明史卷三百十六 列傳第二百四 貴州土司
貴州土司の総説――元までの沿革と明の統治の確立
- 貴州は古くは羅施鬼國、漢代には西南夷の牂牁・武陵などの諸郡に隣接する地であった。元はここに八畨順元諸軍民宣慰使司を置いて羈縻した。
- 明の太祖が陳友諒を破って兵威が遠くまで及ぶと、思南宣慰と思州宣撫が真っ先に帰順した。そこで元来の官のまま世襲で守らせた。至正二十五年(1365年)のことである。
- 洪武五年(1372年)、貴州宣慰の靄翠が宋䝉古とともに叛いた後に帰順し、普定府の女總管である適爾らも相次いで帰順した。いずれも元の官職のまま世襲を認めた。
- 帝はこのとき中原の北伐に力を注いでおり南方の経営に手が回らず、また田仁智らが毎年の職貢をきわめて恭順に果たしていたので、衛指揮僉事の顧成に城を築かせて守らせるにとどめ、賦税は自分で納めさせ、郡縣は置かなかった。
- 永樂十一年(1413年)、思南と思州が互いに殺し合ったため、はじめて顧成に兵五萬を率いさせて両者を捕らえ京師へ送った。そのうえでその地を八府四州に分け、貴州布政使司を設け、長官司七十五をこれに分属させて戸部に属させた。あわせて貴州都指揮使を置いて十八衛を領させ、長官司七をこれに属させて兵部に属させた。
- 府以下には土官を参用した。土官については、朝貢の符信は禮部、承襲は吏部、土兵を領する者は兵部の管轄とした。その後、府は六に、州は四に併合され、長官司は分合を重ねて釐革は一定しなかった。
- その地は西は滇(雲南)・蜀に接し、東は荊・粤に連なる。太祖は雲南平定の詔書で「靄翠らを完全に服属させなければ、雲南を得ても守れない」と述べており、志はすでに黔(貴州)にあった。成祖に至ってそれが成し遂げられた。
- ただし貴州は崇山と深い竹藪ばかりで、鳥道・蠶叢のような険路が続き、諸蛮の種族は淫を好み殺を好んで、叛服が定まらなかった。
- 靄翠は帰附の当初、その隴居部落を討伐したいと願い出たが、帝は「中國の兵がどうして外蠻の私怨を晴らす道具になろうか」と退けた。
- 田仁智が入朝したとき、帝は「天下の守土の臣はみな朝廷の命じた吏であり、人民はみな朝廷の赤子である。帰ってよく撫育し、それぞれの生を安んじさせれば、汝は長く富貴を享受できる。礼は上を敬うより大なるはなく、徳は下を愛するより盛んなるはない。敬えて愛せるのが人臣の道である」と諭した。
- 洪武二十一年(1388年)、部臣が貴州の逋賦(未納の税)の処置を求めたが、帝は「蠻方は僻遠であるのに来て租賦を納めるのは、すでに聲教に従っているということだ。未納の理由はきっと水旱の災いによる。免除するのがよい。今より数額を定めて常制とし、寛く減らせ」と命じた。
- 洪武二十九年(1396年)、清水江の乱が平定された後、守臣が「賊首が宣慰の家に匿われているから宣慰もあわせて罪すべきだ」と言上したが、帝は「蠻人が勢いづいたり鼠のように潜んだりするのは元来の常態である。もう問うな」と述べた。明初の御蠻の道は、後世の亀鑑というべきものである。
篇首の立伝者一覧
- 貴陽
- 思南(思州を附す)
- 鎮逺
- 銅仁
- 黎平
- 安順
- 都匀
- 平越
- 石阡
- 新添(金筑安撫司を附す)
貴陽――沿革と管下の司
- 貴陽府はもと程畨長官司であった。洪武初めに貴州宣慰司を置いて四川に属させ、永樂十一年(1413年)に貴州に属させ替えた。成化十二年(1476年)に程畨府を置き、隆慶三年(1569年)に程畨府を移して貴陽府とし、宣慰司と同じ城に置いた。府は城北を管轄し、司は城南を管轄した。萬厯年間に貴陽軍民府と改めた。
- 領する安撫司は一、金筑という。
- 領する長官司は十八。貴竹・麻嚮・木𤓰・大華・程畨・韋畨・方畨・洪畨・卧龍畨・金石畨・小龍畨・羅畨・大龍畨・小程畨・上馬橋・盧畨・盧山・平伐である。
- 貴州宣慰司の領する長官司は九。水東・中曺・青山・劄佐・龍里・白納・底寨・乖西・養龍坑である。
貴陽――安氏(水西)と宋氏(水東)の由来
- 蜀漢の時、濟火が諸葛亮の南征に従って功があり、羅甸國王に封ぜられた。のち五十六代を経て宋の普貴となり、元の阿畫に伝わって、代々水西に土地を持った。宣慰使の靄翠はその末裔で、後に安氏を名のった。
- 洪武初め、宣慰の宋䝉古とともに叛いた後に帰順し、宋䝉古には「欽」の名を賜り、ともに元の職を世襲で領させた。布政使司を設けた後も宣慰司はそのまま残された。安氏が水西を、宋氏が水東を領し、八畨で降った者にもみなその職を世襲させた。
- 洪武六年(1373年)、詔して靄翠の席次を諸宣慰の上に置いた。靄翠は毎年方物と馬を貢し、帝は錦綺・鈔幣を格別に厚く賜った。
貴陽――奢香と劉淑貞、龍場九驛の開設
- 洪武十四年(1381年)、宋欽が死に、妻の劉淑貞が子の宋誠を伴って入朝した。米三十石・鈔三百錠・衣三襲を賜った。
- 同じころ靄翠も死に、妻の奢香が代わって襲職した。都督の馬□(底本欠字)は諸羅(羅羅=彝族の諸部)をすべて滅ぼして流官に置き換えようとし、わざと事にかこつけて奢香を鞭打ち、兵端を挑発した。諸羅は果たして怒って叛こうとしたが、劉淑貞がこれを聞いて押しとどめ、自ら京師へ走って訴えた。
- 帝は召し出して事情を問い、劉淑貞に帰って奢香を招くよう命じ、綺・鈔を賜った。
- 洪武十七年(1384年)、奢香が配下を率いて来朝し、□(底本欠字)が変を挑発した状況を訴えたうえ、西の辺境を開いて代々境を保つことに力を尽くしたいと願い出た。帝は喜んで奢香に錦綺・珠翠の如意冠・金環・襲衣を賜い、□(底本欠字)を召し返して罪した。
- 奢香はそこで偏橋・水東を開いて烏䝉・烏撒および容山・草塘の諸境に達する道を通し、龍場九驛を設けた。
- 洪武二十年(1387年)、奢香は馬二十三匹を進献し、毎年三萬石を賦として納めることを定めた。
- 子の安的が襲職して馬を貢し謝恩した。帝は「安的は水西にあって最も誠実で慎み深い」と述べ、禮部にその使者を厚く賞するよう命じた。
- 洪武二十五年(1392年)、安的が来朝し、三品の服と襲衣・金帯・白金三百兩・鈔五十錠を賜った。奢香もまた子の嫁である奢助とその部長を遣わして馬六十六匹を貢し、詔して奢香に銀四百兩と錦綺・鈔幣を差をつけて賜った。以後、毎年の貢献が絶えず、報施の厚さは他の土司の望みうるところではなかった。
- 洪武二十九年(1396年)、奢香が死に、朝廷は使者を遣わして祭った。安的は馬を貢して謝恩した。
貴陽――安隴富から安貴榮まで
- 正統七年(1442年)、水西宣慰の安隴富が「祖父以来、歴朝みな金帯を賜ってきた。臣も恩を蒙って職を受けたので、例のとおりにしていただきたい」と自ら申し出、許された。
- このころ宋誠の子の宋斌は年老いて子の宋昻に代えた。宋昻が死んで宋然が代わった。正統十四年(1449年)、安隴富母子に敕を賜い、兵を調えて境を保った功を嘉した。
- 安隴富はかなり驕っていた。天順三年(1459年)、東苗の乱に際して安隴富はすぐに出兵せず、朝廷が督責する意向だと聞いて馬を進めて謝罪した。敕を賜って警告した。
- 安隴富が死に、姪の安觀が襲職した。安觀が老いて子の安貴榮が襲職した。
- 廵撫の陳儀が西堡・獅子孔の平定にあたったとき、安觀は子の安貴榮とともに部衆二萬を率いて白石崖を攻め、四十日で陥落させた。糧食は自家から出し、口に功を言わなかったので、特に安觀に正三品の昭勇将軍の誥を給した。
- はじめ安氏は代々水西に居って苗民四十八族を管し、宋氏は代々貴州城の傍らに居って水東の貴竹など十長官司を管した。いずれも治所を城内に置き、官銜を左右に列し、安氏が印を掌った。公事がなければ勝手に水西へ帰ることは許されなかった。
- このとき総兵官の請いにより、時を定めて部内を巡歴し貢賦の督促にあたることを許し、その間は水西へ帰ることを認め、印は宣慰の宋然に授けて代理させた。
- 安貴榮が老いて子の安佐に襲がせたいと請い、命じて安貴榮父子に錦紵を賜った。
貴陽――阿朵の乱と宋氏の衰退
- これより先、宋然は貪淫で、管下の陳湖など十二馬頭で苗民に苛斂誅求を行い、変を挑発した。安貴榮は宋然の地を併呑しようとしてその衆をそそのかし乱を起こさせた。
- そこで阿朵らが二萬余を集めて名号を立て、寨堡を攻め落とし、宋然の居る大羊腸を襲って占拠した。宋然はかろうじて身一つで逃れた。
- 安貴榮はすぐさま事の次第を上申し、自分に鎮圧を任せるよう仕向けようとしたが、たまたま阿朵の一党がその内情を漏らした。官軍が進んで討つと、安貴榮は恐れて自ら部下を率いて助勢した。
- 賊が平定されたとき安貴榮はすでに死んでおり、追奪の処分となった。宋然は斬に処せられることとなった。宋然は「代々の爵土を受け国の厚恩を負うてきたが、変は安貴榮から起こったのに自分が重刑に落ちた。区別して処していただきたい」と上奏し、そこで末減(減刑)に従い、土地の習俗どおり粟を納めて贖罪した。
- 都御史は貴筑・平伐など七長官司の地に府縣を設け、すべて流官に統治させるよう請うたが、廵撫が「蠻民が望まない」と覆奏したため沙汰やみとなった。
- 宋氏もこれによって衰え、子孫は世襲の官を守って租税で食い、徴発に応じるだけとなった。
貴陽――安萬鍾の死と襲職争い
- そのころ、襲職すべき安萬鍾は驕縦で不法だった。漢民の張純や土目の烏掛らが遊猟に誘い、酒に酔うと人を射て戯れとし、また左右の者を鞭打ったため殺された。子がなかった。
- 従弟の安萬鎰が襲ぐべきところ、安萬鎰は下手人が捕まっていないことを理由に辞退した。そこで烏掛らは疎遠な一族の幼児である普者を安萬鍾の弟「萬鈞」だと偽って襲職を願い出た。承勘の官が賄賂を受け取り、暫定的に安萬鍾の妻の奢播に事を摂らせた。
- 安萬鎰は立たなかったことを悔い、烏掛がその謀を主導したことを恨んで、兵を出して烏掛を襲った。烏掛も兵を発して報復し、双方とも安萬鍾の死を口実にした。
- 廵按御史がその状況を上申し、「安萬鎰が襲職すべきで、烏掛と互いに誣告し合っているのは双方を宥して贖罪させるのがよい」とした。そのうえで安萬鍾を殺した者は梟首し、張純ら賄賂を受けた者も戍(辺境守備)と罰に処するよう求め、詔してそのとおりにした。
- まもなく萬謚が死に、子の阿冩が幼かったので、安萬銓に借襲(一時的な代理襲職)させた。安萬銓は阿向の平定を助けた功があり、提督尚書の伍文定がその功を上申した。安萬銓自身も功を申し立て、参政の銜と蟒衣を賜るよう願ったが、帝は身分相応の服を賜るにとどめた。
- のち阿冩が成長して襲職し、名を安仁と改めた。まもなく死に、子の安國亨が襲いだ。
貴陽――安國亨の乱
- 安國亨は淫虐で、事にかこつけて安萬銓の子の安信を殺した。安信の兄の安智はその母とともに安順州に別居していたが、これを聞いて安國亨が叛いたと訴え出た。
- 廵撫の王諍はただちに兵を発して安國亨を誅すよう請うた。安智は総兵の安大朝のために策を立て、兵糧数萬を出すと約した。
- ところが軍が陸廣河に至ると安智の糧が届かなかった。王諍は人を遣って安國亨に諭し、あわせて安大朝に進軍を止めさせようとしたが、すでに渡河していて安國亨に敗れた。
- 安國亨は大誅を恐れ、使者を遣わして哀願し降を乞うたが、朝廷は許さなかった。廵撫の阮文中が着任すると、檄を飛ばして叛乱者の捕縛を命じつつ、ひそかに安國亨に「速やかに奸徒どもを差し出し、土地を割いて安智母子を置き、費やした兵糧を弁償せよ。そうすれば朝廷は死一等を減じるだろう」と伝えさせた。安國亨はことごとく命に従い、帝は果たして赦して誅さず、安國亨の子の安民に襲職を命じた。
- 安國亨の一件は隆慶四年(1570年)に起こり、萬厯五年(1577年)にようやく終息した。
- 安國亨は職を解かれた後も、日々人を京師に遣わして賄賂を納め復職の地ならしをした。萬厯十三年(1585年)、播州宣慰の楊應龍が大木を献じて飛魚服を賜ったので、安國亨も大木を進献したいと請い、播州の例にならって冠帯と誥封を返してもらいたいと願った。ところが木は結局届かず、罪を木商に転嫁した。上は怒って賜与した物を取り上げるよう命じ、安國亨が欺いていない証しに補って貢すると請うと、上はその願いを認めた。
貴陽――安疆臣と播州の役、水西の伸長
- 萬厯二十六年(1598年)、安國亨の子の安疆臣が襲職した。ちょうど播州の楊應龍が叛いた。安疆臣も安定を殺害した件で有司の取り調べを受け、その逆心が芽生えていると言う科臣もあったが、詔して問わず、賊を討って功を図ることを許した。安疆臣は「播州の警報が急なのに臣の心はまだ晴れておりません」と上奏し、上は重ねて優詔で応えた。
- 廵撫の郭子章は、楊應龍を平定した後には播州が侵していた水西・烏江の地六百里を返して功に報いると安疆臣に約束した。そこで安疆臣の兵は沙溪から進入した。水西が賊に加担しているという流言が立ち、総督の李化龍が檄で詰問すると、安疆臣は賊二十余人を捕らえ、部下を率いて落濛闗を奪い、大水田に至って桃溪莊を焼いた。楊應龍は誅に伏した。
- はじめ楊應龍の祖父は内紛で水西へ逃れ客死した。宣慰の安萬銓はこれを楯にとって水烟天旺の地を要求し、そこに葬ることを許した。この地はそのまま水西の占有するところとなった。
- 播州平定後、その地を遵義・平越の二府に分け、蜀と黔に分属させ、渭河の中心を境とした。総督の王象乾が李化龍に代わり、安疆臣に播州の侵地を返させようとした。
- 郭子章は「侵地は安萬銓に始まるのであって安疆臣ではない。安氏が楊相から迫り取ったのは喪乱の時であって、楊應龍平定の日に勝手に取ったのではない。しかも臣はかつて土地を裂いて与えると約束した。今かえって旧地を奪えば臣は合わせる顔がない」と奏し、安疆臣は罷免されることを願った。
- 王象乾は「安疆臣は播州征討で楊應龍の子の楊惟棟を殲滅したというが事実ではなく、首功のほどは知れている。わざと敗れて陣を捨て、薬を送って往来したことまで含め、君を欺き逆を助けた跡は明らかである。侵地を返させるだけで既往を咎めないのはすでに国家の寛大というものだ。もし脅されて与えるなら、彼は恩と思わず、こちらが弱みを見せることになる。安疆臣に功がない以上、土地を与えないことこそ撫臣の信を全うする道である。撫臣を留め、臣を罷めて、重臣が小さな苗族の口車に乗せられぬ戒めとせよ」と疏した。
- こうして清疆(境界画定)の議は数年決まらなかった。兵部は両省の廵按御史に調査報告を命じたが、南北の言官が相次いで王象乾は功を貪って争いの端を開いたと弾劾し、科臣の吕邦耀はさらに郭子章が賄賂を受けて奸を放置したと弾劾した。郭子章はますます強く辞任を求めた。王象乾は安疆臣が京師へ遣わした賄賂の使者とその金を押さえて朝廷に報告した。
- しかし議論する者の多くは安疆臣に味方し、尚書の蕭大亨は廵按の李時華の疏を採った。すなわち「播州征討の役で水西は道を貸しただけでなく兵も助けた。まして土司から失った地を土司が得るのである。播州も糧を出したが水西も賦を納めている。土地のことで小を字(いつくし)む仁を損なうべきではない。地は安疆臣に帰すべきである」というものである。
- こうして安疆臣は官を加えられ秩を進められ、その母も祭祀を賜った。水西の尾大(末端が肥大して制御できなくなる)の患いも、ここに至って抑えられなくなった。
- 萬厯三十六年(1608年)、安疆臣が死に、弟の安堯臣が襲いだ。
- 萬厯四十一年(1613年)、烏撒の土舍が安効良を追い出そうと謀った。安堯臣は印を取り返すと称して数萬の兵を率いて雲南へ長駆し、霑益州に迫った。通過した所は焼き払い掠奪して惨毒をきわめた。朝廷が越境して勝手に兵を用いたことで安堯臣を罪しようとしたところ、安堯臣が死んだ。子の安位が幼かったので、その妻の奢社輝に事を摂らせた。
貴陽――奢崇明・安邦彦の乱と貴陽の包囲
- 奢社輝は永寕宣撫の奢崇明の妹である。奢崇明の子の奢寅は獷悍で、奢社輝と土地を争って恨み合っていた。安邦彦は安位の叔父で、平素から異心を抱き、ひそかに奢崇明と結んでいた。
- 奢崇明が叛いて水西から兵を徴すると、安邦彦は安位を担いで叛いてこれに応じた。安位は幼弱で制することができなかった。
- 安邦彦はさらに元の宣慰土舍である宋萬化を誘って助勢とし、兵を率いて畢節に迫って陥れ、兵を分けて安順・平壩・霑益を破った。宋萬化もまた苗仲九股を率いて龍里を陥れ、そのまま貴陽を包囲して、自ら羅甸王と称した。天啓元年(1621年)二月のことである。
- 廵撫の李橒はちょうど交代を受けたところであったが、変を聞いて廵按御史の史永安とともに力を尽くして防ぎ守った。賊は攻めても抜けないので、岩に沿って柵を設け城中の出入りを断った。
- 鎮将の張彦芳が兵二萬を率いて救援に赴いたが、龍里に隔てられて進めなかった。貴州総兵の楊愈懋と推官の郭象儀は江門で賊と戦って死んだ。外の援軍が絶えて攻撃はますます急となり、城中は糧が尽きて人が人を食う有様となったが、防戦に余力を残さなかった。
- 中朝はこのとき遼東のことで手一杯で顧みなかった。やがて王三善を廵撫とし、あわただしく兵と糧を調え、将士を大いに集め、兵を三道に分けて進んだ。三日で龍頭營に至り、賊兵をたびたび破ってついに龍里を奪回した。
- 安邦彦は新任の撫臣が自ら数十萬の大兵を率いていると聞いて大いに恐れ、龍洞へ退いて屯した。前鋒の楊明楷は烏羅の兵を率いて安邦俊を撃ち殺し、勝ちに乗じて貴陽城下に至った。まず五騎を先行させて「新しい撫臣が到着したぞ」と呼ばわらせると、城じゅうが歓呼して生き返った心地となった。
- 貴陽は十余か月囲まれ、城中の軍民男女四十萬はこのときまでにほとんど餓死して、わずか二百人が残るのみであった。詳細は李橒および王三善の伝の中にある。
貴陽――王三善の敗死と魯欽の自刎
- 貴陽の囲みが解けると、安邦彦は陸廣河の外へ遠く逃れた。王三善は使者を遣って奢社輝母子に安邦彦を縛って降るよう諭した。大軍に加わる者は日ごとに増えた。
- 王三善は敵地で糧を得ようとし、また諸軍が賊を甘く見すぎたため、楊明楷は三十里も離れた場所に営を構えた。安邦彦は再び諸苗を糾合して攻め、官軍は敗れて楊明楷は捕らえられた。安邦彦の勢いは再び張り、衆を合わせて再度貴陽を囲もうとした。
- 王三善は兵を三路に分けて防ぎ、生苗の寨二百余を破り、宋萬化らを捕らえ、その蓄えを数萬焼いた。龍里・定畨の四路がともに通じ、叛いていた諸苗は相次いで降った。安邦彦は気を奪われて出戦できず、鴨池・陸廣などの要地に塹を掘り兵を屯して自守の策をとった。
- このとき奢崇明は蜀の兵に敗れ、行き詰まって水西に身を投じ、安邦彦と合流した。
- 天啓三年(1623年)、王三善は兵を督して賊の巣である大方を攻め、土司の何中尉らを捕らえ、紅崖に進んで営し、天台・水脚など七つの囤を連破してその天険を奪った。別将もまた羊耳で賊を破り、鴨池河まで追って戦象を奪った。そのまま深く入って紅鳥岡に至ると諸苗は潰走した。
- 王三善は兵を率いてまっすぐ大方に入った。奢社輝と安位はその巣を焼いて火灼堡へ逃げ、安邦彦は織金へ奔った。
- 安位は人を鎮逺に遣わして総督の楊述中に降を乞うた。楊述中は許し、奢崇明父子を捕らえて自ら罪を贖うよう命じ、ひたすら撫(招撫)を主張した。しかし王三善は安邦彦もあわせて差し出すよう責め、𠞰(討伐)も併用すべきだと主張して議論が合わず、やりとりの間に数か月が過ぎた。
- その間に安邦彦は兵を増して備えを固め、王三善は糧が続かなくなった。大方を焼いて貴州へ帰る道中、賊に遭って王三善は殺された。
- 安邦彦が数萬の衆を率いて追撃し、総理の魯欽が力戦して数日にわたる大戦となったが、大軍は糧なく、夜に乗じてみな潰え、魯欽は自刎した。賊は諸堡を焼き掠め、苗兵もまた逆を助け、貴陽の三十里の外では薪も草も採れなくなり、城中はふたたび大いに震えた。
貴陽――朱燮元の再任と乱の平定
- はじめ大方は東に播州、北に藺州を頼んで掎角の勢をなしていたが、播州と藺州が平定された後、賊はただ烏撒を援けとするのみとなった。畢節は四方の交通の要所であった。王三善が貴陽から陸廣を経て大方まで百七十里深く入った際、その道はみな玀鬼の巣窟で、地の利を失って陥ったのである。
- 天啓年間、朱燮元は蜀の総督として次のように建議していた。滇の兵は霑益に出て安効良の応援を遮り、天生橋・尋甸などに兵を分けて逃げ道を断つ。蜀の兵は畢節に臨んでその交通の路を扼し、別に龍場の巖の後ろに出て険を奪う。黔の兵は普定から思臘河を渡って安邦彦の巣へ直進し、陸廣・鴨池からその虚を衝く。粤西の兵は泗城に出て分道して策応する。しかるのち大軍が遵義から鼓を打って前進する――という策である。しかし憂(喪)で去ったため用いられなかった。
- 総督の閔夢得がこれを継ぎ、やはり「貴州から大方に至る路は険しく、賊はただ畢節の一路のみで外と通じている。わが兵は永寧から始めるべきだ。永寧から普市、摩泥、赤水まで百五十里はみな平坦な道で、赤水には城郭があって拠って守れる。営を結んで進み迫り、四十里で白巖、六十里で層臺、さらに六十里で畢節、畢節から大方までは六十里に満たない。賊は必ず力を併せて防ぎに来るから、重兵で扼して四方へ走る路を断ち、しかるのち遵義・貴陽から期日を定めて進むべきだ」と述べたが、これも用いられなかった。
- 黔の情勢が窮まるに及び、詔して朱燮元を起用し貴・雲・川・廣の総督とした。朱燮元はふたたび黔に臨んだ。崇禎元年(1628年)のことである。
- 奢崇明は自ら大梁王と号し、安邦彦は自ら四裔大長老と号し、その部衆はみな元帥と号して、力を尽くして永寧へ向かい、まず赤水を犯した。
- 朱燮元は守将に含みを持たせて偽って敗走させ、賊を深く誘い込んだ。賊が永寧に至ったと見るや、別将を分遣し、林兆鼎を三岔から、王國禎を陸廣から、劉養鯤を遵義から進ませた。安邦彦は兵を分けて四方に応じたが支えきれず、羅乾象がさらに奇兵でその背後を回って急撃したので、賊は大いに驚いて潰え、奢崇明・安邦彦はともに斬られた。安邦彦は乱を起こして七年で誅されたのである。
- 朱燮元は檄を安位に移して罪を赦し帰附を許した。安位は小僧のことで決断できず、その配下が潰兵を合わせて拒みに来た。朱燮元はその要害を扼して四面から交互に攻め、一萬余級を斬った。さらに嚮導を得て、そのつど窖(穴蔵)の粟を掘り出して食糧に充てたので、賊はいよいよ飢えた。重ねて人を大方に遣ってその家屋を焼くと、安位は大いに恐れ、四十八目を率いて降を乞うた。朱燮元が上奏して許可を請い、認められた。
- 先に安邦彦を助けた元宣慰の宋萬化の子である宋嗣殷も、このときはじめて討ち滅ぼされた。そこで宋氏の洪邉十二馬頭の地に開州を置き、城を築いて官を設けた。
- 朱燮元はさらに兵を遣わして擺金・五洞など叛いた苗を平定し、水西の勢はいっそう孤立した。
- 崇禎十年(1637年)、安位が嗣子なく死に、一族が立位を争った。朝議はその疲弊に乗じて郡縣にしようとしたが、朱燮元は急には難しいと奏し、土目に檄を伝えて威徳を諭した。諸苗は競って土地を差し出し印を献じたので、水西の地を分けて諸酋長と功のあった漢人に授けた。貴陽がようやく安定したが、明もまもなく滅んだ。
思南(思州を附す)――沿革
- 思南は唐の思州にあたる。宋の宣和年間に畨部の田祐恭が内附し、代々その地を有した。元は宣慰司と改めた。明の洪武初めに二つの宣慰に分けて湖廣に属させ、永樂十一年(1413年)に思南府を置いた。
- 思南府が領する長官司は四。水徳江・蠻夷・沿河祐溪・朗溪である。
- 思州が領する長官司は四。都坪峨異溪・都素・施溪・黄道溪である。
思南――田仁智・田仁厚の帰順
- はじめ太祖が兵を起こして偽漢を平らげ湖南を経略したとき、思南宣慰使の田仁智が都事の楊琛を遣わして帰附し、あわせて元から授かった宣慰の誥を返納した。帝はいち早く帰順したことを賞し、そのまま思南道宣慰使とし、三品の銀印を給し、あわせて楊琛を宣撫使に任じた。
- 思州宣撫使の田仁厚もまた都事の林憲と萬戸の張思温を遣わして、鎮逺・古州の軍民二府、婺川・功水・常寕など十縣、龍泉・瑞溪・沿河など三十四州を献じた。そこで思州宣撫を思南鎮西等處宣慰使司と改め、田仁厚を使とした。いずれも毎年の朝貢を絶やさなかった。
- 洪武二年(1369年)、田仁厚が死に、子の田𢎞正が襲いだ。帝は思南の土官が代々荒服に居って闕に詣でたことがないとして、部長を率いて入朝するよう詔した。
- 洪武九年(1376年)、田仁智が入覲し、織金の文綺を加賜され、上を敬い下を愛して爵祿を保つ道を諭された。田仁智は辞して帰る途中、九江の龍城驛で病死した。有司が報告し、官を遣わして祭り、あわせて敕して柩を思南へ送らせた。
- そのころ思州の田𢎞正がその弟の田𢎞道らとともに来朝し、帝は禮部に命じてみな厚く賜わせた。
- 洪武十一年(1378年)、田仁智の子の田大雅が襲職して表を奉じて謝恩した。思南に命じて諸洞の弩手二千人を集め、徴発に備えさせた。
- 洪武十四年(1381年)、田大雅が入朝した。
- 洪武十八年(1385年)、思州の諸洞の蛮が乱を起こし、信國公湯和らに討伐を命じた。当時、寇は出没が定まらず、軍が来ると聞けば山谷に隠れ、退けばまた出て掠奪した。湯和らは軍がその地に至ると、蛮人が驚いて潰えるのを恐れ、軍士に諸洞で分屯して柵を立てさせ、蛮人と入り交じって耕作させ、疑いを解いた。しばらくして計略でその首魁を捕らえ、余党もことごとく平定し、兵を残して鎮めた。
- 洪武二十年(1387年)、思南宣慰を鎮逺へ移した。田大雅が来て謝恩した。思州宣慰の田𢎞正が死に、子の田琛が襲いだ。
- 洪武三十年(1397年)、田大雅の母の楊氏が来朝した。
- 永樂八年(1410年)、田大雅が死に、子の田宗鼎が襲いだ。
思南――田宗鼎と田琛の争い、思州・思南の廃止
- はじめ田宗鼎は凶暴で、副使の黄禧と怨みを結び、互いに訐奏(暴き立てての上奏)を何年も続けた。朝廷は田氏が代々その地を守り、また先に帰誠したことに免じて曲げて保全し、黄禧を辰州知府に転じた。
- まもなく思州宣慰の田琛が田宗鼎と沙坑の地を争って怨みを抱き、黄禧はそこで田琛と結んで田宗鼎を陥れようと兵を構えた。田琛は自ら天主と称し、黄禧を大将として兵を率い思南を攻めた。田宗鼎は家族を連れて逃げ、田琛はその弟を殺し、墳墓を暴き、あわせて母の屍を戮した。
- 田宗鼎が朝廷に訴えたので、たびたび敕して田琛・黄禧に闕に来て弁明するよう命じたが、いずれも命を拒んで来なかった。ひそかに奸人を教坊司に入れ、隙を伺って変を起こそうとした。事が発覚し、行人の蒋廷瓚を遣わして召し、鎮逺侯の顧成に兵でその境を圧させて田琛・黄禧を捕らえ、械につないで京師へ送った。いずれも罪に服した。
- 田琛の妻の冉氏はとりわけ強悍で、人を遣わして臺羅などの寨の苗である普亮を誘って乱を起こさせ、朝廷が田琛を帰して招撫させることで死を免れさせようと図った。帝はこれを聞いて田琛を禁錮した。
- 田宗鼎は窮迫して帰順したので末減を得て、復職して思南に還ることになったが、田宗鼎はどうしても怨みに報いて禍根を絶とうとした。帝は「田宗鼎はたまたま禍を免れたのに自ら懲りず、かえって忿りを逞しくしている」として、これも留め置いた。
- 田宗鼎は誹謗の言を吐き、そのついでに祖母の隠し事を暴き、祖母が黄禧と通じたことこそ禍の本だと言った。祖母もまた田宗鼎が実母を縊り殺したという人倫を乱す事件を暴いた。帝は刑部に命じてその罪を正させた。
- 帝は戸部尚書の夏原吉に諭して言った。「田琛と田宗鼎は思州・思南を分治しながら、いずれも民の害となった。田琛は不道でありすでにその罪を正した。田宗鼎は人倫を滅ぼし罪は宥すべからざるものだ。その思州・思南の三十九長官の地は郡縣に改め、貴州布政使司を設けて総轄させよ」。
- 顧成に命じて臺羅の諸寨を討たせ、顧成は苗賊の普亮を斬って思州は平らいだ。
- 永樂十二年(1414年)、そこでその地を八府四州に分けた。貴州が内地となったのはこれに始まる。二つの宣慰は廃され、田氏は滅んだ。
思南――正統以後
- 正統初め、蠻夷長官司が「土官の衙門では婚姻をみな土俗に従っている。恩命を頒っていただきたい」と奏した。帝は、土司が旧俗を襲って近親と結婚してきたことはすでにたびたび赦宥を経ているので問わないが、今後はすべて朝廷の礼法によれ、違う者は罪する、とした。
- 景泰年間、思南府が「府の四面はみな山で、闗隘は五か所、守るべき城がない。近くの土軍を出して修築させていただきたい」と奏し、廵撫の王來に計画させるよう命じた。
鎮逺――沿革
- 鎮逺はもと豎眼大田の溪洞である。元の初めに鎮逺沿邊溪洞招討使を置き、のち鎮逺府と改めた。洪武五年(1372年)に州と改めて湖廣に属させ、永樂十一年(1413年)にふたたび府を置いて貴州に属させた。
- 領する長官司は二。偏橋と邛水十五洞である。
- 領する縣は二。鎮逺は金容金逹・楊溪公俄の二長官司の地、施秉は施秉長官司の地である。
鎮逺――洪武から宣徳まで
- 洪武二十年(1387年)、土官の趙士能が来朝して馬を貢した。
- 洪武三十年(1397年)、鎮逺の鬼長箐などで苗民が乱を起こし、指揮の萬繼と百戸の呉彬が戦死した。都指揮の許能が兵を率い、偏橋衛の軍と合流してこれを撃ち破り、賊衆は散走した。
- 永樂初め、鎮逺長官の何恵が「毎年、清浪・焦溪・鎮逺の三橋を修理しているが工費が莫大で、管下の溪に臨む部民はみな𦍕獷(粗野)な猫狫(仡佬)で役に堪えられない。軍民に手伝わせていただきたい」と言上し、許された。
- 宣徳初め、鎮逺の卭水奥洞の蠻苗である章奴が清浪の道中で掠奪し、思州都坪峩異溪長官司に捕らえられた。その父の苗銀總が力ずくで奪い返し、兵を集めて思州を攻めようとした。そこで赤溪洞長官の楊通諒を遣わして招撫させたが、銀總は伏兵を置いて楊通諒を殺し、さらに埂洞を掠めた。
- 命じて総兵官の蕭授に辰州・沅州の諸衛の兵一萬四千人を調えて討たせ、清浪で合流した。衛指揮の張名が銀總を討ち、奥洞を陥れてその一党を皆殺しにした。銀總は逃げた。
鎮逺――正統から天順まで
- 正統三年(1438年)、鎮逺洲を廃し、鎮逺・施秉の二長官司を鎮逺府に属させた。
- 正統十二年(1447年)、廵按御史の虞禎が「貴州の蠻賊は出没し、撫しても従わず、捕らえようとしても捕らえられない。策を立てなければ制しがたい。臣が見るに清水江などは切り立った崖が層をなし、わずか一筋の道が通じているだけで、彼らはその険を頼んで悪をなす。もし江外の山口をすべて閉塞し、江内の山口と津渡にはすべて闗堡を設けて兵を屯して守り、また寨長のうち才幹ある者を選んで辦事官とすれば、手抜かりはなくなる」と奏し、許された。
- 正統十四年(1449年)、偏橋衛が苗の寇に殺掠されて自存できないため賑救を命じた。有司の請いによる。
- 天順七年(1463年)、鎮守湖廣太監の郭閔が「貴州洪江の賊苗である蟲蝦らが二千余人を糾合して王侯を僭称し、鎮逺の□(底本欠字)寨を攻め掠め、撫諭しても服さない。兵を合わせて進討していただきたい」と奏した。総兵官の李震・李安らに分道して進ませたところ、賊は退いて平坤寨を守った。官兵は清水江まで追って蟲蝦を捕らえ、あわせて賊首の飛天侯・苗老底・額頭ら六百四十余人を斬り、黎平の赤溪湳洞も回復して賊は平らいだ。
鎮逺――𢎞治以後、卭水長官司の一件
- 𢎞治十年(1497年)、鎮逺金容金達長官司を鎮逺縣と改め、流官を置いた。当時、土官の何倫父子が罪で死に、土地の人々が流官を望んだので、守臣が上申して許された。
- 萬厯末、卭水長官司の楊光春は貪暴で、土目の彭必信がこれを助け、苗から搾り取った。苗は堪えかねて上訴して流官に改めてもらおうとした。楊光春と彭必信は謀って叛き、「官兵が諸苗を討伐しようとしている、金を集めて贖うべきだ」と言い触らして五百余の金を得た。
- 都御史の何起鳴がこれを察知し、楊光春を捕らえて獄に下し、そこで痩せ死にした。そこで四戸ごとに壮兵一人を選んで四哨を立て、兵にならぬ者は糗糧・魚塩を出して助けさせ、土吏の何文奎らを選んで掌らせた。
- 彭必信はふたたび諸苗から金を集めて朝廷に訴え、「巴也梁止の諸寨が乱を起こしただけなのに、指揮使の陶効忠はそれを問わず、かえって土官の楊光春から金を取ったうえ殺した。旧例を改めて新法を用いるのは不便である」と言った。文書を上げると得意になって帰り、知府の王一麟に面会した。王一麟はこれを縛って獄に下した。
- 王一麟は諸苗に檄して言った。「そなたら十五洞が苦しんでいるのは兵餉として月に米三斗を出すのが過重だというだけのことだ。しかし毎年支給される白蟲舖の米は一洞につき月八斗ある。ほかに平溪驛の余剰から徴収する銀もあり、どちらも餉に充てられる。わしがそなたらのために取り計らってやるから、彭必信に欺かれるな」。苗はみな悦服し、そこで彭必信を罪に問うた。
- そのころ土舍の楊載清という者が襲職すべき立場にあり、かつて貴州の郷試に合格していたので、本衛において俸級を加えて優遇するよう命じた。
- 天啓五年(1625年)、廵撫の傅宗龍が「苗の寇が猛威をふるい地方が害を受けている。偏沅の撫臣に敕して偏橋に移鎮させ、沅へ帰らせないでいただきたい。思州・石阡・偏橋・鎮逺などで兵一萬余を練り、平時はこれで苗を討ち、大征のときは統べて督臣の後詰めとすれば、苗の患いも静まり、西の賊の気勢も次第に挫けよう」と奏し、許された。
銅仁――沿革
- 銅仁は元では銅人大小江等處軍民長官司であった。洪武初めに銅仁長官司と改め、永樂十一年(1413年)に銅仁府を置いた。萬厯二十六年(1598年)にはじめて銅仁長官司を縣治と改めた。
- 領する長官司は五。省溪・提溪・大萬山・烏羅・平頭著可である。
- 烏羅はもと永樂年間に置かれた貴州八府の一つである。その所属に朗溪長官司・答意長官司・治古長官司があり、平頭著可長官司もこれに属していた。
銅仁――宣徳の乱と蕭授の平定
- 宣徳五年(1430年)、烏羅知府の嚴律己が「所属の治古・答意の二長官である石各野らが衆を集めて銅仁・平頭・瓮橋などに出没し、蠻賊の石雞娘や筸子坪長官の呉畢郎らを誘い脅してともに乱を起こしている。招撫に従わない。その地は鎮溪・酉陽の諸蛮と境を接しており、煽動し合って乱になるのを恐れる。官軍と土軍を調えて要地を分け押さえ、糧道を絶ち、捕らえつつ撫し、事が平定したのちには衛所と廵司を置いて守らせるべきである」と言上した。
- 事が上聞され、総兵官の蕭授および鎮守・廵撫の諸司に議させた。蕭授は二十四の堡を築いてその地を取り囲んで守ったが、兵力が分散して防ぎきれず、賊は四方に出て掠奪し、清浪衛鎮撫の葉受を殺して勢いはますます猛となった。
- 宣徳七年(1432年)、廵按御史が事情を上申し、あわせて「生苗の地は三百余里に過ぎない。別に良将を遣わして諸軍を督し殲滅していただきたい」と言った。蕭授は「残った苗の呉不爾らが筸子坪へ逃げ込み、生苗の龍不登らと結んで湖廣の五寨および白崖の諸寨を攻め掠め、患いはますます甚だしい。川・湖・貴州の境を接する諸官軍と土兵に分路させて力を併せ攻め討たせ、辺患を除くべきである」と述べ、許された。
- 敕諭を降した後、蕭授は「軍を長く野に曝すと失敗して蛮に恥をかかされる恐れがある」と言上したので、撫するも𠞰するも自ら決めよ、朕は成功を見るだけで中央から制するようなことはしない、とした。
- 宣徳八年(1433年)、蕭授が奏して言った。「臣は命を受けて諸軍を統率し賊の巣を攻め、新郎などの寨を破りました。前後して賊首の呉不跳ら二百十二人を生け捕り、呉不爾・王老虎・龍安輔ら五百九十余級を斬り、いずれも梟して見せしめとしました。余党もことごとく平定し、掠われていた軍民の男女九十八口を取り返してみな親族に返し、捕らえた賊方の婦女や幼弱の者一千六百余口は従軍の将士に給し、呉不跳らは械につないで京師に献じます」。
- 帝は侍臣を顧みて「蠻苗は乱を好んで自ら滅亡を招いた。しかし朕の心には惻然たるものがないではない」と述べた。蕭授が南荒を威服したのは前後およそ二十余年に及んだ。
- 正統三年(1438年)、烏羅府の所属である治古・答意の二長官司は、乱後に残った民がごくわずかとなったので、これも廃した。烏羅・平頭著可は銅仁に、朗溪は思南に属させた。廵按御史の請いによる。
銅仁――景泰以後の諸乱
- 景泰七年(1456年)、平頭著可長官司が「その地は蠻賊に侵害されることが多い。土城を立てて固守したい」と奏し、許された。
- 成化十一年(1475年)、総兵官の李震が「烏羅の苗人である石全州がみだりに元末の明氏の子孫と称して明王を僭称し、衆を糾合して執銀などで乱を起こし、隣接する洞の多くがこれに応じている」と奏した。そこで官軍を調えて討たせ、石全州はすでに捕らえられたが、諸苗の攻掠がやまなかったので、鎮守・廵撫の官に策を立てて撫し捕らえるよう命じ、まもなく平定した。
- 嘉靖二十二年(1543年)、平頭の苗賊である龍桑科が乱を起こし、湖廣・桂陽の間を流れ歩いて掠奪し、たいそう猛威をふるった。帝は諸苗がふたたび叛いたことについて乱を挑発した者を責め、都御史の萬鏜を起用して討たせた。
- 翌年、萬鏜は「叛いた苗は次々に殲滅した。ただ龍母叟は降ったとはいえその罪が大きいので重刑に処すべきである」と奏し、遼東への安置を命じた。
- まもなく龍子賢がふたたび叛いた。
- 嘉靖二十六年(1547年)、湖廣・貴州の廵按御史が官軍の討伐が不熱心であると奏し、旨を降して厳しく責めた。
- 嘉靖三十九年(1560年)、総兵官の石邦憲がこれを討ち、首悪の龍老羅らを捕らえて平定した。
黎平――沿革
- 黎平は元の潭溪の地である。洪武初めはそのまま各長官司としたが、永樂十一年(1413年)に黎平・新化の二府に改め置き、宣徳十年(1435年)に新化を黎平に併合した。
- 領する長官司は十三。潭溪・八舟・洪舟泊里・曺滴洞・古州・西山陽洞・湖耳・亮寨・歐陽・新化・中林驗洞・赤溪湳洞・龍里である。
黎平――洪武年間
- はじめ洪武三年(1370年)、辰州衛指揮の劉宣武が兵を率いて湖耳・潭溪・新化・萬平江・歐陽の諸洞を招降した。そこで諸洞の長官がみな来朝し、元から授かった印と敕を納めた。帝はみな元の官のまま洞民を管轄させ、辰州衛に属させた。のち龍里長官司を龍里衛と改め、さらに五開衛を増設して鎮めさせ、思州に隷属させた。
- 洪武二十九年(1396年)、清水江の蠻である金牌黄が乱を起こし、都司が兵を発して捕らえようとしたが金牌黄は逃げ、その一党五百余人を捕らえて械につなぎ京師に送った。脅されて従った者は死を宥して遠衛に戍らせた。のち金牌黄が宣慰の家に匿われていると言う者があったが、詔して問わなかった。
- 洪武三十年(1397年)、古州洞の蠻である林寛が自ら小師と号して衆を集め乱を起こし、龍里を攻めた。千戸の呉得と鎮撫の井孚が力戦して死んだ。林寛はそのまま新化を犯し、突然平茶に至った。千戸の紀達が壮士を率いて撃ち、紀達は敵陣に突入して数人を殺し、鎗で一人を横に引っ掛けて投げ飛ばした。流矢が腕に中たったが、紀達は矢を抜いてまた戦った。賊は驚いて「あれは平茶の紀䝉か」と言って逃げ去った。蛮は官のことを「䝉」と称するのである。
- やがてふたたび勢いを盛り返したので、湖廣都指揮使の齊讓を平羌将軍として兵五萬を統べて征討させた。齊讓が逗留したため楊文を代わりとし、さらに楚王の朱楨と湘王の朱柏にそれぞれ護衛の兵を率いて進討させ、銅鼓衛に城を築かせた。まもなく齊讓が林寛らを捕らえて械につなぎ京師に送り、誅した。
- 洪武三十一年(1398年)、さらにその余党を平らげ、あわせて三十岡などの洞蠻二千九百人を俘虜として帰り、班師した。
黎平――永樂から景泰まで
- 永樂五年(1407年)、寨長の韋萬木が来朝し、自ら統べる四十七寨について官を設けてほしいと申し出た。そこで西山陽洞長官司を設け、韋萬木を屯長とした。
- 宣徳六年(1431年)、永從蠻夷長官司を永從縣と改め、流官を置いた。土官の李瑛の家が絶えたためである。また思州の新溪など十一寨を割いて黎平の赤溪湳洞長官司に属させた。
- 正統四年(1439年)、計砂の苗賊である苗金蟲らが洪江の生苗を糾合し、統千侯・統萬侯という名号を偽って立て、四方に掠奪した。都督の蕭授に兵を調えて討たせ、賊首の苗總牌らは都督の呉亮に殺された。洪江の生苗は軍門に詣でて降り、蕭授は諭して帰らせた。千戸の尹勝に命じて苗金蟲を誘い出して捕らえ、斬って見せしめとした。
- 景泰五年(1454年)、廵撫の王永夀が「苗賊の䝉能が龍里・新化・銅鼓の諸城を攻め囲んでいる。兵を調えて討たせてほしい」と請うた。当時、賊は龍里を取って巣にしようとし、亮寨・銅鼓・羅圍堡の諸城を攻め破り、都指揮の汪廸が賊に殺された。
- 朝議により南和伯の方瑛を平蠻将軍として湖廣の諸軍を統べて討たせた。䝉能は賊衆三萬を糾合して平溪衛を攻めたが、方瑛は指揮の鄭泰らを遣わして火鎗で攻めさせ、賊三千人を斃した。䝉能も死んだ。しかし䝉能の一党の李珍らがなお苗の衆を煽動したので、官軍は計略で捕らえ、銅鼓・藕洞を回復し、鬼板など百六十余寨を連破した。覃洞・上陸の諸苗はことごとく降った。
黎平――天順・成化の東苗討伐と李添保
- 天順元年(1457年)、鎮守太監の阮讓が「東苗は貴州の諸苗の首魁で、険に拠って王を僭称し、他の種族を脅している。東苗が平らげば諸苗は服する。臣は方瑛と協議し、あわせて出師の期日を求める」と言上した。そこで四川・湖廣の諸宣慰・宣撫に諭を頒って会師し討伐させた。
- 天順三年(1459年)、督理軍務副都御史の白圭は、谷種と山箐こそ東苗の羽翼であるからまず討つべきだとし、方瑛とともに青崖へ進んだ。総兵の李貴を牛皮箐へ、参将の劉玉を谷種へ、参将の李震を鬼山へ進ませ、向かうところことごとく勝ち、水車壩など百四十七寨を陥れた。
- 諸将はさらに兵を合わせて青崖から石門山を攻め、擺傷など三十九寨を陥れた。さらに兵を四路に分けて董農・竹葢・甲底など四百三十七寨を攻めた。賊首の干把豬は退いて六美山を守ったが、兵を合わせて大挙進撃し、五千余級を斬り、干把豬を生け捕って京師へ送り、誅に伏させた。
- これより先、麻城の人である李添保が未納の賦から逃れて苗中に入り、唐の後裔と偽称して衆一萬余を集め、王を僭称して「武烈」と建元し、元の賊首である䝉能の子の䝉聰を総兵官に任じ、銀印と敕書を与え、兵を放って掠奪させ遠近を震動させていた。ここに至って李震に敗れ、余賊は大いに潰え、李添保はかろうじて身一つで逃れ、ひそかに鬼池および絞洞の諸寨に入って、ふたたび諸苗を煽動して中林・龍里を攻め掠めたが、これも李震に捕らえられ誅に伏した。
黎平――萬厯の呉國佐の乱
- 萬厯二十八年(1600年)、皮林の逆苗である呉國佐・石纂太らが乱を起こした。呉國佐はもと洪州司特洞寨の苗で、かなり書物を知り、かつて永從の学に入って生員となっていた。もとより桀黠で、皮林の諸苗が推服していた。
- 叛人の呉大榮の妾を娶ったことで黎平府に取り押さえられ、そこで叛いて自ら天皇上将と称し、表向きは招撫に応じながら裏では播州の賊と通じた。石纂太もまた太保と称し、百戸の黄鍾ら百余人を殺し、呉國佐と兵を合わせて上黄堡を囲んだ。
- 参将の黄冲霄が討ったが敗れ、守備の張世忠が殺され、五開が焼かれ、永從縣が破られ、中潮所が囲まれた。総兵の陳良玭と陳璘が湖廣・貴州の兵を合わせて進討したが、これも失利し、呉國佐はいよいよ横暴となった。
- 萬厯二十九年(1601年)、廵撫の江鐸に命じて兵を合わせ七路に分けて進討させた。苗は険に拠って出て来なかったが、陳璘が兵を潜ませて隘路を奪い、火を放ってその巣を焼いた。呉國佐は逃げたが捕らえられ、石纂太も他の将に誘い出されて縛られ、いずれも誅に伏した。
安順――沿革
- 安順は普里部の蛮の居所である。元の世祖が普定府を置き、成宗の時に普定路と改め、また普安路とし、いずれも雲南に属させた。洪武初めに普定府とし、洪武十六年(1383年)に安順州と改めて四川に属させ、正統三年(1438年)に貴州に属させ替え、萬厯年間に安順軍民府と改めて普安などの州をこれに属させた。
- 普安はもと軍民府である。はじめ雲南に属し、まもなく廃して衛とし、永樂年間に州に改めてはじめて貴州に属した。
- 領する長官司は二。寜谷と西堡である。
安順――洪武年間
- 洪武五年(1372年)、普定府の女總管である適爾とその弟の阿甕が来朝し、適爾を知府に任じて世襲を許した。
- 洪武六年(1373年)、普定府に流官二員を設けた。
- 洪武十四年(1381年)、普定に城を築いた。
- 洪武十五年(1382年)、普定軍民知府の者額が来朝し、米・衣・鈔を賜い、その部衆に子弟があればみな國學に入れるよう諭させた。
- 洪武十六年(1383年)、者額は弟の阿昌および八十一砦長の阿窝らを遣わして来朝させた。
- 洪武二十年(1387年)、詔して普定・安順など六長官を徴して京へ赴かせ、銀二十萬をもって糴(買い付け)に備えさせ、普定侯の陳桓らに諸軍を率いて普安に駐屯し屯田させた。
- 翌年、越州の叛苗である阿資が衆を率いて普安に寇し、府治を焼いて大いに掠奪した。征南将軍の傅友徳がこれを撃退し、阿資は翌朝に軍門に詣でて降った。そこで軍民府を指揮使司に改めた。
- 洪武二十三年(1390年)、西平侯の沐英が「普安の百夫長である宻即が叛いて屯田の官軍および驛丞・試百戸を殺した」と奏し、指揮の張泰を調えて討たせたが、盤江の木窄闗で官軍が敗れた。さらに指揮の蒋文に烏撒・畢節・永寕の三衛の軍を統べさせて討たせ、宻即は逃げた。
- 洪武二十六年(1393年)、普定西堡長官司の阿徳と諸寨長が乱を起こし、貴州都指揮の顧成に命じて平定させた。
- 洪武二十八年(1395年)、顧成が西堡の土官である阿傍を討ち平らげた。
- 洪武三十一年(1398年)、西堡滄浪の寨長である必莫者が衆を集めて乱を起こし、阿革傍らも三千余人を糾合して加勢したが、顧成がいずれも撃ち斬り、その地はことごとく平らいだ。
安順――永樂・天順・成化
- 永樂元年(1403年)、元普安安撫の者昌の子である慈長が「建文の時に父がこの職に任じられたので襲ぐべきなのに吏部がこれを罷めた。本境は土地が広く民が多く、糧三千余石を納めている。前職のまま報効させていただきたい」と言い、命じてそのまま安撫を与えた。
- 永樂十三年(1415年)、普安安撫司を普安州と改めた。
- 永樂十四年(1416年)、慈長が営長の地を占めようと謀り、また民の妻を強いて娶って妾とし、その夫を殺して子を閹した。事が上聞され、布政司の孟驥に命じて調べさせたところ、慈長は兵一萬余を糾合して孟驥を囲んだ。孟驥は計略でこれを捕らえ、京師に逮送して獄中で死んだ。
- 天順四年(1460年)、西堡の蠻賊が衆を集めて焼き掠めた。鎮守貴州内官の鄭忠と右副總兵の李貴が、四川・雲南の都司の官兵二萬を調え、あわせて貴州宣慰の安隴富の兵二萬を加えて進討することを請うた。阿果に至って賊首の楚得隆らを捕らえ、二百余級を斬った。余賊は白石崖へ奔ったので、さらに七百余級を斬り、その巣を焼いて帰った。
- 天順十年(1466年)、安順土知州の張承祖が所属の寕谷寨長官の顧鍾と地を争って殺し合ったので、廵撫に下して究明させ、それぞれ馬を貢して罪を贖わせた。
- 成化十四年(1478年)、貴州総兵の呉經が「西堡の獅子孔洞などの苗が乱を起こしたので、先に雲南の軍八千を調えて防守を助けさせたが、雲南に警報があると聞いた。沅州・清浪の諸軍に調え替えて応援させたい」と奏した。
- 成化十五年(1479年)、呉經はすでに賊首の阿屯・堅婁らを捕らえ斬ったと勝報を上げた。
安順――米魯の乱
- 𢎞治十二年(1499年)、普安州土判官の隆暢の妾である米魯が叛いた。米魯は霑益州土知州の安民の娘で、隆暢に嫁いだが追い出されて父の家にいた。
- 隆暢は老いており、前妻の子の隆禮が父の職を襲ぐことになっていたが、父子は仲が悪かった。米魯は営長の阿保と通じ、阿保に隆禮を説かせて自分を迎えさせ、隆禮は阿保とともに米魯と通じた。
- 隆暢はこれを聞いて怒り、ただちに隆禮を殺して阿保の寨を焼いた。阿保は米魯とその子の阿鮓莫らを引き連れて隆暢を攻め、隆暢は雲南へ逃げた。当時、東寧伯の焦俊が総兵官で、廵撫の錢鉞とともに和解させたが、米魯は道中で隆暢を毒殺し、そのまま阿保と寨に拠って叛いた。
- 隆暢の妾に適烏という者がおり、二子を生んで安南衛に別居していた。米魯はこれも殺そうとして寨を築いてその城を囲み、さらに普安に三つの寨を築いて阿鮓莫らに防守させた。自分の居る寨を承天と名づけ、無敵天王と号し、出入りには黄色い纛を立てた。官兵は制することができなかった。
- 鎮守・廵撫の官が上申し、十衛および諸土兵一萬三千人を発して分道して進ませ、あわせて安民を責めて賊を殺して罪を贖わせた。安民は査刺寨で阿保父子を攻め斬り、米魯は逃走した。焦俊らは安民に米魯を差し出すよう責めたが、安民はひそかに米魯に兵五百を貸し、適烏とその二子を襲って殺させ、別の寨に拠って殺掠させた。そのうえ米魯自身が女土官として襲職したいと願い出た。鎮守・廵撫の官はみな米魯の賄賂を受けて宥免を請うたが、厳しい旨で叱責され、必ず米魯を得るまでやめないこととなった。
- 貴州副使の劉福はひそかに米魯に賄賂を求めてわざと出師を遅らせたので、賊はいよいよ勢いづき、官兵は阿馬坡で敗れ、都指揮の呉逺が捕らわれ、普安は陥落寸前となった。
- 帝は南京戸部尚書の王軾、廵撫の陳金、都指揮の李政に進討を命じ、二十余の寨を破った。米魯は馬尾籠へ逃げたが官兵が包囲して捕らえ、誅に伏した。安民は自ら弁明して赦された。
- 正徳元年(1506年)、隆暢の一族の女である適擦が土判官を襲ぎ、京へ赴いて朝貢し、帝はこれを嘉した。ある説では適擦もまた隆暢の妾だという。
安順――西堡の阿得・獅子孔
- 西堡の阿得・獅子孔・阿江の二種はいずれも□(底本欠字)獠である。はじめ滄浪の六寨に拠って常賦を納めなかった。土官の温愷は罪を恐れて自ら縊れ、その子の廷玉が賦の免除を請うたが許されず、徴収に赴いてその寨長の乜吕らに殺された。
- 正徳六年(1511年)、廷玉の弟の廷瑞が守臣に訴えた。ちょうど乜吕が死んだので、指揮の楊仁がその衆を撫した。廵撫の蕭翀が賦を納めさせて出兵は免じるよう請い、許された。
都匀――沿革
- 都匀は元では都雲といった。洪武十九年(1386年)に都匀安撫司を置き、洪武二十九年(1396年)に軍民指揮使司と改めて四川に属させ、永樂十七年(1419年)に貴州に属させ替え、𢎞治七年(1494年)に府を置いた。
- 領する州は二。麻哈と獨山(合江洲・陳䝉爛土長官司の地)である。
- 領する縣は一。清平(清平長官司の地)である。
- 領する長官司は八。府に属するのは都匀・平浪・邦水・平洲六洞、獨山に属するのは九名九姓・豐寜、麻哈に属するのは樂平・平定である。
都匀――洪武から宣徳まで
- 洪武二十二年(1389年)、都督の何福が都匀の叛苗を討ち、四千七百余級を斬り、六千三百九十余人を捕らえ、寨洞百五十二か所を降したと奏した。
- 洪武二十三年(1390年)、都匀衛に城を築き、指揮同知の董庸に守らせた。
- 洪武二十五年(1392年)、九名九姓の蛮が乱を起こし、何福に命じて平定させた。
- 洪武二十八年(1395年)、豊寜の三籃などの寨が乱れ、顧成に命じて平定させた。
- 洪武二十九年(1396年)、平浪の蛮が土官の王應名を殺し、都指揮の程暹が平定した。王應名の妻の呉氏が九歳の子の阿童を連れて訴え出て、詔して襲職を認めた。
- 永樂四年(1406年)、鎮逺侯の顧成が合江州の十五寨を招諭して帰順させた。
- 宣徳元年(1426年)、平浪の賊である紀那・阿魯らが副長官の地を占め、葉果の諸寨を殺掠した。招諭に従わなかったので、詔して蕭授に平定させた。
- 宣徳七年(1432年)、陳䝉爛土副長官の張勉が「所司は衛から遠く、地は古州の生苗に連なり、廣西の獠洞にも近い。化從寨長の韋翁同らが乱を煽っている。堡を立て、あわせて泗城州の土兵一千を調えて鎮守させていただきたい」と奏し、許された。
- 宣徳九年(1434年)、韋翁同が下髙・大刀の蛮を糾合し、廣西の賊である韋萬良らと合して恣に殺掠した。指揮の陳原が討って韋萬良ら三人を捕らえ、韋翁同はそこで招撫に応じた。しかし落昌・蔡郎など四十寨はなお衆を集めて抗したので、総兵の蕭授が指揮の顧勇を遣わして進討し平定した。
都匀――成化・𢎞治の苗患と府の設置
- 成化十四年(1478年)、陳䝉爛土長官司の張鏞が「天壩干の賊首である齎果が侵掠している。侵された大陳・大歩などの寨に一司を設けて安寜宣撫に属させていただきたい」と奏した。また豊寜長官司の楊泰も「峰峒の陸光翁らが爛土に集まって乱を起こしている」と奏した。
- これより先、宣慰の楊輝が天壩干を平定した後、灣溪に安寜宣撫司を立てた。爛土の諸苗はそれが自分たちに迫るのを憎んでいた。ここに至って齎果らは天漂を攻め落とし、そのまま豊寜を囲んだ。当時、楊輝はすでに致仕して子の楊愛が承襲していたが支えきれず、四川・貴州の二鎮に援を求め、それぞれ上奏した。命じてふたたび楊輝を起用し、兵を合わせて討たせた。
- 成化十六年(1480年)、張鏞がふたたび「齎果が九姓・豊寜および荔波の賊一萬人を糾合して攻め掠めることがますます激しい」と奏した。帝は諸守臣が寇を軽んじていることを責めた。そこで廵撫の謝杲は「天順四年以来、諸苗が舟溪などを攻め掠めて今に至るまで静まらない」と言上した。そこで鎮守太監の張成と総兵の呉經に機に応じて𠞰撫させるよう命じた。
- 成化二十年(1484年)、爛土の苗賊である龍洛道が王を僭称し、都匀・清平の諸衛を攻めると声言した。豊寜長官の楊泰は土目の楊和と仲違いし、廣西泗城州の農民九千を鐵坑など百余寨に誘い込んで殺掠したので、苗の患いはますます盛んになった。
- 𢎞治二年(1489年)、苗賊七千人が楊安堡を攻め囲んだ。都指揮の劉英が兵を統べて偵察したが囲まれ、鎮守・廵撫の官に救援を命じてようやく脱出できた。
- 𢎞治五年(1492年)、鎮逺侯の顧溥に官兵八萬を率いさせ、廵撫の鄧廷瓉が軍務を提督し、太監の江徳が諸軍を監して征討に向かわせた。
- 𢎞治七年(1494年)、諸軍が分道して進討し、熟苗に偽って賊に降らせて誘い込ませ、伏兵でこれを捕らえ、まっすぐその巣を衝いて、あわせて百十余寨を破り、勝報を上げた。そこで都匀府および獨山・麻哈の二州を開き置いた。
都匀――正徳・嘉靖の争いと王聰の乱
- 正徳三年(1508年)、都匀長官司の呉欽がその一族の呉敏と襲職を争って殺し合った。鎮守・廵撫の官が上申して「呉欽の祖父の呉賴は洪武年間に功を立てて長官となり陣没した。子の呉琮が幼かったので弟の呉貴が代行したが、呉琮が成長するとやはり襲職し、伝わって呉欽で三代目である。呉敏は呉貴を理由にみだりに争ってはならない」と言い、詔して認めた。
- 嘉靖十五年(1536年)、平浪の叛苗である王聰が凱口の□(底本欠字)を攻め奪い、参将の李佑らを捕らえた。
- はじめ王阿向の先代は土官であったが、王仲武の先人に奪われた。王阿向の代になって王仲武と印を争い乱を煽ったので、総兵の楊仁と廵撫の陳克宅が平定し、王阿向らを斬ってその一党をことごとく追い払い、その地を都匀府に属させ、名を滅苗鎮と改めた。王仲武は諸苗が生業を失ったのをよいことに、ひそかに呼び戻しては科索(取り立て)を繰り返した。諸苗は怨みに堪えかね、王阿向の残党である王聰・王佑を主に推した。
- 廵按の楊春芳は李佑らを遣わして撫諭させたが、賊は李佑らを人質にして土田と官印の返還を求め、そのうえで李佑を釈放した。楊春芳が上申し、詔して廵撫に官軍三萬人を調えさせ、□(底本欠字)の下に集めた。□(底本欠字)はもともと絶険で、要害の所に弩樓を置き石を積んで防いでいたので、三か月攻めても陥ちなかった。さらに宣慰の安萬銓の兵を調えて合わせ討たせ、安萬銓が力戦して賊を破り、王聰らはみな誅に伏した。前後して二百六十余級を斬り、苗の寨百五十余、男女二萬余口を降した。勝報が上聞され、功を叙して賞賜に差があった。
都匀――萬歴の夭漂・者亞の帰附と阿其の乱
- また黒苗に夭漂という者があり、湖廣・貴州・四川・廣西の境に者亞と鼎足のかたちで住んでいた。
- 萬歴六年(1578年)、夭漂が内附を願い出た。都御史は指揮の郭懐恩と長官の金篆を遣わして事情を問わせたが、者亞に阻まれ、遠く丹彰から間道を通って夭漂に達した。ちょうど苗坪の黨銀らも者亞に阻まれて通じられずにいた。
- 都御史の王緝が使者を遣わして責めると、者亞の部長である阿斗は平定へ帰附したいと願った。王緝は「阿斗はもともと養善牌の部下である。なぜ平定に属したがるのか、必ず他意がある」として、吏に下して調べさせたところ果たして事実が明らかになった。すなわち平定へ行って諸䝉の兵を借り、養善を襲おうというもので、いずれも内地の奸人である夭金貴らがそそのかしていた。そこで夭金貴を罪に処し、者亞をもとどおり養善に属させると、路はようやく通じた。
- こうして苗坪と夭漂はともに貢賦を奉じ編戸なみに扱われることを願い出た。その地を歸化と名づけ、都匀府に属させた。使命の往来があるたびに、成人以上はことごとく跪拝して迎送し、騎従を左右に従え、前で蘆笙を吹き蠻歌を唱って先導して駆けた。事が上聞され、帝はこれを嘉した。
- 七年後、者亞と阿斗が叛いて誅された。そこで樂平の吏目を廃し、麻哈州の州判一員を増設して樂平司に居らせ、養鵝・者亞・羊腸の諸苗をこれに属させた。
- はじめ者亞と阿斗が答干寨で叛いたとき阿其がこれに応じた。阿斗が誅された後も阿其はたびたび順を犯した。萬歴十四年(1586年)、土舍の呉楠と王國聘は阿其の腹が読めず禍が自分に及ぶことを慮り、答干・雞賈・甲多の諸寨を䝉詔に属させるよう請い、宣威營を立てて毎年賦を納めさせた。
- ただ阿其だけが服さず、者亞の残った苗を引き連れて宣威營を囲み、大声で「ここは我らの地だ、誰がお前たちにここへ営を構えろと言ったか」と騒いだ。䝉詔がいつものように秋税を徴収しようとすると、阿其は使者が来るのを見計らって血で門を釁(ちぬ)り、通行を禁じた。ふだんから繖(きぬがさ)を張り鼓角を鳴らし龍鳳を描いた器を用い、雞賈・甲多・仰枯の諸苗と牛を割き酒を酌んで盟い、歸化を掠めたので、官兵は近づけなかった。
- 獨山の土吏である䝉天眷が兵を出して進討したいと願い出た。そこで人を遣って偽りの言葉を流し、「漢は䝉詔を退けた。宣威營の地を阿其に返し、まもなく兵を撤収する」と言わせた。阿其は自ら樂邦の牛場まで馳せて偵察させ、誰の言うことも同じだったので備えを緩めた。そこへ䝉天眷が急襲して阿其を斬り、雞賈・甲多はみな降った。
- 䝉詔に属した寨は、答干・雞賈・甲多のほかに塘蛙・當井・斗坡など十七寨があった。小橋の熟苗である龍木恰は寨の事を見ていたが、年老いて子の龍俸が襲いだ。ところが糧を頒つ者が龍恰に回さなかったので、龍恰はそのたびに龍俸の分を奪った。これを龍俸を養うためだと官に訴える者があり、官が逮捕して問いただしたが、龍恰を罪したのではなかった。ところが龍恰はいきなり漢の使者を鎖でつなぎ、やがて追い出して「早く去れ。これは我が家の事だ。また来れば、烏雞の諸寨で漢の辺境を踏みにじるぞ」と言った。官は計略でこれを捕らえ、獄中で死んだ。
- まもなく龍化龍・羊山の苗が四川の苗を引き入れて乱を起こし、「漢が理由なく苗を殺した。苗はその報いを求める」と言った。官軍は戦って利あらず、やがて都司の蔡兆吉が招諭して降れば死なせないと約束したので、諸苗はみな散り、龍俸はもとどおり事を見ることになった。
都匀――楊進雄と平州の乱
- 萬歴四十三年(1615年)、平州長官の楊進雄は凶悪で土地の人が苦しんだ。楊進雄には子がなく、兄の楊繼祿の子である楊珂を後嗣としていたが、実子の楊治安が生まれると楊珂を疎んじた。楊珂は楊進雄を怨み、楊進雄は楊珂の財産を奪って父ともども追い出した。
- 楊珂はかなり民心を得ていたので乱を起こし、唐宿の□(底本欠字)に拠って楊進雄を攻めた。楊進雄は敗走し、楊珂はその家を皆殺しにした。双方が上疏して訐奏したので、詔して推問させた。
- 都御史の趙釴は楊進雄の不法を理由に逮捕して獄に下し、獨山の土酋である蒙繼武に檄して楊珂を諭させ、帰順すれば土を改めて流とし安堵させると許した。楊治安はそれでは都合が悪いと考え、ひそかに六洞を賄賂として蒙繼武に約束して兵を借りた。
- 蒙繼武は兵を発して楊珂を攻め、平州を回復した。楊珂は廣西の泗城へ逃れ、蒙繼武はそのまま六洞の地に屯して耕作した。六洞の民は服さず、ふたたび楊珂を助けて蒙繼武と戦い、楊珂はふたたび平州に拠った。廵撫の呉岳がその父の楊繼祿を招降して、六洞はようやく安定した。
平越――沿革
- 平越は古の黎峨里で、元は平月長官司であった。洪武十四年(1381年)に衛を置き、洪武十七年(1384年)に軍民指揮使司と改めて四川に属させ、萬歴年間にはじめて府を置いて貴州に属させた。
- 領する州は一。黄平(黄平安撫司の地)である。
- 領する縣は三。湄潭、甕安(甕水・草塘の二安撫司の地)、餘慶(白泥・餘慶の二長官司の地)である。
- 領する長官司は二。凱里と楊である。
平越――洪武年間
- 洪武八年(1375年)、貴州の江力・江松・剌回など四十余寨の苗である把具・播共・桶らが苗獠二千を結んで乱を起こした。平越安撫司が援兵を請い、指揮同知の胡汝に討たせた。
- 洪武九年(1376年)、黄平の蠻獠である都麻堰が乱を起こし、宣撫司が捕らえようとしたが果たせず、千戸所が兵で討ったがこれも敗れた。そこで重慶の諸衛に命じて合わせ撃たせ、大いに破ってその地を平らげた。
- 洪武十九年(1386年)、平越衛の麻哈の苗である楊孟らが乱を起こし、傅友徳に命じて平定させた。このとき麻哈長官の宋成が陣没し、その子に襲職を命じた。
- 洪武二十二年(1389年)、察隴・牛場・乾溪の苗が乱れ、傅友徳が平定した。
- 洪武二十三年(1390年)、延安侯の唐勝宗に命じて黄平・平越・鎮逺・貴州の諸所へ赴き、軍士を訓練し屯田を提督し、機に応じて寇を討たせた。
平越――正統末から景泰の香鑪山
- 正統末、鎮逺の蠻苗である苗金臺が順天王を僭称し、播州の苗と互いに煽動して乱を起こし、平越・新添などの衛を半年にわたって囲んだ。城中は糧が尽き、官兵で逃げた者が九千余人に及び、貴州の東路が閉ざされた。当時、王驥が麓川征討から班師してその地を通ったが顧みなかった。
- 景泰元年(1450年)、保定伯の梁珤に平蠻将軍の印を佩びさせて師を督し進討させ、大いに破って八十余寨を平らげ、賊首の王阿同らを捕らえ、平越の諸衛の囲みはようやく解けた。
- 景泰二年(1451年)、都御史の王來が「貴州の苗である韋同烈が興隆の截洞に衆を集め、ふたたび平越・清平などの衛を攻めている」と奏した。梁珤は沅州から兵を発して東路を進み、都督の方瑛は西路を進み、興隆で兵を合わせて撃ち破った。韋同烈は退いて香鑪山を守った。方瑛は龍場から、都督の陳友は萬潮山から、都督の毛福夀は重安江から攻め、黎樹・翁滿など三百余寨を破って三千余級を斬り、衮水など二百余寨を招撫した。兵を香鑪山の下に合わせると、衆は韋同烈を縛って降り、械につないで京師へ送った。
- 景泰五年(1454年)、副總兵の李貴が「黎從などの寨の賊首である阿挐・王阿傍・苗金虎らが苗王を僭号し、銅鼓の諸賊と呼応している。増兵していただきたい」と奏した。
- 景泰七年(1456年)、廵撫の蒋琳が平越で苗賊を討ち四百余級を斬ったと奏した。その阿傍らは車椀寨に拠ってなお清平・平越の地方で乱を起こし、指揮の王把を殺し、香鑪山に拠って偏橋を掠めた。
平越――正徳の香鑪山攻略と天啓の楊世慰
- 正徳十一年(1516年)、廵撫の秦金に命じて討たせた。もともと黔と楚の境では群苗が嘯集して寨が連なり合っていた。香鑪山は周囲四十里、高さ数百尋で四面が切り立ち、頂は平らに広がっていて、以前から叛苗の巣穴であった。阿傍らがここに拠り、諸寨の苗を糾合して乱を起こした。
- 廵撫の鄒文盛と総兵官の李昻らは漢兵と土兵を五つに分けてその前柵を陥れ、ひそかに人を遣って崖を伝わり先登させ、路を守る賊を殺した。衆は蟻のように取り付いて登り、賊の巣を焼いて阿傍を捕らえた。余賊はなお堅く守って降らなかったが、参将の洛忠らが招撫すると偽って山の後ろから撃ち、これを殲滅した。そのまま師を龍頭・黎蘭などの寨へ移してことごとく破り、賊はついに平らいだ。
- 天啓四年(1624年)、凱里土司の楊世慰が叛き、安邦彦の兵に合流し、平茶の群苗とともに旧怨を晴らそうとして、ふたたび香鑪山をうかがい、四衛を揺るがし、糧運を塞いだ。
- 総督の楊述中は総兵の魯欽に檄して清平まで馳せ、機に応じて進討させ、副使の顔欲章らを調えて後援とした。魯欽は将領を督して巖頭を攻め破り、朗溪司の田景祥を分遣して平茶の賊の援軍を遮り、薬を塗った弩と礮を用いて賊衆を殺傷した。賊は夜に乗じて遠く逃げ、以後ふたたび鑪山をうかがう者はなく、四衛は安泰を得た。
石阡
- 石阡はもと思州の地である。永樂十一年(1413年)に府を置いて貴州に属させた。
- 領する長官司は四。石阡・苗民・葛彰葛商・龍泉坪である。
- 宣徳六年(1431年)、葛彰葛商長官の安民が「先に官鈔で糧を買い入れて備蓄し、蠻民に守り番をさせているが、溪洞は険しく僻遠で使い道がなく、年を経て腐るのを恐れる。弁償も実に難しい。有司の祭祀の費用や来往の使者の廪給に充てさせていただきたい」と奏し、許された。
- 萬歴年間、龍泉坪を縣と改めた。
新添――沿革と洪武・宣徳
- 新添衛はもと麥新の地である。宋の時に麥新の地を平定してから新添と改めた。元は新添葛蠻安撫司を置いた。洪武四年(1371年)に長官司を置き、洪武二十三年(1390年)に衛と改め、洪武二十九年(1396年)に新添衛軍民指揮使司を置いた。
- 領する長官司は五。新添・小平伐・把平寨・丹平・丹行である。
- 洪武五年(1372年)春、新添安撫の宋亦憐眞の子の宋仁が来朝した。その秋、平伐の蘆山・山木などの砦長が来降した。
- 洪武七年(1374年)、平伐の谷霞・谷浪などの苗が的敖の諸寨を攻め掠め、指揮僉事の張岱が討った。張岱は谷峽の刺向闗を攻めて破り、的敖まで追って大いに破り、的令・的若を捕らえて帰った。蛮は大いに恐れた。
- 永樂二年(1404年)、丹行・丹平の二長官を置いた。
- 宣徳元年(1426年)、新添の土舍である宋志道が洞蠻を糾合して掠奪し、蕭授が討って捕らえた。
- 宣徳九年(1434年)、丹行の土舍である羅朝が寨長の卜長や逃亡民の羅阿記らを煽動し、卧龍畨長官の龍保の地を侵占し、また猱平寨を攻めて焼き掠めた。当時、苗民は日ごろから指揮の李政を恐れていたので、尚書の王驥は李政を遣わして撫諭させるよう奏した。
- 景泰二年(1451年)、新添で掠奪して西廬に集まっていた苗賊を官軍が破ったと上申した。
- 成化九年(1473年)、旱害により新添衛の糧を免じた。
新添――萬歴の郭子章の討伐
- 萬歴三十四年(1606年)、貴州廵撫の郭子章が貴州の苗を討ち平らげ、苗長の呉老喬・阿倫・阿皆ら十二人を斬獲し、男女多数を招降した。
- これより先、東西二路の苗のうち仲家という者が貴陽・龍里・平越・新添の間に盤踞して諸苗の渠帥となっていた。また水硍山にいて銅仁・思州・石阡の間に介在する者を山苗といい、紅苗の羽翼であった。彼らは黔をうかがい、播州平定の後は財力が尽き果てて漢を軽んずる心を持ち、年じゅう剽掠して休む日がなかった。
- 郭子章が討伐を奏して、機に応じて進兵するよう命じられた。郭子章は総兵の陳璘と参政の洪澄源に官軍五千を率いさせ、土兵五千を加えて水硍山を攻めさせ、監軍の布政である趙健に宣慰の土兵一萬人を率いさせ、逰擊の劉岳らに督させた。両路が会師するに及び、いずれも九十余日をかけて陥した。
- 二つの寇を平らげたのち、もっぱら総兵の陳璘に漢兵・土兵五千を率いさせて新添に営を移し、東路を攻めさせたところ、一月足らずでその六箐を陥し、諸苗はことごとく平定された。
金筑安撫司
- 洪武四年(1371年)、元の安撫であった宻定が来朝して馬を貢し、詔して文綺三匹を賜り、金筑長官司を置いて秩を正六品とし、四川行省に隷属させ、宻定を長官として世襲させた。
- 洪武十四年(1381年)、宻定を敕して労って言った。「西南の諸部は帰附したとはいえ、しばらく入貢するだけである。そなた宻定は率先して馬五百匹を献じて征討を助けた。その誠は嘉すべきである。ゆえに特使を遣わして諭す。班師の日には重ねてそなたの功を労おう」。金筑長官司を安撫司に昇格させ、なお宻定を安撫使として世襲を与えた。
- 洪武十六年(1383年)、宻定が使者を遣わして方物を貢した。
- 洪武十八年(1385年)、宻定が弟の保珠を遣わして貢した。
- 洪武二十九年(1396年)、金筑安撫司を貴州軍民指揮使司に隷属させた。
- 永樂初年、金筑安撫の得垜が来朝し、絨錦・文綺を賜った。
- 洪熙・宣徳の改元にはいずれも馬を貢した。宣徳十年(1435年)、直隷貴州布政司とした。
- 正統五年(1440年)、安撫の金鏞が馬を貢した。成化・𢎞治・隆慶の時にも歴朝に貢した。
- 萬歴四十年(1612年)、吏部が廵撫の胡桂芳の奏を審議して答申した。金筑安撫の土舍である金大章が土を改めて流とし、官を設けて治所を建てたいと願い出たので、州名を欽定し印信を鋳造して給し、州判を流官に改め、金大章には土知州を授けて四品の服色を与えるが管事は許さず、子孫に承襲させ、州を貴陽府に隷属させることとした。こうして金筑安撫司を廣順州と改めた。