後張士誠を平らげ、最後に中原を平定すべし」との戦略を説き、元璋はこれに深く納得する。基は禮賢館に入り軍務全般に参与、元璋は彼を張良になぞらえて重んじた。
太平陥落と花雲・朱文遜の殉節
- 陳友諒が徐寿輝を擁して太平を急襲。守将の花雲と元璋の養子朱文遜は三日間激戦するが、大雨で水位が上がり友諒軍が城壁を越えて侵入。
- 文遜は討ち死に、花雲は縄を破って奮戦するも捕らえられ、罵り続けたため射殺される。妻の郜氏も入水して殉節。
- 幼い遺児・花煒は侍女孫氏に守られて逃げ延び、後年元璋のもとに戻る。元璋は孫氏の忠義に感涙し、花煒の養育を命じた(老人の正体は最後まで不明のまま)。
陳友諒の僭称と江東橋の計略
- 陳友諒は太平を得ると壽輝を弑して自ら皇帝を称し、国号を漢、大義と改元。張士誠に共同で応天攻撃を持ちかけるが拒まれ、単独で大軍を発し応天へ迫る。
- 元璋は劉基の献策により、迎撃を決断。康茂才を通じて友諒に偽りの内応を約束させ、李善長に命じて木橋の江東橋を石橋に造り替えさせる欺瞞策を用いた。
- 常遇春・馮国勝・徐達らを伏兵として配置し、自らは盧龍山に陣取って合図の旗で指揮する周到な布陣を敷いた。
龍江の戦いと友諒の敗走
- 友諒軍は大勝港で伏兵を警戒して退き、江東橋で内応が得られぬことに気づいて動揺しつつも龍江へ進軍。元璋は雷雨を待って好機を捉え、伏兵を一斉に出撃させて友諒軍を撃破した。
- 友諒は潮が引いて船が動かせなくなる不運も重なり、小舟で辛くも脱出。元璋軍は巨艦・戦船多数と捕虜七千余人を得た。
江州・安慶・南昌の攻防
- 敗走する友諒を追撃する中、張德勝が采石で戦死するも、廖永忠・華雲龍らが友諒軍を撃破。徐達が太平を回復し、胡大海が信州、馮国勝らが安慶を奪う。
- 友諒方の反撃で安慶が一時奪われるが、傅友徳・丁普郎らの投降を得て、劉基の献策で船を城壁に横付けする奇策により江州を陥落させ、友諒は武昌へ逃走する。
- 南昌の守将胡廷瑞が降伏し、江西一帯が次々に帰順。しかし帰順した部将祝宗・康泰が謀反して南昌を襲い、葉琛が戦死。徐達が乱を鎮圧し南昌(洪都府と改称)を回復、朱文正らに守らせた。
- そこへ浙東で胡大海・耿再成の両将が暗殺されたとの急報が届く。
評語
小子の詩は、大功を成す前に命を落とした将士たちを悼み、百戦の労苦もむなしく散ったが、その名は竹帛(史書)に残り忠魂は永く慰められるであろうと詠う趣旨。