明史演義集慶を取り朱公府を開く/常州を陥し徐帥功を立つ(第 六 回 取集慶朱公開府 陷常州徐帥立功)
陳埜先の来襲と生擒
- 太平を得た元璋だが、城外にはなお元の勢力が残る。蠻子海牙は采石姑孰口を封鎖し、義兵元帥陳埜先・裨将康茂才に二万の兵で太平を攻めさせた。
- 元璋は徐達・鄧愈に伏兵を命じて敵の背後を突かせ、正面からも出撃。空に瑞雲が現れ元璋の威を示す中、埜先軍は総崩れとなり、鄧愈が埜先を生け捕りにした。
- 元璋は埜先を許し懐柔する。馮国用は「油断ならぬ人物」と諫めたが、元璋は聞き入れず、埜先に旧部下の招降と集慶攻略への協力を許した。
埜先の裏切りと郭天敍・張天祐の死
- 埜先は集慶攻略について、水戦を避け陸路から迂回すべしとの書を寄せるが、元璋・李善長はその意図を見抜き、渡江の利を説いて突破を主張する返書を送る。
- 張天祐は郭天敍を促して、元璋を待たず集慶へ進軍。秦淮河で元の御史大夫福壽の軍と衝突し苦戦。逃げる途中、天祐は寝返った埜先に槍で刺殺され、天敍も福壽に討たれる。
- 埜先はその後も暴を働くが、葛仙郷の民兵の計略により討ち取られる。甥の陳兆先が残兵をまとめて方山に退いた。
采石磯の再戦と集慶陥落
- 蠻子海牙が再び采石磯を襲うと、元璋は常遇春に迎撃を命じる。常遇春は風向きの変化を利用して火攻めを行い、海牙軍の船団を焼き払って大勝した。
- 元璋は自ら集慶へ進軍。陳兆先を生け捕り、三万六千の兵を降した。降兵の反乱を恐れず、五百人を選んで自らの護衛とし信頼を示した。
- 蔣山を経て金陵城下へ迫り、馮国用・徐達・常遇春らが柵を突破。守将福壽は「城存亡与共」と叫び自刃して果てた。金陵は陥落し、元璋は入城して安民の令を発した。
- 集慶路を応天府と改称し、諸将を配して統治機構を整える。元璋は諸将の勧める王号を辞退し「呉国公」と自称した。家族も和州から迎えられ、明の基業がここに始まる。
張士誠との抗争
- 鎮江・金壇・丹陽・広徳等を平定するなか、鎮江で降将陳保二が謀反し張士誠に投降。士誠はこれを機に詹・李の二将を捕らえた。
- 元璋は士誠に和睦の書を送るが、士誠は「隗囂に例えるか」と怒り使者を拘禁、鎮江を攻めさせる。徐達がこれを龍潭で撃退。
- 士誠は代わりに宜興を奇襲し、守将耿君用が戦死。元璋は徐達に常州先制を命じる。
- 常州攻めで徐達は偽って弱兵を見せかけ、油断した張・湯二将を伏兵で挟撃し捕縛。士誠は和睦を申し出るが、元璋は貢納の増額を条件に突き返す。
- その後も鎮江での謀反未遂、長興・太湖・泰興・江陰各方面での戦いが続き、耿炳文らが長興で敵将趙打虎を撃退、常州は兵糧攻めの末に至正十七年三月に陥落した。
評語
小子の詩は、徐達を耕作の身から龍に従い従軍した英雄とたたえ、濠州での挙兵がなければその手腕が世に知られなかったであろうと評する趣旨。