明史卷三百二十六 列傳第二百一十四 外國七

篇首の立伝者一覧

  • 古里
  • 柯枝
  • 小葛蘭(割注に「大葛蘭」)
  • 錫蘭山
  • 榜葛剌
  • 沼納樸兒
  • 祖法兒
  • 木骨都束
  • 不剌哇
  • 竹歩
  • 阿丹
  • 剌撒
  • 麻林
  • 忽魯謨斯
  • 溜山(割注に「比剌 孫刺」)
  • 南巫里
  • 加異勒
  • 甘巴里
  • 急蘭丹
  • 沙里灣泥
  • 底里
  • 千里逹
  • 失剌比
  • 古里班卒
  • 刺泥(割注に「夏刺比 竒剌泥 窟察泥 拾剌齊彭加那 八可意 烏沙刺踢 坎巴 阿哇打囘」)
  • 白葛逹(割注に「黒葛逹」)
  • 拂菻
  • 意大里亞

古里――西洋の大国と歴代の入貢

  • 古里は西洋の大国である。西は大海に濱し、南は柯枝国に距り、北は狼奴兒国に距り、東七百里で坎巴国に距る。柯枝から舟行三日で至り、錫蘭山から十日で至る。諸蕃の要会である。
  • 永樂元年(1403年)、中官の尹慶に詔を奉じてその国を撫し諭させ、綵幣を賚った。その酋の沙米的喜は喜んで使を尹慶に従わせ入朝させ、方物を貢いだ。三年(1405年)、南京に達し、国王に封じて印誥および文綺ら諸物を賜った。以後は毎年入貢し、鄭和もしばしばその国に使した。
  • 十三年(1415年)、柯枝・南浡利・甘巴里・滿剌加ら諸国とともに入貢した。十四年(1416年)、また𤓰哇・滿剌加・占城・錫蘭山・木骨都束・溜山・南渤利・不剌哇・阿丹・蘇門答剌・麻林・剌撒・忽魯謨斯・柯枝・南巫里・沙里灣泥・彭亨ら諸国とともに入貢した。この時、諸蕃の使臣が廷に充ち斥ったが、古里は大国であるからその使者を首に序した。
  • 十七年(1419年)、滿剌加ら十七国とともに来貢した。十九年(1421年)、また忽魯謨斯ら諸国とともに入貢した。二十一年(1423年)、再び忽魯謨斯ら諸国とともに使千二百人を遣わして入貢した。時に帝はまさに塞に出ていたので、皇太子に敕して、天の時は寒に向かうから貢使にはただちに礼官に宴労・給賜させて還らせよ、土産を持って来て市する者には官がその値を酬いよ、と言った。
  • 宣徳八年(1433年)、その王の比里麻が使を遣わし、蘇門答剌ら諸国の使臣とともに入貢した。その使は久しく都下に留まり、正統元年(1436年)になって𤓰哇の貢舟に附して西に還るよう命じられた。これより再び至らなかった。

古里――風俗と物産

  • その国は山が多く地が瘠せ、穀はあるが麦は無い。俗ははなはだ淳く、行く者は道を譲り、道に落ちたものを拾わない。人は五等に分かれ、柯枝と同じである。浮屠を敬い、井を鑿って仏に灌ぐのもまた同じである。
  • 毎朝、王および臣民は牛糞を取って水に調え、壁と地に塗り、また煆いて灰とし額と股に抹る。これを仏を敬うこととする。国中は半ば囘教を崇め、礼拝寺を数十処建て、七日に一たび礼拝する。男女は齋み沐して事を謝し、午の時に寺で天を拝し、未の時に散ずる。
  • 王は老いると子に伝えず甥に伝え、甥が無ければ弟に伝え、弟が無ければ国の有徳者に伝える。国事はみな二人の将領が決し、囘囘人をこれに充てる。
  • 刑に鞭笞は無く、重い者は手足を断ち、軽い者は金珠を罰し、とくに重い者は族を夷し産を没する。獄を鞫して承服しなければ、その手指を沸湯の中に置き、三日爛れなければ罪を免ずる。罪を免ぜられた者は将領が鼓楽で導いて家に送り還し、親戚が賀を致す。
  • 富家は多く椰子樹を植え、数千に至る。その若いものは漿を飲むことができ、また酒を釀すこともできる。老いたものは油や糖にでき、また飯にもできる。幹は屋を構え、葉は瓦に代え、殻は杯を製し、穰は索や綯にでき、煆いて灰とすれば金を鑲めることができる。その他の蔬菓・畜産は多く中国に類する。
  • 貢いだ物には宝石・珊瑚珠・琉璃瓶・琉璃枕・宝鐵刀・拂郎双刃刀・金繋腰・阿思模逹・塗兒氣・龍涎香・蘇合油・花氊単・伯蘭布・苾布の類がある。

柯枝――永樂の封と鎮国之山の碑

  • 柯枝は古の盤盤国だとも言い、宋・梁・隋・唐にみな入貢した。小葛蘭から西北に行き、順風で一日夜で至る。
  • 永樂元年(1403年)、中官の尹慶を遣わし詔を齎してその国を撫し諭させ、銷金帳幔・織金文綺・綵帛および華蓋を賜った。六年(1408年)、再び鄭和にその国へ使させた。九年(1411年)、王の可亦里が使を遣わして入貢した。十年(1412年)、鄭和が再びその国に使し、連続して二年入貢した。その使者が印誥を賜り国中の山を封ずるよう請うたので、帝は鄭和に印を齎させてその王に賜い、あわせて碑文を撰して山上に石を勒させた。
  • 碑文の趣旨は次のとおりである。王化は天地と流れ通じ、およそ覆載の内で甄陶に納まるものはみな造化の仁を体している。天下に二つの理は無く、生民に二つの心は無い。憂戚喜楽の同じ情、安逸飽暖の同じ欲に、遠近の隔てがあろうか。君民の寄を任ずる者は民を子とする道を尽くすべきである。詩には「邦畿千里は民の止まるところ」「彼の四海に域を肇む」とあり、書には「東は海に漸り、西は流沙に被び、朔南に声教が暨んで四海に訖る」とある。朕は天下に君臨し華夷を撫し治め、一視同仁で彼此を分かたない。古の聖帝明王の道を推して天地の心に合わせ、遠邦異域にみなその所を得させれば、風を聞いて化に嚮う者は後れるのを恐れて争う。
  • 碑文はさらに続ける。柯枝国は遠く西南の巨海の濱、諸蕃国の外にありながら、中華を慕い徳化を歆うこと久しい。命令が至ると拳跽鼓舞し、順い附くこと帰するがごとく、みな天を仰いで拝し、なんと幸いにも中国の聖人の教えが我に沾んだことか、と言った。ここ数年来、国内は豊かに実り、居るに室廬あり、食は魚鼈に飽き、衣は布帛に足り、老いた者は幼きを慈しみ少き者は長を敬い、熙熙として楽しみ、凌ぎ厲しく争い競う習いが無い。山に猛獣なく溪に悪魚絶え、海は奇珍を出し林は嘉木を産し、諸物の繁盛は尋常に倍する。暴風は興らず疾雨は作らず、疫癘は殄き息んで災害が無い。まことに盛んである。朕は徳を揆るに薄いのに、どうしてこのようであろうか。その民に長たる者の致すところではないか。
  • そこで可亦里を国王に封じ、印章を賜ってその民を撫し治めさせ、あわせて国中の山を封じて鎮国之山とし、碑をその上に勒して無窮に垂れ示した。
  • 銘の趣旨は、彼の高山を截って海邦の鎮とする、烟を吐き雲を出して下国のために洪く龎かである、その煩わしい熱気を粛め、その雨と日照りを時にし、彼の氛妖を祛って彼の豊穣を作す、災いも疫も無く永くこの疆を庇い、優游として歳を卒え、室家がともに慶ぶ、ああ、山は嶮しく海は深い、この銘の詩を勒して相ともに終始とする、というものである。
  • 以後は隔年に入貢した。宣徳五年(1430年)、再び鄭和を遣わしてその国を撫し諭させた。八年(1433年)、王の可亦里が使を遣わして錫蘭山ら諸国とともに来貢した。正統元年(1436年)、その使者を𤓰哇の貢舶に附して国に還らせ、あわせて敕を賜って王を労った。

柯枝――五等の民と気候

  • 王は瑣里の人で釈教を崇める。仏座の四方はみな水溝であり、さらに一つの井を穿つ。毎朝、鐘鼓を鳴らして水を汲み仏に灌ぎ、二たび浴させてはじめて羅拝して退く。
  • その国は錫蘭山と対峙し、中は古里に通じ、東は大山を界とし、三面は海に距る。俗はかなり淳い。室を築くのに椰子樹を材とし、葉を取って苫とし屋を覆う。風雨をみな蔽うことができる。
  • 人は五等に分かれる。一に南昆といい王の族類、二に囘囘、三に哲地といい、いずれも富民である。四に革全といい、いずれも牙儈である。五に木𤓰という。木𤓰は最も貧しく、人のために賤役に執する者で、屋の高さは三尺を過ぎてはならず、衣は上は臍を過ぎず下は膝を過ぎてはならない。途上で南昆・哲地の人に遇えばすぐ地に伏し、その過ぎるのを俟ってはじめて起つ。
  • 気候は常に熱い。一年のうち二、三月には少しの雨があり、国人はみな舎を治め食物を儲えて備える。五、六月の間は大雨が止まず街市が河となる。七月にはじめて晴れ、八月の後は再び雨が降らない。歳ごとにみなそうである。田は瘠せて収穫が少なく、諸穀はみな産するがひとり麦が無い。諸畜もみなあるが、ひとり鵝と驢が無いという。

小葛蘭・大葛蘭

  • 小葛蘭はその国が柯枝と境を接し、錫蘭山から西北に行き六昼夜で達する。東は大山、西は大海、南北は地が窄い。西洋の小国である。
  • 永樂五年(1407年)、使を遣わし古里・蘇門答剌に附して入貢した。その王に綿綺・紗羅・鞍馬ら諸物を賜い、その使者にも賜与があった。王および群下はみな𤨏里人で、釈教を奉じ牛を重んじる。その他の婚喪の諸礼は多く錫蘭と同じである。俗は淳く、土は薄く収穫が少ないので、榜葛刺に仰いで給する。鄭和がかつてその国に使した。その貢はただ珍珠・傘・白棉布・胡椒である。
  • また大葛蘭というものがある。波濤が湍く悍しく舟を泊めることができないので、商人が至ることは稀である。土は黒く墳かで、もとより穀麦に宜しいが、民は耕作に懶く、歳ごとに烏爹の米を頼んで食を足す。風俗・物産は多く小葛蘭に類する。

錫蘭山――亞烈苦奈児の捕縛と新王の冊立

  • 錫蘭山は古の狼牙修だとも言い、梁の時にかつて中国と通じた。蘇門答剌から順風で十二昼夜で達する。
  • 永樂中、鄭和が西洋に使してその地に至ったとき、その王の亞烈苦奈児が鄭和を害しようとしたので、鄭和は気づいて他国に去った。王はまた鄰境と睦まず、しばしば往来の使臣を邀えて劫したので、諸蕃はみなこれに苦しんだ。
  • 鄭和が帰るとき再びその地を経ると、王は鄭和を国中に誘い入れ、兵五万を発して鄭和を劫し帰路を塞いだ。鄭和はそこで歩卒二千を率い、間道から虚に乗じてその城を攻め抜き、亞烈苦奈兒および妻子・頭目を生け捕り、俘を朝に献じた。廷臣は戮を行うよう請うたが、帝はその無知を憫れみ、妻子ともにみな釈し、かつ衣食を給し、その族の賢者を択んで立てるよう命じた。邪把乃那という者があり、諸々の俘囚がみなその賢を称したので、使を遣わし印誥を齎して王に封じ、その旧王もまた遣わし帰らせた。
  • これより海外の諸蕃はますます天子の威徳に服し、貢使が道に載り、王はついにしばしば入貢した。宣徳五年(1430年)、鄭和がその国を撫し諭した。八年(1433年)、王の不剌葛麻巴忽剌批が使を遣わして来貢した。正統元年(1436年)、𤓰哇の貢舶に附して帰らせるよう命じ、敕を賜って諭した。十年(1445年)、滿剌加の使者とともに来貢した。天順三年(1459年)、王の葛力生夏刺昔利把交刺惹が使を遣わして来貢した。以後は再び至らなかった。
  • その国は地が広く人が稠く、貨物がみな聚まり、𤓰哇に亞ぐ。

錫蘭山――翠藍嶼と仏跡

  • 東南の海中に山が三、四座あり、総名を翠藍嶼という。大小七つの門があり、門はみな舟を通せる。中の一山はことに高大で、番名を梭篤蠻山という。その人はみな巣に居り穴に処り、赤身で髪を髠る。
  • 相伝えるに、釈迦仏が昔この山を経て水に浴したとき、ある者がその袈裟を竊んだ。仏は誓って、後に衣を穿つ者があれば必ずその皮肉を爛れさせようと言った。これより寸布でも身に掛ければすぐ瘡毒を発するので、男女はみな裸体で、ただ木の葉を紉いで前後を蔽う。それゆえまた裸形国という。地に穀は生じず、ただ魚蝦および山芋・波羅蜜・芭蕉の実の類を啖う。
  • この山から西へ行くこと七日で鸚哥嘴山を見、また二、三日で佛堂山に扺れば錫蘭国の境に入る。海辺の山石の上に足跡が一つあり、長さ三尺ばかり。古老の言うには、仏が翠藍嶼から来てここを踏んだので足跡がなお存るという。中に浅い水があって四時涸れず、人はみな手で醮って目を拭い面を洗い、仏の水は清浄だと言う。
  • 山下の僧寺に釈迦の真身が側臥する状であり、その傍らに仏の牙および舎利がある。相伝えるに仏の涅槃の処である。その寝座は沈香で作り、諸色の宝石で飾ってはなはだ荘厳である。
  • 王の居るところの側に大山があり、高く雲漢を出る。その頂に巨人の足跡があり、石に入ること深さ二尺、長さ八尺余で、盤古の遺跡だという。この山は紅雅姑・青雅姑・黄雅姑・昔刺泥・窟没藍など諸色の宝石を産し、大雨のたびに山下に衝き流されるので、土人が競ってこれを拾う。
  • 海の傍らに浮沙があり、珠蚌がその内に聚まって光彩が閃き漾う。王は人に撈り取らせて地に置き、蚌が爛れてからその珠を取る。それゆえその国は珠宝がとくに富む。

錫蘭山――信仰と物産

  • 王は瑣里国の人で釈教を崇め牛を重んじる。日ごとに牛糞を取り灰に焼いてその体に塗り、また水に調えてあまねく地上に塗り、そこで仏を礼する。手足をまっすぐ舒べ腹を地に貼けるのを敬とする。王および庶民はみなそのようにする。牛肉を食わずただその乳を食う。死ねばこれを瘞める。牛を殺す者があれば罪は死に至る。
  • 気候は常に熱く、米粟は豊かに足り、民は富み饒かである。しかし飯を噉うのを喜ばず、噉おうとすれば暗い処で人に見られないようにする。全身みな毫毛でことごとく薙り去るが、ただ髪だけは薙らない。
  • 貢いだ物には珠・珊瑚・宝石・水晶・撒哈剌・西洋布・乳香・木香・樹香・檀香・没藥・硫黄・藤竭・蘆薈・烏木・胡椒・碗石・馴象の類がある。

榜葛剌――東印度の入貢と麒麟

  • 榜葛剌はすなわち漢の身毒国で、東漢には天竺といった。その後、中天竺は梁に貢し、南天竺は魏に貢した。唐もまた五天竺に分け、また五印度と名づけた。宋は仍って天竺と名づけた。榜葛剌は東印度である。蘇門答剌から順風で二十昼夜で至る。
  • 永樂六年(1408年)、その王の靄牙思丁が使を遣わして来朝し方物を貢いだ。宴と賜与に差があった。七年(1409年)、その使はあわせて再び至り、従者二百三十余人を携えた。帝はまさに絶域を招き寄せようとしていたので頒賜ははなはだ厚かった。これより毎年入貢した。
  • 十年(1412年)、貢使が至ろうとしたとき、官を遣わして鎮江で宴した。事を将にするに及んで使者はその王の喪を告げたので、官を遣わして往き祭らせ、嗣子の賽勿丁を王に封じた。十二年(1414年)、嗣王が使を遣わして表を奉り来謝し、麒麟および名馬・方物を貢いだ。礼官が表賀を請うたが帝は許さなかった。翌年(1415年)、侯顯を遣わして詔を齎しその国に使させ、王と妃・大臣にみな賜与があった。
  • 正統三年(1438年)、麒麟を貢し、百官が表賀した。翌年(1439年)また入貢した。これより再び至らなかった。

榜葛剌――国土と王宮の儀

  • その国は地が大きく物が豊かで、城池・街市に貨を聚め商を通じ、繁華は中国に類する。四時の気候は常に夏のようで、土は沃え一歳に二たび稔り、□(底本欠字)耘を待たない。俗は淳く龎かで文字がある。男女は耕織に勤め、容体はみな黒いが間に白い者もいる。
  • 王および官民はみな囘囘人で、喪祭・冠婚はことごとくその礼を用いる。男子はみな髪を薙って白布で裹み、衣は頸から貫き下ろし布で囲む。暦には閏を置かない。刑には笞・杖・徒・流の数等がある。官司の上下にもまた行移がある。医・卜・陰陽・百工・技芸はことごとく中国のようで、思うにみな前世に流れ入ったものである。
  • その王は天朝を敬い、使者が至ると聞くと官を遣わして儀物を具え、千騎で来迎する。王宮は高く広く、柱はみな黄銅で包み飾って花や獣を雕り琢む。左右に長廊を設け、内には明るい甲の馬隊千余を列ね、外には巨人が明るい盔甲で刀剣・弓矢を執って列なり、威儀ははなはだ壮んである。丹墀の左右に孔雀の翎の扇・蓋百余を設け、また象隊百余を殿前に置く。王は八宝の冠を飾り、殿上の高座に箕踞して剣を膝に横たえる。
  • 朝使が入ると、銀の杖を拄く者二人に導かせ、五歩ごとに一たび呼び、中に至って止まる。また金の杖を拄く者二人が初めのように導く。その王は拝して詔を迎え、叩頭して手を額に加える。開読と受賜が終わると、毧毯を殿に設けて朝使に宴する。酒を飲まず、薔薇露を香蜜水に和して飲ませる。使者には金の盔・金の繋腰・金の瓶・金の盆を贈り、その副使にはことごとく銀を用い、従者にもみな贈がある。
  • その貢は良馬・金銀・琉璃器・青花白瓷・鶴頂・犀角・翠羽・鸚鵡・洗白苾布・兜羅緜・撒哈刺・糖霜・乳香・熟香・烏香・麻藤香・烏爹泥・紫膠・藤竭・烏木・蘇木・胡椒・粗黄である。

沼納樸兒

  • 沼納樸兒はその国が榜葛刺の西にあり、あるいは中印度で古に称された仏国だともいう。
  • 永樂十年(1412年)、使者を遣わし敕を齎してその国を撫し諭させ、王の亦不剌に金絨錦・金織文綺・綵帛などの物を賜った。
  • 十八年(1420年)、榜葛刺の使者がその国王のしばしば兵を挙げて侵すことを訴えたので、優詔して中官の侯顯に敕を齎させ、鄰と睦み境を保つ義を諭し、あわせて綵幣を賜った。通過した金剛宝座の地にもまた賜与があった。しかしその王は中国を去ることきわめて遠いとして、朝貢はついに至らなかった。

祖法兒

  • 祖法兒は古里から西北へ舟で順風十昼夜で至る。永樂十九年(1421年)、使を遣わして阿丹・剌撒ら諸国とともに入貢した。鄭和に璽書と賜物を齎させてこれに報いた。二十一年(1423年)、貢使がまた至った。宣徳五年(1430年)、鄭和が再びその国に使すると、その王の阿里はただちに使を遣わして朝貢し、八年(1433年)に京師に達した。正統元年(1436年)に国に還り、璽書を賜って王を奨めた。
  • その国は東南が大海、西北が重なる山である。天候は常に八、九月のようで、五穀・蔬果・諸畜がみな備わる。人の体は頎く碩い。王および臣民はことごとく囘囘教を奉じ、婚喪もまたその制に遵う。多く礼拝寺を建て、礼拝の日に遇えば市の貿易を絶ち、男女長幼みな沐浴して衣を新たにし、薔薇露あるいは沈香油で面を拭う。沈檀・俺八兒ら諸香を土の罏に焚き、人がその上に立って衣を薫らせ、それから拝しに往く。通り過ぎた街市は香りが時を経ても散らない。
  • 天使が至って詔書の開読が終わると、その王はあまねく国人に諭し、ことごとく乳香・血竭・蘆薈・没藥・蘇合油・安息香ら諸物を出させて華人と交易させる。
  • 乳香は樹の脂である。その樹は榆に似て葉は尖り長い。土人が樹を砍ってその脂を取り香とする。駝鶏があり、頸が長く鶴に類し、足の高さは三、四尺、毛の色は駝のごとく、歩みもまたそのようである。常にこれを貢に充てる。

木骨都束

  • 木骨都束は小葛蘭から舟行二十昼夜で至る。永樂十四年(1416年)、使を遣わし不剌哇・麻林ら諸国とともに表を奉り朝貢した。鄭和に敕および幣を齎させ、その使者とともに往かせて報いた。後に再び入貢し、また鄭和を偕に行かせ、王および妃に綵幣を賜った。二十一年(1423年)、貢使がまた至り、還るときその王および妃にさらに賜与があった。宣徳五年(1430年)、鄭和が再びその国に詔を頒った。
  • 国は海に濱し、山が連なり地は広いが磽く瘠せて収穫が少なく、歳ごとに常に旱り、あるいは数年雨が降らない。俗は頑なで嚚しく、時に兵を操り射を習う。地に木を産せず、また忽魯謨斯のように石を壘んで屋とし、魚の腊を用いて牛・羊・馬・駝を飼うという。

不剌哇

  • 不剌哇は木骨都束と壌を接する。錫蘭山の别羅里から南行二十一昼夜で至る。永樂十四年(1416年)から二十一年(1423年)まであわせて四たび入貢し、いずれも木骨都束と偕にした。鄭和もまた二たびその国に使した。宣徳五年(1430年)、鄭和が再び往ってその国に使した。
  • 海に傍って居り、地は広く斥鹵で草木が少ない。やはり石を壘んで屋とする。塩池があり、ただ樹の枝を中に投じてやがて取り起こせば、塩がその上に凝る。俗は淳く、田は耕すことができず、蒜・葱のほかに他の作物が無く、もっぱら魚を捕って食とする。
  • 産するものには馬哈獣(状は獐のよう)、花福禄(状は驢のよう)および犀・象・駱駝・没藥・乳香・龍涎香の類があり、常にこれを貢に充てる。

竹歩

  • 竹歩もまた木骨都東と壌を接する。永樂中にかつて入貢した。その地は戸口が繁くなく、風俗はかなり淳い。鄭和がその地に至った。地にはまた草木が無く、石を壘んで居る。歳ごとに旱暵が多い。いずれも木骨都束と同じである。産するものには獅子・金錢豹・駝蹄雞・龍涎香・乳香・金珀・胡椒の類がある。

阿丹――入貢と暦法

  • 阿丹は古里の西にあり、順風で二十二昼夜で至る。永樂十四年(1416年)、使を遣わして表を奉り方物を貢いだ。辞して還るとき、鄭和に敕および綵幣を齎させて偕に往き賜わせた。これよりあわせて四たび入貢し、天子もまた厚く賜与を加えた。
  • 宣徳五年(1430年)、海外の諸番が久しく貢を欠いたので、再び鄭和に敕を齎させて宣諭させた。その王の抹立克那思兒はただちに使を遣わして来貢し、八年(1433年)京師に至り、正統元年(1436年)にはじめて還った。以後、天朝は再び使を通ぜず、遠番の貢使もまた至らなかった。
  • 前世、梁・隋・唐の時にともに丹丹国があり、あるいはその地だともいう。地は膏え膄え粟麦に饒かで、人の性は強く悍い。馬歩の鋭卒七、八千人があり、鄰邦がこれを畏れる。王および国人はことごとく囘囘教を奉ずる。
  • 気候は常に和らぎ、歳に閏を置かない。時を定める法は月を準とし、今夜新月を見れば明日を月の朔とする。四季は定まらず、自ら陰陽家がその日を推算する。春の首とされる日にはすぐ花が開き、秋の初めとされる日にはすぐ葉が落ちる。および日月の交食・風雨・潮汐もみな予め測ることができる。

阿丹――中官の交易と麒麟・獅子

  • その王ははなはだ中国を尊び、鄭和の船が至ると聞いて自ら部領を率いて来迎し、国に入って詔を宣べ終わると、あまねくその下に諭してことごとく珍宝を出させ互いに易えさせた。
  • 永樂十九年(1421年)、周姓の中官が往って市したところ、貓睛で重さ二錢ばかりのもの、珊瑚樹で高さ二尺のもの数枝、また大珠・金珀・諸色の雅姑ら異宝、麒麟・獅子・花貓・鹿・金錢豹・駝鶏・白鳩を得て帰った。他国の及ばぬところである。
  • 蔬果・畜産はみな備わるが、ひとり鵝と豕の二つが無い。市肆に書籍があり、工人の製する金の首飾りは諸蕃に絶えて勝る。少ないのはただ草木が無いことで、その居もみな石を壘んで作る。
  • 麒麟は前足の高さ九尺、後ろは六尺、頸の長さ一丈六尺、短い角が二つ、牛の尾に鹿の身で、粟・荳・餅・餌を食う。獅子は形が虎のようで黒黄色、斑が無く、首が大きく口が広く尾が尖り、声は吼えること雷のごとく、百獣はこれを見るとみな地に伏す。
  • 嘉靖の時、方丘・朝日壇の玉爵を製するのに、紅黄の玉を天方・哈宻ら諸蕃に購ったが得られなかった。ある通事が、この玉は阿丹に産する、土魯番を去ること西南二千里で、その地に両山が対峙して自ら雌雄をなし、あるいは自ら鳴ると言い、永樂・宣徳の故事のとおり重い賄を齎して往って購うよう請うたが、帝は部議に従ってこれを止めた。

剌撒

  • 刺撒は古里から順風で二十昼夜で至る。永樂十四年(1416年)、使を遣わして来貢し、鄭和に報いさせた。後にあわせて三たび貢し、いずれも阿丹・不刺哇ら諸国と偕にした。宣徳五年(1430年)、鄭和が再び敕を齎して往き使したが、ついに再び貢しなかった。
  • 国は海に傍って居り、気候は常に熱く、田は瘠せて収穫が少ない。俗は淳く、喪葬に礼がある。事あれば鬼神に禱る。草木が生えず、久しく旱って雨が降らない。居室はことごとく竹歩ら諸国と同じである。産するものには乳香・龍涎香・千里駝の類がある。

麻林

  • 麻林は中国を去ることきわめて遠い。永樂十三年(1415年)、使を遣わして麒麟を貢いだ。至ろうとするとき、礼部尚書の吕震が表賀を請うた。帝は「先に儒臣が五経四書大全を進めて表を上ることを請うたとき、朕はこれを許した。この書が治に益があるからである。麟の有無が何の損益であろうか。それは止めよ」と言った。
  • やがて麻林と諸蕃の使者が麟および天馬・神鹿ら諸物を進めた。帝が奉天門に御して受けると、百僚は稽首して賀を称した。帝は「これは皇考の厚徳の致すところであり、また卿らの翊贊に頼るものである。ゆえに遠人がことごとく来た。今より後、ますます徳を秉って朕の及ばぬところを迪くべきである」と言った。十四年(1416年)、また方物を貢いだ。

忽魯謨斯――西洋の大国と入貢

  • 忽魯謨斯は西洋の大国である。古里から西北へ行き二十五日で至る。
  • 永樂十年(1412年)、天子は、西洋の近い国はすでに海を航って琛を貢し闕下に稽顙しているが、遠い国はなお賓服していないとして、鄭和に璽書を齎して諸国に往かせ、その王に錦綺・綵帛・紗羅を賜い、妃および大臣にもみな賜与があった。王はただちに陪臣の已即丁を遣わして金葉の表を奉り、馬および方物を貢いだ。十二年(1414年)京師に至り、礼官に宴賜を命じ、馬の値を酬いた。還るときに王および妃以下に賜って差があった。これよりあわせて四たび貢し、鄭和もまた二たび使した。後は朝使が往かず、その使もまた来なかった。
  • 宣徳五年(1430年)、再び鄭和を遣わしてその国に詔を宣べさせると、その王の賽弗丁はそこで使を遣わして来貢した。八年(1433年)京師に至り、宴賜に加えるところがあった。正統元年(1436年)、𤓰哇の舟に附して国に還った。以後ついに絶えた。

忽魯謨斯――風土と物産

  • その国は西海の極みに居り、東南の諸蛮邦および大西洋の商舶、西域の賈人がみな来て貿易するので、宝物が充ち溢れている。気候に寒暑があり、春に花を発き秋に葉を隕とす。霜はあるが雪は無く、露が多く雨は少ない。土は瘠せて穀麦が寡ないが、他方から転輸する者が多いので価はことに賤い。
  • 民は富み俗は厚い。禍に遭って貧しくなる者があれば、衆はみな錢帛を遺してともに振い助ける。人は多く色白く豊かで偉く、婦女は出るときは紗で面を蔽う。市には廛肆が列なり百物が具わるが、ただ酒を禁じ、犯す者は罪が死に至る。医・卜・技芸はみな中華に類する。交易には銀錢を用い、書は囘囘の字を用いる。王および臣下はみな囘教に遵い、婚喪はことごとくその礼を用い、日ごとに齋戒沐浴して虔しく拝すること五たびである。
  • 地は多く鹹く草木を産しない。牛・羊・馬・駝はみな魚の腊を噉う。石を壘んで屋とし、三、四層のものがある。寝処・庖厨・厠および客を待つ所はみなその上にある。蔬果に饒かで、核桃・把耼・松子・石榴・葡萄・花紅・萬年棗の類がある。
  • 境内に大山があり、四面が色を異にする。一つは紅い塩石で、鑿って器とし食物を盛れば、塩を加えなくとも味が自ら和らぐ。一つは白土で垣壁に塗ることができる。一つは赤土、一つは黄土で、みな用に適う。
  • 貢したものには獅子・麒麟・駝鶏・福禄・靈羊があり、常の貢は大珠・宝石の類である。

溜山・比刺・孫刺

  • 溜山は錫蘭山の别羅里から南へ順風で七昼夜で至る。蘇門答刺から小帽山を過ぎて西南に行き、十昼夜で至る。
  • 永樂十年(1412年)、鄭和が往ってその国に使した。十四年(1416年)、その王の亦速福が使を遣わして来貢した。以後の三たびの貢はいずれも忽魯謨斯ら諸国と偕にした。宣徳五年(1430年)、鄭和が再びその国に使したが、後にはついに至らなかった。
  • その山は海中にあり、三つの石門があっていずれも舟を通せる。城郭は無く、山に倚って聚まり居る。気候は常に熱く、土は薄く穀は少なく麦が無い。土人はみな魚を捕らえ日に暴して乾かし食に充てる。王および群下はことごとく囘囘人で、婚喪の諸礼は多く忽魯謨斯に類する。
  • 山の下に八つの溜があり、あるいはその外にさらに三千の溜があるともいう。舟が風を失ってその処に入れば沈み溺れる。
  • また比刺という国、孫刺という国があり、鄭和もまたかつて敕を齎して往って賜ったが、中華を去ることきわめて遠いので、二国の貢使はついに至らなかった。

南巫里

  • 南巫里は西南の海中にある。永樂三年(1405年)、使を遣わし璽書・綵幣を齎してその国を撫し諭させた。六年(1408年)、鄭和が再び往って使した。九年(1411年)、その王が使を遣わして方物を貢し、急蘭丹・加異勒ら諸国とともに来た。その王に金織文綺・金繡龍衣・銷金の幃幔および□(底本欠字)蓋ら諸物を賜い、礼官に宴賜を命じてこれを遣った。十四年(1416年)、再び貢し、鄭和にその使とともに行かせた。後は再び至らなかった。

加異勒・甘巴里

  • 加異勒は西洋の小国である。永樂六年(1408年)、鄭和を遣わし詔を齎して招き諭させ、錦綺・紗羅を賜った。九年(1411年)、その酋長の葛卜者麻が使を遣わして表を奉り方物を貢いだので、宴および冠帯・綵幣・宝鈔を賜るよう命じた。十年(1412年)、鄭和が再びその国に使した。後にあわせて三たび入貢した。宣徳五年(1430年)、鄭和が再びその国に使した。八年(1433年)、また阿丹ら十一国とともに来貢した。
  • 甘巴里もまた西洋の小国である。永樂六年(1408年)、鄭和がその地に使し、その王に錦綺・紗羅を賜った。十二年(1414年)、使を遣わして方物を朝貢した。十九年(1421年)、再び貢し、鄭和を遣わしてこれに報いた。宣徳五年(1430年)、鄭和が再びその国を招き諭すと、王の兠哇刺札が使を遣わして来貢し、八年(1433年)京師に抵り、正統元年(1436年)に𤓰哇の舟に附して国に還り、敕を賜って王を労った。
  • その鄰境に阿撥把丹・小阿蘭の二国があり、これもまた六年(1408年)に鄭和に敕を齎させて招き諭させ、賜与もまた同じであった。

急蘭丹

  • 永樂九年(1411年)、王の麻哈剌查苦馬児が使を遣わして朝貢した。十年(1412年)、鄭和に敕を齎させてその王を奨め、錦綺・紗羅・綵帛を賚った。

沙里灣泥

  • 永樂十四年(1416年)、使を遣わして方物を献じた。鄭和に幣帛を齎させ、還ってこれに賜わせた。

底里

  • 永樂十年(1412年)、使を遣わし璽書を奉じてその王の馬哈木を招き諭させ、絨錦・金織文綺・綵帛ら諸物を賜った。その地は沼納樸兒に近く、あわせてその王の亦不剌に金を賜った。

千里達

  • 永樂十六年(1418年)、使を遣わして方物を貢いだ。その使に冠帯・紵絲・紗羅・綵帛および宝鈔を賜い、還るときその王への賜与に加えるところがあった。

失刺比

  • 永樂十六年(1418年)、使を遣わして朝貢した。その使に冠帯・金織文綺・襲衣・綵幣・白金を賜って差があり、その王にもまた優れた賜与があった。

古里班卒

  • 永樂中にかつて入貢した。その土は瘠せて穀が少なく、物産もまた薄い。気候は斉わず、夏に雨が多く、雨が降ればすなわち寒い。

刺泥および夏刺比ら諸国

  • 永樂元年(1403年)、その国中の囘囘の哈只馬哈沒竒・刺泥らが来て方物を貢し、ついでに胡椒を携えて民と市した。有司がその税を徴することを請うたが、帝は「税を徴すのは末を逐う民を抑えるためであって、どうして利のためであろうか。今、遠人が義を慕って来たのに、その貨を取ったところで得るものはいくばくもなく、国体を虧損することは多い。それは止めよ」と言った。
  • 刺泥のほかに数国がある。夏刺比・竒刺泥・窟察泥・捨剌齊・彭加那・八可意・烏沙刺踢・坎巴・阿哇・打囘という。永樂中にかつて使を遣わして朝貢したが、その国の風土・物産は稽えるすべがない。

白葛逹・黒葛達

  • 白葛逹は永樂元年(1403年)、その臣の和者里一思を遣わして入貢した。その使臣が言うには、風に遭って舟が破れ貢物がことごとく失われた、国主の惓惓たる忠敬の忱を上達させるすべがなく、これは使臣の罪である、ただ聖天子が恩をもって貸し、冠帯を賜って国主に帰り見えさせ、陪臣が実際に闕廷に詣ったことを知らせてくだされば、責めを免れられようか、と。
  • 帝は許し、鄰国の貢舟に附して帰国させ、諭して「倉卒に風を失うのはどうして人力で制せられよう。帰って汝の主に語れ。朕は王の誠を嘉するのであって物にあるのではない」と言った。宴と賜与はことごとく礼のとおりであった。辞して帰るとき、帝は礼官に「天の時が次第に寒くなり、海道は遼く遠い。路費および衣服を賜ってよい」と言った。
  • その国は土地が瘠薄で、釈教を崇め、市易には鐡錢を用いる。
  • また黒葛達があり、これも宣徳の時に来貢した。国は小さく民は貧しく、仏を尚び刑を畏れ、牛羊が多い。やはり鐡で錢を鋳る。

拂菻

  • 拂菻はすなわち漢の大秦で、桓帝の時にはじめて中国と通じた。晋および魏はいずれも大秦といい、かつて入貢した。唐は拂菻といい、宋も仍った。やはりしばしば入貢したが、宋史は歴代かつて朝貢しなかったといい、大秦ではないことを疑っている。
  • 元の末、その国の人の揑古倫が中国に来て市したが、元が亡んで帰れなくなった。太祖はこれを聞き、洪武四年(1371年)八月に召見し、詔書を齎して還ってその王に諭させた。
  • 詔の趣旨は次のとおりである。宋が馭を失って以来、天はその祀を絶ち、元が沙漠に興って中国に入り主となること百有余年であったが、天はその昏淫を厭い、やはりその命を隕とし絶った。中原は擾乱すること十有八年、群雄が初めて起こったとき、朕は淮右の布衣であったが、義を起こして民を救い、天の霊を荷って文武の諸臣を授けられ、東のかた江左に渡り、兵を練り士を養うこと十有四年、西は漢王の陳友諒を平らげ、東は吳王の張士誠を縛り、南は閩・粤を平らげ、巴蜀を戡め定め、北は幽燕を定め、方夏を奠め安んじ、我が中国の旧疆を復した。朕は臣民に推戴されて皇帝の位に即き、天下を有つ号を定めて大明といい、洪武と建元して今に四年である。およそ四夷の諸邦にはみな官を遣わして告げ諭したが、ただ汝の拂菻は西海を隔て越えていて、まだ報せていない。今、汝の国の民である揑古倫を遣わし、詔を齎して往き諭させる。朕はいまだ古の先哲王が万方に徳を懐かせたのには及ばないが、天下に朕が四海を平定した意を知らせないわけにはいかない。ゆえにここに詔告する、と。
  • やがて再び使臣の普刺らに敕書・綵幣を齎させてその国を招き諭させたので、そこで使を遣わして入貢したが、後は再び至らなかった。
  • 萬厯の時、大西洋人が京師に至り、天主の耶穌は如徳亞に生まれた、すなわち古の大秦国であると言った。その国は開闢以来六千年、史書に載せるところの世代の相い嬗ぐこと、および万事万物の原始まで詳悉でないものはなく、天主が人類を肇め生んだ邦であるとした。言はかなり誕謾で信ずるに足りない。その物産・珍宝の盛んなことは前史に見えている。

意大里亞――利瑪竇の来朝と萬國全圖

  • 意大里亞は大西洋の中に居り、古より中国と通じなかった。萬歴の時、その国の人の利瑪竇が京師に至り、萬國全圖を作って、天下に五大洲があると言った。第一を亞細亞洲といい、中におよそ百余国があって中国はその一つである。第二を歐羅巴洲といい、中におよそ七十余国があって意大里亞はその一つである。第三を利未亞洲といい、やはり百余国がある。第四を亞墨利加洲といい、地はさらに大きく、境土が相連なるので南北二洲に分ける。最後に墨瓦臘泥加洲を得て第五とし、域中の大地は尽きるという。その説は荒渺で考えるすべがないが、その国の人が中土に充ち斥っているのだから、その地はもとより有るのであって誣うことはできない。
  • おおむね歐羅巴の諸国はことごとく天主耶穌の教を奉ずる。耶穌は如徳亞に生まれ、その国は亞細亞洲の中にあり、西のかた歐羅巴に教を行った。その生まれたのは漢の哀帝の元夀二年庚申(1年)で、一千五百八十一年を閲して萬歴九年(1581年)に至り、利瑪竇がはじめて海を汎ぶこと九万里、広州の香山澳に至った。その教はついに中土に沾み染みた。

意大里亞――礼部の駁議と京師滞留

  • 二十九年(1601年)、京師に入った。中官の馬堂がその方物を進め献じ、自ら大西洋人と称した。
  • 礼部が言った。会典にはただ西洋瑣里国があるだけで大西洋は無く、その真偽は知り難い。また寄り居ること二十年でようやく進貢に行くというのでは、遠方から義を慕って特に来て琛を献ずる者とは違う。かつその貢する天主および天主母の図はすでに不経であり、携えてきたものにはまた神仙の骨などがある。そもそも神仙と称する以上は自ら飛昇できるはずで、どうして骨があろうか。唐の韓愈のいわゆる凶穢の余りであって、貢に入れるべきでなく禁ずべきものである。まして、これらの方物は臣の部で訳し験していないのに直ちに進献されたのだから、内臣が混じり進めた非と、臣らが職に溺れた罪とは、ともに辞することを容さぬものである。旨を奉じて部に送られたのに、部に赴いて審らかに訳させず私かに僧舎に寓しており、臣らはその何の意かを知らない。ただ諸番の朝貢には例として回賜があり、その使臣には必ず宴賞がある。冠帯を賜って国に還らせ、両京に潜み居って中国の人と交わり往き、別に事端を生じさせぬようにしていただきたい、と。報ぜられなかった。
  • 八月、また言った。臣らは利瑪竇を国に還らせるよう議して命を候ったが、五月を経ても綸音を賜らない。遠人が鬱ぎ病んで帰を思うのを怪しむに足りない。その情辞の懇切なるを察するに、まことに尚方の錫予を願わず、ただ山に棲み野に宿ろうとする意がある。これを譬えれば、禽鹿が久しく羈がれてますます長い林と豊かな草を思うようなもので、人情はもとよりそうである。速やかに頒賜して江西の諸処に赴かせ、その深い山と邃い谷に跡を寄せて老いを怡しませるのを聴すよう乞う。それもまたやむを得ぬことである、と。
  • やがて帝はその遠来を嘉し、館を仮し粲を授け、給賜は優厚であった。公卿以下はその人を重んじ、みな交わり接した。利瑪竇はこれに安んじ、ついに留まり居って去らず、三十八年(1610年)四月に京で卒し、西郭の外に葬を賜った。

意大里亞――暦法への参画

  • その年十一月朔の日食で、暦官の推算に謬りが多く、朝議は修め改めようとした。翌年(1611年)、五官正の周子愚が、大西洋の帰化人の龎廸我・熊三㧞らは深く暦法に明るく、その携えた暦書には中国の載籍に及ばぬものがあるから、訳上させて採択に資すべきだと言った。礼部侍郎の翁正春らはそこで洪武の初めに囘囘暦科を設けた例に倣い、龎廸我らに同じく測験させるよう請い、従われた。

意大里亞――天主教をめぐる排斥の議

  • 利瑪竇が中国に入ってから、その徒の来る者はますます衆くなった。王豐肅という者があり、南京に居ってもっぱら天主教で衆を惑わし、士大夫から里巷の小民までその間に誘われる者があった。礼部郎中の徐如珂はこれを憎んだ。その徒がまた風土・人物が遠く中華に勝ると自ら誇ったので、徐如珂は二人を召して筆と札を授け、それぞれ記憶するところを書かせたところ、ことごとく舛謬して相合わなかった。そこで駆り斥ける議を倡えた。
  • 四十四年(1616年)、侍郎の沈㴶・給事中の晏文輝らとともに合疏して、その邪説が衆を惑わすことを斥け、かつ佛郎機の仮託であることを疑い、急ぎ駆逐を行うよう乞うた。
  • 礼科給事中の余懋孶もまた言った。利瑪竇が東来してから中国にまた天主の教ができ、留都の王豐肅・陽瑪諾らが群衆を煽り惑わすこと一万人を下らず、朔望の朝拝はややもすれば千を以て計る。そもそも番に通じ左道を行うことにはともに禁がある。今、公然と夜に聚まり暁に散ずるのは、まったく白蓮・無為の諸教と同じである。かつ壕鏡に往来して澳中の諸番と謀を通じているのに、司る者が遣り斥けようとしないのでは、国家の禁令はどこにあるのか、と。
  • 帝はその言を納れ、十二月に至って王豐肅および龎廸我らをともに広東に遣し赴かせ、本国に還るのを聴すよう令じた。命が下って久しかったが遷延して行われず、司る者もまた督し発しなかった。
  • 四十六年(1618年)四月、龎廸我らが奏した。臣と先の臣の利瑪竇らは十余年、海を渉ること九万里、上国の光を観、大官の食を叨ること十有七年である。近ごろ南北の参劾があって屏け斥けることが議されたが、竊かに念うに臣らは焚修して道を学び天主を尊び奉じており、どうして邪な謀があって悪業に堕ちよう。ただ聖明が憐れみを垂れ、風の便を候って国に還らせてくだされば幸いである。もし海の嶼に寄り居れば、ますます猜疑を滋す。あわせて南都の諸処の陪臣も一体に寛く仮していただきたい、と。報ぜられなかったので、怏怏として去った。王豐肅はまもなく姓名を変え、再び南京に入って教を行うことはもとのごとくであったが、朝士は察することができなかった。

意大里亞――西洋砲と崇禎厯書

  • その国は砲を製するのに善く、西洋のものより更に大きい。すでに内地に伝え入り、華人は多くこれに倣ったが用いることができなかった。天啟・崇禎の間、東北で兵を用いるにあたり、しばしば澳中の人を召して都に入れ、将士に学習させ、その人もまた力を尽くした。
  • 崇禎の時、暦法はますます疏く舛ったので、礼部尚書の徐光啟が、その徒の羅雅谷・湯若望らにその国の新法を以て参え較べさせ、局を開いて纂修するよう請い、報可された。久しくして書が成り、崇禎元年戊辰(1628年)を暦元とし、これを崇禎厯書と名づけた。頒行はされなかったが、その法は大統歴に比べて密であり、識者は取るところがあった。
  • その国の人で東来した者はおおむね聡明特達の士で、意はもっぱら教を行うにあり禄利を求めず、その著す書は多く華人の道わぬところであった。ゆえに一時、異を好む者はみなこれを尚び、士大夫では徐光啟・李之藻の輩がまずその説を好み、かつその文詞を潤色したので、その教はにわかに興った。
  • 時に声を中土に著した者にはさらに龍華民・畢方濟・艾如畧・鄧玉函の諸人がある。龍華民・畢方濟・艾如畧および熊三㧞はみな意大里亞国の人、鄧玉函は熱而瑪尼国の人、龎廸我は依西把尼亞国の人、陽瑪諾は波而都瓦爾国の人で、みな歐羅巴洲の国である。その言うところの風俗・物産は多く夸っている。かつ職方外紀の諸書があるので具さには述べない。