明史卷三百三十二 列𫝊第二百二十 西域四
篇首の立伝者一覧
- 賽瑪爾堪
- 實喇哈雅
- 達實干
- 薩蘭
- 掦伊克
- 克實克
- 徳爾黙
- 布哈爾
- 巴什伯里
- 哈里
- 安都呼
- 拔達克山
- 和闐
- 實喇蘇
- 愛達罕
- 喀什噶爾
- 伊蘓布哈
- 呼爾察
- 竒爾瑪勒
- 博斯和勒
- 達爾瑪
- 納實哲干
- 密珍
- 日羅
- 密實爾
- 赫嚕
- 托喇思
- 阿蘓
- 薩和爾
- 天方
- 黙徳訥
- 坤城(哈桑ら二十九部を附す)
- 嚕黙特
賽瑪爾堪――沿革と洪武年間の通交
- 賽瑪爾堪は漢の罽賓の地であり、隋には漕國といい、唐は再び罽賓と名づけた。いずれも中国と通じていた。元の太祖が西域を平定すると、諸王・駙馬をことごとくその君長とし、前代の国名を蒙古語に改めたので、はじめて賽瑪爾堪の名が生じた。嘉峪闗から九千六百里の距離にある。元末にその王であったのは駙馬の特穆爾である。
- 洪武年間、太祖は西域と通じようとしてたびたび使者を送って招諭したが、遠方の君長で来る者はいなかった。
- 洪武二十年(1387年)四月、特穆爾がまっさきに回回の滿拉克巴斯らを遣わして来朝させ、馬十五・駝二を貢献した。詔してその使者に宴を賜い、白金十八錠を賜った。以後は毎年のように馬や駝を貢献した。
- 洪武二十五年(1392年)には、あわせて絨六匹・青梭幅九匹・紅と緑の薩噶哩を各二匹、および鑌鐵の刀剣・甲冑などを貢献した。その国中の回回はまた自分たちで馬を駆って涼州に至り互市しようとしたが、帝は許さず、京師へ赴いて売らせた。元の時、回回は天下に遍く、この時に至っても甘肅に住む者がなお多かったので、守臣に詔してことごとく送り返させた。こうして賽瑪爾堪へ帰った者は千二百餘人であった。
- 洪武二十七年(1394年)八月、特穆爾が馬二百を貢献した。その表にはこうあった。大明の大皇帝は天の明命を受けて四海を統一し、仁徳を広く布いて万民を恩養され、万国は欣び仰いで、上天が天下を平治しようとして特に皇帝に命じて運数に応じさせ億兆の主とされたことを知っている。その光明は広大で天の鏡のように明らかで、遠近の別なくすべてを照らす。臣の特穆爾は万里の外の僻地にあって、聖徳の寛大さが万古を超え、古来なかった福をすべて皇帝が有し、未だ服さなかった国をすべて皇帝が服せしめたと承っている。遠方の絶域、蒙昧の地までみな清明となり、老いた者で安楽でない者はなく、若い者で成長を遂げない者はなく、善き者で福を蒙らない者はなく、悪しき者で懼れを知らない者はない。今また特に遠国へ恩を施され、中国へ来る商賈に都邑や城池の富貴雄壮を見せてくださるので、まるで暗闇から出て天日を仰ぐようで、これほどの幸いはない。さらに敕書を賜って労い問われ、站驛を通じさせて道路を塞がぬようにされたので、遠国の人はみなその恵みを得ている。聖心を仰ぎ見ることは照世の杯のごとくで、使臣の心中は豁然として明るい。臣の国中の部落もこの徳音を聞いて歓び舞い感戴している。臣には報いるすべもなく、ただ天を仰いで聖寿と福禄が天地のごとく永く極まりないことを祝うばかりである――と。
- 照世の杯とは、その国に古くから伝わる杯で、光明が透き通っており、これを照らせば世事が分かるという。
- 帝は表を得てその文才を嘉し、翌洪武二十八年(1395年)、給事中の傅安らに璽書と幣帛を持たせて答礼させた。その貢馬は一年に二度も来て千を数えたので、ともに寶鈔を賜って代価とした。
賽瑪爾堪――永樂・宣徳年間の朝貢
- 成祖が即位すると使者を遣わしてその国に敕諭した。永樂三年(1405年)、傅安らはまだ帰らないうちに、朝廷は特穆爾が巴什伯里に道を借りて兵を率い東へ向かうと聞き、甘肅總兵官の宋晟に敕して警戒させた。
- 永樂五年(1407年)六月、傅安らが帰還した。当初、安はその国に至って抑留され、朝貢も絶えていた。ほどなく人に案内させて安に諸国数萬里を遍歴させ、その国の広大さを誇示した。この時に至って特穆爾が死に、その孫の哈里が嗣いだので、使臣の呼岱達らを遣わして安を送り返させ、方物を貢献した。帝はその使者に厚く賜与し、指揮の拜額爾欽台らを遣わして故王を祭らせ、新王および部落に銀幣を賜った。その頭目の實喇卜諾爾丹らも駝馬を貢献したので、安らにその王へ綵幣を賜わらせ、貢使とともに行かせた。
- 永樂七年(1409年)、安らが帰ると、王は使者を随行させて入貢した。以後は毎年、あるいは一年おき、あるいは三年に一度、入貢した。
- 永樂十三年(1415年)、使者を李達・陳誠らに随行させて入貢した。暇乞いして帰る際、陳誠および中官の魯安をともに赴かせ、その頭目の鄂勒博らに白銀と綵幣を賜った。その国はまた使者を誠らに随行させて入貢した。
- 永樂十八年(1420年)、再び陳誠および中官の郭敬に敕と綵幣を持たせて答礼させた。
- 宣徳五年(1430年)の秋と冬、頭目の鄂勒博・密爾咱らが使者を送って重ねて入貢した。宣徳七年(1432年)、中官の李貴らに文綺・羅・錦を持たせてその国に賜った。
賽瑪爾堪――正統から成化までの朝貢と獅子の献上
- 正統四年(1439年)、良馬を貢献した。毛色は黒く、蹄と額はみな白かった。帝はこれを愛し、その像を描かせて瑞駂と名づけ、賞賜を加えた。
- 正統十年(1445年)十月、その王の鄂勒博齊魯根に書を諭して言った。王は遠く西の辺境にありながら謹んで職貢を修めており、まことに嘉すべきである。使者の帰りに特に王および王の妻子へ綵幣を表裏で賜い、朕が優待する意を示す――と。別に敕して金玉の器・首龍杖・細馬の鞍および諸色の織金文綺を賜い、その使臣を指揮僉事に任じた。
- 景泰七年(1456年)、馬・駝・玉石を貢献した。禮官が、旧制では賞与が重すぎるとして、今の正副使には一等・二等の賞物を給すべき者は旧どおりとし、三等の者には綵縀四表裏・絹三匹・織金紵絲の衣一襲、随行の鎮撫・舎人以下は順に減らすと述べた。献上された阿勒呼木馬は一匹につき綵縀四表裏・絹八匹、駝は三表裏・絹十匹、達勒達馬は等級を分けず一匹につき紵絲一匹・絹八匹・折鈔の絹一匹、中等の馬も同じ、下等の者はやはり順に減らすとした。制して可とされた。
- 禮官はまた、貢献された玉石のうち使えるものは二十四塊・六十八觔にすぎず、残る五千九百餘觔は用に適さないので自分で売らせるべきだが、彼らが強く献上を望むので五觔ごとに絹一匹を賜りたいと述べ、これも許された。ほどなく使臣が帰るにあたり、王の保賽音に文綺と器物を賜った。
- 天順元年(1457年)、都指揮の馬雲らに西域へ使いさせ、敕してその素勒坦の茂薩を奨め、綵幣を賜い、朝廷の使者の往還を護らせた。素勒坦とは君長の称で、蒙古の汗にあたる。
- 天順七年(1463年)、重ねて指揮の詹昇らにその国へ使いさせた。
- 成化年間、その素勒坦の阿里瑪が三度入貢した。成化十九年(1483年)、伊實干の酋長とともに獅子二頭を貢献し肅州に至り、その使者が大臣を迎えに寄越すよう奏請した。職方郎中の陸容は、これは無用の物で、郊廟では犠牲にできず、乗輿では驂服にもできないから受けるべきでないと述べ、禮官の周洪謨らもまた迎えに行くのは非礼だと述べた。しかし帝はついに中使を遣わして迎えさせた。獅子は日に生きた羊二頭、醋酐と蜜酪を各二瓶食らい、獅子を養う者には光禄が日々酒饌を給した。
- 帝は既に厚く賜与を加えたのに、その使者の帕嚕勒温は軽いとして永樂年間の例を援いて増額を請うた。禮官は正統四年の例に従って綵幣を五表裏加えることを議したが、使者はまた軽いとしたので、正副使に各二表裏、従者にはその半分を加えた。中官の韋洛と鴻臚署丞の海濱に送り返させたが、その使者は旧来の道を通らずに広東へ赴き、しかも良家の女を多く買って妻妾とした。洛らはこれを禁じなかった。久しくして洛が上疏して罪を海濱に押しつけ、海濱は下吏に付された。その使者は海を渡って滿剌加に至り狻猊を買って献じたいと請い、市舶中官の韋眷がこれを主導したが、布政使の陳選が力を尽くして不可を説いたので止んだ。
賽瑪爾堪――𢎞治以後の朝貢と称王の問題
- 𢎞治二年(1489年)、その使者が滿剌加から広東に至り、獅子・鸚鵡などを貢献した。守臣が報告すると、禮官の耿裕らは、南海は西域の貢道ではないとして却けるよう請うた。禮科給事中の韓鼎らもまた、猙獰な獣を弄ぶのは不適当であり、しかも道路を騒がせ供費が莫大なので受けるべきでないと述べた。帝は「珍禽奇獣は朕は献上を受けない。まして正道から来たのでないのだからただちに却けて帰らせよ。守臣は制に違ったから罪すべきだが、しばらく赦す」と言った。禮官はまた、海道は開いてはならないが、あまり甚だしく絶つのもよくないとして、その使者を薄く犒い、綺帛を量って王に賜わることを請い、制して可とされた。
- 翌𢎞治三年(1490年)、また土魯番とともに獅子および哈喇呼爾噶などの獣を貢献し、甘肅から入った。鎮守中官の傅徳と總兵官の周玉らはまず絵に描いて奏聞し、ただちに人を遣わして駅を馳せ送らせた。ただ巡按御史の陳瑶だけがその糜費と煩擾を論じて受け入れぬよう請うた。禮官はその言のとおりに議し、犒賞を量って給することとし、あわせて、聖明が御座にあってたびたび貢献を却けておられるのに傅徳らは徳意を奉行できなかったとして罪を請うた。帝は「貢使が既に到着したのだから却け返すには及ばない。ただ一、二人だけを京師へ来させよ。獅子などの獣は一頭につき日に羊一頭を給し、みだりに費やしてはならない。傅徳らは赦して問うな」と言った。
- のち𢎞治十六年(1503年)に至ってようやく来貢し、翌年にも来た。正徳年間にもなおしばしば来た。
- 嘉靖二年(1523年)、貢使がまた来た。禮官は、諸国の使臣が道中で遷延して年を越し、京師にいる者は同時に賞を受けようと待つので、光禄や郵𫝊の供費が莫大になるとして、期限を示すよう述べ、あわせて禁制数事を列挙して上り、聴かれた。
- 嘉靖十一年(1532年)、天方・土魯番とともに入貢し、王を称する者が百餘人に達した。禮官の夏言らがその非を論じ、閣臣に答え方を議させるよう敕することを請うた。張孚敬らは、西域の諸王は本国の封授から出たのか部落が自ら尊称しているのか疑わしく、先年にも三、四十人に及んだ例があるので、称するところのままに答え、にわかに裁革を議すれば人情が恨みを抱くおそれがあるとして、改めて禮・兵二部に詳議させるよう敕することを乞うた。
- そこで夏言および枢臣の王憲らが述べた。西域で王を称するのは土魯番・天方・賽瑪爾堪だけで、日羅ら諸国は名を称する者は多くても朝貢はきわめて少ない。𢎞治・正徳年間に土魯番は十三度入貢し、正徳年間に天方は四度入貢したが、王を称する者はおおむね一人、多くて三人にすぎず、残りはただ頭目と称しただけであった。嘉靖二年・八年に至って天方は六、七人、土魯番は十一、二人、賽瑪爾堪は二十七人にも達した。孚敬らのいう三、四十人とは三国を合わせた数である。今、土魯番は十五王、天方は二十七王、賽瑪爾堪は五十三王で、これまでになかったことである。𢎞治の時、返賜の敕書はただ一王と称するだけであった。もし賽瑪爾堪の先年の例に倣って王号ごとに答え、一人に一敕を与えるなら、中国を尊び外蕃を制する所以ではない。
- そもそも帝王が外蕃を御するには、来るのを拒まぬとともに必ず制度で限らねばならない。名号が僭越であったり言辞が侮慢であったりすれば、必ず大義をもって無礼を責めるべきである。今、本国の封じたものだというなら、なぜ文書が見えないのか。部落が自ら号したというなら、なぜそれを天朝に達するのか。一括して敕を与えれば、彼らはその敕に拠って恣意に往来し、いよいよ郵𫝊を騒がせ供億を費やし、府庫を尽くして谿壑を満たすことになる。得策ではない――と。
- 帝はその言を容れ、国ごとに一敕だけを給し、あわせて詰責を加えて国に二王なしの義を示した。しかし諸蕃はついに従わず、嘉靖十五年(1536年)の入貢もまた従前どおりであった。甘肅巡撫の趙載が、諸国で王を称する者が百五十餘人に達し、いずれも本朝の封爵ではないから改めさせるべきであり、あわせて貢使の人数を定め、通事には漢人を用い、色目人ばかりを用いて内通し釁隙を生じさせぬようにすべきだと奏し、部議はこれに従った。
- 嘉靖二十六年(1547年)の入貢に際し、甘肅巡撫の楊博が朝貢の事宜を改めて定めるよう請い、禮官がまた数事を列挙して施行した。その後も入貢は萬厯年間に至るまで絶えなかった。
- そもそも番人は商売に長け中華との互市を貪り、いったん入境すれば飲食も道中の費用も一切を有司から取る。五年に一貢と定めてもついに従おうとせず、天朝もまた咎めることができなかった。
賽瑪爾堪――国土と風俗
- その国は東西三千餘里、土地は広く平らで土壌は肥沃である。王の居城は広さ十餘里、民居が密集し、西南の諸番の貨物がみなここに集まるので、富饒をもって知られる。
- 城の東北に土屋があって拝天の場所とされ、規模も造りも精巧で、柱はみな青石に花文を彫ってある。中に講経の堂を設け、泥金で経を書き羊皮で包む。習俗として酒を禁じている。人物は秀美で、工巧は哈里に勝り、風俗や土産の多くは哈里と同じである。
- その近隣では、東に實喇哈雅・達實干・薩蘭・揚伊克、西に克實克・達實密の諸部落があり、いずれもその属となっている。
實喇哈雅
- 實喇哈雅は西へ賽瑪爾堪まで五百餘里。城は小さな岡の上にあり、西北は川に臨む。川の名は火站で、水勢が激しいので浮橋を架けて渡り、小舟もある。南は山に近く、人は多く崖や谷に住み、園林が広く茂る。
- 西に大きな沙洲があって二百里ほど、水がなく、あっても塩辛くて飲めない。牛馬が誤って飲むとすぐ死ぬ。土地には臭草が生え、高さ一尺餘り、葉は蓋のようで、その液を煮て膏にしたものが阿魏である。また小草があって高さ一、二尺、叢生し、秋が深まって露が凝ると、食べれば蜜のようで、煮て糖にする。番語で達蘭古爾班という。
- 永樂年間に李達・陳誠がその地へ使いすると、その首長はすぐ使者を送って貢献した。宣徳七年(1432年)、中官の李貴に敕を持たせてその酋長に諭させ、金織の文綺と綵幣を賜った。
達實干
- 達實干は西へ賽瑪爾堪まで七百餘里。城は平原にあり周囲二里、外は園林が多く果樹に富む。土地は五穀に適し、民居は密集している。
- 李達・陳誠・李貴の使いは實喇哈雅と同じである。
薩蘭
- 薩蘭は達實干の東にあり、西へ賽瑪爾堪まで千餘里。城郭があって周囲二、三里、四面は平らで広く、住民は多く、五穀がよく実り、果樹にも富む。
- 夏から秋にかけて草中に黒い小蜘蛛が生じ、人が刺されると全身が耐えがたく痛む。必ず薄荷の枝で痛む所を掃き、また羊の肝でこすり、一昼夜経を誦してようやく痛みが止み、皮膚はすっかり脱け替わる。家畜も刺されると多く死ぬ。宿るときは必ず水に近い地を選んでこれを避ける。
- 元の太祖の時、都元帥の薛富勒哈が薩蘭ら諸国の征討に従い、礮によって功を立てたのがこの地である。陳誠・李貴の使いは諸国と同じである。
掦伊克
- 掦伊克は薩蘭の東三百六十里。城は乱山の間にあり、東北に大きな溪があって西へ流れて大川に入る。百里ほど行くと荒れた城が多い。その地は巴什伯里と蒙古の部落の間に挟まれてたびたび侵擾を受けたため、人民は散り失せ、ただ戍卒数百人が孤城に居るだけで、破れた廬と崩れた垣が榛莽の中に寂しく残る。永樂年間に陳誠がその地に至った。
克實克
- 克實克は賽瑪爾堪の西南三百六十里。城は大きな村にあって周囲十餘里、宮室は壮麗で、堂は玉石を柱とし、牆壁・窓・扉はすべて金碧で飾り琉璃を綴っている。もとは賽瑪爾堪の酋長である駙馬の特穆爾がここに住んだ。
- 城外はみな水田で、東南は山に近く園林が多い。西へ十餘里行くと珍しい木が多く、さらに西へ三百里行くと大山がそびえ、中に石峡があって両崖は斧で割ったようである。二、三里行って峡口を出ると石門があり、色は鉄に似て、道は東西に通じている。番人はこれを鉄門闗と呼び、兵を置いて守らせている。一説に、元の太祖が東印度の鉄門闗に至って一角獣に遭い人語を解したというのは、この物のことだという。
徳爾黙
- 徳爾黙は賽瑪爾堪の西南、哈里から二千餘里。新旧二つの城があって十餘里隔たり、その酋長は新城に住む。城の内外の住民はわずか数百家だが、畜牧はよく殖える。
- 城は阿珠河の東にあって魚が多い。河の東の地は賽瑪爾堪に属する。西は蘆林が多く獅子を産する。陳誠・李達がかつてその地へ使いした。
布哈爾
- 布哈爾は賽瑪爾堪の西北七百餘里。城は平川にあって周囲十餘里、戸数は萬を数え、市街は繁華で富庶をもって知られる。土地は低く、季節を通じて温暖で、五穀と桑麻に適し、絲綿・布帛が多く、家畜も豊かである。
- 永樂十三年(1415年)、陳誠が西域から帰った際、経由した哈里・賽瑪爾堪・巴什伯里・安都呼・拔達克山・徳爾黙・實喇哈雅・薩蘭・克實克・揚伊克・火州・栁城・土魯番・鹽澤・哈密・達干・布哈爾の十七国について、その山川・人物・風俗をことごとく詳らかにして『使西域記』を作って献じた。それによって中国は西域を考証できるようになった。
- 宣徳七年(1432年)、李達に西域を撫諭するよう命じたが、布哈爾もその中に入っていた。
巴什伯里――位置と洪武年間の通交
- 巴什伯里は西域の大国である。南は和闐に接し、北は衛拉特に連なり、西は賽瑪爾堪に至り、東は火州に至る。東南は嘉峪闗から三千七百里。焉耆だともいい、龜兹だともいう。元の世祖の時に宣慰司を設け、ほどなく元帥府に改め、その後は諸王が鎮めた。
- 洪武年間、藍玉が沙漠を征して捕魚兒海に至り、賽瑪爾堪の商人数百人を捕えた。太祖が官を遣わして送り返させると、道は巴什伯里を経たので、その王の克徳爾和卓はさっそく千戸の哈瑪爾丹らを遣わして来朝させ、馬および海青を貢献し、洪武二十四年(1391年)七月に京師へ達した。帝は喜んで王に綵幣を十表裏賜い、その使者にもみな賜与があった。
- 同年九月、主事の寛徹、御史の韓敬、評事の唐鉦に西域へ使いさせ、書をもって克徳爾和卓に諭して言った。朕が見るに、普天の下、后土の上に国を有つ者はいくつあるか知れない。山や海に隔てられ風俗を異にしても、好悪の情と血気の類は異ならない。皇天の眷佑はただ一視同仁である。ゆえに天命を受けて天下の主となる者は、上は天道を奉じて一視同仁とし、大小の諸国・異域異類の君民をみな仁寿に至らせる。友邦・遠国が天に順い大に事えて国を保ち民を安んずれば、皇天もこれを見てまた栄えさせる。
- かつてわが中国の宋君は奢縦で怠慢だったうえ奸臣が政を乱し、天はその不徳を見て元の世祖に命じ、朔漠に基を開いて中華を統べさせ、生民は七十餘年これによって安らいだ。その後嗣が国政を修めず、人を任じ誤って紀綱がすっかり弛み、強が弱を陵ぎ衆が寡を虐げ、民の嘆きが天に達したので、天はその命を革めて朕に属せしめた。朕は乾符を握って黔黎の主となり、およそ乱雄で声教を擅にし朕の命に背く者は兵で伏せ、朕の命に順う者は徳で撫した。そのため三十年の間に諸夏は安定し外蕃は服した。
- ただ元の臣の曼濟哈喇章らがなお残衆を率いて釁を生じ辺を侵したので、師を興して討たざるを得なかった。兵が捕魚兒海に至ると、旧元の諸王・駙馬はその部属を率いて降った。その中に賽瑪爾堪の者が数百人、貿易のために来ていたので、朕は官に命じて護送させ帰らせて既に三年になる。使者が帰ると王はすぐ使者を送って来貢した。朕は大いにこれを嘉す。王はますます大に事える誠を堅くし、通好し往来して使命を絶やさなければ、どうして封国を永く保てないことがあろうか。特に官を遣わして労い嘉するので、朕の意を悉くせよ――と。
- ところが寛徹らが到着すると、王は賜与が厚くないとして彼らを抑留し、韓敬と唐鉦の二人だけが帰ることができた。
- 洪武三十年(1397年)正月、再び官に書を持たせて諭して言った。朕が即位して以来、西方の諸商が中国に来て互市するのを辺将が阻んだことはない。朕はさらに吏民に敕して善く遇させたので、商人は利を得、辺境も騒がず、これはわが中華が大いに爾の国に恵みを与えたのである。先に寛徹らを爾ら諸国へ通好に遣わしたのに、なぜ今なお帰らないのか。吾は諸国の者を一人も抑留したことがないのに、爾はかえって吾の使者を抑留する。道理にかなうか。そこで近年入境した回回もまた中国で互市させ、寛徹の帰るのを待って放ち帰そうとしたが、その後、彼らが父母妻子があると言うので、吾はその至情を思ってみな帰した。今また使いを遣わして爾に諭し、朝廷の恩意を知らせる。道路を塞いで兵端を開くことのないように。書経に「怨みは大にあらずまた小にもあらず、恵まざるを恵み、勉めざるを勉ましむ」とある。爾はよく恵み、かつ勉めよ――と。こうして寛徹はようやく帰ることができた。
巴什伯里――永樂年間の朝貢と王位の交替
- 成祖が即位した年の冬、官に璽書と綵幣を持たせてその国へ使いさせた。ほどなく克徳爾和卓が没し、子の實黙察罕が嗣いだ。
- 永樂二年(1404年)、使者を送って玉璞・名馬を貢献し、宴と賜与が加えられた。当時、哈密の忠順王である昻克特穆爾が汗の郭勒齊に毒殺され、實黙察罕が師を率いてこれを討った。帝はその義を嘉して使者に綵幣を持たせて賜い、嗣いだ忠順王の托克托と睦むよう命じた。
- 永樂四年(1406年)夏に来貢したので、鴻臚寺丞の劉特穆爾に敕と幣を持たせて労い賜わせ、その使者とともに行かせた。同年の秋・冬および翌年の夏と、三度入貢した。その際、賽瑪爾堪はもと先世の旧地なので兵をもって回復したいと述べた。中官の把太・李達および劉特穆爾に敕を持たせ、よく見きわめて動き軽挙するなと戒めさせ、あわせて綵幣を賜った。
- 永樂六年(1408年)、把太らが帰って、實黙察罕は既に没し弟の瑪哈穆特が嗣いだと報告した。帝はさっそく把太らを遣わして祭らせ、あわせてその新王に賜与した。
- 永樂八年(1410年)、賽瑪爾堪へ赴く朝廷の使者を瑪哈穆特が厚遇したので、使者に綵幣を持たせて賜った。翌永樂九年(1411年)、名馬と文豹を貢献したので、給事中の傅安にその使者を送らせ、金織の文綺を賜った。この時、衛拉特の使者が、瑪哈穆特がその部落を襲おうとしていると言ったので、天に順い境を保つ義を諭した。
- 永樂十一年(1413年)、貢使が甘肅に着こうとすると、所司に命じて宴を設けて労わせ、あわせて總兵官の李彬に敕して善遇させた。翌永樂十二年(1414年)冬、西域から帰った者が、瑪哈穆特の母と弟が相次いで没したと言った。帝は憐れんで傅安に敕を持たせて慰問させ、綵幣を賜った。
- ほどなく瑪哈穆特も没し、子がなかったので甥の諾海色徹肯が嗣いだ。永樂十四年(1416年)春、使者が来て喪を告げたので、傅安および中官の李達に弔祭させ、その嗣子を王に封じ、文綺・弓・刀・甲冑を賜い、その母にも賜与があった。
- 翌永樂十五年(1417年)、使者を送って来貢し、娘を賽瑪爾堪へ嫁がせるので馬を売って妝奩に充てたいと述べた。中官の李信らに綺帛各五百匹を持たせて助けさせた。
- 永樂十六年(1418年)、貢使の蘓格が、その王は従弟の烏蘓に弑されて烏蘓が自立し、部落を西へ移して国号を伊埒巴爾と改めたと述べた。帝は番俗のこととして咎めず、蘓格に都督僉事を授け、中官の楊忠らを遣わして烏蘓に弓・刀・甲冑および文綺・綵幣を賜い、その頭目の呼岱達ら七十餘人にもみな賜与した。以後、貢献は絶えなかった。
巴什伯里――宣徳以後の朝貢と風土
- 宣徳元年(1426年)、帝はその朝廷を尊び事えるのを嘉して使者を遣わして鈔幣を賜った。翌宣徳二年(1427年)に入貢したので、その正副使を指揮・千戸に任じ、誥命と冠帯を賜った。以後、使臣には官を授けることが多くなった。
- 宣徳三年(1428年)、駝馬を貢献したので、指揮の昌英らに璽書と綵幣を持たせて答礼させた。この頃、烏蘓は連年貢献し、その母の索勒坦哈屯もまた三年続けて来貢した。
- 烏蘓が没して子の額森布哈が嗣いだ。正統元年(1436年)、使者を送って来朝し方物を貢献した。その後も頻繁に入貢した。故王の烏蘓の婿である保賽音も使者を送って来貢した。
- 正統十年(1445年)、額森布哈が没して額密勒和卓が嗣いだ。翌正統十一年(1446年)、馬・駝・方物を貢献したので、綵幣を王および王の母に賜った。
- 景泰三年(1452年)、玉石三千八百斤を貢献した。禮官は用に堪えないと述べたが、詔してことごとく収め、二觔ごとに帛一匹を賜った。
- 天順元年(1457年)、千戸の于志敬らに復辟をその王に諭させ、あわせて綵幣を賜った。
- 成化元年(1465年)、禮官の姚䕫らが西域の朝貢の時期を定め、伊埓巴爾は三年ないし五年に一貢とし、使者は十人を超えないこととした。これ以後、朝貢はまれになった。
- その国には城郭も宮室もなく、水草を追って牧畜する。人の性は獷悍で、君臣上下に体統がない。飲食と衣服の多くは衛拉特と同じである。土地は極めて寒く、深山幽谷では六月にも雪が舞う。
哈里――洪武・永樂年間の招諭と通貢
- 哈里は一名を赫嚕といい、賽瑪爾堪の西南三千里、嘉峪闗から一萬二千餘里にある西域の大国である。元の駙馬の特穆爾が賽瑪爾堪に君臨したうえ、その子の薩和爾を遣わして哈里を占拠させた。
- 洪武の時、賽瑪爾堪および巴什伯里はみな朝貢したが、哈里は道が遠くて来なかった。洪武二十五年(1392年)、官を遣わして招諭し文綺・綵幣を賜ったが、なお来なかった。洪武二十八年(1395年)、給事中の傅安・郭驥らに士卒千五百人を率いて赴かせたが、賽瑪爾堪に抑留されて達することができなかった。洪武三十年(1397年)、また北平按察使の陳徳文らを遣わしたが、これも久しく帰らなかった。
- 成祖が即位すると官に璽書と綵幣を持たせてその王に賜わせたが、なお復命がなかった。永樂五年(1407年)に傅安らが帰った。陳徳文は諸国を遍歴してその酋長に入貢を説いたが、みな道が遠いとして来る者がなく、彼もこの年にようやく帰った。徳文は保昌の人で、諸方の風俗を採って歌詩を作って献じたので、帝はこれを嘉して僉都御史に抜擢した。
- 翌永樂六年(1408年)、再び傅安に書幣を持たせて哈里へ赴かせると、その酋長の薩和爾巴圗爾が使者を安に随行させて朝貢し、永樂七年(1409年)に京師へ達した。重ねて賜物を持たせてその使者とともに答礼に赴かせた。
- 翌永樂八年(1410年)、その酋長が使者を送って朝貢した。賽瑪爾堪の酋長の哈里は、哈里の酋長にとって兄の子にあたる。二人は仲が悪くたびたび兵を交えていた。帝はその使臣の帰るのに合わせ、都指揮の拜額爾欽台に敕を持たせて諭して言った。天が民を生んで君を立てたのは、それぞれその生を全うさせるためである。朕は天下を統御して一視同仁、遠近の別をつけない。たびたび使者を遣わして爾に諭してきたが、爾はよく職貢を修め人民を撫し西の辺境を安んじており、朕は大いに嘉する。近ごろ爾が甥の哈里と兵を構えて仇となっていると聞き、朕は痛ましく思う。一家の親が恩愛を厚くしてこそ外侮を制することができる。親しい者ですらこう乖き戻るなら、疎い者がどうして和合できよう。今より兵を休め民を安んじ、骨肉を保全して共に太平の福を享けよ――と。あわせて綵幣を表裏で賜い、また哈里にも兵を罷めるよう敕諭して綵幣を賜った。
- 拜額爾欽台は使命を奉じて賽瑪爾堪・哈喇實哩蘓・愛達罕・安都呼・土魯番・火州・栁城・喀什噶爾の諸国を遍く訪れ、幣帛を賜って入朝を諭した。諸酋長はみな喜び、それぞれ使者を遣わし、哈里の使臣とともに獅子・西馬・文豹などを貢献して永樂十一年(1413年)に京師へ達した。帝は喜んで殿に御して受け、犒賜を加えた。以後、諸国の使臣はいずれも哈里を筆頭に序列された。
- 帰りには中官の李達、吏部員外郎の陳誠、戸部主事の李暹、指揮の金哈勒巴らに送らせ、あわせて璽書・文綺・紗羅・布帛などを持たせてその酋長らに分け賜った。
- 永樂十三年(1415年)に李達らが帰ると、哈里ら諸国はまた使者を遣わしてともに来て文豹・西馬および他の方物を貢献した。翌永樂十四年(1416年)にも貢献し、帰る際には陳誠に書幣を持たせて答礼させ、通過する州県ではみな宴を設けて餞した。
- 永樂十五年(1417年)、使者を陳誠らに随行させて来貢した。翌永樂十六年(1418年)にも貢献したので、李達らに初めと同じく答礼させた。永樂十八年(1420年)には和闐・拔達克山とともに来貢し、永樂二十年(1422年)にはまた和闐とともに来貢した。
哈里――宣徳以後の朝貢と衰微
- 宣徳二年(1427年)、その頭目の達爾罕額布勒が来朝して馬を貢献した。仁宗が遠略に努めず、宣宗もこれを承けて久しく絶域へ使者を遣わさなかったので、その貢使もまれにしか来なくなった。
- 宣徳七年(1432年)、再び中官の李貴に西域と通じさせ、哈里の酋長の薩和爾に敕諭して言った。昔、朕の皇祖である太宗文皇帝が御座にあった日、爾らは朝廷を尊び事えて使者を遣わし貢献し、始終変わらなかった。今、朕は恭しく天命を承けて皇帝の位に即き万方を主宰し、宣徳と紀元した。大小の政務はことごとく皇祖の天を奉じ民を恤み一視同仁とする心に体している。先に使臣に書幣を持たせて賜わりに行かせたが道が塞がって帰ってきた。今は既に通じたので、特に内臣を遣わして朕の意を諭す。ますます天心に順い、永く誠好を篤くして互いに往来し、ともに一家となり、商旅を通行させてそれぞれ願いを遂げさせれば、よいではないか――と。あわせて文綺・羅・錦を賜った。
- 李貴らが着かないうちに、その貢使の巴哈哩丹が既に京師に至り館で没した。官に命じて祭らせ、有司に葬らせた。ほどなくまた使者を李貴に随行させて駝・馬・玉石を貢献した。翌年春、使者が帰ると、重ねて李貴に護送させ、その王および頭目に綵幣を賜った。
- この年の秋、および正統三年(1438年)に、ともに来貢した。英宗が幼少で大臣は休息に努め、中国を疲れさせて外蕃に事えることを望まなかったので、遠方から通貢する者は非常に少なくなった。
- 天順元年(1457年)に至って再び西域と通じることが議されたが、大臣であえて言う者はなく、ただ忠義衛の吏である張昭だけが抗疏して切諫し、事は止んだ。
- 天順七年(1463年)、帝は中夏が安らかなのに遠蕃の朝貢が来ないとして、武臣を分け遣わして璽書と綵幣を持たせて諭させ、都指揮の海榮と指揮の馬全が哈里へ赴いた。しかしこれ以後、来る者はかなりまれで、哈里も時どおりに貢献しなくなった。
- 嘉靖二十六年(1547年)、甘肅巡撫の楊博が、西域の入貢者が多いので制限を設けるべきだと述べた。禮官は、祖宗の先例では哈密だけが毎年一貢で、貢は三百人、うち十分の一を京師へ送り、残りは関内に留めて有司が供給する。他の哈里・哈桑・土魯番・天方・賽瑪爾堪など哈密を経由する諸国は、三年または五年に一貢とし、三、五十人だけを送り、その留め置きと賞賜は哈密の例による。近ごろ濫りに入京させているので、辺臣に敕してこの例を恪守させ、濫りに通した者は罪すべきだと述べ、制して可とされた。
- しかしこの頃、哈里は既に久しく来ておらず、その後は朝貢がついに絶えた。
哈里――風俗と物産
- その国は西域で最も強大で、王の居城は方十餘里、石を積んで屋とし、平らな方形で高台のようであり、梁・柱・瓦・甓を用いない。内部は広く空いて数十間、窓や扉はことごとく花文を彫り金碧で彩り、床には氈罽を敷く。君臣上下の別なく、男女が集まればみな地に座して跌坐する。
- 国人はその王を素勒坦と呼び、君長という意である。男は髪を剃って白布を纏い、婦女もまた白布で頭を覆い、わずかに両目を露わすだけである。上下互いに名で呼び合い、会えばただ少し身をかがめるだけで、初対面では片足を屈して三度跪く。男女ともに同じである。
- 食事に匕や箸を用いず、瓷器がある。葡萄で酒を醸す。交易には銀銭を用い、大小三等あり、私鋳を禁じない。ただ酋長に税を納めて印記を用い、印のない物は市易に用いることを禁じる。市易にはみな十二分の一の税を課す。斗斛を知らず、権衡だけを設ける。官府はなく、ただ事を管する者があって達斡と名づける。刑法もなく、人を殺しても銭を罰するだけである。姉妹を妻妾とし、喪に居るのは百日だけで、棺を用いず布で屍を包んで葬り、常に墓の間で祭りを設ける。祖宗を祭らず、鬼神も祭らず、ただ拝天の礼を重んじる。
- 干支や朔望がなく、七日ごとに一巡りとして周ってまた始める。年ごとに二月と十月を把齋(斎戒)の月とし、昼は飲食せず夜になって食い、ひと月経ってはじめて葷を口にする。
- 城中に大きな土室を築き、中に銅器を置く。周囲は数丈、上に文字を刻み古鼎のような形である。遊学する者はみなここに集まり、中国の太学のようである。
- 健脚の者があって日に三百里を行き、急使には箭を伝えて走り報せる。習俗は奢侈を尚び、用度に節度がない。土地は肥沃で、季節は暖かい日が多く雨は少ない。
- 土産は白鹽・銅・鐵・金・銀・琉璃・珊瑚・琥珀・珠翠の類。蚕をよく育て紈綺を巧みに作る。木には桑・榆・柳・槐・松・檜、果物には桃・杏・李・梨・葡萄・石榴、穀物には粟・麥・麻・菽、獣には獅・豹・馬・駝・牛・羊・雞・犬がある。
- 獅子は阿珠河の蘆林の中に生まれ、生まれたときは目を閉じ、七日たってはじめて開く。土人は目を閉じている間に取ってその性を馴らす。少し大きくなると馴らせない。
- その近隣の安都呼・拔達克山はいずれもその国に属する。
安都呼
- 安都呼は哈里の西北千三百里、東南へ賽瑪爾堪までも同じ距離である。城は大きな村にあって周囲十餘里、土地は平らで険阻がなく、田土は肥沃で民物は繁盛し、楽土と称される。
- 永樂八年(1410年)から永樂十四年(1416年)まで、哈里とともに通貢したが、その後は再び来なかった。
拔達克山
- 拔達克山は安都呼の東北にあり、城の周囲は十餘里。土地は広く険阻がなく、山川は明媚で人物は素朴、浮屠が数区あって王居のように壮麗である。西洋・西域の諸商人が多くその地で商売するので、民俗は富饒である。もとは哈里の酋長である薩和爾の子が占拠していた。
- 永樂六年(1408年)、内官の把太・李達に命じてその酋長に敕書と綵幣を賜い、あわせて喀什噶爾・格特朗の諸部にも及ぼし、往来通商の意を諭した。みなただちに命を奉じ、これ以後は東西萬里、旅人の往来が滞らなくなった。
- 永樂十二年(1414年)、陳誠がその国へ使いした。永樂十八年(1420年)、使者を送って来貢したので、陳誠および内官の郭敬に書幣を持たせて答礼させた。
- 天順五年(1461年)、その王の瑪哈穆特が使者を送って来貢した。翌天順六年(1462年)にも貢献したので、使臣の鄂博都哩に父の職を襲がせて指揮同知とした。
和闐――朝貢と西域の使者の弊
- 和闐は古い国名で、漢から宋に至るまでみな中国と通じた。
- 永樂四年(1406年)、使者を送って来朝し方物を貢献した。使臣が暇乞いして帰る際、指揮の新中・黙桑らに璽書を持たせて同行させ、その酋長に織金の文綺を賜った。その酋長の都勒斡伊伯格勒が使者を送って玉璞を貢献したので、指揮の尚衡らに書幣を持たせて労わせた。
- 永樂十八年(1420年)、哈里・拔達克山の諸国とともに馬を貢献したので、参政の陳誠、中官の郭敬らに綵幣で答礼させた。永樂二十年(1422年)、美玉を貢献し、賜与が加えられた。永樂二十二年(1424年)、馬および方物を貢献した。時に仁宗が即位したばかりで、ただちに宴と賜与を与えて帰らせた。
- これより先、永樂の時、成祖は遠方の万国をことごとく臣服させようとしたので、西域への使いは毎年絶えなかった。諸蕃は中国の財帛を貪り、また市易の利を求めて道中を絡繹と往来した。商人は多く貢使と偽称し、馬・駝・玉石を多く携えて進献と称した。関に入ってしまえば、一切の舟車・水陸・朝夕の飲食の費用をことごとく有司から取ったので、郵𫝊は供億に困り、軍民は輸送に疲れた。西へ帰る段になると道々遅滞して貨物を多く買い込み、東西数千里の間は騒然として費用が嵩み、公私上下みな怨嗟しない者はなかった。廷臣も言上せず、天子もこれを恤まなかった。
- ここに至って給事中の黄驥がその害を極力述べた。仁宗はその言に感じ、禮官の吕震を召して責めた。これ以後、西域へ使者を遣わすことがなくなり、貢使もしだいにまれになった。
和闐――国土と玉
- 和闐は古来の大国で、隋唐の間に戎盧・扞彌・渠勒・皮山の諸国を併呑してその地はいっそう大きくなった。南は蔥嶺まで二百餘里、東北は嘉峪闗まで六千三百里。おおむね蔥嶺以南では賽瑪爾堪が最大で、以北では于闐が最大である。
- 元末にはその主が暗弱で隣国が交々侵し、人民はわずか萬を数えるばかりで、みな山谷に避難して生業も寂れていた。永樂年間、西域が天子の威霊を憚っていずれも職貢を修め、みだりに攻め合わなくなったので、和闐ははじめて休息を得、しだいに諸蕃と交易して再び富み栄え、桑麻や黍禾は中国さながらとなった。
- その国の東に白玉河、西に緑玉河、さらに西に黒玉河があり、源はみな崑崙山から出る。土人は夜、月光の盛んな所を見定めて水に入って採ると、必ず美玉を得る。その隣国もまた多く盗み取って献じてくる。萬厯の朝に至るまで、和闐もときおり入貢した。
實喇蘇
- 實喇蘇は賽瑪爾堪に近い。永樂十一年(1413年)、使者を遣わして哈里・愛達罕・喀什噶爾ら八国とともに拜額爾欽台に随行させ方物を入貢した。李達・陳誠らに敕を持たせてその使者とともに赴かせ労わせた。
- 永樂十三年(1415年)冬、その酋長の額布勒津が使者を李達らに随行させて朝貢した。天子はちょうど北巡中だったので、翌年夏になってようやく暇乞いして帰った。重ねて陳誠を中官の魯安とともに遣わし、敕および白金・綵縀・紗羅・布帛を持たせてその酋長に賜った。
- 永樂十七年(1419年)、使者を遣わして伊蘓布哈ら諸部とともに獅子・文豹・名馬を貢献した。暇乞いして帰る際、重ねて魯安らに送らせ、その酋長に絨錦・文綺・紗羅・玉繋腰・磁器などを賜った。
- この頃、車駕が連年北征して馬が乏しかったので、官を遣わして多くの綵幣・磁器を持たせ、實喇蘇および賽瑪爾堪の諸国に配った。その酋長はすぐ使者を送って馬を貢献し、永樂二十一年(1423年)八月、宣府の行宮で帝に謁した。もとの賜与のとおりに与えて京師へ帰らせたが、その者は長く内地に留まって去らなかった。仁宗が即位して帰るよう促し、ようやく辞去した。
- 宣徳二年(1427年)、駝馬と方物を貢献したので、その使臣の阿里に都指揮僉事を授け、誥命と冠帯を賜った。その後は長く貢献しなかった。
- 成化十九年(1483年)、赫嚕・賽瑪爾堪・巴達實の諸国とともに獅子を貢献したので、詔して優れた賜与を加えた。
- 𢎞治五年(1492年)、哈密の忠順王の善巴が襲封して帰国し、隣境の伊瑪格爾の酋長と婚姻を結んだ。賽喇蘇の酋長はその貧しさを思い、隣国の額布勒津の酋長とともに、それぞれ平章の蒙古卜台と知院の孟克に人を遣わさせ、財物を頒賜して成婚を助けるよう請うた。朝議はこれを義として善巴に厚く賜い、あわせて二国およびその平章・知院にも綵幣を賜った。
- 嘉靖三年(1524年)、近隣の三十二部とともに使者を遣わして馬および方物を貢献した。その使者たちがそれぞれ蟒衣・膝襴・磁器・布帛を乞うたので、天子は却けきれず量って与えた。これ以後は貢使も来なくなった。
愛達罕
- 愛達罕は西域の小部落である。元の太祖が西域をことごとく平定して子弟を王に封じて鎮めさせ、小さい所には官を設け戍を置いて内地と同じにした。元が亡ぶとそれぞれ割拠して互いに統属しなくなった。
- 洪武・永樂年間にたびたび人を遣わして招諭し、しだいに来貢するようになった。地の大きい所は国と称し、小さい所はただ地面と称した。宣徳の朝に至るまで、臣たる職を尽くして表箋を奉じ闕下に稽首した者は多く七、八十部に及んだ。
- 愛達罕は永樂十一年(1413年)に哈里とともに貢献した国である。永樂十四年(1416年)に至り、魯安らが哈里・實喇蘇の諸国へ使いした際、ついでにその酋長にも文綺を賜った。しかし地が小さくて常には貢献できず、後にはついに来なくなった。
喀什噶爾
- 喀什噶爾もまた西域の小部落である。永樂六年(1408年)、巴爾台(把太)・李達らが敕を持って賜わりに行くと、ただちに命を奉じた。
- 永樂十一年(1413年)、使者を遣わして拜額爾欽台に随行させ入朝して方物を貢献した。宣徳の時にも来朝して貢献した。天順七年(1463年)、指揮の劉福・普賢にその地へ使いさせた。その貢使もまた常には来られなかった。
伊蘓布哈
- 伊蘓布哈は愛達罕に近い。永樂十四年(1416年)、安都呼・賽瑪爾堪へ使いする者がその地を経たので、その酋長に文綺などを賜った。
- 永樂十七年(1419年)、隣国の實喇蘇とともに獅子・豹・西馬を貢献したので、白金と鈔幣を賜った。使臣が暇乞いして帰る際、魯安らに送らせた。瑪哈穆特という者が京師に留まることを願ったので、その請いを聴いた。
- 成化十九年(1483年)、賽瑪爾堪とともに獅子・名馬・番刀・兜羅銷幅などを貢献し、賜与が加えられた。
- これより先、宣徳六年(1431年)に伊蘓布哈が使臣の密爾阿里を遣わして朝貢したことがあり、あるいはこれが伊蘓布哈だともいう。
呼爾察
- 呼爾察は国が微弱で、四方を山に囲まれ草木が少なく、水流は曲折して魚蝦もいない。城はわずか一里ほどで、すべて土屋であり、酋長の住まいもまた粗末である。習俗として僧を敬う。
- 永樂十四年(1416年)、使者を遣わして朝貢したので、経由する地ではみな礼をもって待遇させた。
- 𢎞治五年(1492年)、その地の回回の帕羅勒温らが海路から玻璃・瑪瑙などを貢献したが、孝宗は受け入れず、道中の費用を賜って帰らせた。
竒爾瑪勒
- 竒爾瑪勒は永樂年間に使者を遣わして来貢したが、貢物は獣皮・鳥羽・罽褐だけであった。その習俗は射猟を好み耕農を事としない。西南は海に傍い、東北は林莽が深く茂って猛獣・毒虫が多い。大通りや小路はあるが市肆がなく、交易には鉄銭を用いる。
博斯和勒
- 博斯和勒は旧名を舒克瑪喇勒という。かつて白虎が松林の中に現れ、人を傷つけず他の獣も食わず、十日ののち姿を見せなくなった。国人はこれを異として神虎と称し、これは西方の白虎が降した精である、と言って国名を改めた。
- その地には大きな山がなく樹木も生えないが、毒虫や猛獣の害もない。ただし物産はきわめて乏しい。永樂年間に入貢したことがある。
達爾瑪
- 達爾瑪は賽瑪爾堪に服属し、海中に居る。地は百里に満たず、人は千家に満たない。城郭がなく上下とも板屋に住む。耕作を知り、毛褐・布縷、馬・駝・牛・羊がある。刑は箠朴だけで、交易にはみな銀銭を用いる。
- 永樂年間に使者を遣わして朝貢したので、大統暦および文綺・薬・茶などを賜った。
納實哲干
- 納實哲干は東へ實喇蘇まで数日の行程で、いずれも舟行である。城の東は平原で水草が豊かで牧畜に適する。馬に数種あり、最も小さいものは高さ三尺に過ぎない。
- 習俗は僧を重んじ、僧の行く先では必ず飲食を供する。しかし血気盛んで闘いを好み、闘って勝てない者は衆人に嗤われる。
- 永樂年間に使者を遣わして朝貢した。使臣が帰る際は河北を経て関中に転じ甘肅に至ったが、有司はみな宴を設けた。
密珍
- 密珍城は永樂年間に来貢した。その国は地が広く高山が多い。日中に市を開き、諸貨が集まる。中国の磁器・漆器を貴ぶ。珍しい香・駝・馬を産する。
日羅
- 日羅國は永樂年間に来貢した。𢎞治元年(1488年)、その王の伊實干達爾魯密徳哩雅が再び貢献し、使臣が紵絲・夏布・磁器を求めると奏したので、詔してみな与えた。
密實爾
- 密實爾は一名を密色爾という。永樂年間に使者を遣わして朝貢した。宴と賜与のうえ、五日ごとに酒饌・果餌を給するよう命じ、経由する地ではみな宴を設けた。
- 正統六年(1441年)、王の索勒坦阿實拉呼が再び来貢した。禮官が、その地はきわめて遠く賜与の先例がないこと、昔、賽瑪爾堪が初めて貢献した時は賜与が優厚に過ぎたので今はやや減らすべきことを述べた。そこで王に綵幣十表裏・紗羅各三匹・白氁絲布と白將樂布を各五匹・洗白布二十匹を賜い、王の妻および使臣には順に減らした。従うところとなった。これ以後は再び来なかった。
赫嚕
- 赫嚕は賽瑪爾堪に近く、代々婚姻を結んでいる。その地の山川・草木・禽獣はみな黒く、男女もまた黒い。
- 宣徳七年(1432年)、使者を遣わして来朝し方物を貢献した。正徳二年(1507年)、その王の薩和爾索勒坦が指揮の哈濟瑪哈穆特を遣わして貢献したので、敕および金織の紵絲・綵絹を持たせて帰らせその王に賜った。正徳六年(1511年)にも来貢した。
- 景泰四年(1453年)、隣境の三十一部とともに男女百餘人で馬二百四十七・騾十二・驢十・駝七および玉石・碙砂・鑌鐵の刀などを貢献した。
- 天順七年(1463年)、旺黙色もまた指揮僉事の瑪哈穆特實爾巴勒らを遣わして貢献したので、綵幣を表裏・紵絲の襲衣を賜い、その使臣を指揮同知に抜擢し、従者七人をみな所鎮撫とした。
- 成化十九年(1483年)、實喇蘇・賽瑪爾堪・巴達實とともに獅子を貢献した。巴達實の長もまた素勒坦瑪哈穆特と称し、景泰七年(1456年)に入貢したことがあり、この時また同行して来た。𢎞治三年(1490年)にも天方ら諸国とともに駝・馬・玉石を貢献した。
托喇思
- 托喇思は地が小さく周囲は百里に満たない。城は山に近く、山の下に水があって赤色で、望むと火のようである。習俗は佛に諂い、婦人が家の実権を握る。牛・羊・馬・駝を産し、布縷・毛褐がある。土地は穄と麥に適し稲はない。交易には銭を用いる。
- 宣徳六年(1431年)に入貢した。翌宣徳七年(1432年)、中官の李貴に璽書を持たせて奨め労わせ、文綺・綵帛を賜った。地が小さいので常には貢献できなかった。
阿蘓
- 阿蘓は天方・賽瑪爾堪に近く、幅員は甚だ広い。城は山を背にし川に面し、川は南へ流れて海に入り、魚と塩の利がある。土地は耕作にも牧畜にも適する。
- 佛を敬い神を畏れ、施しを好んで争いを憎む。物産は豊かで寒暖は適度で、人に飢寒がなく、夜も盗賊が少なく、まさに楽土と称される。
- 永樂十七年(1419年)、その酋長の雅固沙が使者を遣わして馬および方物を貢献したので、制のとおりに宴と賜与を与えた。地が遠くて常には貢献できなかった。天順七年(1463年)、都指揮の白全らにその国へ使いさせたが、ついに再び貢献しなかった。
薩和爾
- 薩和爾は阿蘓の西の海島の中にある。永樂年間に七十七人を遣わして来貢した。日々の酒饌・果餌の給与も他国とは別格であった。
- その地は山川が環抱し畜産が豊かで、人の性は素朴正直で争いを恥じ佛を好む。王および臣僚は城中に住み、庶人はみな城外に住む。海に珍奇な物を産し、西域の商人が安値で買い取るが、その国の人は価値を知らない。
天方――朝貢の始まり
- 天方は古の筠冲の地で、一名を天堂といい、また穆齊ともいう。水路では和爾黙蘇から四十日でようやく至り、呼哩から西南へ行けば三月でようやく至る。その貢使の多くは陸路から嘉峪闗に入る。
- 宣徳五年(1430年)、鄭和が西洋へ使いした際、その一行を分けて呼哩へ赴かせたところ、呼哩が天方へ人を遣わすと聞き、そこで人に貨物を持たせてその舟に便乗させ同行させた。往復に一年を経て、珍奇な宝物および麒麟・獅子・駝鶏を買って帰った。その国王もまた陪臣を朝廷の使者に随行させて来貢したので、宣宗は喜んで賜与を加えた。
- 正統元年(1436年)、はじめて𤓰哇の貢船に付して帰らせ、幣および敕を賜ってその王を奨めた。
- 正統六年(1441年)、王が子の賽音徳勒阿里と使臣の賽音徳勒哈桑を遣わして珍宝を貢献させたが、陸路で哈里に至って賊に遭い、使臣は殺され、王子は右手を傷つけられ、貢物をすべて奪われた。守臣に命じて調べ処置させた。
- 成化二十三年(1487年)、その国中の回回の阿里は、兄の納徳が中国を四十餘年遊歴していたので雲南へ訪ねて行こうとし、宝物を鉅萬も携えて滿剌加に至り、行人の左輔の舟に便乗して入京し進貢しようとした。広東に着いたところ市舶中官の韋眷に侵奪されたので、阿里は怨んで京師へ赴き自ら訴えた。禮官はその貢物を見積もって代価を償い、雲南で兄を訪ねるのを許すよう請うた。しかし韋眷は罪を懼れて先に宮中へ手を回していたので、帝はかえって阿里を間諜であり貢に仮託して奸を行うものだと責め、広東の守臣に追い返させた。阿里は号泣して去った。
- 𢎞治三年(1490年)、その王の蘇勒坦阿哈瑪特が使者を遣わし、賽瑪爾堪・土魯番とともに馬・駝・玉石を貢献した。
- 正徳の初め、帝は御馬太監の谷大用の言に従い、甘肅の守臣に諸番の騍馬・騸馬を求めさせた。番の使者が、良馬は天方に産すると言ったので、守臣は諸番の貢使を通じてその王に伝えさせ入貢させるよう請うた。兵部尚書の劉宇は中官に取り入ろうとして議を指図し、守臣に使者と通事をよく選ばせ、みずから諸番へ赴いて諭させることとし、聴かれた。
- 正徳十三年(1518年)、王の賽音布拉克が使者を遣わして馬・駝・梭幅・珊瑚・宝石・魚牙の刀などを貢献したので、詔して蟒龍の金織衣および麝香・金銀器を賜った。
天方――嘉靖年間の朝貢と紛糾
- 嘉靖四年(1525年)、その王の伊瑪都爾らが使者を遣わして馬・駝・方物を貢献した。禮官は、西人が来貢すると陝西行都司が半年以上も引き留めてからようやく奏上すること、献上される玉石はことごとく粗悪なのに使臣の私貨はみな良品であることを述べ、按臣に下して調べさせ、今後は玉石を多く携えて道中を煩わせぬようにし、貢物の劣悪な場合は都司の官の罪を治めるよう乞い、従われた。
- 翌嘉靖五年(1526年)、その国の額穆都喀ら八王がそれぞれ使者を遣わして玉石を貢献した。主客郎中の陳九川が粗悪なものを選び除いたので使臣は怨み、通事の胡士紳もまた九川を恨んでいたため、使臣の奏詞を偽造して九川が玉を盗んだと誣告した。九川は詔獄に下されて拷問を受け、尚書の席書、給事中の解一貫らが論じて救おうとしたが聴かれず、ついに辺境へ配された。
- 嘉靖十一年(1532年)、使者を遣わして土魯番・賽瑪爾堪・哈密の諸国とともに来貢し、王を称する者が三十七人に達した。禮官が述べた。旧制では哈密と朶顔三衛だけが毎年一貢で、貢は三百人を超えない。三衛は地が近いのですべて入都を許すが、哈密は十人のうち二人を遣わし残りは辺に留めて待たせる。西域は萬里の彼方にあってもとより属国ではないから、三衛と同じ貢期とは見なしがたい。しかも遣わす使人が常数の倍を超え、番文は二百餘通に及び、いずれも叛人の伊蘭を引き渡せというのを口実にしている。ひそかに恐れるのは、言を託して窺い、朝廷の処置を覗おうとしていることである。辺臣が明例を守らず一括して送り込むのは法の体に反する。督撫の諸臣に下し、諸番人が入貢したら留め置く者と送る者を区別させ、一律に入京させぬようにし、あわせて辺吏に厳しく命じて、目前の禍を避けて後日の患いを残し、納款の虚名を貪って禦辺の実策を忘れることのないようにさせたい――と。帝はその奏を可とした。
- 先例では、諸番の貢物が到着すると辺臣が検査してその目録を上げ、禮官が目録に照らして賜与し、目録に載らないものは自由に貿易させ、貢使が終えてなお余資があれば持ち帰らせ、官に納めたい者は禮官が奏聞して鈔を給した。正徳の末、狡猾な番人と胥吏が結託して利を貪り、はじめて貿易の余貨を市儈に値踏みさせ官が正鈔を給する例が生じた。
- ここに至り、天方および土魯番の使臣が、目録に載らない余りの玉石や銼刀などの貨物を貢物に準じて賞を給するよう強く求めた。禮官はやむを得ず正徳年間の例をもって請い、許された。
- 番の使者の多くは商人で、来れば必ず巨額の資を携えて中国と交易する。辺吏は賄賂を好んで種々に侵奪し、その埋め合わせを公家から取るのが常であった。値が釣り合わなければ彼らは咆哮して止まなかった。
- この年の貢使はみな狡猾で強悍なうえ、既に中国の事情を知り、しかも辺吏の侵奪を恨んでいたので、たびたび訴えたが禮官は却けて取り合わなかった。甘肅を鎮守する中官の陳浩は、番使が入貢する時に家奴の王洪に命じて名馬や玉石を多く要求させていた。使臣はこれを恨み、ある日、街で王洪に出会うとただちに捕えて官へ突き出し、その事実を証明した。禮官は、事は国体に関わるので大いに処分して遠人の心を服させる必要があると述べ、そこで三法司・錦衣衛および給事中からそれぞれ官一員を甘肅へ遣わして取り調べさせ、王洪はついに罪を得た。
- 嘉靖十七年(1538年)、また貢献した。その使臣が中国を遊覧したいと請うたが、禮官は狡心があるのを疑い、先例にないとして退けた。
- 嘉靖二十二年(1543年)、賽瑪爾堪・土魯番・哈密・嚕黙特の諸国とともに馬および方物を貢献した。その後は五、六年に一貢で、萬厯年間に至るまで絶えなかった。
天方――風土と回回の教
- 天方は西域では大国である。四季は常に夏のようで、雨・雹・霜・雪がなく、ただ露が最も濃く、草木はみなこれによって育つ。土は肥え、粟・麥・黒黍に富む。人はみな背が高く体格がよい。男子は髪を剃って布で纏い、婦女は髪を編んで頭を覆い顔を露わさない。
- 伝えるところでは、回回が教を設けた祖である瑪哈穆特という者が、まずこの地で布教し、死んでここに葬られた。墓の頂には常に光があって昼夜消えない。後人はその教を遵んで久しく衰えない。それゆえ人はみな善に向かい、国に苛擾がなく刑罰もなく、上下は安らかに和し、寇賊は起こらない。西土では楽国と称される。習俗は酒を禁じる。
- 礼拝寺があり、月が初めて生ずると王および臣民はみな天を拝し、号呼し称揚するのを礼とする。寺は四方に分かれ、一方につき九十間、合わせて三百六十間、みな白玉を柱とし黄甘玉を床とする。その堂は五色の石を積んで造り、四方の平頂で、内には沈香の大木を梁とし、全部で五本、さらに黄金で閣を作る。堂中の垣や壁はことごとく薔薇露と龍涎香を土に混ぜて造る。門は二頭の黒獅子が守る。
- 堂の左に司馬儀の墓があり、その国では聖人の塚と称する。土はことごとく宝石で、囲いの牆は黄甘玉である。両脇には諸祖師が法を伝えた堂があり、これも石で築かれ、いずれもきわめて壮麗である。その回回教を崇奉することはこのようである。
- 瓜果や諸家畜はみな中国と同じだが、西瓜と甘瓜には一人では持ち上げられないものがあり、桃には四、五觔のものがあり、鶏や鴨には十餘觔のものがあって、いずれも諸番にないものである。
- 瑪哈穆特の墓の後ろに井戸があり、水は清く甘い。海を渡る者は必ず汲んで行き、颶風に遭うとその水を灑げばたちまち鎮まる。鄭和が西洋へ使いした当時、その風物はこのように伝えられた。その後は王を称する者が二、三十人に及び、その習俗もしだいに初めのようではなくなった。
黙徳訥
- 黙徳訥は回回の祖国である。地は天方に近い。宣徳の時、その酋長が使者を遣わして天方の使臣とともに来貢したが、その後は再び来なかった。
- 伝えるところでは、その初代の国王である瑪哈穆特は生まれながらに神霊で、西域の諸国をことごとく臣服させた。諸国は尊んで布按諾爾と呼び、天使という意である。
- 国中に経三十本、およそ三千六百餘段があり、その書は横書きで、篆・草・楷の三体を兼ねる。西洋の諸国はみなこれを用いる。その教は天に事えるのを主とし、像を設けない。毎日、西に向かって虔しく拝し、毎年ひと月斎戒し、沐浴して衣を改め、住むにも必ず常の場所を変える。
- 隋の開皇年間、その国の薩阿巴・薩阿廸斡格斯がはじめてその教を中国へ伝え、元の世に至るまでその人々は四方に遍く、みな教を守って廃れなかった。
- 国中の城池・宮室・市肆・田園は大いに中国に似る。陰陽・星暦・医薬・音楽の諸技があり、その織物や器物の製作はとりわけ巧みである。寒暑は時候に応じ、民は富み物は多く、五穀六畜がみな備わる。習俗は殺生を重んじ、豚肉を食わない。常に白布で頭を覆い、他国へ行ってもその習俗を改めない。
坤城――朝貢と、成祖以後の西域経営の総括
- 坤城は西域の回回の種である。宣徳五年(1430年)、その使臣の者珠瑪爾丹らが来朝して駝馬を貢献した。当時、開中の令があったので、使者はさっそく米一萬六千七百石を京倉に納めて塩を得た。暇乞いして帰る際、納めた米を官に献じたいと願い出た。帝は「回人は営利に長けており、朝貢と名づけても実は貿易を図っている。値をもって酬いるがよい」と言い、そこで帛四十匹を与え、布はその倍とした。その後もかつて貢献したことがある。
- そもそも成祖は武によって天下を定め、万方を威制しようとして使者を四方に遣わして招いた。これによって西域の大小の諸国は額づいて臣と称し宝を献じ、遅れることを恐れた。さらに北は沙漠を極め、南は冥海を極め、東西は日の出没する所に至るまで、およそ舟車の至れる所で及ばぬ所はなかった。これ以後、遠方異域の鳥のような言葉、□(底本欠字)を話す使者が闕廷に輻輳し、年ごとの頒賜で庫蔵は空となり、四方の珍奇な宝や名禽・珍獣が上方へ献じられることもまた日ごとに増えた。漢と唐の盛時を兼ね備えたようで、百王の並びうるものではなかった。
- その余威は後嗣にも及び、宣徳・正統の朝にもなお重訳を経て来る者が多かった。しかし仁宗は遠略に務めず、即位の初めにすぐ西□(底本欠字)(西洋か)で宝を取る船を撤し、松花江の造船の役を停め、西域の使臣を京師へ召してその帰国を敕し、中国を疲れさせて遠人に奉じることを望まなかった。宣徳もこれを継ぎ、たまに一度使者を遣わしてもほどなく取り止めたので、辺境は休息を得た。
坤城――哈桑ら二十九部の附記
- 今、旧□(底本欠字)(記録)を採って、かつて貢を奉じ天朝に名を通じた者を挙げれば次のとおりである。阿繖・哈里爾・沙達瑪・哈達勒・薩蘭・黙克埒・巴哩輝・阿里瑪・托和瑪・察克拉實・斡拉實・布哈爾・帕勒・聶薩固爾・克實密爾・特博哩蘓・和坦・和珍・固紳・雅克實・雅爾噶・榮・伯・烏蘭・阿敦・實實城・色格・巴延・克勒恰の二十九部で、いずれも領域が狭小なのでただ地面と称した。
- これらは哈里・哈實噶爾・薩蘭・伊埓巴勒・實喇斯・實喇哈雅・阿蘓・巴丹とともに、みな哈密から嘉峪闗に入り、三年または五年に一貢で、入京する者は三十五人を超えないこととされた。
- 哈密を経由しない所には、さらに竒爾瑪勒・密爾哈蘭克・托伽拉珠・葉廸干・拉珠・額布勒・英格實・密竒爾・濟蘓・伊聶蘓・哈勒津の十一の地面があり、これらもみな通貢した。
嚕黙特
- 嚕黙特は中国からきわめて遠い。嘉靖三年(1524年)、使者を遣わして獅子・西牛を貢献した。給事中の鄭一鵬は、嚕黙特はかつて貢献したことのある国ではなく、獅子も飼うべき獣ではないとして、却けて聖徳を輝かせるよう請うた。禮官の席書らも、嚕黙特は王会(諸侯朝会の記録)に列していないのでその真偽が分からず、近ごろ土魯番がしばしば甘肅を侵しているが、辺吏が嚕黙特の名簿の中に土魯番の人がいるのを調べ出しており、その狡詐は明白だとして、彼らを関外へ追い出し、捕えた間諜の罪を治めるよう請うた。しかし帝はついにこれを受け入れ、辺臣に調べさせるにとどめた。
- 嘉靖五年(1526年)冬、再び二種の獣を貢献した。頒賜が終わると、その使臣は長途の跋渉に二萬二千餘金を費やしたとして加賜を請うた。御史の張禄が述べた。華と夷は方を異にし、人と獣は姓を異にする。人を留めて獣を養うのは物の性に違うばかりか人情にも背く。まして獅子を養えば日に羊二頭を用い、西牛を養えば日に果餌を用いる。獣が互いに食い合うことと、人の食を食わせることは、聖賢がともに憎んだところである。さらに世話の人役を調え日々供億を要するので、光禄の限りある財をもって人と獣の無益な費えに充てることになり、まことに道理に背く。その人を帰し、その物を却け、その賞を薄くして、中国の聖人が異物を貴ばぬ意を明らかにされたい――と。しかし聴かれず、禮官の言に従って𢎞治年間の賽瑪爾堪の例のとおり加増した。
- 嘉靖二十二年(1543年)、天方ら諸国とともに馬および方物を貢献した。翌年、帰途に甘州へ至った時、ちょうど迤北の賊が入寇したので、總兵官の楊信は貢使九十餘人に防がせ、死者が九人出た。帝はこれを聞いて楊信の職を褫奪し、有司に殯斂させてその喪を帰らせた。
- 嘉靖二十七年(1548年)と嘉靖三十三年(1554年)にもともに入貢した。その貢物には珊瑚・琥珀・金剛鑚・花瓷器・鎖服・撒哈剌の帳・羚羊角・西狗皮・捨列猻皮・鐵角皮の類があった。