明史卷二百九十四 列傳第一百八十二 忠義六
篇首の立伝者一覧
- 夏統春(薛聞禮等)
- 陳 美(郭 裕等)
- 諶吉臣(張國勲等)
- 盧學古(朱士完等)
- 陳萬策(李開先)
- 許文岐(李 新等)
- 郭以重(岳 璧 郭金城)
- 崔文榮(朱士鼎)
- 徐學顔(李毓英等)
- 馮雲路(熊 □(底本欠字) 明 睿 易道暹 傅可知)
- 蔡道憲(周二南等)
- 張鵬翼(歐陽顯宇等)
- 劉熙祚
- 王孫蘭
- 程良籌(程道夀)
- 黄世清
- 楊 暄(朱一統等)
- 唐時明(薛應玢 唐夢鯤)
- 段復興(靳聖居等)
- 簡仁瑞(何相劉等)
- 司五教(張鳯翮)
- 都 任(王家録等)
- 祝萬齡(王 徵等)
- 陳 璸(周鳯岐)
- 王徴俊(宋之儁等)
- 丁泰運(尚大倫等)
夏統春――黄陂の防戦
- 夏統春は字を元夫といい、桐城の人。諸生で慷慨、才志があった。保舉によって黄陂丞を授かり、かつて縣事を摂して廉能の声があった。
- 十五年(1642年)、賊が黄陂を犯した。統春はすでに麻陽知縣に遷っていたがまだ赴任せず、衆を督して十五昼夜にわたって拒み守ったところ、賊はにわかに囲みを解いて去った。統春は賊が必ず再び来ると考えたが、衆はすでに疲れ果てており、家で休んだ。五日を経て賊が果たしてにわかに至り、城はついに陥ちた。
- 統春は巷戦して力尽き捕らえられ、屈服を迫られた。統春は賊魁を指して大いに罵り、賊は怒ってその右手を断った。すると左手で賊を指して罵り、賊はまた断った。なお罵りやめないのでその舌を割いた。目を怒らせて眥が裂けんばかりだったので、賊はその目を刳った。それでもなお頭で賊に突き当たったので、ついに手足を裂いて殺した。
夏統春――薛聞禮
- 薛聞禮という者は武進の人。府吏から黄陂典史に官した。凶作の年、民が漕粟を納められずにいたとき、聞禮は使いで漢口を過ぎた折に知人から千金を借り、民の未納分に代えた。
- 十六年(1643年)、張獻忠が黄陂を陥とし、聞禮の才を愛して連れ去ったが、その夕にすぐ逃げ帰った。折しも賊が置いた偽官が士民に殺されたので、聞禮は「禍は大きくなるぞ」と言い、士民を遠くへ避けさせ、自分だけ残ってこれに当たった。まもなく賊が至って城を屠ろうとすると、聞禮は身を挺して「偽官を殺したのは私だ」と言った。賊は生かそうとしたが罵りやめず、ついに殺された。
夏統春――小吏として死難した者
- このころ賊は中原に蔓延し、覆された名城は数えきれない。小吏として死難した者に、何宗孔・賈儒秀・張逹・郝瑞日らがいる。
- 宗孔は紫陽典史。十一年五月、流賊がふたたびその城を陥とし、死んだ。
- 儒秀は商南典史。城が陥ちて節に抗して死んだ。
- 逹は興山典史。十四年二月、張獻忠が蜀から来攻し、都司の徐日耀が戦没した。逹は縛られ、賊を罵って屈せず死んだ。
- 瑞日は陝西の人、固始巡檢。羅山が賊に陥ちると上官は瑞日に縣事を摂らせた。単騎で二人の童を連れて赴き、着くと僧寺に泊まり、流民を招いて守禦の計を立てようとした。一月も経たぬうちに賊が偽官を遣り、土㓂の萬朝勲がこれと合して、誘って瑞日を捕らえ、降を説いたが従わないので家に拘禁した。ある日、朝勲が酒宴を設けて賊たちが酔い臥したとき、ひそかにその室に入って朝勲を殺し、鳳陽へ奔ろうとしたが、鳳陽は雨に阻まれ、また捕らえられた。賊はその勇を愛して留めようとしたが、「私は小吏とはいえ朝廷の臣子だ。賊に用いられようか」と叱り、ついに害された。二人の僕も死んだ。
- 朱耀という者は固始の人。父の允義、兄の炳・思成とともに勇力で知られた。八年、賊が来襲し、耀の父子は力戦して退けた。翌年、賊がまた至ると、耀は出て戦い手ずから数十人を馘したが、追撃して伏兵の中に陥り、大いに罵って死んだ。允義は「私は必ず子の讐に報いる」と言い、炳は思成に「我ら二人で必ず弟の讐に報いよう」と言い、三人が衆を率いて奮い撃ち、賊は囲みを解いて去り、城は全うされた。
陳美――宜城知縣
- 陳美は字を在中といい、新建の人。崇禎のとき郷挙から宜城縣を知った。兵火のあとで民生は疲弊し、張獻忠が榖城に拠って人情はいよいよ懼れたが、美は安撫の手を尽くした。襄陽が陥ちて賊兵が来襲すると、美は守備の劉相國とともに迎え撃ち、賊は伏に中って敗れ去った。巡按御史がその功を上申して叙錄され、撫治都御史の王永祚が部下の有司を六等に課したとき、美は上の上に置かれた。朝に薦められたが擢用には及ばなかった。
- 十五年(1642年)冬、李自成が長駆して襄陽を犯し陥とした。左良玉がまず奔り、永祚および知府以下もみな逃げた。賊が城に入り、郷官の羅平知州蔡思䋲、福州通判宋大勛が節に殉じた。
- 賊は兵を分けて宜城・棗陽・穀城・光化・均州を寇した。美は宜城を守り八昼夜固く拒んだが、城が陥ちて抗し罵ってやまず、賊に磔にされて死んだ。訓導の陽城の人田世福もここで死んだ。
陳美――襄陽周辺の諸縣
- 棗陽知縣の郭裕は清江の舉人。着任早々に張獻忠が至ったが、左良玉が近邑に屯していたので、裕は単騎で赴いてともに賊を防ぐよう請い、賊は退き去った。ここに至って賊将の劉福が来攻し、裕は礮石を発して多くの賊を傷つけた。賊は憤って攻めを強め、城が陥ちた。裕は身に数槊を受けて大いに罵り、賊は手足を裂き、一門ことごとく害された。
- 光化知縣の萬敬宗は南昌の人、貢生。着任して死を誓い、賊が城に迫るとみずから命を絶った。賊はその義を認めて引き去り、城は全うされた。郷官の韓應龍は舉人で長蘆鹽運使を歴任し、偽職を受けず自ら縊れて死んだ。
- 穀城知縣の周建中も節に殉じた。均州知州の胡承熙は捕らえられ屈せず、その子の爾英とともに死んだ。承熙は有能の声があり、永祚が属吏を課したときやはり上の上に列し、刑部員外郎に遷ったが赴かぬうちに難に遭った。
- 賊が鄖陽を犯して同知の劉璇が死んだ。保康が陥ちて知縣の萬惟壇とその妻の李氏がともに死んだ。璇は永年の人、惟壇は曹縣の人、ともに貢生。
諶吉臣――雲夢知縣
- 諶吉臣は字を仲貞といい、南昌の人。父の應華は萬厯のとき參將として朝鮮に援して戦没した。吉臣は舉人から雲夢知縣となった。
- 崇禎十五年(1642年)十二月、李自成が襄陽を陥とし、その党の賀一龍が德安を陥とすと、吉臣は急ぎ妻子を帰らせ、身は死を誓って去らなかった。翌年正月、雲夢が陥ちて捕らえられ、数日食を絶った。賊が兵をもって臨むと、吉臣は速やかな死を乞うた。賊はその気概を壮として官を授けたが屈せず、馬に乗せて駆り立てると「私は封疆を失った。ここで死ぬべきだ。さらにどこへ行こうか」と言い、ついに殺された。福王のとき太僕寺丞を贈られた。
諶吉臣――德安周辺の死節者
- 賊が兵を分けて旁邑を犯し、應城が陥ちて訓導の張國勲が死んだ。國勲は黄陂の人。城が陥ちようとするとき文廟に詣で、先師の木主を抱いて大いに哭し、賊に捕らえられ大いに罵って屈せず、手足を裂かれて死んだ。妻子十余人もみな節に殉じた。
- 袁啓觀という者は雲夢の諸生。賊が城を拠ると啓觀は寨を立てて自ら守った。賊が捕らえて題を出して試すと、啓觀は「汝は文を知るというなら、乱臣賊子は人々が誅してよいものだと知らぬのか」と言い、賊は怒って殺した。
- 安陸の城が陥ち、知縣の分水の人濮有容は一門十九人がみな死んだ。郷民が寨を結んで自ら保ったが、賊将の白旺が数十の寨を連破した。諸生の廖應元は守りいよいよ堅く、奸人が捕らえて旺に送った。旺が「何をしようというのか」と問うと、厲声で「賊を殺そうというのだ」と答え、賊は怒って射殺した。
- 應山の舉人劉申錫は死士百人を養い、城が陥ちると恢復を謀ったが、兵敗れて旺に殺され、百人もみな戦死した。
- 沔陽が陥ちて同知の馬飇が死んだ。
盧學古――荆門の死守
- 盧學古は夏縣の人、舉人。承天府同知を歴任し荆門州の事を摂した。崇禎十五年(1642年)十二月、李自成が荆門を寇すと、學古は死を誓って守った。學正の黄州の人張郊芳、訓導の黄岡の人程之竒も、大成殿で諸生と盟って城守を助けた。賊は四方から四日にわたって攻め、援軍もなく城が陥ちた。學古は賊を罵ってやまず、腹を割いて死んだ。郊芳・之竒も屈せず死んだ。
盧學古――朱士完・彭大翮
- 朱士完という者は潛江の舉人。郷試の掲榜の夕、黒い幟がその墓門に落ち、白粉で「亂世忠臣」の四字が書かれている夢を見た。ここに至って賊が承天を破り、長駆して潛江を陥とし、士完は捕らえられ械をはめられて襄陽へ送られた。道が泗港に至ったとき、指を噛んで血で「已盡節處(すでに節を尽くしたる処)」と書き、みずから縊れた。賊が通ったあとは焼き払われたが、士完が壁に題した字だけが残った。
- 彭大翮という者は竟陵の青山の人。賊が承天に迫ると、著した『平賊權畧』を当事者に上ったが用いられず、そこで自ら一隊を集めて郷里を保ち、賊を迎え撃って分に過ぎるほど斬った。賊は怒って雨の夜に襲い、大翮は「わが子孫は陣没して尽きた。私が生きて何になろう」と嘆じ、水に赴いて死んだ。
盧學古――荆州の陥落
- 賊は荆門を陥とすと荆州に向かった。巡撫の陳睿謨は急ぎ江を渡って城に入り、瑞王常潤を奉じて南へ奔り、監司以下もみな奔った。士民はついに門を開いて賊を迎えた。訓導の撖君錫は衣冠を正して明倫堂に端坐し、賊が至って屈服させようとしたが罵って死んだ。君錫は字を賓王といい、綘縣の人。
- 賊は縉紳を大いに捜索した。故相張居正の子で尚寳丞の允修は食を絶って死に、戸部員外郎の李友蘭は屈せず死んだ。諸生の王維藩は妻の朱と二人の娘を連れて難を避けたが賊に掠われ、維藩は妻と娘を井に赴かせて死なせ、自らも殺された。諸生の王圖南は捕らえられ抗し罵って死んだ。
- 夷陵の李雲は郷挙から潁川州を知り、州人が祠を建てて祀った。職を辞して帰り、流賊が熾んになると「名義至重、鬼神難欺(名義は至重、鬼神は欺きがたし)」の二語を大書して窓に掲げ、自ら警めとした。城が陥ちて屈せず、江陵に連行され絶食して死んだ。
- 呂調元という者は歸州の千戸。城が陥ちて士民はことごとく帰附したが、調元だけは歩卒を率いて格闘し、重囲の中に陥って降を勧められたが大いに罵り、乱刀の下に死んだ。
陳萬䇿――李開先とともに
- 陳萬䇿は江陵の人。天啓中に同邑の李開先と前後して郷試に挙げられ、ともに時名があった。
- 崇禎十六年(1643年)正月、李自成が襄陽に拠って偽官を設けた。その吏政府侍郎の石守と喻上猷(上猷はもと御史で賊に降った者)が、二人を賢才で用いるべきだと薦めた。自成は使者に書と幣を持たせて徴した。
- 萬䇿は龍灣市に隠れていたが、賊の使いが至ると嘆じて「私は名に誤られた。身を奮って賊を滅ぼせぬ以上、どうして頂踵を惜しもうか」と言い、夜にみずから縊れた。賊の使いが開先の家に至ると、開先は目を怒らせて大いに罵り、頭を墻に突き当てて死んだ。福王のとき、ともに手厚く恤むよう命じられた。
許文岐――黄州・蘄州の守り
- 許文岐は字を我西といい、仁和の人。祖父の子良は巡撫貴州右僉都御史、父の聨樞は廣西左參政。文岐は崇禎七年(1634年)の進士で、南京職方郎中を歴任した。賊が江北を大いに擾すと、尚書范景文を佐けて軍備を治め、景文に甚だ頼られた。
- 黄州知府に遷り、賊の前鋒「一隻虎」を射殺し大纛を奪って還った。獄に重罪の囚七人がおり、帰省を許して期限を切って獄に戻らせたところ、みな約の通りに至ったので、上官に請うて罪を宥した。
- 十三年、下江防道副使に遷り蘄州に駐した。賊魁の賀一龍・藺養成らが蘄・黄の間に集まったが、文岐の備えは厳しかった。賊党の張雄飛が南に渡ろうとすると、遊擊の楊富に命じてその舟を焼かせ、賊は退いた。巡撫の宋一鶴がその功を上申した。副將の張一龍は兵を馭するのがうまく、文岐は重んじてかつて帳中にともに宿した。軍中で夜に呼び騒ぐ声がしたが、文岐は「奸人が夜に乗じて逃げようとしているだけだ」と言って堅く臥したまま出なかった。夜明けに叛兵百余人が門を奪って遁げ、一龍が追って捕らえことごとく斬り、一軍は粛然とした。楊富が久しく蘄を鎮めていたところへ一鶴が參將の毛顯文を遣り、二人は折り合わず兵民は騒然としたが、文岐は二將を会して杯酒で和解させ、患いはなくなった。
- 十五年、左良玉の潰兵が南下して大いに掠めたが、文岐は江口に馬を立てて迎え、兵は敢えて犯さなかった。警報は日ごとに急となり、人に固い志はなかった。折しも督糧參政に擢でられて赴任すべきところ、文岐は嘆じて「私は天子のために孤城を守って三年になる。分として封疆に死ぬべきだ。危急だからといってどうして棄てられよう」と言い、妻に母を奉じて帰らせ、富と顯文に檄して近郊に出屯させ、固守の計を立てた。
許文岐――賊中での謀と死
- まもなく荆王府の將校郝承宗がひそかに張獻忠に通じ、翌年、大挙して攻めてきた。文岐は礮を発して賊を甚だ多く斃した。夜半近く雪が一尺積もり、賊が西門を破って入った。文岐は巷戦したが雪はいよいよ激しく礮が発せられず、ついに捕らえられた。
- 獻忠はその名を聞いて殺さず、後営に繋いだ。そのとき舉人の奚鼎鉉ら数十人が同じく繋がれており、文岐はひそかに「賊の老営を見るに烏合の衆が多い。この数万の卒はみな掠われた良民だ。大義を告げて心を同じくし力を協せれば、賊は殲滅できる」と語った。そこで密かに結んで四月に事を起こすことを期し、柳の輪を合図とした。謀が洩れ、獻忠が捜すと果たして柳の輪が出た。文岐を縛って斬った。死に臨んで人に「私が死ななかったのは賊を滅ぼす志があったからだ。今、事は成らなかった。天だ」と言い、笑みを含んで死んだ。賊中に陥って七十余日であった。事が聞こえて太僕卿を贈られた。
- 賊は蘄州を陥とすとその民を屠った。郷官の陝西僉事李新は一家挙げて捕らえられ、賊が屈服させようとすると、「私はかつて秦中に官した。汝らはその頃、厮養にすぎなかった。今日どうして厮養に膝を屈しようか」と叱った。賊は怒り、新は父の屍のかたわらで刃を受けた。そのとき属吏で死節した者は、麻城教諭の定逺の人蕭頌聖と、蘄水訓導の施州の人童天申だけであった。
郭以重――黄州の陥落
- 郭以重は黄州の人。代々衛の指揮であった。崇禎十六年(1643年)、城が陥ちると他所から難に駆けつけた。妻が止めようとすると叱って「朝家がわが家に十三代の金紫を賜ったのだ。一死に代えられようか。私はまず汝を殺すぞ」と言い、妻は敢えて何も言わなかった。
- 到着して賊に遇い、脅して連れ去ろうとされたが堅く従わなかった。刃を抜いて脅すと、以重は巧みに賊に「汝に従うのは難しくない。ただ小児を抱いているのが私の妻だ。私のために殺してくれ。そうすれば累がなくなる」と言った。賊がその通りにすると、以重はただちに賊の刃を奪って一人の賊を斬った。賊が群がり来て、水に赴いて死んだ。
郭以重――岳璧・郭金城
- これより先、蘄州が破れたとき、指揮の岳璧は屋根から地に落ちたが死ななかった。賊が捕らえて城上に連れて行き降そうとすると、厲声で「私は世臣だ。城とともに亡ぶ。どうして賊に降ろうか」と言った。賊が刃を加え、地に倒れて息絶えようとするとき、目を怒らせて「私は死んで鬼となり、必ず汝らを滅ぼす」と言った。大雪の中、血は一丈余り流れ、目の眥は合わなかった。
- 同じころ郭金城は羅田の守将であった。賊が城に迫ると部下五百人を率いて戦い百余級を斬り、英山まで追ったが賊が大いに集まって三日囲まれ、突囲できずに捕らえられ、降を脅されて従わず、殺された。
崔文榮――武昌の防衛論
- 崔文榮は海寜衛の人、代々指揮僉事。武の會試に挙げられ南安守備を授かった。崇禎中、臨藍の盗が起こって桂陽に迫り、桂王が急を告げると、文榮は部下を督して合同で𠞰し、賊四万人を退けた。功により武昌參將に擢でられた。
- 十六年(1643年)四月、張獻忠が漢陽を犯すと、文榮は江を渡って襲い六百級を斬った。まもなく城が陥ちて武昌は震え懼れた。巡撫の宋一鶴はすでに承天で死に、新任の巡撫王聚奎はまだ至らず、武昌は平素重兵を置いておらず城は空虚であった。江上の兵を撤して城を守るべしという議が出たが、文榮は「城を守るのは江を守るに如かず。團風・煤炭・鴨蛋の諸州は浅くて馬の腹にも届かぬ。そこを渡らせておいて孤城に坐して守るのは策ではない」と言ったが、当事者は従わなかった。
- 賊は果たして團風から江を渡り、武昌縣を陥とした。県には人がおらず、賊は樊口に営を出した。文榮は洪山寺に軍してこれを扼したが、兵を収めて城に入り、他の将に代わって守らせた。賊は全軍が鴨蛋洲からことごとく渡って洪山に至り、守将もまた退いて城に入った。
崔文榮――武昌の陥落と朱士鼎
- 文榮は武勝門が賊の衝に当たるとして、故相の賀逢聖とともに協力して守り、賊は攻めても落とせなかった。監軍參政の王楊基はすでに右僉都御史に擢でられ承天・德安の二郡を巡撫すべきところ、まだ命を聞かず武昌に駐していたが、勢いが急なのを見て推官の傅上瑞と、漢陽に用事があると偽って門を開いて遁げ去り、人心はいよいよ騒然となった。
- これより先、楚王が資を出して兵を募ったが、応募したのはおおむね蘄・黄の潰卒および賊の間諜であった。ここに至って文昌・保安の二門を開いて賊を入れた。文榮はちょうど出て闘っており、還って城の扉を閉めようとしたが間に合わず、馬を躍らせて大呼し三人を殺した。賊が槊を集めて刺し、胸を貫かれて死んだ。
- 朱士鼎という者は武進士から起家して巡江都司となった。城が陥ちて捕らえられ、賊はその勇敢を嘉して大いに用いようとしたが、手を戟のように構えて大いに罵った。賊が右手を断つと、左手に血を染めて賊に灑いだ。賊がまたこれを断ったが死ななかった。賊が退くと人に筆を腕に縛らせ、楷書を書くことができ、旧卒を招き集めて常の通り訓練した。
徐學顔――孝行と直訴
- 徐學顔は字を君復といい、永康の人。母が病んだとき天に祈って身をもって代わることを請い、夜に神人が薬を授ける夢を見た。朝にその形と色を記して広く探し求め、荆瀝を得て病は癒えた。
- 父が中城兵馬指揮となって権要の人に忤らい吏に下されると、學顔は三度上疏して冤を訴えたが、所司は握りつぶして上げなかった。あまねく公卿を叩いたが誰も雪がず、重罰に処されようとしたので、學顔は号泣して刑部で争ったが得られず、腕を噛んで血を庭に濺いで、ようやく釈放を得て帰った。住んでいた大邸宅を弟に譲り、義を尚び財を軽んじたので族党は徳とした。
- 崇禎三年、東宮を建てるにあたり、孝友・廉潔・博物洽聞で俗を励まし風を維持できる者を挙げよと詔があり、有司は學顔を応じさせたが、沙汰やみとなり行われなかった。
徐學顔――江夏の陥落
- 十二年、恩貢生として楚府左長史を授かり、義を引いて匡輔し、王に甚だ敬われた。
- 十五年冬、諸司の長官および武昌知府・江夏知縣がみな朝覲に出たので、學顔が江夏の事を摂り、守りの備えを繕い整えた。楚府が新たに募った兵も學顔に将いさせた。
- 翌年五月の晦、新軍が内から叛いて城が陥ちた。學顔は格闘して左腕を断たれ、大いに罵って屈せず、賊に手足を裂かれ、一家二十余人が殉じた。
- 通判の固安の人李毓英も一家挙げて自ら縊れた。武昌知縣の鄒逢吉が殺され、ともに死んだ者に武昌衛經厯の汪文熙、廵檢の戴良瑄および僧官一人があり、みな賊を罵って屈せず腰斬された。
- 賊は武昌を陥とすと兵を分けて属邑を陥とし、嘉魚知縣の霍山の人王良鑑、蒲圻知縣の臨川の人曽栻がともに節に抗して死んだ。事が聞こえ、學顔に僉事を贈り、毓英らにも差をつけて贈卹した。
馮雲路――寜湖に死す
- 馮雲路は字を漸卿といい、黄岡の人。学を好み行いを励み、三十歳で諸生を棄てて賀逢聖に従って講学し、武昌に寓居して数百巻を著した。崇禎三年、巡按御史の林鳴球がその賢を薦めて著書も併せて上ったが、用いられなかった。
- 賊が江を渡ろうとするとき、雲路は逢聖に書を贈って「内にあっては寜湖を止水とし、外にあっては漢江を汨羅とする」と言った。寜湖は雲路が経を談じた所である。城が陥ちると桴に乗って寜湖に入った。賊が使いを遣って招くと、遥かに応えて「私は生涯ただ忠孝の書を読んだ。降賊の書を読んだことはない」と言い、湖に投じて死んだ。従学の諸生汪延陛もここで死んだ。
馮雲路――熊□・明睿・易道暹・傅可知
- 同邑の熊□(底本欠字)は字を渭公といい、やはり武昌に移り住んだ。邵子の皇極書を喜び、未来の事をよく語った。十六年の元旦、著した『性理格言』『圖書懸象』『大易參』などの書をことごとく末の弟に託し、「よく蔵せ」と言った。城が破れる前日、雲路に書を贈って「明日、某の樹の下に私を探せ」と言った。その日、樹のかたわらを歩いていて賊が追い来ると、荷池に躍り入って死んだ。
- 明睿という諸生は江夏の人。城が破れたとき賊はひとりその門に入らなかった。睿は慨然として「父母の邦が覆ったのに、どうして偸生苟活できよう」と言い、家人に「速やかに私に従って井に入れ。さもなくば速やかに去れ」と告げた。そこで妻と二子二女ならびに婢たちが順に井に投じた。睿は笑って「私は今、曠然として累がなくなった」と言い、従容として門に書きつけて井に赴いて死んだ。時の人は「明井」と号した。
- これより先、賊が黄岡を陥としたとき、諸生の易道暹は字を曦侯といい、学を好み気節を尚び、深山の中に住んで書を家に満たしていた。賊の気配が次第に迫っても、蓄えた書を惜しみ、また自著が多いのを棄てるに忍びず、ためらって行かなかった。賊が至ると、子の為瑚は急ぎ母を奉じて青峰巖に走り、道暹は幼子の為璉を連れ書を担いで行った。賊に遇って「私は書賈だ」と偽ると、賊は笑って「お前は易曦侯だろう。どうして偽る」と言った。道暹は「私と知っているなら、私の一言を聴け。ゆめゆめ人を殺し廬舎を焼くな」と言った。賊が「お前は身も保てぬのに他人のために言うのか」と言うと、道暹は色を厲しくして賊を叱り、賊は怒って殺した。為璉が身代わりを請うと、賊は併せて殺した。まもなく為瑚も殺された。
- このとき黄陂の諸生傅可知もまた賊を叱って死んだ。可知は幼くして父を喪い、柩の下に臥すこと三年、六十で母を喪って粥を啜ること三年であった。黄陂が陥ちて捕らえられたとき、可知はすでに八十を過ぎており、賊はその老いを憫れんで殺さず、馬を飼わせようとした。「私は士たること数十年、賊に使役されようか」と叱り、頸を延べて刃に就き、賊は殺した。
蔡道憲――長沙推官としての治績
- 蔡道憲は字を元白といい、晉江の人。崇禎十年(1637年)の進士。長沙推官となった。土地に盗が多かったので、盗に通じる豪民を調べ上げ、その罪を握ったうえで使った。盗がまさに富家を劫して財を分けようとしたとき、受け取る者はすでに捕らえられており、富家を召して失った物を返させたので、みな驚いてその出所を知らなかった。悪少年が戸を閉ざして盗を謀り、戸を開けると捕卒がすでにその門に坐しており、驚いて逃げ去った。
- 吉王府の宗人が恣に不正を働いたとき、道憲はまず治めてから王に告げた。王が召して責めると、抗声して「今、四海は鼎沸し寇盗は日々増えております。王が民を愛されねば、ひとたび窮して険に走ったとき、この輩とだけで富貴を保てましょうか」と言った。王は悟り、謝して帰らせた。
蔡道憲――岳州をめぐる議
- 十六年(1643年)五月、張獻忠が武昌を陥とし、長沙は大いに震えた。承天巡撫の王楊基が部下千人を率いて岳州から長沙に奔ったので、道憲は岳州に還り駐するよう請い、「岳と長沙は唇歯です。力を併せて岳を守れば長沙は保て、衡・永も憂いがありません」と言った。揚基が「岳は私の管ではない」と言うと、道憲は「北を棄てて南を守っても、なお楚の地であることに変わりはありません。もし南北ともに棄てれば、属する地はどこにあるのですか」と言い、掦基は言葉に詰まって岳州に赴いた。しかし賊が蒲圻に入るとすぐ遁げ去った。
- 湖廣巡撫の王聚奎は遠く袁州に駐し、賊を憚って進もうとしなかった。道憲がやはり岳に移るよう請うと、聚奎はやむなく岳に至ったが、数日で長沙に移った。道憲は「賊は岳から遠い。城を繕って守るべきです。賊が岳を犯そうにも長沙の援を憚りましょう。岳を棄てれば長沙だけが全うできましょうか」と言ったが、聚奎は従わなかった。賊は果たして八月に岳州を陥とし、まっすぐ長沙を犯した。
- これより先、巡按御史の劉熙祚が道憲に兵を募らせ、壮丁五千を得て訓練し、みな用に堪えた。ここに至って自ら率い、総兵官の尹先民らと羅塘河を扼した。聚奎は賊が迫ったと聞いて大いに懼れ、兵を撤して城に還した。道憲は「長沙を去ること六十里に険があります。柵を設けて守り、賊にここを越えさせぬようにすべきです」と言ったが、また従わなかった。
蔡道憲――長沙に殉ず
- そのとき知府の堵允錫は入覲してまだ帰らず、通判の周二南は攸縣の事を摂しており、城中に文武はほとんどいなかった。賊が城に迫ると士民はことごとく逃げ散り、聚奎は出戦すると偽って、にわかに部下を率いて遁げた。道憲は独り拒み守った。賊は城を巡って「軍中では久しく蔡推官の名を知っている。速やかに降れ。自ら苦しむな」と呼びかけたが、道憲は守卒に命じて射殺させた。三日後、先民が出戦して敗れて還り、賊が門を奪って入り、先民は降った。
- 道憲は捕らえられ、賊が官を餌にすると歯を噛みしめて大いに罵った。縄を解いて上座に延いても罵ることは変わらなかった。賊が「降らねば百姓をみな殺すぞ」と言うと、道憲は大いに哭して「願わくは速やかに私を殺せ。わが民を害するな」と言った。賊はついに志を奪えぬと知って磔にした。その心臓の血はまっすぐ賊の面に濺いだ。
- 健卒の林國俊ら九人は付き従って去らなかった。賊がこれにも道憲に降を説かせようとすると、國俊は「わが主が死を畏れて去るような人なら、今日ここには至っていない」と言った。賊が「主が降らねば汝らも生かさぬ」と言うと、「我らも死を畏れて去るような者なら、今日ここには至っていない」と答え、賊は併せて殺した。四人の卒が奮然として「主の屍を埋めてから死にたい」と言い、賊が許すと、衣を解いて道憲の骸を包み、南郊の醴陵陂に埋め、そのうえで自ら刎ねた。
- 道憲の死んだとき年二十九。太僕少卿を贈られ、忠烈と諡された。
蔡道憲――周二南ら
- 二南は字を汝為といい、雲南の人。選貢から長沙通判となり、職務に尽くし道憲と深く相許した。岳州知府に擢でられたが士民が固く留めたので、新しい秩のまま長沙に還って賊を防ぎ、陣没した。
- 邑の舉人馮一第は湘鄉に走って他所に兵を乞おうとしたが、賊がその母と兄を繋いで招いたので、一第は帰って縛に就いた。賊が斬ろうとすると、一人の老僧が地に伏して哭し赦しを請うたので、賊はその両手を落として営中に置き、一夜で死んだ。母と兄は免れた。
- 賊が東安を陥とすと舉人の唐德明は薬を仰いで死に、耒陽を犯すと諸生の謝如珂は拒み戦って死んだ。
張鵬翼――衡陽知縣
- 張鵬翼は西充の人。崇禎中、選貢生から衡陽知縣を授かった。十六年(1643年)八月、張獻忠が衡州に迫ると、巡撫の王聚奎・李乾德および監司以下はみな遁げ、士民もことごとく逃げ散った。鵬翼は独り空城を守り、賊が至るとすぐ陥ちた。降を脅されると髯を戟のように立てて罵り、賊は縛って江に投じ、妻子も水に赴いて死んだ。
張鵬翼――湖南諸縣の死節者
- 賊が岳州に趨いたとき、巴陵教諭の桂陽の人歐陽顯宇はそのとき縣事を摂しており、ここで死んだ。臨湘に趨いたときは、知縣の莆田の人林不息が抗し罵って屈せず、両手を断たれて殺された。湘陰が陥ちて知縣の大埔の人楊開は家属十七人を率いて水に投じて死んだ。その丞の頼萬耀は醴陵縣の事を摂しており、城が破れてやはり死んだ。長沙府照磨の宜興の人莫可及は寜鄉縣の事を摂して城に殉じ、二子の若鼎・若鈺は号泣して駆けつけ、殺された。
- 衡州が陥ちて属縣の衡山も失われ、知縣の富順の人董我前、教諭の分宜の人彭允中がみな節を尽くした。府教授の永明の人蔣道亨は武陵縣の事を摂し、印を抱いて賊を罵り、殺された。その他の文武の将吏は、降らねば逃げた。
張鵬翼――史可鏡と李乾德
- 長沙の史可鏡は給事中に官していたが、丁艱で帰郷して賊に降り、賊は湖廣巡撫に用いた。賊が湖廣を棄てて四川に入ると、李乾德が長沙に還り、可鏡を捕らえて拷問のうえ械送し、南都で法に伏させた。
- 乾德も鵬翼と同邑の人。崇禎四年(1631年)の進士。十六年に右僉都御史を歴て鄖陽を撫治すべきところ赴かず、湖南に改められた。そのとき武昌はすでに陥ちており、乾德は岳州を守ったが獻忠の攻めが急で、城を棄てて長沙に走り、岳州は陥ちた。衡・永へと転じ、賊が至るたびに先に避け、長沙・衡・永はみな相次いで陥ちた。獻忠が四川に入ってから長沙に還り、失地の咎で督師王應熊の軍前に赴いて自ら効すことを命じられた。永明王が立つと兵部侍郎に擢でられ川南を巡撫した。
- 乾徳が蜀に入ったとき、その郷邑はすでに陥ち、父も難に遭っていた。そこで諸將の袁韜に説いて佛圖關を攻め重慶を復させた。韜と武大定が久しく重慶に駐して食が尽きると、乾德は嘉定の守将楊展に説いて大定と兄弟の契りを結ばせ、食を資けさせた。のち展を憎み、韜をそそのかして殺させ、嘉定を拠ったので、蜀の人はみな乾德を正しいとしなかった。折しも劉文秀が雲南から至って韜を擒にし嘉定を陥とすと、乾德は家人およびその弟の御史史升德を駆り立てて、ともに水に赴いて死んだ。
劉熙祚――興寜知縣と湖南巡按
- 劉熙祚は字を仲緝といい、武進の人。父の純仁は泉州推官。熙祚は天啓四年(1624年)の郷試に挙げられ、崇禎中に興寜知縣となった。奸民が㫁腸草を食わせると称して人の財物を脅し取っていたので、熙祚は罪を贖う者に必ずこの草を出させることとし、これによって死ぬ者があっても問わないこととした。草は次第に減り、弊も止んだ。考課が最となり、徴されて御史を授かった。
- 十五年冬、湖南を巡按した。李自成が荆・襄の諸郡を陥とし、張獻忠がまた蘄・黄を破って臨江から渡ろうとすると、熙祚は翌年二月に岳州に至り、諸將に檄して江のほとりを分け守らせ、偏沅・鄖陽の二巡撫と形勢を連絡させた。折しも賊の馬守應が澧州に拠って常德をうかがい、土冦の甘明揚らがこれを助けたので、熙祚は常德に馳せて明掦を撃ち斬った。五月に長沙に還った。
劉熙祚――三王を護って永州に死す
- 武昌・岳州が相次いで陥ちると、急ぎ総兵の尹先民、副將の何一德に一万人を督して羅塘河を守り要害を扼させたが、巡撫の王聚奎は守りを撤して長沙に還り、賊はそのまま長駆して至った。聚奎は潰将の孔全彬・黄朝宣・張先璧らを率いて湘潭に走り、長沙は守れなかった。
- 恵王が地を避けて長沙に至り、吉王と謀って出奔しようとしたので、熙祚は奉じて衡州に奔った。衡州は桂王の封地である。聚奎の兵が至って大いに焼き劫し、桂王および吉・恵の二王はみな舟に登って乱を避けた。熙祚は単騎で永州に赴いて城守の備えを講じた。まもなく聚奎はまた祁陽に走り、衡州はついに陥ちた。永州の士民はこれを聞いて城を空にして逃げた。三王が永州に至り、聚奎も続いて至り、翌日には全彬らも至って庫の金を劫して去った。
- 熙祚は部将を遣って三王を護って廣西へ走らせ、自らは永州に返って拒み守った。賊の騎兵が追ってきてこれを捕らえた。獻忠は桂王の宮に踞して跪くよう叱ったが屈しなかった。賊が群がって殴り、殿の階から端禮門まで曳きずり、膚はことごとく裂けた。降将の尹先民に説かせても終に変わらず、殺された。事が聞こえて太常少卿を贈り、忠毅と諡された。
劉熙祚――弟の永祚と緜祚
- 弟の永祚は字を叔遠といい、選貢生から屢遷して興化同知となり、賊の曽旺を擒にし、のち副使として興化府の事を知った。
- 大清の兵が城に入ると、薬を仰いで死んだ。
- 弟の緜祚は字を季延といい、崇禎四年(1631年)の進士。吉安永豐知縣となった。隣境の九蓮山は閩と粤の境にあり、賊がその中に巣くっていた。緜祚が合同で𠞰することを請うと、賊は怒って衆を率いて攻めたが、緜祚は出撃して三たび戦い三たび勝った。賊がさらに大挙して至ると、黄牛峒に伏兵して大破した。積労で病を得、休暇を請うて帰り、卒した。兄弟三人はともに王事に死んだ。
- 王聚奎は永州を失った後、賊が退いた隙をうかがってひそかに武昌に還ったが、後任の何騰蛟に弾劾された。しかし縁故を頼って免れた。
王孫蘭――韶州に殉ず
- 王孫蘭は字を畹仲といい、無錫の人。崇禎四年(1631年)の進士。累遷して成都知府となった。蜀の宗人が民を虐げ、民が集まって内江王の邸を焼こうとしたが、孫蘭が撫諭して収まった。父の憂に服し、喪が明けて紹興で起官し、荒政を修めた。廣東副使に遷り、南雄・韶州の二府を分巡した。連州の猺賊が乱をなすと馳せて𠞰し、三たび戦ってみな勝った。
- 十六年(1643年)、張獻忠が湖南を大いに乱した。湖南の彬州・宜章は韶と境を接する。孫蘭は督府に援を乞うたが応じられず、最後に七百人が至ったが一泊して調発され去った。賊が衡州を陥として屠戮を恣にすると、韶の管する樂昌・乳源・仁化は逃げ散って空となり、連州の守将が先に賊に拠って叛いた。韶の士民はこれを聞いて城を空にして逃げ、賊の設けた偽官が檄を伝えて到着しようとした。
- 孫蘭は天を仰いで嘆じ、「封疆を失えば死ぬべきだ。賊が城を陥とせばまた死ぬべきだ。私はいっそ先に死のう」と言い、ついに自ら縊れた。死んだ後、賊はついに至らなかった。朝廷はその忠を憫れんで贈䘏を与えた。
程良籌――出仕前の除名
- 程良籌は字を持卿といい、孝感の人。工部尚書註の子である。天啓五年(1625年)の進士。そのとき註は太常少卿で魏忠賢に附かなかったので、御史の王士英が趙南星・李三才の私党であると弾劾し、忠賢は詔を矯めて良籌までも除名し、永く叙録しないこととした。まだ出仕もしないうちに除名されたのは、これまでにないことであった。
- 崇禎元年に起官し、文選員外郎を歴任して選事を掌った。麻城の李長庚が尚書で、同郷のゆえに甚だ頼りにした。正郎の職が久しく欠けたまま推補されず、同列の多くが忌み、朝論もこれを少なしとした。長庚が推挙を誤って削籍されると、良籌も吏に下されて遣戍となり、久しくして釈されて帰った。
程良籌――白雲山の抵抗
- 十六年(1643年)、李自成が承天を犯し孝感も陥ちた。良籌は白雲山が険峻なので、同邑の㕘政夏時亨とともに塁を築き人を聚めて守った。賊が使いを遣って降を説くと、良籌はその書を破り捨てた。賊は怒って長囲を設けて攻め、四十余日相持して解き去った。
- そのころ漢陽・武昌も張獻忠に陥とされ、四面みな賊で、独り白雲だけがその間に孤立していたので、賊はこれをかなり患いとした。のち武昌が官軍に復されると、良籌は遠近の諸寨に号令して掎角して兵を進め、その冬ついに孝感・雲夢を復した。十二月、進んで德安に迫ったが、兵敗れて白蓮寨に退いて保った。寨の中の者が平素賊に通じていて内応となり、良籌は捕らえられ、降を説かれて屈せず、密室に繋がれた。翌年正月、左良玉が将を遣って德安を攻めると、賊は懼れて良籌を擁して外の兵を止めさせようとしたが従わなかった。賊が城を棄てて去るとき、良籌に同行を逼ったがまた従わず、ついに殺された。太常少卿を贈られた。
- 程道夀は良籌と同郷の人。かつて來安知縣となった。賊が孝感を陥として掌旅を置いて守らせると、道夀は里中の壮士を結んで掌旅を撃ち殺した。賊がまた至って杖ち獄に繋ぎ、良籌を招く書を書かせようとしたが、道夀は「私は白雲を助けて汝を滅ぼすこともできぬのに、どうして汝を助けようか」と言い、殺された。
黄世清――商州の死守
- 黄世清は字を澄海といい、滕縣の人。父の中色は吏部員外郎。世清は崇禎七年(1634年)の進士に登り、戸部主事に除せられて滸墅關を榷し、清操があった。員外郎を歴て屢遷し、右參議として商雒を分け守り、商州城に駐した。城はしばしば兵に遭って四野は蕭然とし、民はみな城中に入って保っていたが、通過する客兵が淫掠し、民は賊よりも兵に苦しんだ。世清は兵が城内に立ち入るのを禁じた。まもなく關中の兵がその地を経て、二人の卒が門を叩いたので笞って晒し、督撫は兵を発するとき「黄參議の令を犯すな」と誡めた。
- 李自成が荆・襄を躙って遠近が震動した。世清は一人の子がまだ幼かったので友人に託して養わせ、身を殉じることを誓った。
- 十六年(1643年)十月、自成が孫傅庭の軍を敗って長駆して關に入り、右営十万人を遣って南陽から商州を犯した。世清は城に凭って守った。奸民が賊に投じて城下に来て降を説くと、世清は偽って語らいながら礮を発して殺し、その首を城上に懸けて「二心を懐く者はこれを見よ」と言った。士民はみな死力を効した。礮も矢も尽きると石を継ぎ、石が尽きると婦人が街の敷石を掘って継いだ。
- 城が陥ちると世清は堂上に坐し、その僕の朱化鳯に去るよう指図したが、化鳯は共に死ぬことを願った。賊が世清を引き下ろすと、化鳯は「奴才、無礼をするな」と叱り、賊がその頬を打ったが、化鳯の声色はいよいよ厲しかった。賊帥袁宗第の営に連行され、世清は突っ立ったまま、賊が屈服させようとすると、化鳯が「わが主は堂々たる憲司だ。賊を拝むものか」と言ったので、賊はまず化鳯を殺した。世清に防禦の札を授けたが罵って受けず、一家十三人とともに殺された。光祿卿を贈られた。
楊暄――渭南知縣
- 楊暄は高平の人。崇禎十三年(1640年)の進士。渭南知縣を授かった。大凶作の年に力を尽くして救い、民はやや安んじた。
- 十六年(1643年)冬、李自成が潼關に入ると、兵備簽事の楊王休は降り、教授の許嗣復は上南門を分け守り、城が破れると棒を持って闘い賊を罵って死に、妻と娘は掠われてみな自殺した。
- 賊はそのまま渭南に至った。暄はすでに兵部主事に擢でられていたがまだ赴任せず、訓導の蔡其城とともに守った。折しも舉人の王命誥が門を開いて賊を迎え、暄は縛られ、印を求められて与えず、罵って死んだ。其城もここで死んだ。
楊暄――朱一統・朱迥滼
- 賊はついに西安を陥とし、咸陽知縣の趙躋昌が殺され、属邑は風を望んで降った。蒲城知縣の朱一統だけは拒み守ることを謀り、「わが家は七世の衣冠だ。どうして賊に臣たり得よう」と言った。ある者が「他の州縣の甲榜出身の者はみな降っている」と言うと、一統は「この事に資格を論じてどうする」と言った。体が肥っていたので、家人に井の口を広げさせて待った。折しも衙の兵が叛いて印を奪い、降を迎えるよう促すと、一統は目を怒らせて「私が一日も死なぬうちは印は渡さぬ」と叱った。日暮れて左右がみな散ると、従容として井に赴いて死んだ。縣丞の沁源の人姚啓崇もここで死んだ。一統は平定の人、乙榜から起家した。
- 朱迥滼という者は瀋府の宗室で、宗貢生から白水知縣となり、吏事に明るく習熟して下の者は欺けなかった。賊がひそかに城に入ったときもなお手ずから弓で賊を射、學官の魏嵗史・劉進とともに難に遭った。
唐時明――鳳翔知府
- 唐時明は字を爾極といい、固始の人。郷試に挙げられ、崇禎中に長垣教諭となった。子路の墓の祀田が豪家に奪われていたのを元に復した。國子學正から屢遷して鳳翔知府となった。
- 十六年(1643年)十月、李自成が潼關に入ったと聞いて急ぎ戦守の備えを整えたが、まもなく潰兵が大いに掠め、西の人に固い志はなかった。自成が西安に拠って兵を分けて来襲すると、典史の董尚質が門を開いて賊を迎え、時明は捕らえられた。偽相の牛金星が「わが主は賢を求めること渇するがごとし。君が西京に至れば次を越えて抜擢しよう」と言うと、時明は「私は天朝の命吏だ。賊に臣たり得ようか」と叱った。金星が尚質に降を説かせると、厲声で責めた。賊は縛って西安へ送らせたが、時明は妻子を友人に託し、興平まで来たところで隙をうかがって自ら縊れた。
唐時明――薛應玢・唐夢鯤
- 鳳翔が陥ちて属城は叛いて降った。隴州同知の武進の人薛應玢はそのとき州の事を摂して兵を勒して城を守り、城が陥ちて賊を罵って死んだ。
- 寳鷄知縣の唐夢鯤は番禺の舉人。仙居・天台・富川・分水の四縣を歴知し、富川では猺を撫した功があった。累に坐して池州經歴に謫され貴池縣の事を摂した。左良玉が兵を擁して下ったとき、郷民が城内に逃げ入るのを守る者が拒んだが、夢鯤はことごとく入れさせた。寳雞に改められたとき賊はすでに潼關を過ぎており、星のごとく馳せて任に至った。賊が県に迫り、守れぬと知って自ら縊れて死んだ。
段復興――慶陽の陥落
- 段復興は字を仲方といい、陽穀の人。崇禎七年(1634年)の進士。右㕘議を歴て慶陽を分け守った。
- 十六年(1643年)十月、李自成が西安に拠って檄を伝えて降を諭すと、復興はその檄を裂き、衆を集めて守った。一月を越えて賊が城に迫り幾重にも囲んだ。礮石を発して賊を殺し濠を満たしたが、久しくして支えきれなくなった。母に拝辞し、妻妾子女をその上(樓の上)に集めて薪を積み、また城に登って戦いを督した。城が陥ちると走り帰ってその樓に火を放ち、母も火に赴いて死んだ。そこで鉄鞭を持って北門に走り、数賊を撃ち殺してみずから刎ねた。士民は西河坪に葬り、祠を立てて祀った。
段復興――靳聖居・袁繼登・董琬・朱新鍱
- 同時に死難した者は、慶陽推官の靳聖居、安化知縣の袁繼登である。
- 聖居は字を淑孔といい、長垣の人。崇禎元年(1628年)の進士。濟源・萊陽の二縣を歴知し、幾度も謫されてはまた起され、慶陽に臨んだ。そのときすでに刑部主事を授かっていたがまだ赴かず、賊に遭って復興を佐けて死守し、城が破れて捕らえられ、罵ってやまず死んだ。
- 繼登は南畿の人。選貢から起家し、着任して一年も経たぬうちに変に遭い、賊を見て速やかな死を求め、賊は殺した。
- 寜州が陥ちたときは知州の董琬が死んだ。宗室の朱新鍱は貢生から中部知縣を授かっていたが、自成が人に檄を持たせて降を招くと、新鍱はこれを砕き、「城は小さく兵もない。いたずらに士民に禍を受けさせるだけだ。ただ自ら靖んずるのみ」と嘆じ、妻妾子女をことごとく縊れさせ、自らも縊れて死んだ。
簡仁瑞――平涼知府
- 簡仁瑞は字を季麟といい、榮縣の人。舉人から西安同知を歴任し、平涼知府に遷った。
- 十六年(1643年)冬、賊が關に入ると、諸王および監司以下の官は遁走を謀った。仁瑞は韓王に謁して「長安には重兵があります。訛言は信ずるに足りません。殿下が軽々しく三百年の宗社を棄ててどこへ行かれるのですか。たとえ賊が境に迫っても、延・寜・甘・涼の諸軍が援けるに足ります。どうしても支えきれぬなら、ともに社稷に死ぬのもまた二祖列宗を辱めることにはなりません」と言った。王は従わなかった。その夕、護衛の卒が騒ぎ立てて王および諸郡王・宗室を挟み、関門を斬り開いて出奔し、仁瑞にも同行を強いた。仁瑞は「私は平涼の守だ。私が去れば誰が守る」と言い、衆は去った。
- 仁瑞は四関の居民を撤して城に入れ、土石で門を塞いで死守の計を立てた。まもなく賊の檄が至ると、かつて命を助けた死罪の囚数人を召して「私はかつて汝らを生かした。汝らも私に報いる気があるか」と言うと、みな「仰せのままに」と答えた。そこで幼子を託して護って出させた。翌日、賊が城下に至り、士民数人が降書を草して署名と押印を乞うたので、仁瑞は怒って叱り責め、衣冠を正して堂上でみずから縊れた。
- 平涼が陥ちて属城はことごとく降った。華亭教諭の鄒姓の者が、曽子が武城に居たときの義を援いて避け去ろうとしたが、訓導の何相劉がこれを止めて「我らは質を委ねて臣となった者だ。どうして賓師をもって自ら待遇できよう」と言い、諸生を率いてともに守り、城が陥ちて教諭とともに殉難した。
司五教――城固知縣
- 司五教は字を敬先といい、内黄の人。学に篤く志行があった。崇禎のとき歳貢から内邱訓導となり、十一年に邑が兵に遭ったとき長吏を佐けて拒み守って功があり、城固知縣に遷った。山寇を𠞰して滅ぼした。
- 十六年(1643年)冬、賊が關中に拠って郡縣は風靡したが、五教は士民を激励して固守した。ある諸生が内応を謀ったので捕らえて斬り、その首を城上に竿にかけた。まもなく偽帥の田見秀が兵を擁して至り、五教は戦いつつ守ったが、賊が全兵を挙げて攻め、四日にして城が陥ちた。捕らえられると厲声で賊を罵った。賊がその冠と帯を取り去ると、そのたびに自分で取って被り直し、罵りはいよいよ厲しく、ついに磔にされた。
司五教――張鳯翮
- 郷官の張鳯翮は字を健冲といい、天啟五年(1625年)の進士。崇禎中に御史となり、四川巡撫王維章の貪劣を極論し、あわせて給事中の章正宸を召し還すよう請うたが容れられなかった。雲南を按じて朝に還ると、「陛下は議によって輸を均しくし、さらに一年徴されましたが、民力はすでに尽きております。賊を討つ諸臣は怠慢で、いたずらに数百万の金錢を費やすばかりです」と言った。帝はその言を納れ、兵部に敕して飛騎で熊文燦に進兵を勒したが、張獻忠はすでに叛いていた。十五年、浙江右參政に遷ったが未任のまま罷められた。賊が城を陥として仕えるよう脅したが、屈せず死んだ。
都任――剛厳の吏歴
- 都任は字を𢎞若といい、祥符の人。萬厯四十一年(1613年)の進士。南京兵部主事を授かり郎中に進み、屢遷して四川右參政。天啟五年の大計で江西僉事に左遷され、また屢遷して陝西左布政使。崇禎五年にまた山東右參政に謫され、山西按察使に再遷した。
- 性は剛厳で物に忤らうことが多く、幾度も謫され徙されても終に変わらなかった。朔日に同僚が晋王に朝したとき、任は會典を根拠に争って赴かなかった。巡按御史の張孫振が提學僉事の袁繼咸を誣告して弾劾したとき、任は幾度も繼咸を慰問し、その旅立ちに餞を贈った。孫振は怒り、また大計にかこつけて秩を貶めさせ帰らせた。のちまた起されて右布政使兼副使を歴任し、榆林の兵備を飭えた。
都任――榆林の陥落
- 十六年(1643年)九月、巡撫の崔源之が罷めて去り、代わりの張鳳翼はまだ至らず、総兵官の王定は孫𫝊庭に従って關を出て大敗して奔り還り、遠近が震え恐れた。李自成はついに西安に拠り、その將の李過に精卒数万を率いて三邊を徇わせ、延安・綏德が相次いで陥ちた。定は懼れて河套の寇を討つと偽って部下を率いて遁げ去り、榆林はいよいよ空虚となった。
- 任は急ぎ軍民を集め、慷慨して涙を流して大義を諭し、督餉員外郎の王家錄、副將の恵顯らと城守を議した。城中には廃将が多かったので、任は尤世威が兵を知るとして主帥に推し、諸將の王世欽ら数十人を率いて死守を誓った。賊が使者を遣って降を招くと、任は斬って晒した。賊の大衆が群がり至り、十一月の望に城が囲まれ、二十七日に城が陥ちた。任はなお巷戦したが力尽きて捕らえられ、降そうとされたが大いに罵って屈せず、ついに殺された。世威らもみな死んだ。詳しくは世威の𫝊の中に見える。
- 家錄は黄岡の人、郷試に挙げられた。そのときすでに關南兵備僉事に擢でられていたがまだ赴かず、任と協力して守った。囲みが急となり男子はみな城に登ったので、家錄は婦人に水を運ばせて城に灌がせ、氷は厚さ数寸となって賊は攻められなかった。城が陥ちると家錄は自ら剄して死んだ。
都任――榆林で同時に死んだ者
- 一時にともに死んだ者は、里居の戸部主事張雲鶚、知州の彭卿・栁芳、湖廣監紀の趙彬で、みな屈せず死んだ。
- 指揮の崔重觀は自ら焼け死に、𫝊佑は妻の杜氏とともに自ら縊れて死に、中軍の劉光祐は賊を罵って死に、材官の李耀はよく射たが矢が尽きて自ら刎ねて死に、同営の李光裕は家人を促して死なせ自らも刎ねて死に、張天叙は蓄えを焼いて自ら縊れて死んだ。指揮の王廷政は弟の千戸廷用・百戸廷弼とともに力を奮って賊を殺し、ともに死んだ。千戸の賀世魁は妻の栁氏とともに自ら縊れて死に、參將の馬鳴節は妻子を室に集めて自ら焼け死んだ。
- 里居で戦死した者は、山海副總兵の楊明、定邊副總兵の張發、孤山副總兵の王永祚、西安參將の李應孝。
- 在官で死事した者は、遊擊の傅德・潘國臣・李國竒・晏維新・陳二典・劉芳馨・文侯國、都司の郭遇吉、中軍の楊正韡・栁永年・馬應舉、旗鼓の文經國、守備の尤勉・恵漸・賀大雷・楊以偉、指揮の李文焜・文燦。
- さらに副將の常懐・李登龍、遊擊の孫貴・尤養鯤、守備の白慎衡・李宗叙も、郷土を守って難に遭った。
- 諸生では陳義昌・沈濬・沈演・白拱極・白含章が賊を罵って死に、張連元・連捷・李可柱・胡一奎・李應祥が自ら縊れて死んだ。
- 一城の中で義に死んだ婦女は数千人、井の中は屍で満ちた。賊はついにその城を屠った。
- 榆林は天下の雄鎮で、兵は最も精しく将材も最も多い。しかしその地は最も瘠せ、餉もまた最も乏しく、士は常に腹いっぱい食えなかった。それでも義を慕って忠に殉じ、志は少しも挫けず、一人として賊庭に身を屈した者がなかった。その忠烈もまた天下第一である。事が聞こえて天子は嗟き悼み、大いに褒䘏を行おうとしたが、国が亡んで果たさなかった。
祝萬齡――書院と講学
- 祝萬齡は咸寜の人。父の世喬は至行があり、その父が遠く遊んで帰らないので、十五歳で単身訪ね求め、死にかけながら数千里を歴てついに探し当てた。のち選貢から南康通判となり、清慎で知られた。
- 萬齡は郷人の馮從吾に師事し、萬厯四十四年(1616年)の進士に挙げられ、保定知府に累官した。天啟六年、魏忠賢が天下の書院をことごとく毀つと、萬齡は憤り、逆党の李魯生はそこで萬齡が訛言を唱えたと弾劾した。訛言というのは、天変・地震・物怪・人妖はみな書院を毀ったことによる、聖を非とし天を誣うること甚だしい、と述べたものである。萬齡はついに職を落とされた。
- 崇禎初め、薦めによって起されて黄州知府となり、諸生を集めて定恵書院を建て、正学をもって導いた。三年いて河南副使に遷り、磁州を監軍した。輝縣の北と山西陵川の南の間に水峪という村があり、回賊が数十年にわたってひそかに拠って大いに民の患いとなっていた。萬齡は山西監司の王肇生と兵を合わせて撃ち、六たび戦ってその巣を焼き、三百余の賊はついに平らげられた。功を録して右參政を加えられた。
- 流賊が西山から河北に入って新鄉を掠めると、萬齡は邀撃し、賊は陵川に走ったが、まもなくまた大挙して至り、失事に坐して削籍され帰った。湯開逺がその冤を訴えたが容れられなかった。久しくして廷臣が交々薦めたが、用いられぬうちに西安が陥ちた。萬齡は深衣大帯で關中書院に趨き、先聖を哭し拝して環に投じて死んだ。
祝萬齡――里居のまま節に殉じた者
- 僉事の涇陽の人王徴、太常寺卿の耀州の人宋師襄、懐慶通判の咸寜の人竇光儀、儀封知縣の長安の人徐方敬、芮城知縣の咸寜の人徐芳聲、舉人で宗室の知誼䍒および席增光は、みな里居のまま城が破れて節に抗して死んだ。
陳璸――澧州の救援
- 陳璸は漳浦の人。天啟五年(1625年)の進士。慈谿知縣を授かり、崇禎十年に袁州推官となって楚の賊を拒いで功があり、屢遷して右參議として湖南を分け守り、八排の賊を討ち平らげた。
- 十六年(1643年)、張獻忠が長沙を陥とし、參政の周鳯岐を澧州に囲むと、璸は兵を督して救いに赴いたが、軍が敗れて捕らえられ、降そうとされたが屈せず、手を断たれ肝を割かれて死んだ。
- 鳳岐は永康の人、萬厯末年の進士。工部郎中を歴任して節慎庫を掌り、宦官に忤らって職を落とされ帰った。崇禎初めに故官に起され、四川副使に進んだ。苖人が境を争ったので碑を立て疆を画して定めた。右參政に改められ澧州を分け守った。賊が来襲し、援軍が敗れ没して城はついに陥ちた。賊帥がみずからその縛を解いて降を説いたが、怒り罵って死んだ。
王徴俊――陽城に殉ず
- 王徴俊は字を夢卜といい、陽城の人。天啟五年(1625年)の進士。韓城知縣を授かり、崇禎初めに流賊が来襲したのを防ぎ退けた。大計に坐して歸德照磨に謫されたが、巡按御史の李日宣が朝に薦め、給事中の吕黄鍾が「天下に必ず欠くべからざる人を用いよ」と請うたときにも徴俊が挙がったので、滕縣知縣に量移された。右參政に累官して寜前を分け守り、憂によって帰った。
- 十七年(1644年)二月、賊が陽城を陥として捕らえたが屈せず、獄に繋がれた。士民が争ってその徳を頌したので賊は釈した。家に帰り着くと北面再拝して縊れて卒した。
王徴俊――宋之儁・史可觀・朱慎鏤
- そのころ士大夫で家に居ながら節を尽くした者に、靈石の宋之儁、翼城の史可觀、陽曲の朱慎鏤がいる。
- 之儁は進士に挙げられ、登萊監軍副使を歴官したが、巡按の謝三賓と忤らって互いに朝に訐き合い、職を落とされて帰り、三賓も秩を貶められた。変に遭って之儁は刑を受けて死に、妻の喬は賊を罵って階に頭を撞いて死に、娘は屍を斂め終えると簪を抜いて喉を刺して死んだ。
- 可觀は太常少卿學遷の子で、中書舍人に官し鴻臚少卿を加えられた。城が陥ちて自ら縊れて死んだ。
- 慎鏤は晉府の宗室で、靈邱郡王府の事を摂した。賊が太原を陥とすと、冠帯して家廟を祀り、家人を廟の中に駆り入れて焼き、自らも火に投じて死んだ。
丁泰運――懐慶に殉ず
- 丁泰運は字を孟尚といい、澤州の人。崇禎十三年(1640年)の進士。武陟知縣に除せられ、河内に調されて廉直の声があった。
- 十七年(1644年)二月、賊将の劉方亮が蒲坂から河を渡った。巡按御史の蘇京は太行の道を塞ぐと称して先に遁げ、陝西巡撫の李化熙とともに寜郭驛に至ったが、にわかに兵変が起こり、化熙は傷ついて逃げ、兵は京を捕らえて婦人の服を着せ、花を挿して歩かせ、少しでも違えば打って笑い楽しんだ。叛将の陳永福が賊を引いて至ると、京はただちに迎えて降った。
- 賊はそのまま懐慶に迫り、監司以下はみな逃げ隠れたが、泰運だけは南城を守り、力尽きて捕らえられた。賊が方亮の前に引き出して跪かせようとしたが屈せず、鉄の鎖を焼いて炙ってもまた従わず、ついに殺された。
丁泰運――尚大倫・王榮・王橓徴
- 賊は懐慶を陥とすと、ほどなく彰徳を陥とした。安陽の人の尚大倫は字を崇雅といい、進士から刑部郎中を歴官した。國學生の白夢謙が黄道周を救おうとして獄に繋がれたとき、大倫はこれを寛くすべきだと議して尚書の意に忤らい、ついに罷めて帰った。城が陥ちて節に抗して死んだ。參將の榆林の人王榮とその子の師易もみな死んだ。
- また王橓徴という者は、郷挙から蒲州知州を歴官したが、豪族の宗人に忤らって職を辞して帰った。賊に捕らえられ、李自成のもとへ送られる道中、憤って食を絶ち死んだ。