明史卷二百九十九 列傳第一百八十七 方伎

  • 『左氏』は醫和・緩、梓慎・禆竈、史蘇の類を詳しく確かに載せ、下は巫祝に至るまでその事を張って神秘化しており、浮夸だと評する者もある。しかし『史記』も扁鵲・倉公・日者・龜策に伝を立て、黄石・赤松・倉海君の類の神仙めいた話まで漏らさず備え録している。范蔚宗(范曄)に至って「方術」を伝の名とした。
  • 藝人・術士は道徳の途に登れる者ではないが、民に先んじて利用を図るのは先聖の余緒である。その精妙な者は神明に通じ造化に参ずるまでに至るのだから、小道として片づけてよいものではない。
  • 明初の周顛・張三丰らは踪跡が秘幻で測り知れず、しかも天子を震動させた。妄誕によって寵を取る者の及ぶところではない。張中・袁珙の占験も奇中した。事には常理で拘束できないものがあり、浅見尠聞の者が論ずるに足りない。
  • 醫と天文はいずれも世業・専官であり、これも周官の遺意による。その術を攻める者は古人の書を博く極め、その理を会通し、沈思独詣して考験に参じ、私智を自ら用いないことでこそ当世に名を成し後学の宗となれる。
  • 今、そのなかで最も異なる者を録して方伎𫝊を作る。真人張氏は道家者流であるが世々恩沢を蒙り、その事蹟は当代の典故に関わるので、大略を撮ってこの篇に附する。

篇首の立伝者一覧

  • 滑 夀
  • 葛乾孫
  • 吕 復
  • 倪維徳
  • 周漢卿
  • 王 履
  • 周 顛
  • 張 中
  • 張三丰
  • 袁 珙(子 忠徹)
  • 戴思恭
  • 盛 寅
  • 皇甫仲和
  • 仝 寅
  • 呉 傑(許 紳、王 綸)
  • 淩 雲(李 玉)
  • 李時珍(繆希雍)
  • 周述學
  • 張正常(劉淵然 等)

滑夀――出自と師承

  • 滑夀は字を伯仁、先祖は襄城の人で儀真に移り、のちまた餘姚に移った。幼くして警敏、学を好み詩をよくした。
  • 京口の名醫 王居中に従い、『素問』『難經』を授かった。学業を終えるとき師に請うた。素問は詳細だが錯簡が多いので、藏象・經度など十類に分けて類ごとに抄して読みたい。難經も素問・靈樞に本づき、榮衞・藏府・經絡・腧穴の弁は博いが欠誤も多いので、その義旨に本づき注して読みたい、と。居中は躍り上がって善しと称え、以後、夀の学は日ごとに進んだ。

滑夀――著述と晩年

  • さらに張仲景・劉守真・李明之の三家を参会して会通し、治した病で的中しないものがなかった。
  • 鍼法を東平の髙洞陽に学んだ。人身の六脈はみな係属をもつが、督・任の二經だけは腹背を包んで専穴をもち、諸經が満ちて溢れたものをここが受けるのだから、十二經と並べて論ずべきだ、と説いた。そこで『内經』骨空の諸論と『靈樞』篇の述べる經脈を取り、『十四經發揮』三卷を著し、隧穴六百四十七を通考した。
  • ほかに『讀傷寒論抄』『診家樞要』『痔瘻篇』、および諸書と本草を採った『醫韻』があり、いずれも世に功があった。
  • 晩年みずから攖寧生と号し、江浙の間で攖寧生を知らぬ者はなかった。年七十餘で容色は童子のようで、歩みは軽捷、飲酒に限りがなかった。天台の朱右がその治療で神効のあった数十事を摭って伝を作ったので、その著述はいよいよ世に称された。

葛乾孫――家学と人となり

  • 葛乾孫は字を可久、長洲の人。父の應雷は醫で名があった。当時、北方の劉守真・張潔古の学は南方に行われていなかったが、李という中州の名醫が呉下に官し、應雷と談論して大いに驚歎し、張・劉の書を授けた。以来、江南に二家の学が伝わった。
  • 乾孫は体貌が魁碩で、撃刺・戦陣の法を好んだ。のち節を折って読書し、あわせて陰陽・律厯・星命の術に通じた。たびたび試験に及第せず、そこで父の業を伝えたが、人のために治療するのを肯んじなかった。施せば必ず奇効を著し、名は金華の朱丹溪と並んだ。

葛乾孫――香の毒を治す

  • ある富家の女が四肢は痿痺し、目は瞪って食べられなくなり、多くの医が治しても効がなかった。乾孫は房中の香奩・流蘇の類をことごとく除かせ、地面に穴を掘って女をその中に置いた。久しくして女の手足が動き声が出るようになり、薬を一丸投じると、翌日には女は自分で穴から出てきた。この女は香を嗜み、脾が香気に蝕まれてこの症になっていたのである。その治療の奇中はこのようであった。

吕復――出自と医書研究

  • 吕復は字を元膺、鄞の人。少くして孤貧、師について経を受けた。のち母の病で医を求め、衢の人で名醫の鄭禮之に遇い、謹んで師事して、古先の禁方および色脈・薬論の諸書を得た。試みるたびに験があった。
  • そこで古今の医書をことごとく購い、昼夜研究した。世に出て行うと神のごとく効を取った。
  • 『内經素問』『靈樞』『本草』『難經』『傷寒論』『脈經』『脈訣』『病原論』『太始天元玉册』『元誥』『六微㫖』『五常政』『元珠密語』『中蔵經』『聖濟經』などの書にはみな弁論があり、前代の名醫では扁鵲・倉公・華陀・張仲景から張子和・李東垣の諸家に至るまでみな評隲した。
  • 著書に『内經或問』『靈樞經脈箋』『五色診竒眩』『切脈樞要』『運氣圖説』『養生雜言』など甚だ多い。浦江の戴良がその治効の最も著しい数十事を採って医案とした。
  • 仙居・臨海の教諭、台州教授にたびたび挙げられたが、いずれも就かなかった。

倪維徳――学統

  • 倪維徳は字を仲賢、呉縣の人。祖父ともに医で顕れた。維徳は幼くして学を嗜み、のち医を業とし、『内經』を宗とした。
  • 大觀以来の医者が一様に裴宗元・陳師文の『和劑局方』を用いており、古い処方が新しい病に合わないことが多いのを病んだ。そこで金の劉完素・張從正・李杲の三家の書を求めて読み、世に出て治療するとたちどころに効かないものがなかった。

倪維徳――治験

  • 周萬户の子は八歳で、昏眊として飢飽寒暑を知らず、土や炭でみずから口を塞いだ。診て「これは慢脾風である。脾は智を蔵し、脾が慢なれば智が短くなる」と言い、疏風助脾の剤を投じるとすぐ癒えた。
  • 顧顯卿は右耳の下に癭を生じ、大きさは頭ほどで、痛みに堪えられなかった。診て「これは手足少陽經が邪を受けたのだ」と言い、薬を飲ませて一月を越えて癒えた。
  • 劉子正の妻は気厥を病み、あるいは哭しあるいは笑い、人は祟りだとした。診て「両手の脈がともに沈んでいる。胃脘に必ず積むところがあり、積めば痛む」と言い、問うと果たしてそうであった。生熟水で導くと痰涎数升を吐いて癒えた。
  • 盛架閣の妻は左右の肩臂が奇しく痒く、頭面にまで及んで耐えられず、艾で灼くと暫く止んだ。診て「左脈は沈み、右脈は浮いてしかも盛ん。これは滋味の過盛の致すところ」と言い、剤を投じてたちまち癒えた。
  • 林仲實は労によって熱疾を得、熱が日の出入に随って進退し、暑さが盛んだと増劇し、夜の涼しさや雨だと止む状態が二年続いた。診て「これは七情の内傷で陽気が升らず陰火が漸く熾んなのだ。だから温まれば進み涼しければ退く」と言い、東垣の内傷の剤を投じてこれもたちどころに癒えた。他の治療も多くこの類であった。

倪維徳――医論と卒年

  • 常に言った。劉・張の二氏は攻めることを主とし、李氏はもっぱら中氣を調護して補うことを主とする。時に随って推し移るのでそうならざるを得ないのだ、と。そのため主とする処方も一説に執らなかった。
  • 眼科は方論が雑然と出て全書がないことを常に憂え、『元機啟微』を著した。また東垣の『試效方』を校訂して並べて世に刊行した。
  • 洪武十年(1377年)卒、年七十五。

周漢卿――内外科と鍼

  • 周漢卿は松陽の人。医は内科・外科を兼ね、鍼がとりわけ神であった。
  • 郷人の蔣仲良は左目を馬に踏まれ、瞳が桃のように突き出た。他の医は係絡がすでに損じており治せぬと言ったが、漢卿は神膏で封じ、三日を越えて元に復した。
  • 華州の陳明遠は十年瞽していた。漢卿は視て「鍼すべきだ」と言い、睛を翻して翳を刮ぐと、たちまち五色を弁じられるようになった。
  • 武城の人が胃痛を病み、身を投げ出して死を乞うた。漢卿が薬を鼻に納れると、にわかに一寸ほどの赤い虫を噴き出した。口も眼も具わっていた。痛みはたちまち止んだ。
  • 馬氏の婦は十四か月身ごもって産まず、痩せて黒ずんでいた。漢卿は「これは蠱に中ったので妊娠ではない」と言い、下すと金魚のような物が出た。病はすっかり癒えた。
  • 永康の人が腹の疾で背を屈めて歩いた。漢卿が衣を解いて視ると、腹の間から衝き上がるものが二つあり、大きさは腕ほどであった。その一つを刺すと□(底本欠字)と鳴り、もう一つを刺しても同じであった。按摩を加えて疾はついに癒えた。
  • 長山の徐嫗は癇疾で、手足が震え、裸で走り、あるいは歌いあるいは笑った。漢卿が十指の先を刺して血を出させると痊えた。
  • 錢塘の王氏の女は瘰癧を生じ、頭を環り腋にまで及んで凡そ十九の竅ができ、竅が破れて白い膿汁が出て死にかけていた。漢卿は竅の母となるものを深さ二寸まで剔り、その他は火で烙いた。数日で痂を結んで癒えた。
  • 山陰の楊翁は項に瓜ほどの疣があり、酔って階下に仆れて潰れ、血が止まらなかった。疣が潰れた者は必ず死ぬ。漢卿が薬をその穴に糝すと血はすぐ止まった。
  • 義烏の陳氏の子は腹に塊があり、撫でると罌のようであった。漢卿は「これは腸癰である」と言い、太鍼を灼いて刺し、三寸ばかり入れると、膿が鍼に随って音を立てて迸り出て癒えた。
  • 諸暨の黄生は背が曲がり杖をついて歩いた。他の医はみな風として治療したが、漢卿は「血が澁っているのだ」と言い、両足の崑崙穴を刺した。しばらくして杖を投げ捨てて去った。その効の速さはこのようであった。

王履――傷寒論の研究

  • 王履は字を安道、崑山の人。金華の朱彦修に医を学び、その術をことごとく得た。
  • かつて説いた。張仲景の『傷寒論』は諸家の祖で後人はその範囲を出られない。しかも『素問』は傷寒を熱の病とし、常を言って変を言わず、仲景に至って初めて寒熱を分けたが、義はなお尽くされていない、と。そこで常と変を備えて『傷寒立法考』を作った。
  • また、陽明篇に目痛がなく、少陰篇は胸背の満を言って痛を言わず、太陰篇に噬乾がなく、厥陰篇に囊縮がないのは、脱簡があるのだと考えた。そこで三百九十七法を取り、重複する二百三十八條を去り、さらに増補して、なお三百九十七法とした。内傷・外傷の經旨の異同、および中風と中暑の弁名を極論し、名づけて『沂洄集』といい、凡そ二十一篇。
  • また『百病鈎元』二十卷、『醫韻統』一百卷を著し、医家はこれを宗とした。
  • 履は詩文に工み、あわせて絵事を善くした。かつて華山の絶頂に遊び、図四十軸・記四篇・詩一百五十首を作り、時に称された。
  • 滑夀以下の五人はみな元に生まれ、明初になって卒した。

周顛――狂を装う乞食

  • 周顛は建昌の人。名も字もない。年十四で狂疾となり、南昌の市中を走って乞食し、言葉に定まりがなかったので、みな「顛」と呼んだ。長じて異状があり、しばしば長官に謁して「太平を告げます」と言った。天下が寧謐になるという意だが、人には測れなかった。
  • のち南昌が陳友諒に拠られると顛は避け去った。太祖が南昌を克つと、顛は道の左に謁した。太祖が金陵に還ると顛も随って至った。

周顛――太祖の試み

  • ある日、駕が出たときに顛が謁したので、何をするのかと問うと「太平を告げます」と答えた。以来しばしばこれを告げるので太祖は厭い、巨大な甕をかぶせて薪を積んで焼かせた。薪が尽きて開いて見ると無事で、頭の上にわずかに汗をかいているだけだった。
  • 太祖は異として蔣山の僧寺に寄食させた。まもなく僧が訴え出た。顛は沙彌と飯を争って怒り、半月も食べないという。太祖が行って見ると顛には飢えた様子がない。そこで盛んな馳走を賜い、食べ終わると空室に閉じこめて一月穀を絶ったが、行って見るともとのままであった。諸将士が争って酒と馳走を進めると、食べては吐いた。太祖と共に食べれば吐かなかった。

周顛――陳友諒征討への従軍と消息

  • 太祖が友諒を征しようとして「この行はよいか」と問うと「よい」と答えた。「彼はすでに帝を称している、克つのは難しくないか」と言うと、顛は首を仰いで天を視、姿を正して「天上に他の座はありません」と言った。太祖は連れて行った。
  • 舟が安慶に泊まって風がないので、使いをやって問うと「行けば風がある」と言った。そこで舟を牽いて進ませると、たちまち風が大いに起こり、まっすぐ小孤に着いた。
  • 太祖はその妄言が軍心を惑わすことを慮り、人に守らせた。馬當に至り、江豚が水に戯れるのを見て「水怪が現れると人を損なうことが多い」と歎じた。守る者が告げると太祖は憎み、これを江に投じた。
  • 軍が湖口に泊まると顛はまたやって来て食を乞うた。太祖が食を与えると、食べ終えてすぐ衣を整え遠出の身支度をして辞し去った。
  • 友諒が平定されたのち、太祖は使いを廬山に遣ってこれを求めたが得られず、仙去したのかと疑った。洪武中、帝はみずから『周顛仙𫝊』を撰してその事を紀した。

張中――出自と占験のはじめ

  • 張中は字を景華、臨川の人。若くして進士に応じたが及第せず、そこで山水に情を放った。異人に遇って数学を授かり、禍福を談じて奇中することが多かった。
  • 太祖が南昌を下すと、鄧禹の推薦で召されて至り、坐を賜った。「予が豫章を下すのに兵は刃に血ぬらなかった。この地の人はすこし息えるだろうか」と問うと、「まだです。朝夕のうちにこの地は血を流し、廬舎は焼き尽くされ、鐵柱觀もわずかに一殿を残すだけになりましょう」と答えた。まもなく指揮の康泰が反し、その言の通りになった。
  • ついで「国中の大臣に変があるから予め防ぐべきだ」と言った。秋になって平章の邵榮・參政の趙繼祖が北門に甲兵を伏せて乱を起こしたが、事が覚れて誅に伏した。

張中――鄱陽の戦いの予言

  • 陳友諒が南昌を囲むこと三か月、太祖がこれを伐とうとして召し問うと、「五十日で大勝し、亥子の日にその渠帥を獲ます」と答えた。帝は従行を命じた。
  • 舟が孤山に泊まって風がなく進めなかったので、洞元の法で祭ると風が大いに起こり、鄱陽に達した。
  • 湖中の大戦で常遇春が孤舟のまま深入りし、敵舟が幾重にも囲んだ。皆が憂えると「憂えるな。亥の時にみずから出てくる」と言い、果たしてその通りになった。連戦して大勝し、友諒は流矢に中って死に、その衆五萬を降した。出発から降を受けるまで、ちょうど五十日であった。
  • はじめ南昌が囲まれたとき、帝が何日に解けるかを問うと「七月丙戌」と答えた。報せが至ったのは乙酉であったが、これは術官の暦算がこの月一日ずれていたためで、実際は丙戌であった。その占験の奇中はこの類が多かった。
  • 人となりは狷介で人と合わず、話が少しでも倫理に渉ると他の話で紛らわし、狂を装って世を玩ぶ類であった。常に鉄の冠をかぶるのを好んだので、人は鉄冠子と称した。

張三丰――風貌と武當

  • 張三丰は遼東懿州の人。名は全一、一名は君寳、三丰はその号である。身なりを飾らないので張邋遢とも号した。長身で偉大、龜のような形に鶴のような背、大きな耳に円い目、鬚髯は戟のようであった。寒暑を通じて一枚の衲衣と一枚の蓑だけで、食べれば升斗をたちまち平らげ、あるいは数日に一食、あるいは数か月食べなかった。書は目を通せば忘れず、遊び住むところに定まりがなかった。一日に千里を行けると言う者もあった。戯れ諧謔を善くし、傍らに人なきごとくであった。
  • かつて武當の諸巖壑に遊び、人に「この山は後日必ず大いに興る」と語った。当時、五龍・南巖・紫霄はいずれも兵火で焼けていた。三丰はその徒に語って荊榛を除き瓦礫を払わせ、草廬を作って住まわせたが、やがて捨てて去った。

張三丰――太祖・成祖の捜索と武當の造営

  • 太祖はもとよりその名を聞いており、洪武二十四年(1391年)使いを遣って探させたが得られなかった。のち寳雞の金臺觀に住み、ある日みずから死ぬと言い、頌を留めて逝いた。県の人が共に棺に殮めたが、葬るときに棺の内に音がしたので開いて見ると生き返っていた。そこで四川に遊んで蜀獻王に見え、再び武當に入り、襄・漢を歴て、踪跡はますます奇幻となった。
  • 永樂中、成祖は給事中の胡濙に内侍の朱祥を伴わせ、璽書と香幣を齎して訪ねさせた。荒れた辺境を遍歴すること数年に及んだが遇えなかった。そこで工部侍郎の郭璡・隆平侯の張信らに丁夫三十餘萬人を督させ、武當の宮觀を大いに営ませた。費用は百萬を以て計られた。成って太和太岳山の名を賜い、官を設け印を鋳て守らせた。ついに三丰の言に符合したのである。
  • 三丰は金の時の人で元初に劉秉忠と同門であり、のち鹿邑の太清宫で道を学んだと言う者もあるが、いずれも考証できない。天順三年(1459年)、英宗は誥を賜って通微顯化真人を贈った。ついにその存亡は測れなかった。

袁珙――出自と相人術の修行

  • 袁珙は字を廷玉、鄞の人。高祖の鏞は宋の末に進士に挙がり、元兵が至っても屈せず、一家十七人がみな死んだ。父の士元は翰林檢閲官。
  • 珙は生まれつき異なる稟質があり、学を好み詩をよくした。かつて海外の洛伽山に遊び、異僧の別古崖に遇って相人術を授かった。まず皎々たる日を仰ぎ視て目を眩ませ、赤と黒の豆を暗室に布いてこれを弁じ、また五色の糸を窓の外に懸けて月に映してその色を別ち、いずれも誤らなくなってから人を相した。その法は夜中に二本の炬を燃やして人の形状・気色を視、生まれ年月を参じ合わせるもので、百に一つも誤らなかった。

袁珙――元代の相人

  • 珙は元の時すでに名があり、相した士大夫は数十百人に及んだ。その死生・禍福・遅速・大小、時日を刻むところまで、奇しく的中しないことはなかった。
  • 南臺大夫の布哈特穆爾が閩海道から来て珙に会うと、珙は「公は神気が厳しく速く、挙動は風を生じ、大貴の験である。ただし印堂・司空に赤気があり、官に到って一百十四日で印を奪われよう。しかし正を守り忠を秉れば名は後世に垂れる。自ら勉められよ」と言った。普は越で臺の事を署したが、果たして張士誠に印綬を逼り取られ、節に抗して死んだ。
  • 江西憲副の程徐に会って「君は帝座の上に黄紫が再び見え、千日のうちに二つの美しい除官がある。ただし冷笑して無情で、忠節の相ではない」と言った。徐は一年後に兵部侍郎を拝し、尚書に擢せられ、さらに二年で明に降って吏部侍郎となった。
  • かつて陶凱を相して「君は五岳が朝揖しているが気色はまだ開けず、五星は分明だが光沢がまだ見えぬ。器を蔵して時を待つがよい。十年たたぬうちに文によって進み、異代の臣となって官は二品、荊揚の間であろうか」と言った。凱はのちに禮部尚書・湖廣行省參政となった。その的確さはこの類であった。

袁珙――燕王を相する

  • 洪武中、嵩山寺で姚廣孝に遇い、「公は劉秉忠の同類だ。どうか自愛されよ」と言った。のち廣孝が燕王に薦め、召されて北平に至った。王は自分に似た衛士九人を雑え、弓矢を操って酒肆で飲んでいた。珙は一見してすぐ前に跪き「殿下、どうして身を軽んじてここに至られたのか」と言った。九人はその誤りを笑ったが、珙の言葉はいよいよ切であった。王は起って去り、宮中に珙を召してよく視させた。珙は「龍のように行き虎のように歩み、日角が天を插す。太平の天子である。年四十、鬚が臍を過ぎればすなわち大寳に登られる」と言った。さらに藩邸の諸校卒を見てもみな公侯将帥になると許した。王は言葉が洩れることを慮って帰らせた。

袁珙――太常寺丞と儲位

  • 即位に及んで召して太常寺丞を拝し、冠服・鞍馬・文綺・寳鈔および居第を賜った。
  • 帝が東宮を建てようとして意中に思うところがあり、久しく決しなかった。珙が仁宗を相して「天子である」と言い、宣宗を相して「萬歳の天子である」と言い、それで儲位が定まった。
  • 珙は人を相すればその心術の善悪を知った。人は義を畏れず禍患を畏れるので、しばしばその不善に因って善に導き、それによって行いを改めた者が甚だ多かった。
  • 人となりは孝友・端厚で、族党に恩があった。住んだ鄞城の西では家のまわりに柳を植え、みずから柳莊居士と号し、『柳莊集』がある。永樂八年(1410年)卒、年七十六。祭葬を賜い、太常少卿を贈られた。

袁忠徹――燕王の挙兵を促す

  • 子の忠徹は字を静思。幼くして父の術を伝え、父に従って燕王に謁した。王が北平の諸文武を宴し、忠徹に相させた。都督の宋忠は面が方形で耳が大きく、身は短く気は浮いている。布政使の張昺は面が方形で五官が小さく、歩みは蛇のようである。都指揮の謝貴は腫れぼったく肥え早く、しかも気が短い。都督の耿瓛は顴骨が鬢に插さり、色は飛ぶ火のようである。僉都御史の景清は身が短く声が雄々しい。相法によればみな刑死すべき相だ、と言った。王は大いに喜び、兵を起こす意はいよいよ固まった。

袁忠徹――仁宗の疾を診る

  • 帝となるとすぐ召して鴻臚寺序班を授け、賜与は甚だ厚かった。尚寳寺丞に遷り、のち中書舍人に改まり、駕に扈して北巡した。
  • 駕が旋るころ、仁宗が監国していて讒言に中てられ、帝は怒って午門に榜を掲げ、東宮が処分した事はすべて行わせなかった。太子は憂え懼れて病んだ。帝は蹇義・金忠に忠徹を伴って診させた。還って「東宮の面色は青藍、驚憂の象です。午門の榜を収めれば癒えましょう」と奏した。帝が従うと、太子の疾は果たして治った。
  • 帝はかつて左右を屏け、武臣の朱福・朱能・張輔・李遠・柳升・陳懋・薛禄、文臣の姚廣孝・夏元吉・蹇義および金忠・呂震・方賔・呉中・李慶らの禍福を密かに問い、のちいずれも験があった。

袁忠徹――靈濟宫の符薬を諌める

  • 九年の秩が満ちてまた尚寳司丞となり、少卿に進んだ。
  • 禮部郎中の周訥が福建から還り、閩の人が南唐の徐知諤・知誨を祀っており、その神が最も霊験だと言った。帝はその像と廟祝を迎えに行かせ、都城に靈濟宫を建てて祀った。帝は病むたびに使いを遣って神に問い、廟祝は偽って仙方を進めた。薬性は熱いものが多く、服せば痰が壅がり気が逆し、暴怒することが多く、声を失うまでになった。中外の者は敢えて諌めなかった。
  • 忠徹はある日、入侍して諌めた。「これは痰火虚逆の症、実は靈濟宫の符薬の致すところです」。帝は怒って「仙薬を服さずに凡薬を服せというのか」と言った。忠徹が叩首して哭すと、内侍二人も哭した。帝はいよいよ怒って二人の内侍を曵き出して杖たせ、「忠徹は我を哭している。我はすぐに死ぬというのか」と言った。忠徹は惶れ懼れて趨り伏し、共に退いた。久しくして怒りはやっと解けた。
  • 帝は藩邸の時から忠徹を識っていたので、外臣とは異なる待遇をした。忠徹も帝の遇が厚いので敢えて直言した。かつて外国に宝を取りに行くのは非であること、武臣にも喪に服することを許すべきこと、衍聖公の誥は玉軸に改めて賜うべきことなどを進言し、聞く者はこれを是とした。

袁忠徹――晩年と評

  • 宣徳の初め、帝の容色を覩て「七日のうちに宗室に謀叛する者がありましょう」と言った。漢王が果たして反した。
  • かつて事に坐して吏に下され贖を罰せられ、正統中にまた事に坐して吏に下されて休致し、二十餘年で卒した。年八十三。
  • 忠徹の相術は父に劣らず、世に伝わる軼事は甚だ多いが、ここには載せない。王文を相して「面に人の色がない。相法にいう瀝血頭である」と言い、于謙を相して「目が常に上を視ている。相法にいう望刀眼である」と言い、のちに果たしてその言葉の通りになった。
  • ただし性は陰険で父には及ばず、群臣と隙があると、相法にかこつけて主上の前でこれを陥れた。頗る読書を好み、著書に『人相大成』および『鳳池唫藁』『符臺外集』がある。元の順帝を瀛國公の子とする説を載せている。

戴思恭――学統と燕王・晋王の治療

  • 戴思恭は字を原禮、浦江の人。字によって世に行われた。義烏の朱震亨に学を受けた。震亨は金華の許謙に師事して朱子の伝を得、また宋の内侍で錢塘の羅知悌に医を学んだ。知悌はこれを荊山の浮屠に得、その浮屠は河間の劉守真の門人であった。震亨の医学は大いに行われ、時に丹溪先生と称された。思恭の才敏を愛し、医術をことごとく授けた。
  • 洪武中、御医に徴され、治療はたちどころに効いて、太祖に愛重された。
  • 燕王が瘕を患い、太祖は思恭を遣って治させた。他の医が用いた薬を見るとまさに適切であり、なぜ効かぬのかと思い、王に何を嗜まれるか問うた。「生の芹を嗜む」と答えたので、「分かりました」と言い、一剤を投じると夜に激しく下り、みな細かい蝗であった。
  • 晋王の疾は思恭が療して癒えたが、再発してそのまま卒した。太祖は怒って王府の諸医を逮捕して治罪した。思恭は従容として進み出て言った。「臣は先に命を奉じて王の疾を診、王に申し上げました。今すぐ癒えますが毒が膏肓にあり、再発すれば療せられません、と。今まさにその通りになったのです」。諸医はこれによって死を免れた。

戴思恭――太祖の遇と晩年

  • 思恭はすでに老いていたので、風雨の日は朝を免ぜられた。太祖が不豫のとき、少し間があって右順門に出御し、侍疾に無状であった諸医を逮えたが、ひとり思恭だけを慰めて「汝は仁義の人である。恐れることはない」と言った。
  • やがて太祖が崩じ、太孫が嗣位して諸医を罪したが、ひとり思恭だけを太醫院使に擢した。
  • 永樂初、年老を理由に帰郷を乞うた。三年の夏また徴されて入り、拝礼を免ぜられ、特に召されて進見した。その年の冬また骸骨を乞い、官を遣って護送させ、金幣を賜った。月を越えて卒した。年八十二。行人を遣って祭らせた。
  • 著書に『證治要訣』『證治類元』『類證用藥』などがあり、いずれも丹溪の旨を櫽括したもの。また丹溪の『金匱鈎元』三卷を訂正して自分の意を附し、人はその師に愧じないと言った。

盛寅――王賔からの伝授

  • 盛寅は字を啟東、呉江の人。郡の人の王賔に受業した。はじめ賔は金華の戴原禮と交わり、その医術を得たいと望んだ。原禮は笑って「私はもとより惜しむところはないが、君はすこし身を屈することができぬのか」と言った。賔は謝して「私は老いた、もう弟子の列には居れぬ」と言い、後日、原禮が出た隙をうかがってその書を竊んで去り、ついにその伝を得た。死に臨んで子がなかったので、これを寅に授けた。
  • 寅は原禮の学を得たうえ、さらに『内經』以下の諸方書を討究し、医で大いに名があった。

盛寅――成祖に召される

  • 永樂初、医学正科となった。累に坐して天壽山で労役に就いたが、監工の列侯が見て奇とし、書算を主らせた。
  • 先に中使が江南に花鳥を督しに行き、寅の家に泊まって脹を病んだのを寅が癒したことがあった。たまたま途中で遇い、驚いて「盛先生は無事だったのか。私の仕える太監がまさに脹に苦しんでいる。私と一緒に診てくれぬか」と言った。診て薬を投じるとたちどころに癒えた。
  • たまたま成祖が西苑で較射し、その太監が侍りに行った。成祖は遙かに望み見て愕然として「お前は死んだと聞いていたが、どうして生きている」と言った。太監がつぶさに告げ、盛んに寅を称えた。そこで便殿に召し入れて脈を診させた。寅が「上の脈に風湿の病がございます」と奏すると、帝は大いに然りとした。薬を進めて果たして効があり、御醫を授けられた。

盛寅――成祖への諫言と対局

  • ある日、雪が霽れて召見され、帝が白溝河の戦勝の様を語り、気色が甚だ厲しかった。寅が「それはおそらく天命があったのです」と言うと、帝は懌ばず、起って雪を視た。寅はさらに唐人の詩の「長安に貧しき者あり、瑞は宜しきも多きは宜しからず」の句を吟じ、聞く者は舌を咋んだ。
  • 後日、御薬房で同官と対局していると帝が急に来た。二人は盤を片づけて地に伏し死罪を謝した。帝は最後まで打つよう命じ、坐って観た。寅が三勝すると帝は喜んで詩を賦させ、たちどころに出来たのでますます喜び、象牙の棋盤と詞一闋を賜った。
  • 帝は晩年なお塞外に出ようとした。寅は帝の御年が高いことを理由に行かぬよう勧めたが納れられず、果たして榆木川の変があった。

盛寅――張妃の治療と繋獄

  • 仁宗が東宮にあった時、妃の張氏の経期が至らぬこと十か月、多くの医は妊娠だと賀したが、寅ひとり然らずとし、病状を説明した。妃は遙かにこれを聞いて「医の言は甚だ当たっている。この人がいるのに、どうして早く私を診させぬのか」と言った。方を疏すと破血の剤であったので、東宮は怒って用いなかった。数日で病はいよいよ甚だしくなり、寅に再び診させたが方は前と同じであった。妃は薬を進めさせたが、東宮は堕胎を慮って寅を械につないで待った。やがて血が大いに下り、病はたちまち癒えた。
  • 寅が繋がれたとき、家中は惶れ怖れて「これはきっと磔死だ」と言った。三日して紅仗に前導されて邸舎に還り、賞賜は甚だ厚かった。
  • 寅と袁忠徹はもとより東宮に憎まれており、妃の疾は癒えたものの怒りはなお解けず、甚だ懼れた。忠徹は相術を暁り、仁宗の寿が永くないことを知って密かに寅に告げたが、寅はなお禍を畏れ、仁宗が嗣位すると出て南京太醫院となることを求めた。宣宗が立って召し還された。

盛寅――卒後と甘草の逸話

  • 正統六年卒。両京の太醫院はいずれも寅を祀った。寅の帝宏(「帝」は「弟」または「子」の誤りか)も薬論に精しく、子孫はその業を伝えた。
  • はじめ寅が朝に御醫房に宿直したとき、にわかに昏眩して死にそうになり、療する者を募ったが応じられる者がなかった。一人の草沢の医者が応じ、一服で癒えた。帝が事情を問うと、その者は「寅は空腹で薬房に入り、にわかに薬毒に中りました。諸薬を和解できるものは甘草です」と答えた。帝が寅に問うと果たして空腹で入っていた。そこで草沢の医者に厚く賜った。

皇甫仲和――漠北の占い

  • 皇甫仲和は雎州の人。天文推歩の学に精しかった。
  • 永樂中、成祖の北伐に仲和は袁忠徹とともに扈従した。軍が漠北に至って寇を見ず、引き還そうとして仲和に占わせた。「今日、未申の間に寇が東南から来ます。王師ははじめ却きますが、終には必ず勝ちます」と言い、忠徹の答えも同じであった。日中になっても至らないのでもう一度問うと、二人の答えは初めと同じであった。帝は二人を械につなぎ、験がなければ誅殺しようとした。
  • しばらくして中宮が奔って「寇が大挙して至った」と告げた。はじめ安南から得た神礮があり、寇の一騎がまっすぐ前に出るとこれを礮で撃ち、もう一騎が前に出ると再び撃ったが、寇は動かなかった。帝は高みに登って望み「東南は少し却いてはいないか」と言い、急ぎ大将の譚廣らを麾いて進撃させた。諸将が奮って馬の足を斫ると寇は少し退いた。にわかに疾風が沙を揚げて両軍は相見えなくなり、寇は引き去った。
  • 帝はその夜のうちに班師しようとしたが、二人は「明日、寇は必ず降ります。お待ちください」と言い、期日になって果たして降った。帝は初めてその術を神とし、仲和に欽天監正を授けた。

皇甫仲和――英宗の北征と土木の後

  • 英宗が北征しようとしたとき、仲和はすでに老いていた。学士の曹鼐が「駕を止められるか。胡・王の両尚書はすでに百官を率いて諌めた」と問うと、「できぬ。紫微垣の諸星がすでに動いている」と答えた。「では、どうすればよいか」と問うと、「まず内を治められては」と答えた。「親王に監国を命じた」と言うと、「儲君を立てるに如かず」と答えた。「皇子は幼く、立てやすくない」と言うと、「恐らく終には免れず立つことになろう」と答えた。車駕が北狩するに及び、景帝が即位した。
  • 寇が都城に迫ったとき城中の人はみな哭したが、仲和は「憂えるな。雲は南に向かい、大将の気が至る。寇は退く」と言った。翌日、楊洪らが入援し、寇は果たして退いた。
  • ある日、朝から出ると衛士が占いを請うた。仲和が辞すると衛士は怒った。仲和は笑って「お前の家では妻妾がまさに闘っている。急いで帰るがよい」と言った。帰ると、まさに闘って収まらなかった。何によって知ったのかと問われ、「彼が問うたとき、たまたま二羽の鵲が屋根の上で闘っているのを見た」と答えた。その占事はおおむねこの類であった。

仝寅――英宗の還御を筮う

  • 仝寅は字を景明、安邑の人。年十二で瞽し、そこで師について京房の術を学び、禍福を占って奇中することが多かった。
  • 父の清が大同に遊び、これを携えて塞上に行った。石亭が參將として頗る信じ、事あるごとに諮った。
  • 英宗が北狩し、使いを遣って還る期を問わせた。筮して乾の初を得、こう言った。大吉である。四は初の応で、初は潜み四は躍る。明年、歳は午に在り、その干は庚午。躍る候である。庚は更新の意。龍は歳に一たび躍り、秋に潜んで秋に躍る。明年の仲秋に駕は必ず復られる。ただし繇は勿用で応は淵に在るから、還っても位は必ず失われる。しかし象は龍、数は九であり、四は五に近く、躍るは飛ぶに近い。龍が丑に在れば丑は赤奮若といい、復るのは午に在り、午の色は赤である。午が丑に奮い、若は順、天がこれに順うのである。丁においては大明の象であり、位は南方の火。寅はその生、午はその王、壬はその合である。歳の丁丑、月の寅、日の午が壬に合するとき、帝は復辟なさろう、と。やがてことごとく験があった。

仝寅――北京防衛と迎え入れ

  • 石亨が入って京營を督したとき、みずから随わせた。額森が都城に迫り城中の人が恟々と懼れ、ある者が筮を請うた。寅は「彼は驕り我は盛ん、戦えば必ず勝つ」と言い、寇は果たして敗れ去った。
  • 翌年、額森が使いを遣って上皇を迎えるよう請い、廷臣はその詐りを疑った。寅は亨に言った。「彼は天に順い義に仗る。我が中国がかえって奉迎の礼を失えば、外蕃に笑われはしまいか」。亨はそこで于謙と計を決し、上皇は果たして還った。

仝寅――盧忠の獄と晩年

  • 景泰三年、指揮の盧忠が変を告げ、事は南宮に連なった。帝は中官の阮浪を殺し、なお窮治して已まず、外の議論は洶々としていた。忠はある日、人を屏けて筮を請うた。寅は叱して「この兆は大凶、死んでも贖えぬ」と言った。忠は懼れて狂を装い、事は究められずに済んだ。やがて忠は果たして誅に伏した。
  • 英宗が復辟して寅を官しようとしたが、寅は固辞した。金銭・金の巵などの品を賜った。その父は指揮僉事に官して徐州に赴こうとしたが、英宗は寅が同行することを慮り、錦衣百戸を授けて京師に留めた。
  • 寅は石亨の勢が盛んなのを見て、筮に託して毎に戒めたが、亨は用いることができず、ついに禍に及んだ。
  • 寅は筮によって公卿貴人の間に遊び、信重されないことはなかったが、一語も私事に及ばなかった。年ほとんど九十で卒した。

呉傑――太醫院使まで

  • 呉傑は武進の人。𢎞治中、医を善くするので京師に徴され、禮部の試で高等となった。故事では、高等は御藥房に入り、次は太醫院に入り、下位の者は帰された。傑は尚書に言った。「諸医は徴されて都下で順番を待つこと十餘年。一朝にして帰されるのは誠に流落で憫れむべきです。傑は御藥房を辞して、諸人と同じく院に入りたい」。尚書は義として許した。
  • 正徳中、武宗が病み、傑の一薬で癒えたので御醫に擢せられた。ある日、帝が射獵から還って甚だ憊れ血疾を感じたが、傑の薬で癒えて一官を進められた。以来、帝の病を一つ癒すごとに一官を進められ、積んで太醫院使に至った。前後に彪虎衣・繡春刀および銀幣を賜わること甚だ厚かった。帝が行幸するときは必ず傑を扈従させた。

呉傑――武宗の最期を扈従する

  • 帝が南巡しようとして傑は「聖躬は未だ安からず、遠く渉られるのはよろしくない」と諌めた。帝は怒り、左右を叱して掖き出させた。
  • 駕が還って清江浦で漁をして溺れ、病を得た。臨清に至って急ぎ使いを遣り傑を召したが、着いた時には病はすでに深く、そのまま扈して通州に帰った。
  • 時に江彬が兵を握って左右に居り、帝の崩御後に自分が禍を得ることを慮って、力めて宣府に行幸することを請うた。傑は憂えて近侍に語った。「病は急である。速やかに大内に還るべきだ。もし宣府に至って不諱のことがあれば、我らに死に場所があろうか」。近侍は懼れて百方に勧め、帝はやっと京師に還った。数か月を経て帝は崩じ、彬は誅に伏し、中外は晏らかとなった。傑の力があった。
  • まもなく致仕した。子の希周は進士・户科給事中、希曽は舉人。

許紳――壬寅宮変で世宗を救う

  • また許紳という者があり、京師の人。嘉靖初、御藥房に供事して世宗に知られ、しきりに遷って太醫院使となり、歴て工部尚書を加えられ院事を領した。
  • 二十年、宮婢の楊金英らが逆を謀り、帛で帝を縊り、気はすでに絶えていた。紳は急ぎ峻薬を調えて下した。辰の時に薬を下し、未の時ににわかに声を発して紫色の血を数升去り、ついに口をきけるようになった。さらに数剤で癒えた。帝は紳を徳とし、太子太保・禮部尚書を加え、賜与は甚だ厚かった。
  • まもなく紳は病んで言った。「私はもう起てぬ。さきの宮変のとき、自分でも効かなければ必ず身を殺されると思っていた。その驚悸によるもので、薬石の療せるところではない」。果たして卒した。恭僖と諡を賜い、その一子を官し、恤典に加えるところがあった。
  • 明の一代で医者の官が最も顕れたのは、ただ紳ひとりである。

王綸・王肯堂

  • 士大夫で医に名のある者は、ほかに王綸・王肯堂がある。綸は字を汝言、慈谿の人。進士に挙がり、正徳中に右副都御史として湖廣を巡撫した。医に精しく、赴任先で治療してたちどころに効かないことがなかった。『本草集要』『名醫雜著』が世に行われる。
  • 肯堂の著した『證治準繩』は医家の宗とするところ。その行履は父の樵の𫝊に詳しい。

凌雲――鍼術を授かる

  • 凌雲は字を漢章、歸安の人。諸生であったが棄てて去り、北に遊んだ。泰山の古廟の前で気が絶えかけた病人に遇い、雲は久しく嗟歎した。一人の道人がにわかに「お前はこれを生かしたいか」と言い、「そうだ」と答えると、道人はその左股に鍼して、たちどころに蘇らせた。「この人は毒気が内に侵しただけで死んだのではない。毒が散れば自ずと生きる」と言い、そこで雲に鍼術を授けた。治療して効かないことがなくなった。

凌雲――治験

  • 里の人が咳を病んで五日絶食し、多くの者が補剤を投じてますます甚だしくなった。雲は「これは寒湿の積で、穴は頭頂にある。鍼せば必ず暈絶し、時を過ぎてやっと蘇る」と言い、四人に髪を分けて牽かせて傾かぬようにして鍼した。果たして暈絶し、家人はみな哭いたが、雲は言笑自若としていた。しばらくして気が漸く蘇り、補を加えてやっと鍼を出すと、積もった痰を一斗ばかり嘔き、病はすぐ除かれた。
  • ある男子が病後に舌を吐いた。雲の兄も医を知っており、雲に言った。「これは病後に女色に近づくのが早すぎたのだ。舌は心の苗、腎水が竭きて心火を制せられぬ。病は陰虚にあり、その穴は左股の太陽である。陽を以て陰を攻めるべきだ」。雲も然りとし、その穴に鍼したが、舌を吐くのは元のままであった。雲は「これは瀉を知って補を知らぬのだ」と言い、数剤を補すと舌は漸く元に復した。
  • 淮陽王が風を病むこと三年、朝に請うて四方の名医を召して治させたが効がなかった。雲が鍼を投じ、三日たたぬうちに歩みは元通りになった。
  • 金華の富家の婦が若くして寡となり狂疾を得、裸形で野に立つまでになった。雲は視て言った。「これは喪心という。私がその心に鍼すれば心が正しくなり、必ず恥を知る。帳の中に蔽って好い言葉で慰め、その羞じらいを解いてやれば、発らずに済む」。そこで二人にしっかり押さえさせ、冷水を顔に噴きかけて鍼すると、果たして癒えた。
  • 呉江の婦が臨産で胎が下らぬこと三日、呼び叫んで死を求めた。雲がその心に鍼刺すると、鍼を出したとたんに児が手に応じて下った。主人が喜んで理由を問うと、「これは心を抱いて生まれるものだ。手に鍼して痛めば手を伸ばす」と答えた。児の掌を取って視ると鍼の痕があった。

凌雲――孝宗の召し

  • 孝宗が雲の名を聞いて京師に召した。太醫官が銅人を出し、衣で蔽って試したところ、刺すところは中らぬものがなく、御醫を授けられた。年七十七で家に卒した。子孫はその術を伝え、海内で鍼法を称する者は「歸安の凌氏」と言う。

李玉――神鍼

  • 李玉という者があり、六安衞千戸に官し、鍼灸を善くした。ある者が頭痛に堪えられず、雷が震っても聞こえないほどであった。玉は診て「これは虫が脳を啖っているのだ」と言い、殺虫の諸薬を合わせて末とし鼻中に吹き入れると、虫はことごとく眼・耳・口・鼻から出て癒えた。
  • 跛の人が双杖に扶けられて来たが、玉が鍼するとたちどころに杖を捨てて去った。両京は「神鍼李玉」と号した。
  • 玉は方剤も善くした。ある者が痿を病み、玉は諸医の処方が治法に合っているのに効かないのを察して疑い、にわかに悟って言った。「薬に新陳があれば効に遅速がある。この病は表にあってしかも深い。小さな剤で癒えるものではない」。そこで薬を二鍋煎じて甕に傾け、やや冷えてから病者をその中に坐らせ薬を澆いだ。時を過ぎて汗が大いに出て、たちどころに癒えた。

李時珍――本草綱目

  • 李時珍は字を東璧、蘄州の人。医書を読むのを好んだ。医家の本草は、神農の伝えるところはわずか三百六十五種、梁の陶𢎞景が増したのも同数、唐の蘇恭が一百一十四種、宋の劉翰がさらに一百二十種を増し、掌禹錫・唐慎微らが先後に増補して合わせて一千五百五十八種となり、種類は大いに備わった。しかし品類はすでに煩わしく名称も雑多で、一物を二つ三つに分けたり、二物を一品に混じたりしていた。
  • 時珍はこれを病み、窮めて捜し博く採り、煩を刈り欠を補い、三十年を経て書八百餘家を閲し、稿を三たび改めて成った。書を『本草綱目』といい、薬三百七十四種を増し、整理して一十六部とし、合わせて五十二卷。首に正名を標して綱とし、他はそれぞれ釈を附して目とし、次に集解を以てその産地・形色を詳らかにし、さらに気味・主治・附方を以てした。
  • 書が成って朝に上ろうとするとき時珍はにわかに卒した。まもなく神宗が国史を修めるよう詔して四方の書籍を購った。その子の建元が父の遺表とこの書を献じ、天子は嘉して天下に刊行を命じた。以来、士大夫の家にはこの書がある。
  • 時珍は楚王府奉祠正に官し、子の建中は四川蓬溪知縣。

繆希雍ら――同時代の医

  • また呉縣の張頤、祁門の汪機、把縣の李可大、常熟の繆希雍はみな医術に精通し、治病に奇中することが多かった。
  • 希雍は常に、本草は神農・朱氏に出るもので、これを五経に譬えれば、その後に増補された別録は註疏に譬えられる、惜しむらくは硃と墨が入り混じっている、と言った。そこで深く研め剖き析ち、本経を経とし別録を緯として『本草單方』一書を著し、世に行われる。

周述學――暦学と著述

  • 周述學は字を繼志、浙江山陰の人。読書して深く思うことを好み、とりわけ暦学に邃かった。『中經』を撰し、中国の算を用いて西域の占を測った。また五緯の細行を推究して星道五図を作り、そこで七曜はみな求むべき道をもつことになった。
  • 武進の唐順之と暦を論じ、歴代の史志の議を取ってその訛舛を正し繁蕪を刪った。また『大統萬年二厯通議』を撰して歴代の及ばなかったところを補った。
  • 暦以外にも、國書・皇極・律吕・山經・水志・分野・輿地・算法・太乙・壬遁・演禽・風角・鳥占・兵符・陣法・卦影・禄命・建除・葬術・五運六氣・海道鍼經と、それぞれに成った書があり、凡そ一千餘卷、総名を『神道大編』という。

周述學――布衣で終わる

  • 嘉靖中、錦衣の陸炳が経歴の沈鍊に士を訪ね、鍊は述學を挙げた。炳は礼を厚くして京に聘し、その英偉に服して兵部尚書の趙錦に薦めた。
  • 錦が辺事を訪ねると、述學は「今年は辺兵を主る。応は乾・艮にあるはず。艮は遼東、乾は宣・大の二鎮である。京師は憂えなくてよい」と言った。果たしてその通りとなった。
  • 錦が朝に薦めようとしたとき、仇鸞がその名を聞いて招こうとした。述學はその者が必ず敗れることを識り、里に還った。総督の胡宗憲が倭を征するとき募集に招いたが、これも薦めることができず、布衣のまま終わった。

張正常――正一嗣教真人

  • 張正常は字を仲紀、漢の張道陵の四十二世孫である。代々貴溪の龍虎山に居り、元の時に天師の号を賜わっていた。
  • 太祖が南昌を克つと正常は使いを遣って上謁し、やがて二度入朝した。洪武元年、即位を賀しに入った。太祖は「天に師があろうか」と言い、正一嗣教真人に改授して銀印を賜い、秩は二品に視た。寮佐を設けて贊教・掌書といい、定めて制とした。

張宇初・張宇清――嗣位と加号

  • 長子の宇初が嗣いだ。建文の時、不法に坐して印誥を奪われ、成祖が即位して復された。宇初はかつて長春真人の劉淵然に道法を受けたが、のち淵然と協わず互いに詆り訐いた。永樂八年卒。
  • 弟の宇清が嗣いだ。宣徳初、淵然が大真人に号を進められると、宇清は入朝して禮部尚書の胡濙に懇ろに請わせ、崇謙守静の号を加えられた。

張元吉――度牒と加号

  • 再伝して曽孫の元吉に至った。年が幼いのでその祖母に護持するよう敕し、その父の留綱に真人を贈り、母の髙氏を元君に封じた。
  • 景泰五年、入朝して道童四百二十人の度牒を給わることを乞い、濙がまた請うて許された。ついで大真人の号を得ようとし、濙が請うてまた許された。
  • 天順七年、再び道童三百五十人の度牒を乞うたが、禮部尚書の姚夔が不可として持ち、詔して百五十人を度することを許した。
  • 憲宗が立つと、元吉はまた母の封を加え太元君を太夫人に改めることを乞うたが、吏部の言によって許されず止んだ。
  • はじめ元吉はすでに「沖虚守素昭祖崇法安恬樂静元同大真人」の号を賜い、母は「慈惠静淑太元君」であった。ここに至って元吉に「體元悟法淵黙静虚闡道𢎞法妙應大真人」、母に「慈和端惠貞淑太真君」の号を加えた。

張元吉――廷訊と発配

  • しかし元吉はもとより兇頑で、乗輿や器服を僭用し、擅に制書を書き替え、良家の子女を奪い、人の財物を逼り取り、家に獄を置いて前後に四十餘人を殺した。一家で三人という例もあった。
  • 事が聞こえて憲宗は怒り、元吉を械につないで京に至らせ、百官を会して廷訊し、死を論じた。そこで刑部尚書の陸瑜らが襲封を停め真人の号を去ることを請うたが許されず、旧制の通りその族人を択んで授けるよう命じ、妄りに天師と称して符籙を印行する者は罪を貸さぬとした。成化五年四月のことである。
  • 元吉は繋がれること二年、ついに夤縁して死を免れ、杖百のうえ肅州の軍に発せられ、まもなく釈されて庶人となった。

張元慶・張彦頨――嘉靖朝の恩寵

  • 族人の元慶が嗣ぎ、𢎞治中に卒した。子の彦頨が嗣ぎ、嘉靖二年に大真人の号を進められた。
  • 彦頨は天子が神仙を好むのを知り、その徒十餘人を伝馬に乗せて雲南・四川に遣り、遺経・古器を採取して上方に進め、あわせて蟒衣・玉帯を鎮守の中官に贈った。雲南巡撫の歐陽重に劾されたが問われなかった。
  • 十六年、内庭で雪を禱って験があり、金冠・玉帯・蟒衣・銀幣を賜い、金印に改め、敕には卿と称して名を呼ばなかった。彦頨が入朝するとき経由する郵伝の供応が期日に後れることがあり、常山知縣の呉襄らを按臣に下して治めさせた。

張永緒・張國祥・張應京――世封の廃と復

  • 伝えて子の永緒に至り、嘉靖末に卒し、子がなかった。吏部主事の郭諌臣が穆宗の初政に乗じて上章し、その世封を奪うことを請うた。江西の守臣に下して議させ、巡撫の任士慿らが力めて革むべきだと言い、真人の号を去って上清觀提點に改授し、秩は五品、銅印を給い、その宗人の國祥をこれに充てた。
  • 萬厯五年、馮保が用事し、國祥の旧の封を復してなお金印を与えた。
  • 國祥は伝えて應京に至った。崇禎十四年、帝は天下に事故が多いことから應京を召して祈禱させた。至って宴を賜うよう命じたが、礼臣は「天順中の制では真人は宴に与らず、ただ筵席を賜うのみ。今、應京は優旨を奉じているので、宴法王・佛子の例に倣って靈濟宫で宴し、内官に主席させたい」と言い、従われた。
  • 翌年三月、應京は三官の神に封号を加え中外一体に尊奉することを請うたが、礼官が力めてその謬りを駁し、事は寝んだ。
  • 張氏は正常以来ほかに神異はなく、もっぱら符籙・祈雨・駆鬼に恃み、間々小さな験があった。しかし代々相い伝襲し、世を経ること既に久しく、ついに廃されなかった。

劉淵然――長春真人

  • 劉淵然という者は贛縣の人。幼くして祥符宮の道士となり、頗る風雷を呼び召すことができた。洪武二十六年、太祖がその名を聞いて召し至らせ、髙道の号を賜い朝天宮に舘した。永樂中、従って北京に至った。
  • 仁宗が立つと長春真人の号を賜い、二品の印誥を給して正一真人と等しくした。宣徳初、大真人に進んだ。七年、朝天宮に帰ることを乞い、御製の山水図の歌を賜わった。
  • 卒、年八十二。七日を経て入殮したが、端坐して生けるようであった。淵然は道術があり、人となりは清静自守であったので、累朝に礼遇された。

邵以正――淵然の徒

  • その徒に邵以正という者があり、雲南の人。早くに淵然に法を得た。淵然が老を請うときに薦め、召されて道籙司左元義となり、正統中に左正一に遷って京師の道教の事を領した。景泰の時に「悟元養素凝神沖黙闡微振法通妙真人」の号を賜わった。
  • 天順三年、慶成の宴を行おうとしたとき、故事では真人は二品の班の末に列していたが、ここに至って帝は「殿上の宴は文武官のものである。真人がどうして与れよう。筵席を送って与えよ」と言い、ついに制となった。

沈道寧

  • また沈道寧という者も道術があった。仁宗の初め「混元純一沖虚湛寂清静無為承宣布澤助國佐民廣大至道髙士」に命ぜられ、階は正三品、法服を賜わった。

智光――浮屠の大國師

  • 時に浮屠の智光という者も「圓融妙慧浄覺𢎞濟輔國光範衍教灌頂廣善大國師」の号を賜い、金印を賜わった。智光は武定の人。洪武の時、命を奉じて二度烏斯蔵の諸国に使いし、永樂の時にもまた烏斯蔵に使いして尚師の哈里瑪を迎えた。そこで蕃国に通じ、諸経を多く訳解した。六朝に歴事し、寵錫は群僧に冠たるものであった。
  • 淵然らとともに淡泊にみずから甘んじ、戒行を失わなかった。成化・正徳・嘉靖の朝に至って邪妄な者が雑り進み恩寵が濫りに加えられたのは、先朝と異なるゆえんである。