明史卷三百 列傳第一百八十八 外戚

  • 明の太祖は国を立てて家法が厳しく、史臣は「后妃は宮中に居て政に一髪も預からず、外戚は例に循い謹んで度を守り、寵を恃んで民を病ませる者がなかった。漢唐以来の及ばぬところである」と称した。
  • 髙・文の二后はいずれも賢明で外氏を抑え遠ざけた。太祖が髙后の親族を訪ね得て官を授けようとしたとき、后は謝して「国家の爵禄は賢士大夫と共にすべきもので、妾の家に私すべきではありません」と言い、前世の外戚が驕佚して禍を致した例を援いて辞した。帝は后の言を善しとし、金帛を賜っただけであった。
  • 定國の封も文皇后は自分の志ではないと言い、臨終になお帝に外家を驕り畜わぬよう勧めた。謀りを後に詒すこと既に遠く、宗社は安らかに定まり、椒房の貴戚もそれによって福慶を保ち、子孫に至って全うされた者が多かった。
  • ただ英宗の時、㑹昌侯の孫繼宗が奪門の功で国是に参議した。それ以下では、賢なる者は多く身を謹み法を奉じ、謙々として儒者の風があった。一二の恩を恃んで分を越えた徒も、好むところは田宅・狗馬・音楽に過ぎず、狎れるところは俳優・伎妾に過ぎず、軍国の権も賓客朋党の勢も持たなかった。
  • しかし在廷の諸臣は危言激論を好み、壽寧の兄弟のような驕奢、鄭國秦(鄭國泰の誤りか)のような庸駑に対しては、影を逐い声を尋ねて余力なく抨撃した。
  • そのため明一代の外戚は最も孱弱であった。しかも惠安・新樂は一族を挙げて国に殉じた。ああ卓れたことである。
  • 成祖の后家は中山王𫝊に詳しい。残りはその行事で記すべき者を採って外戚𫝊を作る。

篇首の立伝者一覧

  • 陳 公
  • 馬 公
  • 吕 本
  • 馬 全
  • 張 麒(子 㫤、昇 等)
  • 胡 榮
  • 孫 忠(子 繼宗)
  • 呉 安
  • 錢 貴
  • 汪 泉
  • 杭 昱
  • 周 能(子 壽、彧)
  • 王 鎮(子 源 等)
  • 萬 貴
  • 邵 喜
  • 張 巒
  • 夏 儒
  • 陳萬言
  • 方 鋭
  • 陳景行
  • 李 偉
  • 王 偉
  • 鄭成憲
  • 王 昇
  • 劉文炳(弟 文耀 等)
  • 張國紀
  • 周 奎

陳公――揚王の追封と墓廟

  • 陳公は名が失われている。淳皇后の父である。洪武二年、揚王に追封され、媪は王夫人とされ、祠が太廟の東に立てられた。
  • 翌年、王の墓が□(底本欠字)貽にあると言う者があり、中都の守臣が調べて事実であった。帝は中書省に命じて墓のかたわらに廟を立てさせ、祠祭署の奉祀一人と守墓の户二百一十家を設けて、代々賦役を免じた。
  • 帝はみずから『揚王行實』を製し、翰林学士の宋濂に諭してその碑文を作らせた。

陳公――宋濂の碑文(大略)

  • 碑の大略はこうである。王は姓は陳氏、代々維揚の人で諱は分からない。宋の末、名は尺籍伍符の中に隷し、大将の張世傑に従って南海に扈駕した。
  • 至元己卯(1279年)の春、世傑が元兵と戦って大敗し、士卒の多くが溺死した。王は幸いに死を脱れて岸に達し、一二の同行者と石を積んで破れた釜を支え、残った糧を煮て飢えを癒した。
  • やがて糧が絶え、同行者が山に死んだ馬があると聞いて共に烹て食べようとした。王は疲れ極まって昼寝し、白衣の人が来て「馬肉を食べるな。今夜舟が来るから共に乗れ」と言う夢を見た。深く信じずにいると、また同じ夢を見た。夜半、夢の中でかすかに櫓の音を聞き、紫の衣を著た者が杖で王の胯に触れて「舟が来た」と言った。王が驚いて覚めると身はすでに舟の上にあり、かつて仕えた統領官がいた。
  • 統領はすでに元に降っており、元の将は降ってきた者をそのつど水に投げ捨てさせていた。統領は王を憐れんで艎板の下に隠し、日ごとに乾飯を板の隙間から投げ入れ、また足で板を撼かす合図を約して、王は口を隙間に当てて漿を受けた。
  • 数日して事が洩れ、身の置きどころがなくなったところ、颶風が舟を吹いて車輪のように旋回させ、久しく進めなくなった。元の将は大いに恐れた。統領は王が巫術を善くすることを知って申し出て王を出した。王が天を仰いで歯を叩き、鬼神を指揮するようにすると風濤はたちまち息んだ。元の将は喜んで飲食を与え、通州に至って岸に送り上げた。
  • 王は維揚に帰ったが軍伍を楽しまず、盱眙の津里鎮に避け去り、巫術で世を渡った。王に子はなく二女を生み、長は季氏に嫁ぎ、次がすなわち皇太后である。晩年に季氏の長子を後とした。年九十九で薨じ、そのまま葬られた。今の墓がそれである。
  • 濂の按語の趣旨。君子の行いが人を感ぜしめるのも難しいが、神明に通ずるのはさらに難しい。患難危急の時に神が夢に仮って舟に登らせた。精誠が天に通じたのでなければ、どうして神人の佑けをここまで得られようか。これから推せば積徳の深厚は断じて信ずべきである。だからこそ慶びが聖女に鍾まり皇上を誕育し、億萬年無疆の基を啓いたのだ、と。
  • 銘の趣旨。皇帝は国を建てて孝思を展べ、母族に封を疏し、親しきより推した。爵を維揚に錫うたのは地が帝畿に近いためで、廟を立てて崇祀し、元冕・衮衣を著せた。宅兆の所在を痛み念って卜い、閭師が今は盱眙にあると告げて、皇情は悦び豫び、ついで涙を流した。礼官に往いて葺き治めさせ、樵る者や豎子に踏み荒らさせぬこととした。我が揚王は昔は戎麾に隷し、獰しい風が海を蕩がせ糧が絶えて飢えに阻まれたとき、天の顕らかな相けがあり、夢に紫衣が来て舟に登らせた。神力に恃んで死を易えて生となし、寿は期頤に躋った。積み重ねた徳は深く長く、その施しは自身に究まらず、そこで聖女を毓て皇支を茂らせ、蘿圖が開けて鴻祚は峨々たるものとなった。日が照り月が臨み、風が行き霆が馳せる。流れから源に遡れば功にも帰するところがあり、徳があれば酬いぬことはない。典礼は稽えるべく、化の原を昭らかにし、政の基を扶植して孝治を広め民彛を淳くする。津里の鎮は王の霊の依るところ、万年の後もこの銘の詩を視よ、と。

馬公――徐王の追封

  • 馬公は名が失われている。髙皇后の父で宿州の人。元末に人を殺して定遠に亡命し、郭子興と善く、末娘を子興に託した。子興はのちこれを太祖に帰し、すなわち髙皇后である。公と妻の鄭媪はいずれも先に卒していた。
  • 洪武二年、徐王に追封され、媪は王夫人とされ、祠を太廟の東に建てた。皇后がみずから神主を奉安し、祝文には「孝女皇后馬氏、謹んで皇帝の命を奉じて致祭す」と称した。
  • 四年、禮部尚書の陶凱に命じ、宿州の墓域に廟を立てさせた。帝はみずから文を作って祭った。その趣旨。創業の君は必ず賢后を得て内助とし、共に大業を定める。天下がすでに安んじれば必ず外家を追崇してその徳に報いる。外舅・外姑は実に賢女を生んで中宮に正位した。すでに外舅を徐王、外姑を王夫人に追封したが、王に継嗣がないので京師に廟を立て歳時に祭ってきた。しかし古典に稽えると礼に安からず、また人はその土に生まれれば魂魄は必ず故郷に遊ぶ。そこで墓所に廟を立て、有司に春秋の奉祀をさせる。今、吉辰を択び礼官を遣って神主を新廟に安んじ奉る。霊よ昭かに格れ、なおここに鑒みられよ、と。
  • 二十五年、祠祭署に奉祀・祀丞各一人を設けた。王に後がないので外戚の武忠・武聚をこれに充て、灑掃の户九十三家を置いた。
  • 永樂七年の北巡で帝はみずから祠下に謁し、守塚の武戡を建陽衞鎮撫とした。法を犯したときは責めて宥した。十五年、帝はまた親祭し、戡を徐州衞指揮僉事とした。

吕本――懿文太子次妃の父

  • 吕本は壽州の人、懿文太子の次妃の父である。元に仕えて元帥府都事、のち太祖に帰して中書省令史を授かった。洪武五年、歴官して吏部尚書。六年、太常司卿に改まった。
  • 翌年四月、御史臺が「本は職を奉ずるのに謹まず、郊壇の牲の角は繭栗ほどでなく、功臣廟は壊れても修めない」と言い、詔して官を免じ役を罰した。功臣廟が完成すると釈され、北平按察使僉事となった。
  • 帝は本および同時に命じられた楊基・達魯與權を召して諭した。その趣旨。風憲を設けるのは紀綱を粛し吏治を清めるためで、もっぱら刑名を理めるためではない。往いてその職を修め、務めて大体を明らかにし、俗吏が縄墨に拘るのを効うな。善は小さくとも行って已まなければ全徳を成し、過ちは小さくとも積んで已まなければ大悪となる。雲を干す台も寸土の積み重ねから、原を焼く火も一爝の微かさから起こる。慎まぬわけにゆこうか、と。本らは頓首して命を受けた。
  • ついでまたしきりに遷って太常司卿となり、二年を越えて卒した。子がなく、鍾山の陰に葬るを賜った。

馬全――惠帝后の父

  • 馬全は洪武中の光禄寺少卿で、その女が惠帝の后である。燕兵が都城を陥れ、全は行方が分からなくなった。

張麒――彭城伯

  • 張麒は永城の人。洪武十六年、女が燕世子妃となって兵馬副指揮を授かった。世子が太子となると京衞指揮使に進み、ほどなく卒した。永樂九年、彭城伯に追封され、諡は恭靖。のち侯に進められた。二子の㫤と昇はともに昭皇后の兄である。

張㫤――成祖の戒め

  • 㫤は成祖の挙兵に従って大寧を取り、鄭村壩に戦っていずれも功があり、義勇中衞指揮同知を授かった。のち薊州を援けて遼東の軍を破って還り、世子を佐けて北平を守った。永樂初、累官して錦衣衞指揮使。
  • 㫤にかつて過ちがあり、成祖は戒めて言った。「戚畹は最も法を守るべきである。さもなくば罪は常人の倍になる。汝が今の富貴に貧賤を忘れずにいれば、驕逸がどこから生じよう。もし奢傲放縱で下の者を陵虐すれば必ず赦さぬ。慎め」。㫤は頓首して謝した。
  • 仁宗が立って中軍都督府左都督に擢せられ、まもなく彭城伯に封ぜられて子孫世襲となった。洪熙改元、五軍右哨の軍馬を掌ることを命ぜられた。
  • 英宗が嗣位したとき年が幼く、太皇太后は㫤の兄弟を召して誡諭し、朝政にはいっさい与らせなかった。㫤の兄弟はもとより恭謹で、訓飭によっていよいよ自ら斂めた。正統三年卒。

張瑾・張玘――嗣封と罪

  • 長子の輔が病んだので子の瑾が嗣ぎ、伯爵に封ずることになったが、命が下る前に輔は卒した。はじめ㫤が私に奄人を蓄えていたのを瑾が匿して届けず、事が発覚して獄に下されたが、やがて釈された。
  • 瑾の従弟の玘は天順中に錦衣衞副千戸。千戸の呂宏の家で飲んで酔い、刀を抜いて宏を刺し殺した。法では斬に当たり、有司が議親を援いて減じようとしたが、詔は従わず、ついに律の通りにした。
  • 成化十六年、瑾が卒して子の信が嗣いだ。その後裔の嗣封は世表に見える。

張昇――惠安伯

  • 昇は字を叔暉。成祖の挙兵のとき舎人として北平を守って功があり、千戸を授かった。歴官して府軍衞指揮僉事。永樂十七年、北征に従った。仁宗が即位して後府都督同知を拝し、宣徳初に左都督に進んで左府の事を掌った。
  • 四年二月、敕して昇に諭した。その趣旨。卿は舅氏の至親であり、日ごとに煩劇な務めを理めているが、吏が欺き瞞くことがあれば、連ねて問わなければ法を廃し、問えば恩を傷つける。府事を罷め、朔望にのみ朝せよ。官禄は旧の通りとする。朕が優礼して保全する意である、と。
  • 九年の北征では都督府の事を掌って京師に留守した。英宗が立ち、太皇太后は政に預からせなかった。大学士の楊士竒は昇が賢であるから委任を加えるべきだと称したが、ついに許されなかった。
  • 正統五年、兄の㫤はすでに卒しており、太后は外氏に昇ひとりであることを念い、惠安伯に封じて世襲を予えた。翌年卒。
  • 子の䡌は早く亡くなり、孫の琮が嗣いだ。琮が卒して弟の瑛が嗣ぎ、瑛が卒して子がなく、庶兄の瓚が嗣ぎ、瓚が卒して子の偉が嗣いだ。

張偉――京營の提督と流賊討伐

  • 𢎞治十二年、陜西總兵官に充てられ固原を鎮守した。翌年五月、孝宗が平臺に御し、兵部が推挙した京營大将の疏を出して大学士の劉健らに歴問すると、みな偉に才ありと称した。神機營の提督を命じ、御書の敕を賜った。
  • 正徳元年、英國公の張懋・保國公の朱暉に参じて團營を提督させた。三年、太子太保を加えられた。
  • 六年二月、總兵官に充てられ、都御史の馬中錫とともに京兵を督して流賊の劉六らを討った。朝議は偉が兵を擁して自衛し、寇を玩んで民を殃したと責めて召還した。御史の呉堂がさらにその罪を劾し、兵部が偉と中錫を逮えることを請い、獄に下されて死を論ぜられたが、赦に遇って釈され、禄を停められて閒住となった。
  • 十年、禄を給わることを請い、詔してその半を給した。十五年、また神機營を督した。嘉靖初、兼ねて團營を提督した。二年、奉迎防守の功を叙して太子太傅を加えられた。十四年卒、太傅を贈られ、諡は康靖。

張鑭・張元善――惠安伯の継承

  • 子の鑭が嗣いだ。二十年、言官が勲戚権豪の家が店房を置いて私に税を科す諸罪を劾し、鑭も贖を輸めて爵を還された。二十七年、後府の事を掌り、三年居て卒した。
  • 従子の元善が嗣ぎ、隆慶四年に後府に僉書した。萬厯三十七年卒。

張慶臻――京營の提督と殉国

  • 子の慶臻が嗣ぎ、四十八年に左府の事を掌った。崇禎元年七月、京營の提督を命ぜられた。慶臻は私に内閣に請うて敕の内に「兼ねて捕營を管す」と増させた。捕營提督の鄭其心が慶臻が職を侵したと訐き、帝は怒って敕を改めた理由を詰り、故大学士の劉鴻訓は戍に遣られるまでになった。慶臻は世臣なので禄を停めること三年、のちまた起って都督府を掌った。
  • 十七年、賊が都城を陥れ、慶臻は親党を召して資財をことごとく散じ、一門挙げてみずから焼け死んだ。南渡の時、太師・惠安侯を贈られ、諡は忠武、旌忠祠に合祀された。
  • はじめ世宗が嘉靖八年に外戚の世爵を革めたとき、ただ彭城・惠安だけが存し、慶臻は卒に国難に殉じたのである。

胡榮――皇太孫妃の父

  • 胡榮は濟寧の人。洪武中、長女が宮に入って女官となり、錦衣衞百戸を授かった。永樂十五年、その第三女を皇太孫妃に冊てようとして光禄寺卿に擢せられ、子の安は府軍前衞指揮僉事となってもっぱら太孫に侍り、事に涖らなかった。
  • のち太孫が践阼して妃は皇后となり、安もしばしば官を進められた。宣徳三年、后が廃され、胡氏はついに振るわなかった。

孫忠――㑹昌伯

  • 孫忠は字を主敬、鄒平の人。初名は愚、宣宗が忠と改めさせた。はじめ永城主簿として人夫を督し天壽山の陵を営んで労があり、鴻臚寺序班に遷った。その女が選ばれて皇太孫の宮に入り、宣宗が即位して貴妃に冊てられ、忠は中軍都督僉事を授かった。三年、皇后の胡氏が廃されて貴妃が皇后となり、忠は㑹昌伯に封ぜられた。
  • かつて告を得て里に帰るとき、御製の詩を賜い、中官に輔け行かせた。還ると帝と后が臨幸して慰労し、妻の董夫人はしばしば宮に召し入れられ、賜与が絶えなかった。
  • 正統中、皇后が皇太后となり、忠の生日に太后は使いを遣ってその家に賜った。時に王振が専権し、祭酒の李時勉が国学の門で首枷をかけられた。忠は附奏して「臣は恩を厚く荷っております。李祭酒に効いたい。彼を臣の客としていただきたく、座に祭酒がいなければ臣は歓びません」と言った。太后がすぐ帝に言い、時勉は釈された。
  • 忠の家奴が濱州で子銭を貸し、民に数倍の利を規った。有司は風を望んで奉行し民は堪えられず朝に訴え、言官が交々章して劾した。家奴を執えて辺に戍らせるよう命じ、忠は問われなかった。
  • 景泰三年卒、年八十五。㑹昌侯を贈られ、諡は康靖。英宗が復辟して太𫝊・安國公を加贈し、諡を恭憲と改めた。成化十五年、再び太師・左柱國を贈られた。
  • 子は五人、繼宗・顯宗・紹宗・續宗・純宗。純宗は錦衣衞指揮僉事に官して早く卒した。

孫繼宗――奪門の功と恩賞

  • 繼宗は字を光輔、章皇后の兄である。宣徳初、府軍前衞指揮使を授かり錦衣衞に改まった。景泰初、都指揮僉事に進み、ついで父の爵を襲った。
  • 天順改元、奪門の功で侯に進み、奉天翊衞推誠宣力武臣・特進光禄大夫・柱國の号を加えられ、身は二死を免れ子は一死を免れ、侯爵を世襲した。諸弟で都指揮僉事の者はみな錦衣衞に改まった。
  • さらにみずから「臣は弟の顯宗と子・壻・家奴四十三人を率いて奪門の功に与った。恩命を加えられたい」と言い、これによって顯宗は都指揮同知に進み、子の璉は錦衣衞指揮使を授かり、壻の指揮使武忠は都指揮僉事に進み、蒼頭の輩で官を授かった者が十七人あった。五月、五軍營の戎務を督し兼ねて後軍都督府の事を掌ることを命ぜられた。

孫繼宗――李賢と英宗の議

  • 左右にまた紹宗のために官を求める者があった。帝は李賢を召して言った。「孫氏は一門の長は侯に封じ、次はみな顕秩、子孫二十餘人がことごとく官を得ている。もう十分だ。今また請うのは太后の心を慰めるためだが、はじめその子弟を官したときは太后に請い、数たび請うてやっと允されたのを知らぬのだ。しかも不快な様子が幾日も続き、『国に何の功があってこの秩を濫りに授けるのか。物は盛んなれば必ず衰える。ひとたび罪があれば私は庇えぬ』と言われた。太后の意はもとよりこうなのだ」。賢は稽首して太后の盛徳を頌え、従容として「祖宗以来、外戚は軍政を典らぬものです」と言った。帝は「はじめ内侍が『京營の軍は皇舅でなければ属すべき者がない』と言ったのだ。太后は実に今も悔いておられる」と言った。賢は「侯は幸い淳謹です。ただ、これを後の故事としてはなりません」と言い、帝も「その通りだ」と言った。

孫繼宗――侵地と辞職

  • のち錦衣の逯杲が、英國公の張懋・太平侯の張瑾および繼宗・紹宗がいずれも官地を侵して私荘を立てたと奏した。各省に実を糾すよう命じ、懋らが服したので宥し、荘を典る者はことごとく逮え問い、その地を官に還した。
  • 石亨が罪を得たとき、繼宗は顯宗・武忠および子孫・家人・軍伴のために辞職を願い出た。帝は家人・軍伴で職を授かった七人を革めるにとどめ、他は問わなかった。
  • 五年、曹欽が平らげられて太保に進み、ついで病を以て兵柄を解くことを奏し、太保を辞したが許されなかった。

孫繼宗――憲宗朝の位置と卒

  • 憲宗が嗣位して繼宗に十二團營の提督、兼ねて五軍營の督、知經筵事、英宗實録の監修を命じた。朝に大議があれば必ず繼宗が首となった。奪門の功を再び覈べたとき、繼宗だけは侯が旧の通りであった。休を乞うたが優詔して許さなかった。
  • 三年八月、實録が成って太傅を加えられた。十年、兵科給事中の章鎰が「繼宗は久しく兵柄を司り、位に尸して寵を固めている。速やかに罷退させて終始を全うさせるべきだ」と疏言した。そこで繼宗は上疏して懇ろに辞し、帝は優詔して營務を解くことを許し、なお後府の事に涖らせ、經筵を知り大政を預議させた。また辞したが帝は許さず、その奏事を免じて旨を承けさせた。
  • 景泰以前は戚臣で兵を典る者がなかった。帝が石亨・張輒の輩が營軍によって奪門したのを見て外戚の親臣を参らせたので、故事ではない。
  • さらに五年で卒した。底本は「公八十五」に作る(「年八十五」の誤りか)。剡國公を贈られ、諡は榮襄。再伝して曽孫の杲に至る。世表に詳しい。

呉安――景帝生母の家

  • 呉安は丹徒の人。父の彦名に女があり、宣宗に東宮で侍って景帝を生んだ。宣徳三年、賢妃に冊てられた。彦名はすでに卒していた。安を錦衣衞百户に按じた(「按」は「授」の誤りか)。
  • 景帝が嗣位して妃を皇太后に尊び、安は本衞指揮使に進み、しきりに前府左都督に遷った。弟の信もしばしば都督僉事に擢せられた。景泰七年、安を安平伯に封じた。信は早く亡くなり、その弟の敬を南京前軍左都督に官した。
  • 英宗が復辟すると太后はまた賢妃と称され、安は府軍前衞指揮僉事に降された。敬およびその群従の、南京錦衣衞指揮僉事の智、府軍前衞指揮同知の喜山、指揮僉事の林廣、錦衣衞千户の誠は、みな革職されて原籍で閒住となった。ついで安を錦衣衞指揮使とし、子孫世襲とした。

錢貴――英宗睿皇后の父

  • 錢貴は海州の人、英宗睿皇后の父。祖の整は成祖の挙兵に従い燕山護衞副千户となり、父の通が職を嗣いで金吾右衞指揮使に至った。貴は祖の職を嗣ぎ、しばしば成祖・宣宗の北征に従って都指揮僉事に遷った。
  • 正統七年、后が中宮に正位しようとして貴を都督同知に擢した。英宗はしばしば封じようとしたが后はそのつど遜り謝したので、后の家だけが封を得なかった。
  • 貴が卒し、長子の欽は錦衣衞指揮使であったが、弟の鍾とともに土木で歿した。欽に子がなく、鍾の遺腹子の雄を後とした。年が幼く、父の故によって秩を優給された。天順改元、都指揮使に擢せられ、成化のとき累りに都督同知に擢せられた。
  • 后が崩じ、憲宗は生母の外家の周氏を優遇して錢氏を薄くしたので、后の家はまた封を得なかった。雄が卒し、子の承宗もしばしば錦衣衞都指揮使に官した。
  • 𢎞治二年、承宗の祖母の王氏が憲宗の外家の王氏の例を援いて封を請い、承宗を安昌伯に封じて世襲とした。これより先、勲臣の荘田の租税はみな有司が代わって収めていたが、ここに至って王氏が自ら収めることを乞い、初めて自収を願う者は聴すことを命じた。しかし荘を管する者の横肆は禁じた。

錢維垣――外戚世封の議

  • 嘉靖四年、承宗が卒、諡は榮僖。子の維圻が嗣いでほどなく卒した。承宗の妻が庶長子の維垣に嗣がせることを請い、詔して錦衣衞指揮使を授けた。さらに伯爵を嗣ぐことを請うと、世宗は外戚の世封は祖制でないとして廷臣に議させた。
  • 八年十月、上議して言った。その趣旨。祖宗の制では軍功でなければ封じない。洪熙の時、都督の張㫤を彭城伯に、弟の昇を惠安伯に封じたのが外戚の封の始まりで、習わしが今に及び、一門に数貴の者があって歳々厚禄を糜し、分を踰え法に非ず。臣らが謹んで議するに、魏・定の二公は戚里に係るとはいえ実は佐命の元勲、彭城・惠安の二伯は恩沢によって封ぜられたが軍功が半ばを占める。その他の外戚の恩封は襲を請うことを得させず、特恩で一時の寵錫があった者は量って指揮・千百户の職を授け、その身限りとする、と。
  • 制して「可」とし、魏・定・彭城・惠安は旧の通り襲封させ、他は本人限りとして令に著けた。維垣はついに襲えず、錦衣で終わった。

汪泉――景帝妃の家

  • 汪泉は代々金吾左衞指揮使で京師に家した。正統十年、その子の瑛に女があり郕王妃に冊てようとして、瑛を中城兵馬司指揮とし、禄を食んで事を視させなかった。
  • 妃が中宮に正位すると泉を都指揮同知・府軍衞帶俸に進め、瑛を錦衣衞指揮使とし、ついでともに左都督に擢した。瑛の弟らも錦衣千户などを差をつけて授かった。
  • 英宗が復位すると泉はもとの金吾の職に居り、瑛も錦衣の旧職に戻り、その四人の弟はみな官を奪われて故里に還された。ついで瑛を錦衣指揮僉事とし、子孫世襲とした。

杭昱――景泰の皇后の父

  • 杭昱の女は景帝の妃となり、子の見濟を生んだ。景泰三年、帝は英宗の子を廃して己の子を立てようとし、皇后の汪氏を廃して妃を后に冊てた。
  • 昱は累官して錦衣衞指揮使、兄の聚は錦衣千戸を授かった。聚はほどなく卒し、賻および祭葬を賜った。七年、后が崩じ、その弟の敏を錦衣百戸に官した。
  • 英宗が復辟して景帝の授けた外親の官をことごとく奪い、とりわけ杭氏を憎み、昱を副千戸に降した。ほどなく卒。敏は職を削られて里に還された。

周能――孝肅皇太后の父

  • 周能は字を廷舉、昌平の人。女が英宗の妃となって憲宗を生んだ。すなわち孝肅皇太后である。英宗が復位して能に錦衣衞千戸を授け、賜与は甚だ渥かった。能が卒し、長子の壽が職を嗣いだ。

周壽――荘田と驕横

  • 憲宗が践祚して左府都督同知に擢せられ、成化三年に慶雲伯に封ぜられ、能には慶雲侯を贈った。
  • 壽は太后の弟として頗る恣横であった。当時は勲戚が荘田を請い乞うことを禁じていたが、壽ひとり禁を冒して通州の田六十二頃を乞い、やむを得ず与えられた。かつて使いを奉じて呂梁洪を通るとき多くの商船を挟み、主事の謝敬が不可としたので壽は争い、かつこれを劾して敬は落職に坐した。
  • 十七年、侯に進み、子弟で同じ日に錦衣の官を授かった者が七人。能は太傅・寧國公を追贈され、諡は榮靖。
  • 孝宗が立って壽は太保を加えられた。時に壽が賜わった荘田は甚だ多く、寶坁にあるものだけで五百頃あったが、さらに残りの七百餘頃を得ようとし、私財で交換すると詭って言った。部はその貪求無厭を劾して執って許さなかったが、孝宗はついに許した。また建昌侯の張延齡と田を争い、両家の奴が相い殴り、交々章して上聞した。またしばしば塩法を撓めて公家の利を侵し、有司はこれに苦しんだ。
  • 十六年、太傅を加えられ、弟の長寧伯の彧も太保を加えられた。兄弟がともに侯伯で位が三公に至るのは、これ以前になかったことである。
  • 武宗が立って伝奉官を汰したとき、壽の子姪八人が汰の中にあったが、壽が上章して留めることを乞い、従われた。正徳四年卒、宣國公を贈られ、諡は恭和。
  • 子の瑛が嗣ぎ、封殖は父に過ぎた。嘉靖中、河西務に店を設けて商貨を邀え、市民を虐げ国課を欠いたので巡按御史に劾され、禄を三月停められた。しかし瑛は悪を怙むこと故の如く、また主事の翁萬達に劾され、詔してその廛肆を革め、家人を法司に下した。時にすでに外戚の世爵は革められており、瑛が卒するとついに嗣ぐことができなかった。

周彧――屠滽らの上言

  • 彧は太后の仲弟である。成化のとき累官して左府都督同知、二十一年に長寧伯に封ぜられ世襲となった。
  • 𢎞治中、外戚は競って私利を営み、あるいは壽寧侯の張鶴齡と衆を聚めて相闘うに至り、都下は震駭した。
  • 九年九月、尚書の屠滽が九卿とともに上言した。その趣旨。憲宗皇帝は、勲戚の家が関津・陂澤を占拠し店を設けて民の利を侵奪することを詔で禁じ、違う者は所在の官司が執治して聞すことを許された。皇上が践極されてからも先帝の法を訓とし遵っておられるのに、勲戚の諸臣は先詔を格守せず、家人を縦して通衢に店を列ね商貨を邀え截り、都城の内外いたるところにある。永樂間の榜例を観れば、王公の僕従は二十人、一品でも十二人を過ぎなかった。今、勲戚は多い者で百を数え、大いに旧制に乖く。その間には市井の無頼が名を冒して利を罔むものが多く、利は群小に帰して怨みは一身に叢がる。得策ではない。近ごろ長寧伯の周彧と壽寧侯の張鶴齡の両家が瑣事で忿り争い、都邑に喧伝され、戚里の観瞻を失い朝廷の威重を損なった。伏して望むらくは綸音をもって戒諭し、各々旧好を修めさせ、およそ店肆はことごとく停止させ、さらに都察院に敕して榜を掲げて禁戒し、商賈を擾し民の利を奪う者は巡城・巡按御史および所在の有司に執治させ、なお永樂間の榜例を考えて勲戚の家人を裁定し、濫りに収めさせぬようにされたい、と。科道もこれを言い、帝は嘉納した。
  • 十八年、太保に進んだ。彧は侯となることを求めたが、吏部が「封爵は朝廷から出るもので、請い乞う者はない」と言って止んだ。
  • 武宗が立って彧の子の瑭ら六人をことごとく錦衣の官に擢した。彧はほどなく卒し、子の瑭、孫の大經、曽孫の世臣に伝わり、錦衣衞指揮同知に降授された。

周吉祥――僧となった弟

  • これより先、孝肅に吉祥という弟があり、子供のとき遊びに出て僧となり、家人は所在を知らず、孝肅も忘れたかのようであった。
  • ある夕、伽藍神が来て「后の弟は今どこそこにいる」と言う夢を見た。英宗も同時に同じ夢を見た。朝に小黄門を遣って夢中の言葉で物色させると、報國寺の伽藍殿の中に見つかった。召し入れて后に見えると、喜びかつ泣き、爵を与えようとしたが受けず、厚く賜って還らせた。憲宗が立って大慈仁寺を建て、荘田数百頃を賜った。
  • その後、周氏は衰落したが、仁慈寺の荘田は久しくなお存した。

王鎮――憲宗純皇后の父

  • 王鎮は字を克安、上元の人。憲宗純皇后の父である。成化初、金吾左衞指揮使を授かり、まもなく后が中宮に正位しようとして中軍都督同知を拝した。四年、右都督に進んだ。
  • 鎮は人となり厚重・清謹で、栄寵にあっても素を改めず、長者の称があった。十年六月卒。𢎞治五年、阜國公を追封され、諡は康穆。子は三人、源・清・濬。

王源――侵地を民に還す

  • 源は字を宗本、后の弟である。父が卒して錦衣衞都指揮使を授かった。
  • 外戚は例によって田を賜わる。源の家奴は勢を怙んで静海縣の民業を多く侵した。十六年、給事中の王垣らが言った。その趣旨。永樂・宣徳の間、畿輔八郡の民が力を尽くして荒を墾すことを許し永くその税を免じたのは、国本を培い王畿を重んずるためである。外戚の王源の賜田は初め二十七頃にすぎなかったのに、その家奴に別に四至を立てさせ、民産を占奪すること二千二百餘頃に至った。貧民が訴え出たとき御史の劉喬は情に徇って曲げて奏し、源を忌憚なくさせ家奴をいよいよ横にした。今、户部郎中の張禎叔らが再び按じて実を得たのだから、原額の外はことごとく民に還し、あわせて喬を治罪されたい、と。帝は悦ばず切責した。
  • のち外戚が民産を侵すことを禁ずる詔があり、源は占めたところをことごとく民に帰した。人はその過ちを改め得たことを多とした。
  • 十八年、中軍都督同知に擢せられ、二十年、瑞安伯に封ぜられた。𢎞治五年、侯に進み、十六年、太保を加えられた。武宗が登極して太傅に進み、禄を増して七百石に至った。嘉靖三年卒、太師を贈られ、諡は榮靖。

王清・王濬――兄弟の貴顕

  • 清は成化十八年に錦衣衞千戸を授かり、累官して中軍都督同知。𢎞治十年、崇善伯に封ぜられた。武宗が嗣位して太保を加えられ、嘉靖十三年卒。
  • 濬は成化十八年に錦衣衞百戸を授かった。兄の清が職を遷るたびに濬がこれに代わり、歴官して中軍左都督。正徳二年、安仁伯に封ぜられ、月を越えて卒し、侯を贈られた。
  • 濬の兄弟三人はともに貴顕であったが、みな謙慎で礼を守り、戚里の中で賢と称された。源の子の橋、濬の子の桓はいずれも伯を嗣いだ。嘉靖中、清の子の極とともに、みな例によって降革された。

萬貴――萬貴妃の父

  • 萬貴は諸城の人、憲宗萬貴妃の父である。歴て錦衣衞指揮使。貴は頗る謹飭で、賜わりを受けるたび憂いを色に形して言った。「私は掾史から起こり尺伍に編せられた身なのに、恩を蒙って戚属に備わり、子や孫までみな官を得た。福が過ぎれば災いが生ずる。どうなることか分からぬ」。
  • 時に貴妃はまさに寵を擅にし、貴の子の喜は指揮使、弟の通・達らはみな驕横であった。貴は諸子を見るたび、賜物を粗末にするのを戒めて言った。「官の賜わったものはみな籍に著けてある。他日また宣べ索められたら、お前たちは重い罪を得るぞ」。諸子は笑って迂遠だとした。
  • 成化十年卒、賻および祭葬を贈られること加えるところがあった。

萬通・萬喜――貪黷と失脚

  • 十四年、喜は都指揮同知、通は指揮使、達は指揮僉事に進んだ。
  • 通は若いころ貧賤で商いを業としていたが、にわかに貴くなるといよいよ貪黷無厭で、奇巧を造って利を邀えた。中官の韋典・梁芳らがさらに左右し、一物を進めるごとに内庫から償い、金銭を輦ぶことが絶えなかった。通の妻の王は宮掖に出入し、大学士の萬安は通に附いて同宗となり、婢僕が朝夕に王のもとに至って起居を謁した。妖人の李孜省らはみな喜に縁って進み、朝野はこれに苦しんだ。
  • 通が死んでも帝の萬氏への眷はやまず、喜を都督同知、達を指揮同知に遷し、通の庶子は二歳、養子は四歳でともに官を授かった。
  • 憲宗が崩じて言官がその罪状を劾し、孝宗は喜らの官を奪い、封誥および内帑の賜物をことごとく追った。貴の言った通りになったのである。

邵喜――昌化伯と嗣を争う

  • 邵喜は昌化の人、世宗の大母 邵太后の弟である。世宗が立って喜を昌化伯に封じた。翌年卒、子の蕙が嗣いだ。嘉靖六年卒、子がなく族人が嗣を争った。
  • はじめ太后が宮に入った時、父の林は早く歿しており、太后には弟が四人、宗・安・宣・喜であった。宗・宣には後がなかった。蕙が卒し、帝は蕙の弟の萱に嗣がせようとしたが、蕙の姪で錦衣指揮の輔と千戸の茂が「萱は嫡派でなく襲うべきでない」と言い、蕙の母がこれを争って、議は久しく決しなかった。
  • 七年、大学士の張璁らが「邵氏の子孫はすでに絶えた。今争う者はみな旁枝で嗣ぐべきでない」と言った。時に帝はどうしても喜のために後を立てようとし、喜の兄の安の孫の杰を昌化伯とした。
  • たまたま『明倫大典』のとき、武定侯の郭勛に戚畹への頒賜を命じたが杰に及ばず、杰がみずから請うた。帝が勛を詰ると、勛は怒って邵氏の襲を争った章奏を録し、杰は実は他姓だと訐いて覆勘を請うたが、聴されなかった。
  • 八年、給事中の陸粲が、大学士の桂蕚が杰の賂を受けて奴隷に爵を冒させたと論じた。帝は怒って蕚を相から罷め、外戚の封をことごとく革め、杰も襲を奪われた。

張巒――壽寧侯家の起こり

  • 張巒は興濟の人、敬皇后の父である。𢎞治三年、壽寧伯に封ぜられ、五年に侯に進み、卒して昌國公を贈られた。子の鶴齡が侯を嗣ぎ、十六年にはその弟の延齡も建昌伯から爵を侯に進めた。
  • 巒は諸生から起こり、貴盛であっても士大夫を敬礼できた。しかし鶴齡兄弟はともに驕肆で、家奴を縦して民の田廬を奪い、獄囚を篡い、しばしば法を犯した。帝は侍郎の屠勲・太監の蕭敬を遣って按じさせ実を得、奴を律の通りに坐した。敬が復命すると皇后は怒り、帝も怒ったふりをしたが、のちに敬を召して「汝の言が正しい」と言い、金を賜った。給事中の呉世忠、主事の李夢陽はいずれも延齡を劾して危うく罪を得るところであった。
  • 後日、帝が南宮に遊び、鶴齡兄弟が入侍した。酒が半ばで皇后・皇太子および鶴齡の母の金夫人が更衣に立ち、そのまま遊覧に出た。帝はひとり鶴齡を召して語り、左右には聞こえなかった。遙かに鶴齡が冠を脱いで首を地に触れるのが見えた。これより少し行いを斂めた。
  • 正徳中、鶴齡は太傅に進んだ。世宗が入り継ぎ、鶴齡は定策の功で昌國公に進封された。時に敬皇后はすでに皇伯母昭聖皇太后と改称されていた。帝は太后が生母の蔣太后を抑えたことで張氏を銜んだ。
  • 嘉靖十二年、延齡が罪あって獄に下されて死に坐し、あわせて鶴齡の爵を革めて南京錦衣衞指揮同知に謫した。太后が請うたが容れられなかった。

張延齡――曹祖・司聰の獄

  • はじめ正徳の時、日者の曹祖が、その子の鼎が延齡の奴となって延齡と不軌を謀ったと告げた。武宗はこれを獄に下し、群臣を集めて廷鞫しようとしたが、祖は薬を仰いで死んだ。時に祖の暴死をもって延齡を疑う者が多かったが、獄に左証がなく、ついに解けた。
  • 指揮の司聰という者が延齡のために銭を行い、その五百金を負って急に索められたので、天文生の董㫤子の至とともに、祖が先に首告した事を訐いて延齡を脅し賄を取ろうと謀った。延齡は聰を捕らえて幽殺し、聰の子の昇にその屍を焚かせて負債の券を折った。昇は口を噤んで敢えて言わなかったが、至は常に憤り詈った。至は事が発覚するのを慮り、聰の前の奏を摭って上げた。刑部に下して延齡および諸奴を逮え雑治した。
  • 延齡はかつて没官の第宅を買って園池を造り、僭侈で制を踰え、また私憾で婢および僧を殺したことがあり、あわせて発覚した。刑部が延齡を治めると、不軌を謀ったことには験がなかったが、制に違い人を殺したのはみな実であり、ついに死を論ぜられた。

張延齡――誣告の連鎖と処刑

  • 獄に繋がれること四年、獄囚の劉東山が延齡の手書に上を訕るものがあると発き、東山は戍を免れた。また陰かに奸人の劉琦を構えて、延齡が宮禁の内帑を盗んだと誣告させ、告げられた者は数十百人に連なった。
  • 翌年、奸人の班期于・雲鶴がまた延齡兄弟が左道を挟んで祝詛したと告げ、辞は太后に及んだ。鶴齡は南京から逮に赴いて瘐死し、期・雲鶴も誣に坐して戍に謫せられた。
  • さらにその翌年、東山が父を射て亡命したところを御史の陳讓に捕えられ、また延齡を誣告し、あわせて讓および遂安伯の陳鏸ら数十人を構え、上意に悦ばれて己の罪を脱れようとした。奏が入って錦衣衞に下し竊かに治めた。讓は獄中から上疏して言った。「東山は奸党を扇り結んで宮禁を危うくしようと図っている。陛下には帝堯の既睦の徳があるのに、東山は敢えて陛下に漢武の巫蠱の禍を言い、陛下には帝舜の底豫の孝があるのに、東山は敢えて陛下を暴秦の母を遷す謀に導こうとする。骨肉を離間し背逆不道、義として赦すべきではない」。
  • 疏が奏されて帝は頗る悟った。指揮の王佐がその獄を典り、東山の情を鉤り出して奏し、東山を械殺し、讓・鏸らを赦した。延齡は長く繋がれること故の如く、太后が崩じて五年後、延齡は西市で斬られた。

夏儒――慶陽伯

  • 夏儒は毅皇后の父、上元の人。正徳二年、慶陽伯に封ぜられた。人となりは長厚で、父の瑄が病んだとき三年その左右を離れなかった。貴くなってからも服食は布衣の時のようで、見る者は外戚とは知らなかった。十年、寿を以て終わった。子の臣が伯を嗣ぎ、嘉靖八年に襲を罷められた。

陳萬言――第宅と荘田

  • 陳萬言は肅皇后の父、元城の人。諸生から身を起こした。嘉靖元年、鴻臚卿を授かり都督同知に改まり、黄華坊に第を賜った。
  • 翌年、詔してまた西安門の外に第を営ませ、費は帑金数十萬に上った。工部尚書の趙璜が、西安門は大内に近いので第を治めるのに高きに過ぎてはならぬと言うと、帝は怒って営繕郎の翟璘を逮えて獄に下した。言官の余瓚らが諌めたが省みなかった。ついで萬言を泰和伯に封じ、子の紹祖に尚寳司丞を授けた。
  • さらにその翌年、萬言は武清・東安の地各千頃を荘田として乞い、詔して户部に閒地を勘して給わせた。給事中の張漢卿が言った。その趣旨。萬言は儒素から跡を抜き天室に婚を聯ねたのだから、みずから検飭して戚里の倡となるべきなのに、僭え冒して陳べ乞い法度を違え越えている。昨年の深冬、雪の凍る中で急いで大第を起こし、徒役は疲労して怨みの声が道に載った。今、災沴が相継ぎ、江淮の餓死した人を穴を掘って掩め埋めること動もすれば萬を以て計る。萬言はかつて念を動かさず、いよいよ荘田を請う。小民は一廛一畝を終歳力作してなお食に足りぬのに、さらにこれを割いて貴戚に与えれば、流亡が無いことを願っても得られない。伏して望むらくは恩を割いて義とし、漸を杜いで法とし、一切を裁抑して爵禄を延べ保たせられたい、と。
  • 帝はついに八百頃を給した。巡撫の劉麟、御史の任洛がまた民の地を奪うべきでないと言ったが聴かれなかった。
  • 七年、皇后が崩じて萬言も絀けられた。十四年卒、子は嗣封を得なかった。

方鋭――孝列皇后の父

  • 方鋭は世宗孝列皇后の父、江寧の人。后ははじめ九嬪であり、鋭は錦衣正千户を授かった。嘉靖十三年、張后が廃されて后は妃から皇后に冊てられ、鋭は都指揮使に遷った。蹕に扈して南巡し、道中で左都督を拝し、やがて安平伯に封ぜられ、ついで侯に進封された。卒して子の承裕が嗣いだ。隆慶元年、主事の郭諫臣の言によって襲を罷められた。

陳景行――固安伯

  • 陳景行は穆宗の継后 陳皇后の父である。先世は建昌の人。高祖の政が軍功で百户を世襲し、通州右衞に調られてそのまま家した。景行は将門の出でありながらひとり学を嗜み、弱冠で諸生の試に高等となった。
  • 穆宗が裕邸に居たとき、その女が選ばれて妃となり、景行は錦衣千戸を授かった。隆慶元年、固安伯に封ぜられた。
  • 景行はもとより恭敬で、遣祀・冊封の諸典礼のたびに必ず斎戒して事に将り、家に居ては諸子を退譲をもって誡めた。萬厯中に卒し、太后・帝および中宮・潞王・公主の賻贈は優厚で、人はみなこれを栄とした。
  • 子の昌言・嘉言・善言・名言はみな錦衣に官した。昌言が景行に先立って卒し、その子の承恩が李文全の例を引いて祖の封を襲うことを請うたが、帝は「承恩は孫、文全は子である。比べるべきでない」と言い、都督同知を授けた。

李偉――武清侯

  • 李偉は字を世竒、漷縣の人。神宗の生母 李太后の父である。子供のとき里の中で遊んでいると、羽士が通りかかって驚いて人に「この児は骨相からして位は人臣を極めよう」と言った。嘉靖中、偉は空中の五色の彩輦・旌幢・鼓吹に導かれて寝所に下る夢を見、やがて太后が生まれた。
  • 警を避けて家を携え京師に入り、久しく居た。太后は裕邸に入って神宗を生んだ。隆慶改元、皇太子が立てられて偉は都督同知を授かった。神宗が立って武清伯に封ぜられ、さらに武清侯に進んだ。
  • 太后はその家を約束することができ、偉に過ちがあると宮に召し入れて切責し、父だからといって祖宗の法を枉げなかった。これによって偉はますます小心畏慎で、賢の声があった。萬厯十一年卒、安國公を贈られ、諡は莊簡。

李銘誠・李國瑞――助餉と爵の剥奪

  • 子の文全が侯を嗣ぎ、卒して子の銘誠が嗣いだ。天啟の末、銘誠は魏忠賢の功徳を頌えて祠を建て鴻勛と名づけた。莊烈帝が逆案を定めたとき、銘誠は幸いに免れた。
  • 久しくして大学士の薛國觀が、勲戚に軍餉を助けるよう勒することを請うた。時に銘誠はすでに卒し、子の國瑞が爵を嗣ぐはずであったが、その庶兄の國臣が産を争い、「父の遺した資は四十萬、輸めて軍興を佐けたい」と言った。帝ははじめ許さなかったが、ここに至って國臣の言の通りに餉を借りるよう詔した。國瑞は応じられず、帝は怒って國瑞の爵を奪い、國瑞はついに悸えて死んだ。有司はさらにその家人を繋いだ。
  • 國瑞の女は嘉定伯の周奎の孫に嫁していた。奎が莊烈后に請うと、后は「ただ女を迎えるだけで秋毫も取らぬならよい」と言った。諸々の戚畹は人々みずから危ぶんだ。
  • たまたま皇五子が危篤となり、李太后が憑いて言った。帝は懼れてことごとく李氏の産を還し、武清の爵を復した。しかし皇五子はついに殤した。中人が乳媪を構えて皇五子に言わせたのだとも言う。まもなく國觀は事に坐して誅せられた。

王偉――永年伯

  • 王偉は餘姚の人、神宗顯皇后の父である。萬厯五年、都督を授かり、ついで永年伯に封ぜられた。
  • 帝は偉の子の棟およびその弟の俊に恩を加えようとし、閣臣はともに錦衣正千戸を授けることを請うた。帝は「正徳の時、皇親の夏助らはみな錦衣指揮使を授かり世襲した。今、なぜこう薄いのか」と言った。大学士の張居正らは「正徳の時の例は世宗がことごとく釐め革められました。棟に錦衣衞指揮僉事、俊に千户を授けるのを前議の通りに」と言った。帝の意はなお慊らなかったが、居正が固く奏して止んだ。
  • 偉が卒し、子の棟および曽孫の明輔に伝わって、制の通り伯を襲った。

鄭成憲――鄭貴妃の父

  • 鄭成憲は大興の人、神宗鄭貴妃の父である。貴妃に寵があり、鄭氏の一族はみな驕恣であったが、帝はことごとく問わなかった。成憲は累官して都督同知に至って卒し、子の國泰が襲を請うた。帝は都指揮使を授けるよう命じたが、給事中の張希皋は「指揮使は都督より一等下である。任子に授けるべきでない。妃の家がこれほど恩を蒙っては、何をもって后の家を優遇するのか」と言った。報ぜられなかった。

鄭國泰――儲位の議と憂危竑議

  • 時に廷臣は貴妃が嫡を奪うことを謀っているのではないかと疑い、みなこれを言った。國泰はみずから安んぜず、上疏して太子を立てることを請い、その従子の承㤙もまた儲位を久しく虚しくすべきでないと言った。大学士の沈一貫が帝に左右したが聴かれず、詔して國泰の俸を奪い、承㤙を斥けて民とした。しかし言う者はついに息まなかった。
  • 萬厯二十六年、承恩がまた上疏し、給事中の戴士衡と知縣の樊玉衡が妄りに『憂危竑議』を造って骨肉を離間し皇貴妃を汚衊したと劾した。帝は怒った。『憂危竑議』は誰の作か分からないが、中に侍郎の呂坤が宮掖に通を構え、國泰らと福王を擁戴しようとしていると言っており、士衡は先にかつて坤と承恩が相結んでいることを論じ、玉衡はまさに貴妃が太子を立てるのを沮んでいると抗言して、疏はともに中に留められていた。そこで承恩は両人を指したのである。帝は怒って士衡・玉衡をともに永く戍らせ、廷臣はいよいよ鄭氏を忿った。

鄭國泰――梃撃の案と鄭養性

  • 久しくして皇太子が立った。四十三年、男子の張差が梃を持って東宮に入って捕らえられた。言う者はみな國泰が皇太子を刺そうと謀ったのだと言った。主事の王之寀が差を鞫すると、差は貴妃の宮監を指した。郎中の陸大受、給事中の何士晉はついにまっすぐ國泰を攻めた。帝は貴妃のゆえに事を究めようとしなかった。詳しくは王之寀らの𫝊にある。
  • 國泰は左都督に官して病死し、子の養性が職を襲った。天啟の初め、光祿少卿の髙攀龍、御史の陳必謙がその罪を追論し、かつ養性が白蓮の賊と結んで乱をなそうとしていると言った。詔して養性を京師から出し随便に居住させたが、魏忠賢が用事して宥され還った。

王昇――新城伯

  • 王昇は熹宗の生母 孝和太后の弟である。父は鉞。天啟元年、昇を新城伯に封じ、ついで皇子の誕生によって侯に進めた。卒して子の國興が嗣ぎ、崇禎十七年、京師が陥ちてみずから焚けて死んだ。

劉文炳――新樂侯と孝純太后の像

  • 劉文炳は字を淇筠、宛平の人。祖の應元は徐氏を娶り、生まれた女が宮に入って莊烈帝の生母 孝純皇太后となった。應元は早く卒した。帝が即位して太后の弟の效祖を新樂伯に封じた。すなわち文炳の父である。崇禎八年に卒し、文炳が嗣いだ。
  • この年、文炳の祖母の徐が七十になり、寳鈔・白金・文綺を賜った。帝は内侍に「太夫人は年老いてもなお聰明でよく食べる。太后が在せばどれほど寿を称えられたことか」と言い、愴然として涙を流した。九年、文炳を新樂侯に進め、その祖父にも代々同じ爵を贈った。
  • 十三年、宮中に太后の像を奉じたが、似ていないと言う者があり、帝は懌ばず、司禮監太監の王裕民に武英殿中書を同行させて文炳の第に遣り、徐に口授させて像を描かせて進めた。左右はみな驚いて「似ている」と言った。帝は大いに喜び、日を卜して鹵簿を具え、帰極門に俯伏して迎え入れ、奉慈殿に安んじ奉り、朝夕に生けるがごとく食を上げた。よって應元に瀛國公を追贈し、徐氏を瀛國太夫人に封じ、文炳は少傅に晉み、叔の繼祖、弟の文燿・文照もみな爵を晉めることに差があった。

劉文炳――忠義を講ず

  • 文炳の母の杜氏は賢く、常に文炳らに「我が家には功徳がない。ただ太后のゆえにこの大恩を受けているのだから、忠を尽くして天子に報いよ」と言った。
  • 帝は文炳を鳳陽の祖陵の視察に遣り、大事があれば密かに上聞するよう諭した。文炳は帰って、史可法・張國維は忠正で方略があるから久しく任ずべきで必ず賊を滅ぼせると奏した。のち両人は果たして国難に殉じた。
  • 文炳は謹厚で妄りに交わらず、ただ宛平の太学生の申湛然、布衣の黄尼麓、および駙馬都尉の鞏永固と善かった。天下に事故が多く流賊の勢がいよいよ張るころ、文炳は尼麓らと忠義を講じ明らかにして守禦の計とした。李自成が三秦に拠り榆林を破って京師を犯そうとするに及び、文炳は勢の支えられぬことを知り、慷慨して涙を流し、永固に「国事はここに至った。私と公は国恩を受けている。死をもって報いるべきだ」と言った。

劉文炳――京城の分守

  • 十七年正月、帝は文炳・永固らを召して国事を問うた。二人は早く藩封を建て、永・定の二王を国に之かせることを請い、帝はこれを是としたが、内帑が乏しく実行できなかった。
  • 三月初一日、賊の警がいよいよ急となり、文武・勲戚に京城を分けて守るよう命じた。繼祖は皇城の東安門、文燿は永定門、永固は崇文門を守った。文炳は繼祖・文燿がみな城を守っているので職事がなかった。
  • 十六日、賊が西直門を攻めて勢いはいよいよ急となり、尼麓が踉蹌として至り、文炳に「城は陥ちようとしている。君はみずから計るべきだ」と言った。文炳の母の杜氏はこれを聞くとすぐ侍婢に笥の縧を選ばせて楼の上に七つ八つの輪を作り、家僮に楼の下に薪を積ませ、老僕の鄭平を遣って李氏・呉氏の二女を迎え帰らせ、「私は母娘ともにここで死ぬ」と言った。また瀛國太夫人が篤く老いていて共に燼となるのは忍びないと考え、文炳と計って申湛然の家に匿した。

劉文炳――帝との訣別

  • 十八日、帝が内使を遣って密かに文炳・永固を召した。文炳は帰って母に「詔があって召されました。母にお仕えできません」と言った。母は文炳の背を撫でて「太夫人はすでに落ち着き先を得た。私はお前の妻や妹と死ぬだけだ。何の憾みがあろう」と言った。
  • 文炳は永固とともに帝に謁した。時に外城はすでに陥ちていた。帝が「二卿の糾めた家丁は巷戦できるか」と問うと、文炳は衆寡敵せずと答えた。帝は愕然とした。永固は「臣らはすでに第の中に薪を積んでおります。一門を閉じて焚け死に、皇上に報いる所存です」と奏した。帝は「朕の志は決まった。朕は社稷を守ることはできぬが、社稷に死ぬことはできる」と言った。二人はみな涕泣して死を効すことを誓い、退いて崇文門に馳せた。まもなく賊が大挙して至り、永固が賊を射、文炳がこれを助けて数十人を殺し、それぞれ第に馳せ帰った。

劉文炳――一門四十二人の死

  • 十九日、文照がちょうど母に侍って食事をしていると、家人が急ぎ入って「城が陥ちた」と言った。文照は椀を地に落として母を直視し、母はにわかに起って楼に登った。文照と二女がこれに従い、文炳の妻の王氏も楼に登って孝純皇太后の像を懸けた。母は衆を率いて哭して拝し、それぞれ縊れて死んだ。文照は輪に入ったが墜ち、母の背を撫でて「私は死ねません」と連呼し、母の命に従って残り太夫人に侍ることとし、そのまま逃げ去った。家人は共に楼を焚いた。
  • 文炳が帰ると火が烈しくて入れず、後園に入った。ちょうど湛然と尼麓が至り、「鞏都尉はすでに府第を焚いて自刎した」と言った。文炳は「諾」と言って井に投じようとしたが、忽ち止めて「戎服では皇帝にお目にかかれぬ」と言った。湛然が自分の幘を脱いでかぶらせ、そのまま井に投じて死んだ。
  • 繼祖も帰って井に投じて死んだ。繼祖の妻の左氏は大宅の火を見て急いで楼に登ってみずから焚け、妾の董氏・李氏も焚け死んだ。
  • はじめ文燿は外城が破れるのを見て突出し渾河に至ったが、内城が破れたと聞いて再び入り、第が焚けているのを見て大いに哭し、「文燿が死ななかったのは君と母が在すからだ。今ここに至って何のために生きよう」と言い、文炳の死んだ所を探し当てて井の傍らの板に大書した。「左都督劉文燿、兄文炳と同じく命を畢え国に報ずる処」。そして井に投じて死んだ。一門で死んだ者は四十二人であった。

崇禎十七年、他の戚臣の殉死

  • このとき惠安伯の張慶臻は妻子を集めて共に焚け死に、新城侯の王國興も焚け死に、宣城伯の衞時春は鉄券を懐にして一門で井に赴いて死んだ。
  • 永固とともに賊を射た楊光陛は駙馬都尉の子で、甲を著けて馳せ突き、左右に射たが永固と離ればなれになり、矢が尽きて観象臺の下の井中に投じて死んだ。
  • 湛然は瀛國太夫人を匿したことで賊に拷掠されたが、ついに言わず、体は糜爛して死んだ。
  • 福王の時、文炳に忠壯、文炳に忠果と諡した(後者は文燿を指すとみられる)。

張國紀――太康伯

  • 張國紀は祥符の人、熹宗張皇后の父である。天啟の初め太康伯に封ぜられた。
  • 魏忠賢と客氏は皇后を忌み、そこで國紀を陥れようと謀り、その党の劉志選・梁夢環に前後して「國紀が宮婢の韋氏を占めることを謀り、中宮の旨を矯めて獄を鬻いだ」と劾させた。忠賢は中からその事を究めて后を撼かそうとした。大学士の李國□(底本欠字)は「君と后は父母のようなものだ。父を勧めて母を陥れる者があろうか」と言った。國紀はやっと故郡に放ち帰されたが、忠賢はなおこれを掎こうとした。莊烈帝が立ってようやく免れた。
  • 崇禎の末、餉を輸めて爵を侯に進めたが、まもなく賊に死んだ。

周奎――嘉定伯

  • 周奎は蘇州の人、莊烈帝周皇后の父である。崇禎三年、嘉定伯に封ぜられ、蘇州の葑門に第を賜った。
  • 帝はかつて奎および田貴妃の父の𢎞遇、袁貴妃の父の祐に、法度を恪く遵って諸戚臣の先となるよう諭した。祐は頗る謹慎であったが、ただ𢎞遇は驕縱で、奎は外戚の中で碌々たるのみであった。
  • 李自成が京師に逼り、帝は内侍の徐髙を遣って密かに奎に諭し、勲戚に率先して餉を輸めさせようとした。奎は堅く謝して無いと言い、髙は憤り泣いて「后の父がこうでは国事は去った」と言った。奎はやむなく万金を捐ずることを奏し、かつ皇后に助けを乞うた。自成が京師を陥れてその家を掠め、金数万を得た。人はこれによって奎の愚を笑ったという。