明史卷三百二十四 列傳第二百一十二 外國五
篇首の立伝者一覧
- 占城(賓童龍)
- 真臘
- 暹羅
- 瓜哇(闍婆・蘇吉丹・碟里・日羅夏治)
- 三佛齊
占城――沿革と洪武年間の通交
- 占城は南海の中にあり、瓊州から海を航して順風なら一昼夜で至る。福州から西南に十昼夜行っても至る。周の越裳の地で、秦では林邑、漢では象林縣であった。後漢の末に區連がその地を占拠して初めて林邑王と称し、晋から隋まで同じであった。唐のときは占不勞ともいい、占婆ともいった。その王の居るところを占城といい、至徳の後は環王と号を改めた。周・宋に至ってついに占城を号とし、朝貢は絶えなかった。元の世祖はその命に逆らうのを憎んで大挙して兵を挙げこれを撃破したが、平定するには至らなかった。
- 洪武二年(1369年)、太祖は官を遣わして即位の詔をその国に諭した。その王の阿荅阿者はすでに先に使を遣わして表を奉じて来朝し、象・虎・方物を貢いでいた。帝は喜び、ただちに官に璽書・大統歴・文綺・紗羅を持たせ、その使者とともに赴かせてその王に賜った。王はまた使を遣わして来貢した。以後、毎年貢ぐこともあり、隔年のことも、一年に二度のこともあった。
- まもなく、中書省管勾の甘桓と會同館副使の路景賢に詔を持たせ、阿荅阿者を占城国王に封じ、綵幣四十・大統歴三千を賜った。
- 洪武三年(1370年)、使を遣わしてその国の山川を祀り、まもなく科挙の詔をその国に頒った。
- 初め安南と占城は兵を構えており、天子は使を遣わして諭し和解させたが、安南はまた侵した。
- 洪武四年(1371年)、その王は金葉の表を奉じて来朝した。長さ一尺余り、幅五寸で、本国の字が刻まれており、館人がこれを訳した。その趣旨は、大明皇帝が大宝の位に登り四海を撫有されることは天地の覆載・日月の照臨のごとくで、阿荅阿者は一草木にすぎない。使を遣わされ金印をもって国王に封じられたことを深く感戴している。ただ安南が兵を用いて疆域を侵擾し、吏民を殺掠している。皇帝が慈をたれて兵器および楽器・楽人を賜り、占城が声教の及ぶ朝貢の地であることを安南に知らしめ、あえて欺き陵がないようにしていただきたい、というものであった。
- 帝は礼部に諭させて言った。占城と安南はともに朝廷に仕え、同じく正朔を奉じているのに、擅に兵を構えて生霊を毒害するのは、君に仕える礼を失い、隣と交わる道にも背く。すでに安南国王に咨して即日兵を罷めさせた。本国もまた信を講じ睦を修め、それぞれ疆土を保つべきである。求められた兵器は王に何を惜しもうか。だが両国が互いに争っているのに占城に賜うのは、その攻め合いを助けることであって撫安の義ではない。楽器・楽人は語音が異なるので遣わしがたい。その国に華言を解する者があれば選んで来させよ、修習させよう、と。あわせて福建の省臣にその税を徴収しないよう命じ、懐柔の意を示した。
- 洪武六年(1373年)、貢使が「海寇の張汝厚・林福らが元帥を自称して海上で剽掠したので、国主がこれを撃破した。賊魁は溺死し、その舟二十艘・蘇木七万斤を獲たので、謹んで献ずる」と述べた。帝は嘉して賜与を一等加えるよう命じた。冬、使を遣わして安南に対する勝報を献じた。帝は省臣に「去年の冬は安南が占城の犯境を言い、今年は占城が安南の擾辺を言う。曲直が分からない。人を遣わしてそれぞれ兵を罷め民を休ませ、互いに侵擾しないよう諭せ」と言った。
- 洪武十年(1377年)、安南王の陳煓と大いに戦い、煓は敗れて死んだ。
- 洪武十二年(1379年)、貢使が都に至ったのに中書が時を移して奏さなかった。帝は丞相の胡惟庸と汪廣洋を厳しく責め、二人はここで罪を得た。官を遣わして王に大統歴および衣・幣を賜い、安南と好を修めて兵を罷めさせた。
- 洪武十三年(1380年)、使を遣わして万寿節を賀した。帝はその安南との水戦が不利であったと聞き、敕を賜って諭した。先には安南の兵が出て占城に敗れ、占城が勝ちに乗じて安南に入り、安南の辱めは甚だしかった。王が境を保ち民を休ませれば福は長く享けられるが、必ず兵を駆って苦戦すれば勝負は分からず、鷸蚌が相持して漁人が利を得ることになる。後日悔いても遅いのではないか、と。
- 洪武十六年(1383年)、象牙二百枝と方物を貢いだ。官を遣わして勘合の文冊および織金の文綺三十二・磁器一万九千を賜った。
- 洪武十九年(1386年)、子の寳部領詩那日忽を遣わして来朝し万寿節を賀し、象五十四頭を献じた。皇太子にも献上があった。帝はその誠を嘉して手厚く賜与し、中官に送り帰らせた。翌年また象五十一頭および伽南・犀角などを貢いだ。帝は宴と賜与を加え、広東まで帰ったところで再び中官に宴を設けて餞し、道中の費用を給した。
- 真臘が象を貢いだとき、占城王がその四分の一を奪った。その他にも徳を失う事が甚だ多かった。帝はこれを聞いて怒り、洪武二十一年(1388年)夏、行人の董紹に敕を持たせて責めさせた。紹が到着しないうちにその貢使が京に至り、まもなく再び使を遣わして謝罪したので、制のとおり宴と賜与を命じた。
- このとき阿荅阿者は道を失い、大臣の閣勝は不軌の謀を懐き、洪武二十三年(1390年)に王を弑して自立した。翌年、太師を遣わして表を奉じて来貢したが、帝はその悖逆を憎んで却けた。洪武三十年(1397年)以後、また続けて入貢した。
占城――永樂・宣德年間と安南との抗争
- 成祖が即位すると、詔をその国に諭した。
- 永樂元年(1403年)、その王の占巴的賴が金葉の表を奉じて朝貢し、あわせて安南の侵掠を告げ、敕を降して戒諭するよう請うた。帝は許し、行人の蔣賓興・王樞をその国に使いさせ、絨錦・織金文綺・紗羅を賜った。
- 翌年、安南王の胡□(底本欠字)の奏によって兵を収めるよう詔し、官を遣わして占城王に諭した。ところが王は使を遣わして「安南は詔旨に従わず舟師を出して侵し、朝貢の使が持ち帰る賜物もことごとく奪掠された。また臣に冠服・印章を与えて臣属とならせようとし、すでに臣の沙離牙などの地を占拠し、なお侵掠をやめない。臣は自存できないことを恐れる。版図に隷し、官を遣わして治めていただきたい」と奏した。帝は怒って胡□(底本欠字)を敕して責め、占城王には紗幣を賜った。
- 永樂四年(1406年)、白象と方物を貢ぎ、また安南の難を告げた。帝は大いに兵を発して討たせ、占城に境上で兵を厳しくして敵の逃走を遮り、捕らえた者はただちに京師に送るよう敕した。
- 永樂五年(1407年)、安南に侵された地を攻め取り、賊党の胡烈・潘麻休らを捕らえて闕下に俘を献じ、方物を貢いで謝恩した。帝はその助兵と討逆を嘉し、中官の王貴通に敕および銀・幣を持たせて賜った。
- 永樂六年(1408年)、鄭和がその国に使いした。王はその孫の舍楊該を遣わして象および方物を貢ぎ、謝恩した。
- 永樂十年(1412年)、その貢使が冠帯を乞うたので与えた。また鄭和にその国へ使いさせた。
- 永樂十三年(1415年)、王師がまさに陳季擴を征するとき、占城に助兵を命じた。尚書の陳洽は「その王はひそかに二心を懐き、期を過ぎても進まず、かえって金帛・戦象をもって季擴を助けている。季擴は黎蒼の女を贈った。また季擴の舅の陳翁挺と約して升華府の管轄する四州十一縣の地を侵した。その罪は同じである。兵を遣わして討つべきだ」と言った。帝は交阯が平定されたばかりで師を労したくなく、ただ敕を賜って厳しく責め、侵した地を返させた。王はただちに使を遣わして謝罪した。
- 永樂十六年(1418年)、その孫の舍那挫を遣わして来朝させた。中官の林貴・行人の倪俊に送り帰らせ、賜与があった。
- 宣徳元年(1426年)、行人の黄原昌が赴いて正朔を頒った。その王の不謹を糾し、酬いられた金・幣を却けて帰り、戸部員外郎に抜擢された。
- 正統元年(1436年)、瓊州知府の程瑩が「占城は毎年一貢しており、労費は実に多い。暹羅など諸国の例のように三年一貢としていただきたい」と言った。帝はもっともとして、その使者に瑩の言のとおりを敕し、王と妃に綵幣を賜った。しかし番人は中国との市易を利としており、この令があってもついに遵守しなかった。
- 正統六年(1441年)、王の占巴的賴が卒した。その孫の摩訶賁該が遺命によって王孫の述提昆を遣わして来朝・貢献させ、あわせて位を嗣ぐことを乞うた。そこで給事中の舒瞳・行人の呉恵に詔を持たせて王に封じ、新王と妃にともに賜与があった。
- 正統七年(1442年)春、述提昆が途中で卒した。帝は憐れみ、官を遣わして祭を賜った。
- 正統八年(1443年)、甥の且揚樂催を遣わして舞牌の旗と黒象を貢いだ。
- 正統十一年(1446年)、摩訶賁該に敕諭して言った。近ごろ安南王の黎濬が使を遣わして、王がその孤幼につけこみ、かつて升華・思義など四州を侵し、今また屢々化州を攻めてその人畜・財物を掠めていると奏した。二国はともに朝命を受け、それぞれ境を分かっている。どうして兵を興して怨みを構え、隣と睦み境を保つ義に背いてよいか。王は礼分に従い、辺臣を厳しく戒めて、擅に侵犯して生霊に禍をもたらしてはならない、と。あわせて安南にも厳しく防備し、私怨で報復しないよう諭した。
- これより先に三年一貢の例を定めたが、その国は従わなかった。使者を詰問すると「先王はすでに逝き、前の敕も残っていないので、この令を知らなかった」と言った。この年、貢使がまた至ったので、重ねて王に制を遵守するよう敕し、王と妃に綵幣を賜った。冬にはまた使を遣わして来貢した。
- 正統十二年(1447年)、王は安南と戦って大敗し捕らえられた。故王の占巴的賴の甥の摩訶貴來が使を遣わして奏した。先王は病を抱えたとき臣を世子として位を嗣がせようとしたが、臣は当時年少で弱かったので、舅の摩訶賁該に位を譲った。後に屢々兵を興して安南を伐ったため敵兵が舊州・古壘などに入り、人畜を殺掠して尽き、王も捕らえられた。国人は臣が先王の甥であり遺命もあるとして代位を請うた。再三辞したが、やむを得ず府前で政務を執っている。臣は擅にはできないので朝命を伏して待つ、と。そこで給事中の陳誼・行人の薛幹を遣わして王に封じ、国を保ち隣と交わるよう諭し、あわせて国中の臣民に共に輔翼するよう諭した。
- 正統十三年(1448年)、安南に摩訶賁該を国に送り返すよう敕したが、命を奉じなかった。
- 景泰三年(1452年)、使を遣わして来貢し、あわせて王の訃を告げた。給事中の潘本愚・行人の邊永にその弟の摩訶貴由を王に封じさせた。
- 天順元年(1457年)、入貢した。その正使・副使に鈒花の金帯を賜った。
- 天順二年(1458年)、王の摩訶槃羅悦が新たに立ち、使を遣わして表を奉じ朝貢した。天順四年(1460年)にも貢いだ。正使以下に紗帽および金・銀・角の帯を差をつけて賜った。使者が安南に侵されていると訴えたので、安南王に敕諭した。九月、使が来て王の喪を告げたので、給事中の黄汝霖・行人の劉恕に王の弟の槃羅茶全を王に封じさせた。
- 天順八年(1464年)、入貢した。憲宗が位を嗣いだので蕃国に錦・幣を頒賜すべきところ、礼官が使臣に持ち帰らせるよう請い、許された。使者はまた安南に侵され白象を求索されていると訴え、永樂年間のように官を遣わして安撫し、界の標石を建てて侵陵を防いでいただきたいと乞うた。兵部は両国が争っている最中なので使を遣わすのは不都合だとして、使臣に帰って国王に諭させ、礼法に従い封疆を固め外侮を防ぎ、軽々しく禍を構えぬようにさせたいと乞い、許された。
占城――安南に破られ、古來の冊封をめぐる経緯
- 成化五年(1469年)、入貢した。このころ安南は占城に犀・象・宝貨を求め、天朝に仕える礼で自分に仕えよと命じた。占城が従わなかったので、大挙して伐ちに来た。
- 成化七年(1471年)、その国を破り、王の槃羅茶全および家属五十余人を捕らえ、印符を奪い、大いに焼き掠めて、その地を占拠した。王の弟の槃羅茶悦は山中に逃れ、使を遣わして難を告げた。兵部は「安南が与国を呑併したのに処分しなければ、占城の帰附の心を失うばかりか、安南の跋扈の志を啓くおそれがある。官に敕を持たせて宣諭し、その国王と眷属を返させるべきだ」と言った。帝は安南が命に逆らうことを慮り、貢使が至った日に敕を賜って責めるよう命じた。
- 成化八年(1472年)、槃羅茶悦の請封により、給事中の陳峻・行人の李珊に節を持たせて赴かせた。峻らが新州港に至ると守る者が拒み、その国がすでに安南に占拠されて交南州と改められたと知って、あえて入らなかった。成化十年(1474年)冬に還朝した。
- 安南は占城を破った後、また兵を遣わして槃羅茶悦を捕らえ、前王の孫の齋亞麻弗菴を王に立て、国の南辺の地を与えた。
- 成化十四年(1478年)、使を遣わして朝貢し封を請うた。給事中の馮義・行人の張瑾に封じに行かせた。義らは私物を多く携えていた。広東に至ったところで齋亞麻弗菴がすでに死に、その弟の古來が使を遣わして封を乞うたと聞いた。義らは空しく還って利を失うことを慮り、急ぎ占城に至った。占城の人は「王孫は封を請うた後に古來に殺され、安南が偽の敕でその国人の提婆苔を王に立てた」と言った。義らは奏報を待たずに印と幣を提婆苔に授けて封じ、賄賂の黄金百余両を得た。さらに滿剌加国に行って私物をすべて売り払って帰った。馮義は海上で病死し、張瑾はその事を具さに述べ、あわせて偽の敕を朝廷に上呈した。
- 成化十七年(1481年)、古來が使を遣わして朝貢し、次のように述べた。安南が臣の国を破ったとき、故王の弟の槃羅茶悦は佛靈山に逃れ住んだが、天使が封誥を持って至ったころにはすでに賊人に捕らえ去られていた。臣と兄の齋亞麻弗菴は山谷にひそんだ。後に賊人は天威を畏れ、人を遣わして臣の兄を訪ね求め、故地を返した。しかしそれは邦都郎から真臘までの五処にとどまる。臣の兄は国を摂して間もなく急死した。臣が嗣立すべきだが擅にはできない。天恩によって冊と印を賜りたい。臣の国の所有の土地はもと二十七処、四府・一州・二十二縣、東は海に至り、南は真臘に至り、西は黎人山に至り、北は阿本喇補に至って、およそ三千五百余里である。特に交人に諭してことごとく本国に返させていただきたい、と。
- 章が廷議に下されると、英国公の張懋らは「威望ある近臣二人を特に遣わして使いさせるべきだ」と請うた。当時、安南の貢使がちょうど帰るところだったので、ただちに敕を賜って黎灝を詰責し、速やかに地を返して朝命に抗するなと命じた。
- 礼官はそこで張瑾が擅に封じたことを弾劾し、捕らえて詔獄に下し、その実情を得て死罪と論じた。
- そのとき古來の遣わした使臣が館にいたので召して問うと、「古來は実に王の弟であり、その王は病死したのであって弑されたのではない。提婆苔とは何者か分からない」と言った。そこで使臣をひとまず広東に帰し、提婆苔の使が至るのを待って真偽を審らかにして処置することとした。使臣は命を待って一年を経たが提婆苔の使は来ず、そこで帰国させた。
- 成化二十年(1484年)、古來に敕して提婆苔を撫諭させ、もとの降された国王の印を納めさせ、偽封を受けた罪を宥して従来どおり頭目とすることとした。提婆苔が命を受けなかったので、給事中の李孟暘・行人の葉應を遣わして古來を国王に冊封させた。孟暘らは「占城は険しく遠く、安南との兵はまだやまず、提婆苔がまたその地を窃拠している。少しでも慎まなければかえって国威を損なう。来使に古來へ伝諭させ、広東に来て封を受けさせ、あわせて安南に禍を悔いるよう敕すべきだ」と言い、許された。古來はそこで老撾から家族を連れて崖州に赴き、孟暘は封の事を終えて帰った。
- 古來はさらに自ら闕廷に赴いて安南の罪を奏したいと願った。成化二十三年(1487年)、総督の宋旻がこれを言上した。廷議は大臣一人を遣わして労い、安南に檄して滅んだ国を存し絶えた祀を継がせ、古來を迎えて占城に返すこととした。帝は許可し、南京右都御史の屠滽に赴かせた。広東に至るとただちに安南に檄を伝えて禍福を宣示し、健卒二千人を募り海舟二十艘を出して古來を護って帰国させた。安南は屠滽が大臣で特に遣わされたのであえて抗せず、古來は入ることができた。
- 翌年、𢎞治と改元し、使を遣わして入貢した。
- 弘治二年(1489年)、弟の卜古良を広東に遣わし、「安南がなお侵陵をほしいままにしている。永樂のときのように将を遣わし兵を督して守護していただきたい」と述べた。総督の秦紘らがこれを言上した。兵部は「安南と占城はいずれも祖訓に載る不征の国である。永樂年間に将に命じて師を出したのは黎賊の弑逆の罪を正したのであって、隣境が交悪したためではない。今、黎灝は謹んで貢を修めており、古來の膚受の訴えは実情に過ぎたところがあろう。一方の言を信じて師を労してよい相手ではない。守臣に回咨させ、近ごろ交人が王子を殺害したとき古蘇麻王がただちに衆を率いて破り、仇と恥はすでに雪いだのだから、王は自ら強めて政を修め、国人を撫恤し疆域を固め、なお安南と睦みを敦くして好を修め、その他の嫌疑や細事はすべて棄てるべきである。もし自強できず、もっぱら朝廷が兵を発して海を渡り王に代わって国を守るのを頼りにするなら、古来そのような道理は無い、と言わせるべきだ」と言った。帝はその言のとおりにした。
- 弘治三年(1490年)、使を遣わして謝恩した。その国は残破して以来、民も物も寂れ、貢使は次第に稀になった。
- 弘治十二年(1499年)、使を遣わして「本国の新州港の地はなお安南に侵奪され、患いはやまない。臣は年老いた。臣が死なぬうちに長子の沙古卜洛に襲封させ、他日国土を保てるようにしていただきたい」と奏した。廷議は「安南が占城の患いとなるのは一日のことではない。朝廷はかつて占城の訴えにより屢々璽書を降して懇ろに諭し、安南は前後の奏報でいずれも朝命を承け土地・人民をすべて返したと言う。しかし安南の弁明が届いたそばから占城の訴えがまた聞こえる。真にやむを得ぬ事情があるのかもしれない。なお守臣に安南を切諭させ、人の土地を貪って自ら禍殃を招くなと言わせ、さもなければ偏師を遣わしてその罪を問うことを議すべきである。占城王の長子については、父の在世中に襲封する道理は無いので、まず世子に立てて国事を摂させ、他日位を襲ぐべきときに例のとおり封を請わせたい」とし、帝は允可した。まもなく王孫の沙不登古魯を遣わして来貢した。
- 弘治十八年(1505年)、古來が卒した。子の沙古卜洛が使を遣わして来貢したが、父の喪を告げず、ただ大臣をその国に遣わし、なお新州港などの地をもって封じてほしいと乞い、別に土地を占奪されたことについての奏があって、わずかに父の死に触れるだけであった。
- 給事中の任良弼らは言った。占城はかつて国土が削られ弱くなったので、貢に事寄せて封を乞い、天威を頼んで隣国を懾服させた。実のところ国王が立つか立たぬかは朝廷が封ずるか否かにかかわらない。今、古來はすでに没したというが虚実は知りがたい。万一、我が使が彼の地に至って古來がなお存命であったら、そのままその子を封ずるのか、義として不可としてやめるのか。迫られた間で処理は極めて難しい。かつて科臣の林霄が滿剌加に使いしたとき、北面して膝を屈することを肯んじなかったために幽閉され餓死したが、ついにその罪を問えなかった。君命と国威は慎まぬわけにはいかない。
- さらに言った。おおむね海外の諸蕃は、無事なら朝貢を廃して自ら立ち、事があれば朝貢に事寄せて封を請う。今度の貢使の来朝も、どうして封を求めるのに急なのであろうか。安南に侵された地を回復し、粤東の逃亡者を返させたいだけである。安南の侵地については璽書で屢々返還を諭したのに占拠は元のままである。今また諭せば彼は軽んじて見るだろう、天威が汚れる。もし我が使が占城を封じに行き、引き留められて帰されず処分を求められたら朝廷はどう応じるのか。あるいは我が使を拘束して逃亡者を索めさせたら、天朝の貴臣を海外の蛮邦の人質にすることになる。往年に古來が広東で封を受けた事のように、敕を領して帰国させるのが計として便宜である、と。
- 礼部もまた古來の存亡が明らかでないとして、広東の守臣に文を移して占城に勘査報告させるよう請い、許された。その後、封の事は長らく行われなかった。
- 正德五年(1510年)、沙古卜洛が叔父の沙係把麻を遣わして入貢し、あわせて封を請うた。給事中の李貫・行人の劉文瑞に赴かせたが、貫は広東に至ると行くのを憚り、古來の先例のようにその使臣に封を領させたいと請うた。廷議は「官を遣わしてすでに二年になる。今中止するのは滅びた国を興し絶えた祀を継ぐ義ではない。もしその使が封を領することを願わず、あるいは領して帰っても受ける者が適任でなければ、重ねて事端を起こし、いっそう国体を傷つける。貫らを急ぎ行かせるべきだ」とした。
- 貫はついに行くのを憚り、通事と火長(水先案内)が欠けていることを口実にした。廷議は広東の守臣にその人を探させ、どうしても得られなければ旧例どおりにすることとした。貫はまた言を設けて「臣は命を奉じて五年、風波の険を憚っているように見えようが、そうではない。占城は古來が逐われた後、赤坎の邦都郎に逃れ住み、旧疆ではないので行きようがない。まして古來は前王の齋亞麻弗菴の頭目であって、王を殺して位を奪った。王には三子があり、その一人はなお存命である。義としても春秋の法をもって律することはできない。罪を問う師を興さないまでも、朝貢の使は絶つべきである。それをまた人探しの議などして、いたずらに歳月を延ばすばかりで事に益は無い」と言った。広東巡按の丁楷もこれに付会して奏し、廷議は従った。
- 正德十年(1515年)、その使臣に敕を持たせて赴かせた。以後これが先例となった。その国の貢使もまた常には来なくなった。
- 嘉靖二十二年(1543年)、王の叔父の沙不登古魯を遣わして来貢し、しばしば安南に侵擾されて道が阻まれ帰りがたいと訴え、官を遣わして護送し帰国させるよう乞い、許された。
占城――風俗と物産
- その国には霜も雪も無く、四季ともに夏のようで、草木は常に青い。民は漁を業とする。二麦は無く、耕作に励む者が少ないので収穫は薄い。
- 国人はみな檳榔を食い、終日口から離さない。朔望を解さず、ただ月が生ずるのを月初、月が晦むのを月末とする。閏を置かない。昼夜を十更に分け、日中でなければ起きず、夜半でなければ寝ない。月を見れば酒を飲み歌舞して楽しむ。
- 紙筆が無く、羊皮を槌いて薄くし燻して黒くしたものに、細く削った竹に白灰を浸して字を書く。その形は蚯蚓のようである。
- 城郭と甲兵がある。人の性は狠にして狡く、取引は多く公平でない。戸はみな北向きで、民居はことごとく茅で覆い、軒の高さは三尺を超えてはならない。部領は等級を分けて差をつけ、門の高低にも限りがある。
- 飲食は穢く、魚は腐爛しなければ食わず、醸したものは蛆が生じなければ美とはしない。人の体は黒く、男は蓬頭、女は椎髻で、ともに跣足である。
- 王は鎖里の人で、釈教を崇める。年ごとに生きた人の胆を採って酒の中に入れ、家人とともに飲み、また体を浴する。「通身これ胆」というのである。その国人が採って王に献じ、また象の目を洗うのにも用いる。いつも道で人をうかがい、不意を突いて急に殺し、胆を取って去る。もしその人が驚いて気づけば、胆はすでに裂けていて用に足りない。多くの胆を器に置くと華人の胆は必ず上に浮くので、とりわけ貴ばれる。五、六月の間、商人は外出するに必ず備えを厳しくする。
- 王は在位三十年になると位を避けて深山に入り、兄弟や子姪に代わらせ、自らは斎を持し戒を受けて天に告げる、「我は君として無道であった。願わくは狼虎が我を食らうか、病んで死ぬかしたい」と。一年いて無事であれば、もとどおり復位する。国中では昔嚟馬哈剌と呼び、至尊至聖の称である。
- 国はさほど富まないが、犀と象が最も多い。烏木・降香は樵って薪とする。伽南香だけはその地の一つの山に産し、酋長が人を遣わして守り、民は採ることを許されず、犯した者は手を斬られる。
- 鰐魚の潭がある。獄で疑わしく決しがたいものは、両者に牛に乗ってその傍らを過ぎさせる。曲がった者はたちまち魚が躍り出て食い、正しい者は幾度往復しても食われない。
- 尸頭蠻という者があり、一名を屍致魚という。もとは婦人で、ただ瞳の神が無いのが異なる。夜中に人と同衾していて、突然に頭が飛んで人の穢物を食い、戻ればまた生き返る。もし人がそれを知って首を封じたり他所へ移したりすれば、その婦人は死ぬ。国では厳しい禁を設け、これがあるのに告げない者は罪が一家に及ぶ。
賓童龍
- 賓童龍国は占城と地を接する。あるいは、如来が舍衛国に入って乞食したのはこの地だともいう。
- 気候・草木・人物・風土はおおむね占城に似ている。ただし喪に遭えば服を持することができ、僻地に葬り、斎を設けて仏を礼する。婚姻は男女の偶合による。
- 酋の出入りは象、あるいは馬に乗り、従者は百余人、前後で讃唱する。民は茅を編んで屋を覆う。貨は金・銀・花布を用いる。
- 崑崙山があり、大海の中に節然とそびえ、占城および東西竺と鼎のように相対する。その山は方広で高く、その海を崑崙洋という。西洋へ行く者は必ず順風を待って七昼夜かけてようやく越えられる。そこで舟人は諺に「上は七州を怕れ、下は崑崙を怕る。針迷い舵失えば、人も船も存せず」と言う。
- この山には異産が無い。人はみな穴や巣に住み、果実・魚蝦を食い、家屋も井戸も竈も無い。
真臘――沿革と明への朝貢
- 真臘は占城の南にあり、順風なら三昼夜で至る。隋・唐および宋にはみな朝貢した。宋の慶元年間に占城を滅ぼしてその地を併せたので、国名を改めて占臘といった。元のときはやはり真臘と称した。
- 洪武三年(1370年)、使臣の郭徵らに詔を持たせてその国を撫諭した。
- 洪武四年(1371年)、その国の巴山王の忽爾那が使を遣わして表を進め方物を貢ぎ、翌年の正旦を賀した。詔して大統歴および綵幣を賜い、使者にも差をつけて給賜した。
- 洪武六年(1373年)、進貢した。
- 洪武十三年(1380年)、王の參答甘武者持達志が使を遣わして来貢した。宴と賜与は前と同じであった。十三年にまた貢いだ。
- 洪武十六年(1383年)、使を遣わして勘合の文冊をその王に賜った。およそ国中の使が至って勘合が合わない場合は矯偽とみなし、縛って報告することを許した。さらに使を遣わして織金の文綺三十二・磁器一万九千を賜った。その王は使を遣わして来貢した。
- 洪武十九年(1386年)、行人の劉敏・唐敬を中官とともに遣わし、磁器を持たせて賜った。翌年、敬らが還ると、王は使を遣わして象五十九頭・香六万斤を貢いだ。まもなく使を遣わしてその王に鍍金の銀印を賜い、王と妃にもみな賜与があった。
- その王の參烈寳毘邪甘菩者は使を遣わして象および方物を貢いだ。翌年また象二十八頭・象奴三十四人・番奴四十五人を貢ぎ、印を賜った恩を謝した。
- 洪武二十二年(1389年)、三度貢いだ。翌年もまた貢いだ。
- 永樂元年(1403年)、行人の蔣賓興・王樞に即位の詔をその国に諭させた。翌年、王の參烈婆毘牙が使を遣わして来朝し方物を貢いだ。
- 初め中官が真臘に使いしたとき、部卒三人がひそかに逃げ、探しても見つからなかったので、王はその国の三人を代わりに差し出していた。ここに至って引見すると、帝は「華人が自ら彼の地に逃げたのに、どうして償いを責めるのか。まして言語も通じず風土にも慣れない者を私がどう用いようか」と言い、衣服および道中の費用を賜って送り返させた。
- 永樂三年(1405年)、使を遣わして来貢し、故王の喪を告げた。鴻臚序班の王孜に致祭させ、給事中の畢進・中官の王琮に詔を持たせてその嗣子の參烈昭平牙を王に封じさせた。進らが還ると、嗣王は使を遣わして同行させ謝恩した。
- 永樂六年(1408年)・永樂十二年(1414年)に再び入貢した。使者はその国がしばしば占城に侵擾されているとして久しく留まって去らなかった。帝は中官を遣わして送り帰らせ、あわせて占城王に兵を罷めて好を修めるよう敕した。
- 永樂十五年(1417年)・十七年(1419年)にともに入貢した。宣徳・景泰年間にも使を遣わして入貢した。以後は常には来なくなった。
真臘――風俗と物産
- その国の城壁は周囲七十余里、幅員は数千里に及ぶ。国中には金の塔・金の橋があり、殿宇は三十余所ある。王は年に一度会を開き、玉の猿・孔雀・白象・犀牛を前に並べ、これを百塔洲と名づける。食は金の盤・金の椀に盛る。そこで「富貴なる真臘」の諺がある。民俗は富饒である。
- 天候は常に暑く、霜雪を知らない。禾は一年に数度実る。男女は椎髻に結い、短衫を着て梢布を巻く。
- 刑には劓・刖・刺配があり、盗みには手足を切る。番人が唐人を殺せば死罪、唐人が番人を殺せば金を科し、金が無ければ身を売って罪を贖う。唐人とは諸蕃が華人を呼ぶ称で、およそ海外の諸国はみなそうである。
- 婚嫁のときは両家ともに八日間門を出ず、昼夜灯を燃やす。人が死ぬと野に置いて烏や鳶に食わせ、たちまち食い尽くされるのを福報とする。喪に居るときはただ髪を剃るだけで、女子は額の上の髪を銭ほどの大きさに剪り、「これをもって親に報いる」という。
- 文字は麂や鹿の雑皮を黒く染め、粉を細い条にして上に画く。永く落ちない。
- 十月を歳首とし、閏はことごとく九月を用いる。夜を四更に分ける。天文を暁る者もあり、日月の薄蝕を計算できる。
- その地では儒を班詰、僧を苧姑、道を八思といい、班詰は何の書を読むのか分からないが、これによって仕える者を華貫とする。以前は項に白い線を一本掛けて自らを別ち、貴くなっても白い線を曳くのは変わらない。
- 俗として釈教を尊び、僧はみな魚肉を食い、あるいはそれを仏に供える。ただ酒だけは飲まない。
- その国は自ら甘孛智と称し、後に訛って甘破蔗となり、萬歴の後にはまた東埔寨と改めた。
暹羅――沿革と洪武年間の通交
- 暹羅は占城の西南にあり、順風なら十昼夜で至る。すなわち隋唐の赤土国で、後に羅斛と暹の二国に分かれた。暹は土地が瘠せて耕作に適さず、羅斛は地が平らかで種を蒔けば多く穫れたので、暹はこれに仰いだ。元のとき暹はしばしば入貢したが、その後、羅斛が強くなって暹の地を併せ、暹羅斛国と称するようになった。
- 洪武三年(1370年)、使臣の呂宗俊らに詔を持たせてその国を諭した。
- 洪武四年(1371年)、その王の參烈昭毘牙が使を遣わして表を奉じ、宗俊らとともに来て、馴象・六足の亀および方物を貢いだ。詔してその王に錦・綺を、使者に幣帛を差をつけて賜った。まもなくまた使を遣わして翌年の正旦を賀したので、詔して大統歴および綵幣を賜った。
- 洪武五年(1372年)、黒熊・白猿および方物を貢いだ。翌年もまた来貢した。その王の姉の參烈思寧が別に使を遣わして金葉の表を進め、宮中に方物を貢いだが、却けた。その後また姉が使を遣わして来貢したが、帝はやはり却け、その使には宴と賜与をした。
- 当時、その王は懦弱で武を欠いていたので、国人はその伯父の參烈寳毘邪□(底本欠字)哩哆囉禄を推して国事を主らせ、使を遣わして告げ、方物を貢いだ。宴と賜与は制のとおりであった。その後、新王が使を遣わして来貢し謝恩した。その使者にも献上があったが、帝は納れなかった。
- その後、使を遣わして翌年の正旦を賀し方物を貢ぎ、あわせて本国の地図を献じた。
- 洪武七年(1374年)、使臣の沙里拔が来貢して「昨年、烏猪洋に舟を泊めたところ風に遭って舟が壊れ、海南に漂着した。官司の救護によって、漂流の後に残った兜羅綿・降香・蘇木などをなお保っているので進献する」と述べた。広東の省臣がこれを言上した。帝はその表が無いのを怪しみ、また舟が覆ったといいながら方物が残っているのを訝り、番商ではないかと疑って却けさせた。
- 帝は中書および礼部の臣に諭して言った。古え諸侯は天子に対し、毎年一度は小聘、三年に一度は大聘し、九州の外は一世に一度朝した。貢ぐ方物は誠敬を表すだけである。高麗はかなり礼楽を知るので三年一貢とさせた。他の遠国、たとえば占城・安南・西洋瑣里・瓜哇・浡泥・三佛齊・暹羅斛・真臘などの諸国は入貢が頻繁で労費が甚だしい。今後は改めるまでもない。諸国に牒を移して知らせよ、と。しかし来る者はやまなかった。
- その世子の蘇門邦王昭禄羣膺もまた使を遣わして皇太子に箋を上り方物を貢いだ。その使を東宮に朝見させ、宴と賜与をして帰らせた。
- 洪武八年(1375年)、再び入貢した。その舊明臺王の世子昭孛羅局もまた使を遣わして表を奉じ朝貢したので、宴と賜与は王の使と同じにした。
- 洪武十年(1377年)、昭禄羣膺が父の命を承けて来朝した。帝は喜び、礼部員外郎の王恒らに詔および印を持たせて賜った。印の文は「暹羅國王之印」であった。あわせて世子に衣・幣および道中の費用を賜った。以来、その国は朝命に従って初めて暹羅と称した。毎年一貢、あるいは一年に二貢したが、正統以後は数年に一貢のこともあったという。
- 洪武十六年(1383年)、勘合の文冊および文綺・磁器を賜り、真臘などと同じであった。
- 洪武二十年(1387年)、胡椒一万斤・蘇木一万斤を貢いだ。帝は官を遣わして手厚く報いた。当時、温州の民でその沈香などを買った者があり、担当の役所は通番の罪として棄市に当てようとした。帝は「温州は暹羅が必ず経る地である。その往来に応じて買ったのであって通番ではない」と言い、赦された。
- 洪武二十一年(1388年)、象三十頭・番奴六十人を貢いだ。
- 洪武二十二年(1389年)、世子の昭禄羣膺が使を遣わして来貢した。
- 洪武二十三年(1390年)、蘇木・胡椒・降香十七万斤を貢いだ。
- 洪武二十八年(1395年)、昭禄羣膺が使を遣わして朝貢し、あわせて父の喪を告げた。中官の趙達らを遣わして祭らせ、世子に王位を嗣ぐよう敕し、賜与を加えた。諭して言った。朕は即位以来、使に命じて国境を出させ四方をめぐらせた。足でその境を踏んだのは三十六、耳で同じく聞いたのは三十一、風俗の異なる大国は十八、小国は百四十九である。今に較べれば暹羅が最も近い。近ごろ使が至って、汝の先王がすでに逝き、王が先王の緒を継いで邦家に道あり、臣民が歓んでいると知った。ここに特に人を遣わして命を賜う。王は法度を失わず、楽に淫せず、前の功業を輝かせよ、と。
暹羅――永樂以降の朝貢と隣国との紛争
- 成祖が即位すると詔をその国に諭した。
- 永樂元年(1403年)、その王の昭禄羣膺哆囉諦剌に駝鈕の鍍金銀印を賜った。その王はただちに使を遣わして謝恩した。六月、高皇帝に尊諡を上ったので、官を遣わして詔を頒ち賜与があった。八月、また給事中の王哲・行人の成務にその王へ錦・綺を賜らせた。九月、中官の李興らに敕を持たせてその王を労い賜い、その文武の諸臣にもみな賜与があった。
- 永樂二年(1404年)、番船が福建の海岸に漂着した。詰問すると暹羅が琉球と好を通じるための船であった。担当の役所がその貨を登録して言上すると、帝は「二国が好を修めるのはたいへん美しい事である。不幸にも風に遭ったのだから憐れむべきで、これに乗じて利としてよいものか」と言い、担当の役所にその舟を修理させ、粟を給し、風の便を待って琉球へ赴かせた。
- この月、その王は帝が璽書を降して労い賜ったことに対し、使を遣わして謝し方物を貢いだ。賜与を加え、あわせて列女傳百冊を賜った。使者が度量衡を頒って国の永式とするよう請い、許された。
- これより先、占城の貢使が帰るとき風に舟を流されて彭亨に至ったところ、暹羅がその使を取って抑留し帰さなかった。また蘇門答剌と滿剌加も、暹羅が強きを恃んで兵を発し天朝から賜った印誥を奪ったと訴えた。帝は敕を降して責めた。占城・蘇門答剌・滿剌加は汝とともに朝命を受けている。どうして威をほしいままにしてその貢使を拘え、その誥印を奪ってよいか。天には顕らかな道があり、善に福し淫に禍する。安南の黎賊を鑑戒とすべきである。ただちに占城の使者を返し、蘇門答剌・滿剌加の印誥を返せ。今後は法を奉じ理に循い、境を保ち隣と睦めば、永く太平の福を享けられよう、と。
- そのころ暹羅が遣わした貢使は風を失って安南に漂着し、ことごとく黎賊に殺され、ただ孛黑一人が残った。後に官軍が安南を征したときこれを得て連れ帰った。帝は憐れみ、永樂六年(1408年)八月、中官の張原に命じて国に送り返させ、王に幣帛を賜って殺された者の家を手厚く恤むよう命じた。九月、中官の鄭和がその国に使いし、その王は使を遣わして方物を貢ぎ、前の罪を謝した。
- 永樂七年(1409年)、使が来て仁孝皇后を祭った。中官に几筵にその旨を告げさせた。
- そのころ奸民の何八觀らが暹羅に逃げ込んだ。帝は使者に帰って主に告げ、逃亡者を受け入れぬよう命じた。その王はただちに命を奉じ、使を遣わして馬および方物を貢ぎ、あわせて八觀らを送り返した。張原に敕と幣を持たせてこれを奨めた。
- 永樂十年(1412年)、中官の洪保らに幣を賜りに行かせた。
- 永樂十四年(1416年)、王子の三賴波羅摩剌劄的賴が使を遣わして父の喪を告げた。中官の郭文に祭らせ、別に官に詔を持たせてその子を王に封じ、素錦・素羅を賜った。ついで使を遣わして謝恩した。
- 永樂十七年(1419年)、中官の楊敏らに護って帰らせ、暹羅が滿剌加を侵したことについて使を遣わして責め、和睦するよう命じた。王はまた使を遣わして謝罪した。
- 宣徳八年(1433年)、王の悉里麻哈賴が使を遣わして朝貢した。
- 初め、その国の陪臣の柰三鐸らの貢舟が占城の新州港に泊まったとき、ことごとくその国人に掠奪された。正統元年(1436年)、奈三鐸はひそかに小舟に便乗して京に来り、占城の劫掠のさまを訴えた。帝は占城の使者を召して対質させたが、使者は答えられなかった。そこで占城王に敕して掠めた人と物をすべて返させた。その後、占城は礼部に咨を移し「本国が一昨年、須文達那に遣わした使もまた暹羅の賊人に掠め去られた。暹羅がまず掠めた者を返せば、本国もあえて返さぬことはない」と言った。
- 正統三年(1438年)、暹羅の貢使がまた至ったので、敕を賜ってこの意を明らかにし、速やかに占城の人と物を返させた。
- 正統十一年(1446年)、王の思利波羅麻那惹智剌が使を遣わして入貢した。
- 景泰四年(1453年)、給事中の劉洙・行人の劉泰にその故王の波羅摩剌劄的賴を祭らせ、その嗣子の把羅蘭米孫剌を王に封じた。
- 天順元年(1457年)、その貢使に鈒花の金帯を賜った。
- 天順六年(1462年)、王の孛剌藍羅者直波智が使を遣わして朝貢した。
- 成化九年(1473年)、貢使が「天順元年に頒たれた勘合が虫に食われた」と言って改給を乞い、許された。
- 成化十七年(1481年)、貢使が帰る途中でひそかに子女を買い、さらに私塩を多く積んだので、官を遣わして諸蕃を戒諭するよう命じた。これより先、汀州の人の謝文彬が塩を売るために海に出て、その国に漂着し、坤岳にまで仕えた。天朝の学士に当たる。後に使に充てられて来朝したが、禁物を貿易したことが発覚して獄に下された。
- 成化十八年(1482年)、使を遣わして朝貢し、あわせて父の喪を告げた。給事中の林霄・行人の姚隆にその子の國隆勃剌略坤息剌旡地を王に封じさせた。
- 𢎞治十年(1497年)、入貢した。当時、四夷館に暹羅の訳字官がいなかったので、閣臣の徐溥らが広東に牒を移してその国の言語文字に通じる者を探し出して京に赴かせ備用とするよう請い、許された。
- 正德四年(1509年)、暹羅の船で広東に漂着したものがあった。市舶中官の熊宣が守臣と議してその品に課税し軍需に充てようとした。事が聞こえると、詔して宣が妄りに事の権柄を握ったと斥け、南京に撤還させた。
- 正德十年(1515年)、金葉の表を進めて朝貢したが、館中にその字を識る者がいなかった。閣臣の梁儲らが、その使一、二人を選んで留め、館に入れて習学させるよう請い、許された。
- 嘉靖元年(1522年)、暹羅と占城の貨船が広東に至った。市舶中官の牛榮が家人を放って私に取引させ、律のとおり死罪と論じられた。
- 嘉靖三十二年(1553年)、使を遣わして白象および方物を貢いだが、象は途中で死んだ。使者は珠宝でその牙を飾り、金の盤に盛り、あわせて尾を献じた。帝はその意を嘉して手厚く送り帰した。
- 隆慶年間、その隣国の東蠻牛が婚を求めて得られず、恥じ怒って大いに兵を発してその国を攻め破った。王は自ら縊れ、その世子および天朝から賜った印を捕らえて帰った。次子が位を嗣ぎ、表を奉じて印を請うたので与えた。以来、東蠻牛に制せられた。嗣王は志を励まして復讐しようとし、萬歴年間に敵兵がまた至ると、王は兵を整えて奮撃し大いにこれを破り、その子を殺した。残る衆は夜陰に逃げ去った。
- 暹羅はこれによって海上に雄となり、兵を移して真臘を攻め破りその王を降した。以後は年々兵を用い、ついに諸国に覇となった。
- 萬歴六年(1578年)、使を遣わして入貢した。
- 萬歴二十年(1592年)、日本が朝鮮を破ったとき、暹羅はひそかに師を出して直ちに日本を衝き、その後方を牽制したいと請うた。中枢の石星は従うことを議したが、両広督臣の蕭彦が不可を主張したのでやめになった。その後も貢を絶やさず、崇禎十六年(1643年)にもなお入貢した。
暹羅――風俗・物産と貢物
- その国は周囲千里、風俗は勁悍で水戦に習熟する。大将は聖鉄で身を裹み、刀矢も入らない。聖鉄とは人の脳骨である。
- 王は瑣里の人である。官は十等に分かれる。王から庶民に至るまで、事があればみなその妻が決する。その婦人の志と量は実に男子の上に出る。妻が華人と私通すれば、夫は酒を設けてともに飲み、平然として怪しまず、「我が妻は美しいから華人に悦ばれたのだ」と言う。
- 釈教を篤く信じ、男女の多くが僧尼となり、庵寺に住んで斎を持し戒を受ける。衣服はかなり中国に類する。富貴の者はとりわけ仏を敬い、百金の産があればその半ばを施す。
- 気候は不順で、寒くなったり熱くなったりする。地は低く湿るので、人はみな楼に住む。男女は椎髻に結い、白布で頭を裹む。
- 富貴の者が死ねば水銀をその口に灌いで葬る。貧しい者は海浜に移し置くと、たちまち鴉の群れが飛んで啄み、ほどなく食い尽くす。家人はその骨を拾い、号泣して海に棄てる。これを鳥葬という。やはり僧を招いて斎を設け仏を礼する。
- 交易には海□(底本欠字)を用いる。その年にこれを用いなければ国に必ず大疫が起こるという。
- その貢物には、象・象牙・犀角・孔雀の尾・翡翠の羽・亀筒・六足の亀・宝石・珊瑚・片脳・米脳・糠脳・脳油・脳柴・薔薇水・碗石・丁皮・阿魏・紫梗・藤竭・藤黄・硫黄・没薬・烏爹泥・安息香・羅斛香・速香・檀香・黄熟香・降真香・乳香・樹香・木香・丁香・烏香・胡椒・蘇木・肉荳蔲・白荳蔲・蓽茇・烏木・大風子および撒哈剌・西洋の諸布がある。
- その国には三宝廟があり、中官の鄭和を祀っている。
𤓰哇――洪武年間の通交
- 𤓰哇は占城の西南にある。元の世祖のとき使臣の孟琪を遣わしたが、その面に黥した。世祖は大挙して兵を挙げて伐ち、その国を破って還った。
- 洪武二年(1369年)、太祖は使を遣わして即位の詔をその国に諭した。その使臣は先に元に貢を奉り、還って福建に至ったところで元が亡んだので、そのまま京師に入り住んでいた。太祖は改めて使を遣わして送り帰らせ、あわせて大統歴を賜った。
- 洪武三年(1370年)、沙漠を平定したので詔を頒って言った。古来、天下の主たる者は、天地の覆載し日月の照臨するところ、遠近を問わず生ある者すべてが土に安んじ生を楽しむことを願わぬはずがない。しかし必ず中国が安んじてこそ四方万国が順い附く。近くは元君の托歡特穆爾が荒淫昏弱で志が民に無く、天下の英雄が疆宇を分裂させた。朕は生民の塗炭を憫れんで義兵を興し乱を除いた。天下の軍民が共に朕を尊んで帝位に居らせ、国号を大明、建元を洪武とした。一昨年、元の都を攻め取って四方が定まり、占城・安南・高麗の諸国はみな来朝・朝貢した。今年、将を遣わして北征させて初めて元君がすでに没したと知り、その孫の邁迪哩巴拉を獲て崇禮侯に封じた。朕は前代の帝王に倣って天下を治め、ただ中外の人民がそれぞれ所を安んずることを願う。また諸蕃は遠方に僻在して朕の意を知らぬだろうと慮り、使者を遣わして諭し、みなに聞き知らせる、と。
- 同年九月、その王の昔里八達剌蒲が使を遣わして金葉の表を奉じて来朝し、方物を貢いだ。宴と賜与は礼のとおりであった。
- 洪武五年(1372年)、また使を遣わして朝使の常克敬に随って来貢し、元から授けられた宣敕三道を献上した。
- 洪武八年(1375年)にも貢いだ。
- 洪武十年(1377年)、王の八達那巴那務が使を遣わして朝貢した。その国にはまた東西の二王があり、東蕃王の勿院勞網結、西蕃王の勿勞波務がそれぞれ使を遣わして朝貢した。天子はその礼意が誠でないとして、詔でその使を留めたが、その後釈して帰らせた。
- 洪武十二年(1379年)、王の八達那巴那務が使を遣わして朝貢した。翌年もまた貢いだ。そのころ使を遣わして三佛齊王に印綬を賜ったところ、瓜哇が誘い出して殺した。天子は怒ってその使を一月余り留め、罪を加えようとしたが、後に帰らせ、敕を賜って責めた。
- 洪武十四年(1381年)、黒奴三百人および他の方物を貢いだ。翌年もまた黒奴の男女百人・大珠八顆・胡椒七万五千斤を貢いだ。
- 洪武二十六年(1393年)、再び貢いだ。翌年もまた貢いだ。
𤓰哇――永樂以降の朝貢
- 成祖が即位すると詔をその国に諭した。永樂元年(1403年)、また副使の聞良輔・行人の寗善を遣わしてその王に絨錦・織金文綺・紗羅を賜った。
- 使者がすでに出発した後、その西王の都馬板が使を遣わして賀したので、改めて中官の馬彬らに鍍金の銀印を賜らせた。西王は使を遣わして印を賜ったことを謝し方物を貢いだ。東王の孛令達哈もまた使を遣わして朝貢し印を請うたので、官を遣わして賜った。以後、二王がともに貢いだ。
- 永樂三年(1405年)、中官の鄭和をその国に使いさせた。翌年、西王と東王が兵を構え、東王が戦い敗れて国は滅ぼされた。たまたま朝使が東王の地を通り、部卒が市に入ったところ、西王の国人がこれを殺し、合わせて百七十人に及んだ。西王は懼れて使を遣わして謝罪した。帝は敕を賜って厳しく責め、黄金六万両を納めて贖うよう命じた。
- 永樂六年(1408年)、再び鄭和をその国に使いさせた。西王は黄金一万両を献じた。礼官は納めた数が足りないとしてその使を獄に下すよう請うたが、帝は「朕は遠人が罪を畏れることを願うだけである。どうしてその金を利としようか」と言い、ことごとく免じた。
- 以後は毎年一貢、あるいは隔年に一貢、あるいは一年に数貢した。中官の呉賓・鄭和が前後してその国に使いした。
- 当時、舊港の地に瓜哇が侵し占めたところがあり、滿剌加国王が朝命と偽ってこれを求めた。帝はそこで敕を賜って言った。先に中官の尹慶が還って、王が敕使を恭しく待遇して怠るところが無いと言った。近ごろ滿剌加国が舊港の地を求め、王がたいへん疑い懼れていると聞く。朕は誠をもって人に接する。もし本当に許すのであれば必ず敕諭がある。王は何を疑うのか。小人の浮ついた言を軽々しく聴いてはならない、と。
- 永樂十三年(1415年)、その王は名を揚惟西沙と改め、使を遣わして謝恩し方物を貢いだ。当時、朝使の連れた卒に風に遭って班卒兒国に漂着した者があり、瓜哇の人の珍班がこれを聞いて金で贖い返し、王のもとに帰した。
- 永樂十六年(1418年)、王は使を遣わして朝貢し、あわせて諸卒を送り返した。帝は嘉して敕を賜り王を奨め、あわせて珍班に手厚く賜った。以後、朝貢の使臣はおおむね毎年一度来た。
- 正統元年(1436年)、使臣の馬用良が「先に八諦に任じられて来朝したとき恩を蒙って銀帯を賜った。今は亜烈となり秩は四品なので、金帯を賜りたい」と言い、許された。
- 同年閏六月、古里・蘇門答剌・錫蘭山・柯枝・天方・加異勒・阿丹・忽魯謨斯・祖法兒・甘巴里・真臘の使臣を、瓜哇の使臣の郭信らとともに遣わして帰らせ、瓜哇に敕して言った。王は我が先朝より職を修めて怠らなかった。朕が今位を嗣いだので、また使を遣わして来朝した。その意の誠であることをよく知った。宣徳のとき古里ら十一国が来貢した。今、王の使者の帰るのに乗じて諸使をともに行かせる。王は心して撫恤し、それぞれ分けて帰国させ、朕の遠きを懐かしむ誠に副うようにせよ、と。
- 正統五年(1440年)、使臣が帰るとき風に遭って五十六人が溺死し、生き残った八十三人は広東に戻った。担当の役所に廩を給させ、便船を待って帰らせるよう命じた。
- 正統八年(1443年)、広東参政の張琰が「𤓰哇の朝貢が頻繁で供応の費が煩わしい。中国を疲弊させて遠人に仕えるのは策ではない」と言った。帝は納れ、その使が帰るとき敕を賜って「海外の諸邦はいずれも三年一貢である。王もまた軍民を体恤し、一にこの制に従うべきである」と言った。
- 正統十一年(1446年)、また三度貢いだが、その後は次第に稀になった。
- 景泰三年(1452年)、王の巴剌武が使を遣わして朝貢した。
- 天順四年(1460年)、王の都馬班が使を遣わして入貢した。使者が帰路の安慶で酒に酔い、入貢の番僧と闘い、僧の死者が六人出た。礼官は伴送の行人の罪を治めるよう請い、使者については国王に自ら処断させるよう敕することとし、許された。
- 成化元年(1465年)、入貢した。
- 𢎞治十二年(1499年)、貢使が風に遭って舟が壊れ、通事の一舟だけが広東に達した。礼官は担当の役所に敕して量って賜与を与え帰らせ、その貢物はなお京師に進めるよう請い、詔で許された。以後、貢使は至る者がまれになった。
𤓰哇――地理・風俗
- その国は占城に近く、二十昼夜で至る。元の師が西征したとき、至元二十九年(1292年)十二月に泉州を発し、翌年正月にはその国に着いた。距離は一月余りにすぎない。
- 宣徳七年(1432年)に入貢したとき、表に「一千三百七十六年」と書いてあった。漢の宣帝の元康元年(BCE65年)がその建国の始めということになる。
- 地は広く人は稠密で、性は凶悍である。男子は年少も年長も貴賤も問わずみな刀を佩び、少しでも意に逆らえばすぐ害する。そのため甲兵は諸蕃で最も強い。
- 字は瑣里に似る。紙筆が無く、茭蔁の葉に刻む。気候は常に夏のようで、稲は一年に二度実る。几・榻・匙・箸が無い。
- 人には三種ある。華人の流寓した者は服も食も鮮やかで華やかである。他国の商人で久しく住む者もまた雅潔を尊ぶ。その本国の人が最も汚らしく、蛇・蟻・虫・蚯蚓を好んで食い、犬と同じ所で寝食する。姿は黒く、髪は乱れ、跣足である。
- 鬼道を篤く信じ、人を殺した者も三日避けていれば罪を免れる。父母が死ぬと野に舁いで犬に食わせ、食い尽くさなければ大いに悲しみ、残りを焼く。妻妾は多く焼いて殉じさせる。
- その国は一名を莆家龍といい、また下港、また順塔ともいう。
- 萬歴のころ、紅毛番が大澗の東に土庫を築き、佛郎機が大澗の西に築いて、年々互市した。中国の商旅もまた往来が絶えなかった。
- その国に新村があり、最も富裕であるといわれる。中華および諸蕃の商船がその地に集まり、宝貨が満ちあふれる。その村主は広東の人であった。永樂九年(1411年)、自ら使を遣わして表を上り方物を貢いだ。
闍婆
- 闍婆は古くは闍婆達といった。宋の元嘉のとき初めて中国に朝した。唐では訶陵といい、また社婆ともいった。その王は闍婆城に居る。宋では闍婆といい、いずれも入貢した。
- 洪武十一年(1378年)、その王の摩那駝喃が使を遣わして表を奉じ方物を貢いだ。その後は再び来なかった。
- ある説では瓜哇が闍婆であるというが、元史の瓜哇伝はそれを言わず、また「その風俗・物産は考えるすべが無い」としている。太祖のときには両国がともに入貢しており、その王の名も同じでない。あるいはもと二国であって、後に𤓰哇に滅ぼされたのかもしれないが、考えるすべが無い。
蘇吉丹
- 蘇吉丹は𤓰哇の属国で、後に訛って思吉港となった。国は山の中にあり、集落はわずか数か所である。
- 酋は吉力石に居るが、その水は激しくて舟が泊まれないので、商船はみな饒洞に行く。その地は平らかで、国人はみなここで交易する。
- その与国に思魯瓦および猪蠻がある。猪蠻は盗が多く、華人は行くことが少ない。
碟里
- 碟里は瓜哇に近い。永樂三年(1405年)、使を遣わし、瓜哇の使臣に付いて来貢した。
- その地は釈教を尊び、俗は淳朴で訴訟が少ない。物産はきわめて薄い。
日羅夏治
- 日羅夏治は瓜哇に近い。永樂三年(1405年)、使を遣わし、瓜哇の使臣に付いて入貢した。
- 国は小さく、種芸を知り、盗賊が無く、やはり釈教を尊ぶ。産するのは蘇木と胡椒だけである。
三佛齊――洪武年間の朝貢と瓜哇による滅亡
- 三佛齊は古名を干陀利という。劉宋の孝武帝のときしばしば使を遣わして貢を奉り、梁の武帝のときも数度来た。宋では三佛齊といい、貢を修めて絶えなかった。
- 洪武三年(1370年)、太祖は行人の趙述を遣わして詔をその国に諭した。翌年、その王の馬哈剌札八剌卜が使を遣わして金葉の表を奉じ、随って黒熊・火鶏・孔雀・五色の鸚鵡・諸香・苾布・兜羅の被などを貢いだ。詔して大統歴および錦・綺を差をつけて賜った。戸部はその貨船が泉州に至ったので課税すべきだと言ったが、徴収しないよう命じた。
- 洪武六年(1373年)、王の怛麻沙那阿者が使を遣わして朝貢し、別に一表で翌年の正旦を賀した。当時、その国には三人の王がいた。
- 洪武七年(1374年)、王の麻那哈寳林邦が使を遣わして来貢した。
- 洪武八年(1375年)正月、また貢いだ。九月、王の僧伽烈宇蘭が使を遣わし、拂菻国を招諭した朝使に随って入貢した。
- 洪武九年(1376年)、怛麻沙那阿者が卒し、子の麻那者巫里が嗣いだ。翌年、使を遣わして犀牛・黒熊・火鶏・白猿・紅緑の鸚鵡・亀筒および丁香・米脳などを貢いだ。使者は「嗣子はあえて擅に立たず、朝廷に命を請う」と言った。天子はその義を嘉し、使臣に印と敕を持たせて三佛齊国王に封じた。
- 当時、瓜哇は強く、すでに三佛齊を威服させて役属させていた。天朝が国王に封じて自分と並ぶ地位にしたと聞いて大いに怒り、人を遣わして朝使を誘い出し邀えて殺した。天子もその罪を問うことができなかった。その国はいよいよ衰え、貢使はついに絶えた。
- 洪武三十年(1397年)、礼官が諸蕃が久しく貢を欠いていることを奏聞した。帝は言った。洪武の初め、諸蕃の貢使は絶えなかった。近ごろは安南・占城・真臘・暹羅・瓜哇・大琉球・三佛齊・浡泥・彭亨・等花・蘇門答剌・西洋など三十国のうち、胡惟庸が乱を作したとき三佛齊が間諜を生じ、我が使臣を欺いて彼の地に至らせた。瓜哇王が聞き知って人を遣わして戒め、礼をもって朝廷に送り返した。これによって商旅が阻まれ、諸国の意が通じなくなった。ただ安南・占城・真臘・暹羅・大琉球だけが従来どおり朝貢し、大琉球はさらに子弟を入学させている。およそ諸蕃国の使臣が来れば皆礼をもって待遇してきた。朕が諸国を薄く見ていないのに、諸国の心はどうであろうか。今、瓜哇に使を遣わしたいが、三佛齊が中途で阻むことを恐れる。三佛齊はもと瓜哇の属国と聞く。朕の意を述べ、暹羅に咨を移して瓜哇に転達させよ、と。
- そこで礼部の臣が牒を移して言った。天地が開けて以来、君臣上下の分があり、中国と四裔の防ぎがある。我が朝が天下を混一した初め、海外の諸蕃で来享しない者は無かった。ところが胡惟庸が乱を謀ったとき、三佛齊は異心を生じ、我が信使を欺いて巧詐をほしいままにした。我が聖天子は一に仁義をもって諸蕃に接しておられるのに、どうして諸蕃はあえて大恩に背き君臣の礼を失うのか。もし天子が震怒して一人の偏将に十万の師を率いさせ、恭しく天罰を行えば、手を覆すよりたやすい。諸蕃はなぜそれを思わないのか。我が聖天子はかつて「安南・占城・真臘・暹羅・大琉球はみな臣の職を修めているが、ただ三佛齊だけが我が声教を梗ぐ。あの蕞爾たる国が倔強して服さぬのは自ら滅亡を取るものだ」と言われた。汝が暹羅は謹んで臣節を守り、天朝の眷礼も厚い。瓜哇に転達して、大義をもって三佛齊に告諭させ、まことに過ちを省みて善に従うことができれば、待遇を初めどおりにしよう、と。
- 当時、𤓰哇はすでに三佛齊を破ってその国を占拠し、その名を舊港と改めていた。三佛齊はついに亡び、国中は大いに乱れた。瓜哇もその地をすべて有することはできず、流寓の華人がしばしば起ってこれを占拠した。
三佛齊――舊港と華人の勢力
- 梁道明という者があり、広州南海縣の人で、久しくその国に住んでいた。閩・粤の軍民で海を渡って従う者が数千家に及び、道明を首に推して一方に雄視した。
- たまたま指揮の孫鉉が海外に使いした際、その子に出会い、連れて帰った。永樂三年(1405年)、成祖は行人の譚勝受が道明と同じ邑の出身であることから、千戸の楊信らとともに敕を持たせて招かせた。道明およびその党の鄭伯可は随って入朝し方物を貢ぎ、賜を受けて帰った。
- 永樂四年(1406年)、舊港の頭目の陳祖義が子の士良を、道明が甥の觀政を遣わし、ともに来朝した。祖義もまた広東の人で、朝貢はしていたものの海上で盗を働き、往来する貢使は苦しんでいた。
- 永樂五年(1407年)、鄭和が西洋から還るとき、人を遣わして招諭した。祖義は偽って降り、ひそかに襲撃を謀った。施進卿という者が鄭和に告げたので、祖義は襲って来たところを捕らえられ、朝廷に献じられて誅に伏した。
- 当時、進卿はちょうど婿の邱彦誠を遣わして朝貢していた。舊港宣慰司を設け、進卿を宣慰使として誥・印および冠帯を賜った。以後しばしば入貢した。ただし進卿は朝命を受けたとはいえ、なお𤓰哇に服属しており、その地は狭小で、かつての三佛齊に比べられるものではなかった。
- 永樂二十二年(1424年)、進卿の子の濟孫が父の訃を告げて職を嗣ぐことを乞い、許された。
- 洪熙元年(1425年)、使を遣わして入貢し、旧印が火で焼けたと訴えた。帝は重ねて給するよう命じた。その後、朝貢は次第に稀になった。
- 嘉靖の末、広東の大盗の張璉が乱を起こし、官軍はすでに討ち取ったと報じていた。ところが萬歴五年(1577年)、舊港に赴いた商人が、張璉が店を構えて蕃舶の長となり、漳州・泉州の人が多く彼に附いて、なお中国の市舶官のようであるのを見た。
- その地は諸蕃の要衝で、𤓰哇の西にあり、順風なら八昼夜で至る。十五洲を管轄する。土地は肥えて耕作に適し、諺に「一年穀を種えれば三年金を生ず」という。収穫が多く金を得る交易も多いことを言う。
- 俗は富み淫を好み、水戦に習熟して隣国から畏れられる。地は水が多く、ただ部領だけが陸に住み、庶民はみな水に住む。筏を編んで室を築き、杭に繋ぐので、水が増せば筏が浮き、沈む心配が無い。移ろうとすれば杭を抜いて去るので、財も力も費やさない。
- 下の者が上を呼んで詹卑という。国君の意である。後に大酋の居るところを詹卑国と号し、旧都を改めて舊港とした。
- 初めはもと富饒であったが、瓜哇に破滅されてから次第に寂れ、商船も至ることがまれになった。その他の風俗・物産は宋史に詳しい。