明史演義史綱を掲げて主旨を明かす/苦境を逃れ出家し僧となる(第 一 回 揭史綱開宗明義  困涸轍避難為僧)

語り手の前口上

前作『元史演義』は元朝滅亡と明朝の交代までを語り終えた。明の太祖朱元璋は民間から興り、数年で元の皇帝を追って中国を統一した革命家・建設者である。以後十七代二百七十六年続いたこの王朝の興亡には大きな理由があり、単なる格言では説明しきれない。

明朝が辿った元朝の覆轍

著者は、明代の興衰も元朝と同様に、骨肉の争い、宦官の専横、奸臣の横行、後宮の寵愛、流賊による民の苦しみという五つの弊害を繰り返して衰亡へ向かったと見る。これに党争や外敵も絡み合い、数百年を経てついに国は瓦解し、清に取って代わられた。今、清朝も退き漢族が主権を回復した現在、明の興亡を鑑とすることには意義がある。そこで元・清に続き『明史演義』を編むことにした、と語り手は執筆の経緯を述べる。

元末の群雄割拠

元順帝の治世は乱れ、方国珍・劉福通・韓山童・徐寿輝・郭子興・張士誠らが各地で兵を挙げ、天下は騒然としていた。順帝は佞臣を寵愛して政務を顧みず、天変地異が相次いでも改めなかったため、天意はついに元を見限り、群雄が覇を競う中で、濠州に一人の非凡な人物が現れる。これが後の明の太祖、朱元璋である。

朱元璋の出生

朱元璋、字は国瑞。父の世珍は泗州から濠州鍾離県に移り住んだ。母の陳氏は懐妊中に神から薬を授かる夢を見、出産に際しては紅光が家を包んだと伝わる。生まれたのは元文宗の戊辰年九月丁丑日。産湯を使う際、川に紅い絹が流れ着いたため、その地は後に紅羅港と呼ばれたという。こうした出生譚は豪傑の誕生にはつきものであり、真偽は定かでないが、史書の伝えるところとして語る。

少年期と出家

生まれた元璋は夜泣きが激しく、両親は近くの皇覚寺に祈願したところ泣き止んだといい、それが縁でのちに寺の弟子として元龍の法名を与えられた。家が貧しく兄たちは奉公に出され、元璋は寺に出入りして文字を学び、後には牛飼いの仕事もしたが、気性が激しく村の子どもらと争いを起こしては連れ戻された。至正四年、濠泗一帯が飢饉と疫病に見舞われ、父母と長兄が相次いで病死する。棺すら整えられぬ中、遺体を運ぶ途中の豪雨で自然に土に埋もれるという不思議が起き、その地は隣人劉継祖の厚意で墓地として提供された(後の鳳陽陵)。さらに次兄・叔兄も疫病で亡くなり、十七歳の元璋は皇覚寺に入って出家する道を選んだ。しかし師の長老が没すると寺の僧たちに冷遇され、飢えと孤独の日々を送ることになる。

托鉢流浪の日々

耐えかねた元璋は托鉢の旅に出る。合肥付近で病に倒れた際、紫衣の二人に助けられ食を得たという不思議な体験をしつつ回復し、光州・固州・汝州・潁州を巡って三年余り放浪した。皇覚寺に戻ると寺は荒廃し僧はみな去っていたが、檀家の勧めで住持代わりとして留まり、さらに三、四年を過ごした。

濠州への投奔

至正十二年、郭子興らが濠州で挙兵すると、元の官軍は良民を捕えて手柄と偽るなど乱れが広がり、皇覚寺周辺も動揺した。留まるも去るも危険という状況に、元璋は伽藍殿で吉凶を占い、去就に迷った末「大挙を成すべし」との吉兆を得て、僧衣を脱ぎ捨て濠州を目指して寺を出る。(詩:微賤の身から立つも恥じることなし、神の導きにより真主となる契機を得たと詠む)