明史卷二百九十五 列傳第一百八十三 忠義七

篇首の立伝者一覧

  • 何復(邵宗元等)
  • 張羅俊(弟羅彥等)
  • 金毓峒(韓東明等)
  • 湯文瓊(范箴聽等)
  • 許琰(曹肅等)
  • 王喬棟
  • 張繼孟(陳其赤等)
  • 劉士斗(沈雲祚等)
  • 王勵精(劉三䇿等)
  • 尹伸(莊祖誥等)
  • 高其勲(王士傑等)
  • 張耀(吳子騏・曾異撰等)
  • 米夀圖
  • 耿廷籙(馬乾)
  • 席上珍(孔師程等)
  • 徐道興(羅國瓛等)
  • 劉廷標(王運開・王運閎)

何復・邵宗元――出自と官歴

  • 何復は字を見元といい、平度の人。邵宗元は字を景康といい、碭山の人。
  • 復は崇禎七年の進士。高縣の知縣となり賊を却けた功があったが、上官に忤らって弾劾され謫戍となった。のち廷臣の推薦が多く、英山知縣として起用され、累進して工部主事、進んで員外郎。十七年(1644年)二月に保定府知府に抜擢された。
  • 宗元は恩貢生の出身で、保定同知を歴任し、治績があった。

何復・邵宗元――保定籠城

  • 李自成が山西を陥れ、偽副將軍の劉方亮を固關から東へ差し向けて畿輔を犯させたため、一帯が震動した。眞定の游擊謝嘉福は巡撫の徐標を殺して反し、使者を送って賊を迎え入れたので、人心はいよいよ騒然となった。
  • 宗元はそのとき府事を摂行しており、急ぎ通判の王宗周、推官の許曰可、清苑知縣の朱永康、後衛指揮の劉忠嗣、および郷官の張羅彦・尹洗らを集めて城守を議した。復も強行軍で入城し、宗元は印を渡そうとしたが、復は「あなたの部署はすでに定まっている。印はそのまま帯びられよ。私はともに力を合わせるだけだ」と辞退した。
  • 復は文廟に詣で、諸生を相手に『論語』の「見危致命」の章を講じたが、その言葉つきは激烈であった。講義を終えると城に登って持ち場を分けた。
  • 都城が陥ちた翌日、賊の使者が書を投げ入れて降伏を誘ったが、宗元はその場で手ずから引き裂いた。
  • 翌日、賊の大軍が到着し、隊列は三百里に連なった。数十騎が婦人の衣を着て現れ、「通ってきた百餘城はみな門を開いて遠くまで出迎えた。降らねば屠るのみだ。しかも京師はすでに破れている。お前たちは誰のために城を守るのか」と言った。城上の者はこれを聞いて髪が逆立ち眦が裂けた。
  • 賊は幾日も取り囲んで攻めたが、宗元らの守りは堅く、賊はやや後退した。
  • そこへ督師の大學士李建泰が敗残兵数百を率い、餉銀を積んだ車十餘輛を引いて城門を叩き、入城を求めた。宗元らが許さないので、建泰は敕書と印を示した。宗元らは「天子から厚恩を蒙り、御門で剣を賜り酒を酌んで送り出されたはずだ。いま鉞を仗って西征せず、かえって関を叩いて賊を避けるのか」と言った。建泰は怒って声を荒らげて叱呼し、尚方の剣を振りかざして脅した。門を開こうという者もあったが、宗元は「賊が偽装しているとしたらどうする」と言った。一同は、御史の金毓峒がかつて建泰の軍を監したことがあって顔を知っていたので、彼を押し出して確かめさせ、間違いないというので迎え入れた。
  • 建泰が入ると賊の攻撃はいよいよ激しくなった。建泰は「もはや支えきれぬ。ひとまず降伏を議そう」と言い出し、降伏の書牒に印を捺せと宗元に迫った。宗元は印を投げ出し、「私は朝廷のために土地を守っている。義として降ることはできぬ。降りたい者は勝手にせよ」と厲声して大哭し、刀を引き寄せて自刎しようとしたのを左右が急いで止め、みな雨のように涙を流した。羅彦が進み出て「邪説を聴いてはならぬ。速やかに賊を撃つべし」と言った。
  • 復は自ら西洋の巨砲に点火したが、火が噴き出して焼かれ、あやうく死ぬところであった。賊は力を残さず攻め立て、城壁の狭間はすべて崩れた。やがて賊の火箭が城の西北楼に命中し、復はそこで焼け死んだ。南郭門もまた焼け、守兵の多くが散った。
  • 南城の守将王登洲が城壁を綱で降りて出て降伏し、賊は蜂のように群がり上った。建泰の中軍副將郭中杰らが内応し、城はついに陥落した。宗元および中官の方正化は屈せずに死んだ。建泰は曰可・永康を率いて出て降伏した。
  • 忠嗣は東城を分守していたが、城が陥ちようとするとき、楊千户に嫁いだ妹を呼び戻し、妻の毛、子の妻の王とともに一室に集め、いずれも弓の弦で縊り殺した。そののち再び城に登って拒み守り、城が破れて捕らえられると、怒って罵り、賊の刀を奪って二人を斬った。賊が群がり寄せ、目をえぐり鼻を削ぎ、体を裂かれて死んだ。
  • このとき武臣で死んだ者は、守備では張大同とその子の之坦が力戦して死に、指揮では文運昌・劉洪恩・戴世爵・劉元靖・呂九章・呂一照・李一廣、中軍では楊儒秀、鎮撫では管民治、千户では楊仁政・李尚忠・紀動・趙世貴・劉本源・侯繼先・張守道、百户では劉朝卿・劉悦・田守正・王好善・强忠武・王爾祉、把總では郝國忠・申錫で、いずれも城に殉じた。
  • 呂應蛟という者は保定右衛の人で、密雲副總兵まで務めて職を辞し帰郷していた。賊が至ると中官の正化がその力量を知って招き、ともに城を守った。昼夜力を尽くし、城が破れると短兵で戦って十餘人の賊を斬り、そののち死んだ。

張羅俊――一族と兄弟

  • 張羅俊は字を元美といい、清苑の人。父の純臣は武進士から署參將・神機營左副將を歴任した。六人の子があり、羅俊・羅彦・羅士・羅善・羅喆・羅輔という。羅俊は盲目の女を娶り、生涯妾を置かなかった。
  • 羅彦は字を仲美といい、崇禎二年(1629年)の進士。累進して吏部文選郎中となった。楊嗣昌がしばしば辺境の事にかこつけて不適格な人物を引き立てたのを、羅彦は多く駁して正した。帝は吏部が私を行っていると疑い、東廠の兵卒が常に庁前に満ちて曹郎の多くが咎めを受けたが、羅彦だけは何の汚点も受けなかった。任期が満ちて光禄少卿に転じたが、誣告を受けて職を失い帰郷した。
  • 羅俊は十六年(1643年)秋に進士に及第し、羅輔も同じ年に武進士となった。羅彦は若いころ父に従って辺境で兵事を学んでいた。初め行人に任じられ、使者となって郷里に帰った。郷里の郡が三度兵禍を受けたとき、当局を助けて守禦し、三度功を挙げた。給事中の時敏が使者としてその地を通り、夜半に入城しようとしたが羅彦は許さなかった。敏は羅彦がほしいままに城門の鍵を差配していると弾劾したが、羅彦が上疏して弁明すると帝は問わなかった。

張羅俊――清苑籠城と一門の死

  • 十七年(1644年)二月、賊が京師に迫り、一同が守禦を議した。羅彦兄弟は同知の邵宗元らと血をすすって死守を誓った。
  • 總兵官の馬岱が羅彦を訪ねて言った。「賊は二道に分かれ、一は固關を出、一は河間に向かう。私は蠡縣に出て駐屯し、その要衝を扼する。先に妻子を殺してから行く。城守はすべて公に委ねる」。羅彦は承知した。翌朝、岱は果たして妻子ら十一人を殺して軍を率いて去った。
  • 羅彦らは郷兵二千を集め、城壁を分けて守った。羅俊が東城、羅彦が西北、羅輔は遊撃部隊を率いた。公の蔵が足りないので私財を出して補った。
  • 賊が騎兵を寄越して降伏を呼びかけると、羅俊は部下を顧みて「降りたい者は私の首を取って行け」と言った。後衛指揮の劉忠嗣は剣を抜いて「張氏の兄弟とともに死守しない者は、この剣で斬る」と言い、目を怒らせ髪を逆立てたので、聞く者はみな奮起し、守りはいよいよ堅くなった。賊はそのため退いた。
  • やがて京師の変が伝わると、一同は哭して北に向かって拝し、また互いに拝し合って誓いを固めた。賊の攻撃はますます急で、城中には異論が多かった。羅彦は宗元に「小民は物を知らぬ。大義で鼓舞しなければ気は奮い立たぬ」と言い、人ごとに崇禎銭一枚を首に懸けさせて主上を戴く意を示させた。賊は羅彦を首謀者とみなしてその名を呼んで大いに罵り、書を射込んで降伏を説いたが、羅彦は顧みなかった。賊は死傷者が多く出るほど攻撃を強めた。
  • 李建泰の親軍が内応して城はついに陥落した。羅俊はなお刀を持って賊を斬り、刀が手を離れると両手で賊を抱えてその耳を噛み、血が口もとに滴った。賊がますます多く押し寄せると、「我は進士の張羅俊なるぞ」と大呼して殺された。
  • 羅彦は賊が入るのを見て急ぎ家に帰り、官階と姓名を壁に大書して首を吊って死んだ。子の晉と羅俊の子の伸はともに井戸に身を投げて死んだ。
  • 羅善は字を舜卿といい、諸生であった。二人の兄を助けて城を守った。城が陥ちようとするとき、二人の兄は死ぬなと戒めたが、羅善は「死節の臣がある以上、死節の士が無くてよいはずがない」と言った。妻の高は三人の娘を連れて井戸に投じて死に、羅善も別の井戸に投じて死んだ。
  • 羅輔は力が強く射術に長け、昼夜城壁に上って射れば必ず賊を殺した。城が破れると羅俊とともに囲みを破って出ようとしたが、羅俊が承知しなかった。羅輔は続けざまに射て数人を殺し、矢が尽きると短兵で数人を殺し、そののち死んだ。
  • 張氏の兄弟六人のうち、羅士は早く亡くなり、その妻の高は十七年間節を守っていたが、このとき自ら縊れて死んだ。羅喆だけが水門から逃れて助かったが、その妻の王も縊れて死んだ。
  • 羅俊の伯母の李は賊を罵って死んだ。羅彦の妻の趙、二人の妾の宋と錢、および晉の妻の師は、囲みが急なとき並んで井戸のかたわらに坐し、賊が入るのを待って、みな羅彦より先に井戸に投じて死んだ。ただ趙だけは沈まず、家人が引き上げた。羅輔の妻の白は実家にいて変を聞き死のうとしたが侍女に止められ、水を汲むと偽って幼い娘を先に落とし、自分も続いた。羅俊の再従子の震の妻の徐、巽の妻の劉も井戸に投じて死んだ。一門で死んだ者は合わせて二十三人であった。

金毓峒――言官としての活動

  • 金毓峒は字を穉鶴といい、保定衛の人。父の銓は户部員外郎。毓峒は崇禎七年(1634年)の進士で、中書舍人に任じられた。
  • 十四年(1641年)、漕運の事務を面前で陳べて意にかない、御史に任じられた。兵部尚書の陳新甲は凡庸で国を誤らせ、户部尚書の李待問は病を重ねて賢者の道を塞いでいると論じた。また徳音を発して十五年から煩瑣苛酷な負担を免除し、天下とともに一新するよう請うた。あわせて復社の一件について、その者たちはみな儒生であり、一人の私怨によって禍いの端を開くべきではないと述べた。帝はその言を多く採用した。
  • 翌年、陝西の巡按として出た。孫傳庭が關中で軍を整えており、吏民は徴発と修築に苦しんで日夜出関を待ち望み、天子もたびたび詔して督促した。しかし毓峒だけは、将は驕り兵は荒んでおり軽々しく戦うべきではないと、上疏して抗議した。帝は聴き入れず、軍は果たして敗れた。
  • 十六年(1643年)冬、任期が満ちて交代者を得たが、境を出た途端に賊が関中に入ったので引き返し、朝邑まで戻って将吏の功罪を調べ上申してから発った。

金毓峒――保定での殉難と一族・郷人の死

  • 翌年三月に召し出されて対え、李建泰の軍を監督して山西へ急行するよう命じられた。保定に着くと賊の騎兵がすでに迫っていたので、邵宗元らとともに城を守った。毓峒は西城を分守し、家財千餘金を散じて兵を犒い、妻の王も簪や耳飾りを出して助けた。
  • 京師の変が伝わり、賊が書を射込んで降伏を説くと、一同はやや気を緩めた。毓峒は「まさに君父のために讐を報ずべきとき。異議を唱える者は斬る」と厲声し、銀牌を懸けて賊を撃った者が自ら取れるようにした。一同は争って奮い、多くの賊を斃した。
  • 城が陥ちると、一人の賊が毓峒を引いてその頭目に会わせようとした。毓峒は罵りながら歩き、井戸に行き当たると賊を突き倒し、自ら井戸に落ちて死んだ。妻は聞くとすぐ自ら縊れた。
  • 従子の振孫は勇力があり、武挙の身で城守を助けた。賊が至って一同が散ったとき、独り城上に立ち「我は金振孫。先日賊の頭目数人を殺したのは我だ」と大呼した。群がる賊にずたずたに裂かれた。振孫の兄の肖孫の子の妻の陳と侍女の桂春も井戸に投じて死んだ。肖孫は毓峒の二人の子を匿し、賊に打ち据えられて全身傷だらけになっても終に言わず、二人の遺児は助かった。
  • 同時に城を守って殉難した者――邠州知州の韓東明、武進士の陳國政(井戸に投じて死んだ)、平涼通判の張維綱、舉人の張爾翬・孫從範(屈せず死んだ)。舉人の高經は母を背負って避難し、賊に遇うと母を放すよう求め、母は放たれたが經は捕らえられ、隙を見て水に投じて死んだ。貢生の郭鳴世は病臥していたが、城が陥ちたと聞いて衣を整えて端座し、賊が棒を持って来ると奮って撃ちかかって死んだ。諸生の王之珽は城が陥ちる前日に酒を用意して家人と飲み明かし、城が破れると妻の齊および三男二女とともに井戸に入って死んだ。
  • 諸生の韓楓・何一中・杜日芳・王法ら二十九人、布衣の劉宗向・田仰名・劉自重ら二十人は、あるいは首を吊り、あるいは溺れ、あるいは刃を受け、みな屈せず死んだ。節を全うした婦人は百十五人であった。
  • そのほか都給事中の尹洗、舉人の劉會昌、貢生の王聨芳は、城が陥ちた翌日に賊に捕らえられ、これも屈せず死んだ。賊はその首を竿に掲げて「城に拠って節に抗した悪官逆子」と書き付けたので、見る者は涙を呑んだ。

湯文瓊――布衣の殉節

  • 湯文瓊は字を兆鰲といい、石埭の人。京師で塾を開いて教えていた。国事が日に日に悪くなるのを見て、たびたび朝廷に献策したが取り上げられなかった。
  • 京師が陥ちると、憤然として友に「私は布衣とはいえ、大明の臣子でないはずがあろうか。賊が君を弑し国を簒うのを見ているに忍びない」と語り、衣の襟に「位は文丞相の位にあらず、心は文丞相の心を存す」と書いて、首を吊って死んだ。
  • 福王のとき、給事中の熊汝霖が上疏して言った。北都の変について南から来た者に訊ねて確かめたところ、魏藻徳が真っ先に名を告げて賊の朝に参じ、梁兆陽・楊觀光・何瑞徴が逆に従って策を献じた筆頭で、その他もみな賊の庭に頭を下げて憐れみを乞い遅れまいとした。ところが文瓊は市井の一匹夫でありながら志を貫いて命を捨て、日月と光を争うほどであった。賊はその衣の帯の中の言葉を聞いて陳演を責め、演をただちに市で斬った。文瓊は布衣で節に死に、賊すらこれを重んじた。速やかに顕彰しなければ、どうして忠魂を慰め臣節を励ますことができようか、と。そこで中書舍人を贈り、旌忠祠に祀った。
  • そのころ都城で布衣のまま節を尽くした者に、なお范箴聽・楊鉉・李夢禧・張世禧らがあった。福王が国を建てたころは喪乱がいよいよ甚だしく、また見聞も詳らかでなかったので、十分には顕彰されなかった。
  • 箴聽は端正で義行があり、高攀龍が都下で講学したときその門に学んだ。魏國公の徐允禎が館賓として迎え、たびたび諫めた。允禎は他の客には傲然と会うこともあったが、箴聽が来ると必ず容を改めた。賊が入ると棺を一つ据えてその上に横たわり、七日絶食して死んだ。
  • 鉉は肖像画を善くした。京師が陥ちると二人の子を連れて井戸に投じて死んだ。
  • 夢禧は志節を抱き、妻の杜、二男二女、下女一人とともに縊れて死んだ。
  • 世禧は儒士で、二人の子の懋賞・懋官とともに縊れて死んだ。
  • また周姓の者があり、悲憤して胸を打ち、血を数升吐いて死んだ。
  • 柏鄉の人郝奇遇は京師に住んでいて変を聞き、妻に「私は難に死のうと思うが、お前にもできるか」と問うた。妻が「できます」と言ってまず死んだ。奇遇は埋葬を終えてから薬を飲んで死んだ。

許琰――諸生の死節

  • 許琰は字を玉仲といい、吳縣の人。幼くして情の篤い性質で、かつて自らの腕の肉を切って父の病を療した。諸生となってからは磊落で束縛を受けなかった。
  • 京師が陥ち帝が社稷に殉じたと聞いて大いに慟哭し、義兵を挙げて賊を討つと誓った。郷里の官僚たちのもとに走って告げたが、いずれも応じなかった。端午の日に友人を訪ねると酒を出されたので、琰は杯を投げつけて「今日を何の日と思う。我らは聖賢の書を読みながら、なお平生のとおり酒に耽るのか」と罵り、袖を払って立ち去った。
  • ついで明倫堂に集まって哭した。琰は喪服に杖をつき、胸を打ち足を踏みならして号泣し、悲しみを尽くした。御史が文廟に詣でるのになお吉服のままだったので、琰は諸生を率いて大義をもって責め、御史は恐れ入って謝罪して去った。
  • 南都が監國の詔を頒ちながら哀詔をまだ出さないので、琰はいよいよ憤り慟哭し、古廟に走って首を吊ったが人に解かれた。歩いて胥門まで行き河に身を投げたところ、潞王の舟が来て救い上げた。王が出てきて訳を問い、長く嘆息した。琰を知る者が抱えて連れ帰った。家人が朝夕見張って死ねないので、ついに食を断った。まもなく哀詔が至ると、庭で頭を垂れて号泣し、以後は口を利かず、六月三日に亡くなった。郷人は私に諡して潛忠先生と呼んだ。南中では五經博士を贈り、旌忠祠に祀った。
  • このとき義に殉じた諸生は、京師では曹肅・藺衞卿・周讜・李汝翼、大同では李若葵、金壇では王明灝、丹陽では王介休、雞澤では殷淵、肥鄉では宋湯齊・郭珩・王拱辰であった。
  • 肅の曾祖の子登は仕えて甘肅巡撫となった。賊が入ると、肅は祖母の姜、母の張、兄嫁の李、および弟の持敏、妹の持順、弟の妻の鄧とともに首を吊った。
  • 衞卿は幼い娘一人だけを友に託して自ら縊れた。
  • 讜は捕らえられ、賊を罵って屈せず死んだ。
  • 汝翼は布政使の本緯の子で、これも賊を罵って裂かれて死んだ。
  • 若葵は親族九人とともにみな首を吊り、「一門完節」と題した。
  • 明灝は変を聞いて朝夕慟哭し、家人が慰めたので用事にかこつけて二十里の外まで行き、水に投じて死んだ。
  • 介休は七日食を断って死んだ。
  • 淵は字を仲𢎞といい、父の大白は監軍副使に任じて楊嗣昌に殺された。淵は気概があり、父に従って軍中にあり武術に長け、かねて父の讐を報いようとしていた。賊が雞澤を破ると兵を挙げて恢復を謀った。まもなく京師の陥落を聞き、諸生の黄祐らとともに悲しみ叫んで喪を発し、山中の壮士と約して賊の置いた偽官を誅した。偽の県令秦植はよろめきながら逃げた。そこで城に入って哭臨の礼を行い、義の声が大いに鳴り響いた。しかし奸人につけこまれて殺され、遠近の人が悼んだ。
  • 湯齊・珩・拱辰もまた兵を挙げて賊を討ち、賊将の張汝行に害された。

王喬棟――興國州の陥落

  • 王喬棟は雄縣の人。進士に及第して朝邑知縣に任じられた。県人の王之寀が魏忠賢の一党に憎まれ、贓罪に問われて下されたので、喬棟に厳しく徴収させようとしたが、喬棟は忍びず、印を庫に封じて去った。巡撫は怒って弾劾しようとしたが、士民が役所を取り囲んで叫んだのでやめた。
  • 崇禎の初めに順天教授として起用され、累進して湖廣參政となった。楚中が大いに乱れて諸道の監司の多くが赴任しなかったため、喬棟はいくつもの職印を兼ね帯びた。乙酉(1645年)の夏、李自成が武昌を占拠した。喬棟はそのとき興國州に駐まっており、城が賊に陥されると城楼の上で首を吊った。

張繼孟――言路での争い

  • 張繼孟は字を伯功といい、扶風の人。萬厯末年の進士で、濰縣の知縣となった。天啟三年(1623年)に南京御史に抜擢された。
  • まだ都を出ないうちに辺境の策六箇条を奏し、末尾に、自分は南臺に抑えられている、金銭がものを言う世の中で公道に力が無い、贈答を厳禁すべきだ、と述べた。帝が具体的に指し示せと命じたが、繼孟は風聞によると答えたので、詔して詰責された。
  • 左都御史の趙南星が「いま天下は進士を重んじて舉貢を軽んじ、京官を重んじて外官を軽んじ、北の科道を重んじて南都を軽んじている。繼孟の言を機に偏重の弊を考え、吏部に命じて力を尽くして是正させれば、人材登用に補いとなろう」と言った。これによって繼孟を忌む者はみな彼を東林と名指しした。まもなく魏忠賢の生祠を建てなかったために邪党として斥けられ、官を削られて帰郷した。
  • 崇禎三年(1630年)に旧官で起用され、上言した。近ごろ冢宰の王永光に人の非難が相次いでいるが、その一通の疏は一語ごとに筋が通らない。
  • 「恵世揚らが題目にかこつけて議に当たっている」と言うが、かこつけるとは事実が無いのに名を借りることだ。世揚は楊漣・左光斗と同じ仕事に同じ心で当たり、ただ同じく死ななかっただけである。今、楊・左については定まった評価があり、世揚も天下後世に明らかにされる。どうして名を借りたなどという謬りを言えるのか。これが謬りの第一。
  • また「高㨗・史□(底本欠字)は奸を暴いた実績があるから特別に用いるのを先にすべきだ」と言うが、㨗と□(底本欠字)が劉鴻訓を糾弾したのは楊維垣らのための報復にすぎない。鴻訓の輔政では、この一件だけが人の意を快くさせた。その後に罪を得たのは賄賂を受けたためで、㨗・□(底本欠字)の弾劾によるのではない。今、奸を庇う者を奸を暴く者とするのは謬りの第二。
  • また「諸臣が擁立しようとしているのは錢謙益・李騰芳・孫慎行だ」と言うが、謙益の始末は陛下も近ごろよく御承知である。騰芳・慎行に至っては天下がこぞって推服し、会推のときには永光自身がその議を主宰していた。公論を擁立呼ばわりするのは謬りの第三。
  • また「諸臣に網の一面を緩めさせ、天下の朋党の局を鎮めたい」と言うが、これを信ずるなら、部の議が張文熙ら数十人を漏らしたのが網を緩めることであり、陛下が厳しく調べて罪を議されるのは、かえって朋党の局を開くことになるのか。これが謬りの第四。
  • しかも永光は先に御史の李應昇に糾弾され、今また御史の馬孟正・徐尚勛らに論じられている。永光を推し立てる者は、先には崔呈秀・徐大化、今は霍維華・楊維垣・張文熙であって、その賢不肖は知れたものだ。
  • のちに南京兵部尚書の胡應台の貪汚をも弾劾したが、帝はいずれも取り上げなかった。永光は深く憎み、繼孟は廣西知府として外に出された。土酋の普名聲の乱が長く鎮まらなかったので、繼孟は計を設けて毒殺し、一方はそれで安らいだ。
  • やや進んで浙江鹽運使となったが、塩務監視の内官崔璘に忤らって保寧知府に左遷され、まもなく副使に進んで川西を分巡した。

張繼孟――成都の陥落と同殉の人々

  • 十七年(1644年)八月、張獻忠が成都を寇した。繼孟は陳其赤・張孔教・鄭安民・方堯相らとともに巡撫の龍文光を助けて協同して守った。城が陥ちて捕らえられ、獻忠は帝号を僭称して諸人を百官に充てようとしたが、繼孟らは屈せず、そのため殺された。妻の賈も従って死んだ。
  • 其赤は字を石文といい、崇仁の人。崇禎元年(1628年)の進士。兵備副使を歴任して成都を管轄した。城が陥ちると百花潭に投じて死に、家人で同じく死んだ者は四十餘人であった。
  • 孔教は字を魯生といい、會稽の人。郷試に及第し、四川僉事を歴任して屈せず死んだ。子の以衡は母の孔氏を奉じて南へ逃れ、事実を隠して知らせなかった。一年余りして母が以衡の書斎に来たとき、副使の周夢尹が孔教の卹典を請うた疏を見て気を失い、以衡を罵って「父が死んで二年、私はまだ生き恥をさらしている。おまえの父に地下で会わせる顔がない」と言い、刀を取って喉を切って死んだ。
  • 安民は浙江の貢生で、蜀府左長史を歴任した。賊が成都を囲むと南城を分守し、城が陥ちて屈せず死んだ。
  • 堯相は字を紹虞といい、黄岡の人。成都同知に任じ軍務の記録を監した。兵糧が足りず、泣いて蜀王に請うたが王は許さず、自ら池に身を投げたが救われて助かった。翌日城が陥ち、萬里橋の下で殺された。總兵の劉佳䕃もまた節を尽くした。

劉士斗――建昌兵備としての死

  • 劉士斗は字を瞻甫といい、南海の人。崇禎四年(1631年)の進士で、太倉州の知州となって政声があった。上官に忤らって考課で咎められ、江南按察司知事に落とされたが、成都推官に抜擢された。
  • 十六年(1643年)、御史の劉之勃の推薦で建昌兵備僉事となった。翌年八月、賊将が境に入ろうとし、之勃が赴任を促したが、士斗は「安危も生死も公とともにする。どこへ行くというのか」と言った。
  • 城が陥ちて捕らえられ、之勃が張獻忠と語っているのを見て「これは賊です。公は少しも屈してはなりません」と大呼した。獻忠が怒って引きずり下ろさせると、士斗はまた之勃を振り返って同じことを言い、ついに一門ともども殺された。
  • 同時に、沈雲祚は字を子凌といい、太倉の人。崇禎十三年(1640年)の進士で、華陽縣の知縣となった。悪辣な民が猺黄の賊の耳目となっていたので、計略を設けて捕らえ誅した。賊が䕫門を破って成都が大いに震えると、雲祚は蜀王に会って守禦の策を陳べたが聴かれなかった。内江王が至淥を賢者だと聞いて、雲祚は行って説き、「成都の危機は旦夕に迫っている。王府には貨財が山と積まれている。今のうちに士を募って賊を殺さねば、国境の地は失われる。誰が王のために守るのか」と言った。至淥は王に言ったが聴かれなかった。賊が成都に迫ってから王はようやく財を出して軍を助けたが、もはや間に合わなかった。城が陥ちると獻忠は雲祚を用いようとして大慈寺に幽閉し、手下に食を運ばせ刃で降伏を脅したが屈せず、ついに殺された。

王勵精――崇慶での自裁と四川各地の殉難

  • 王勵精は蒲城の人。崇禎年間に選貢生から廣西府通判に任じられた。情け深く裁判に長けていた。凶作の年に銀の帯を潰して粟に換え、値を下げて売り出すと、富人がこれを聞いて争って粟を出し、値はそれで平らいだ。崇慶知府に転じて善政が多かった。
  • 十七年(1644年)、張獻忠が成都を陥れると州の人々は驚いて逃げ散った。勵精は朝服して北面して拝し、また西に向かって父母を拝し、落ち着いて筆を執り、文信國の「成仁取義」の四語を壁に書いた。楼に登って鋭い刃を柱の間に縛り、楼下に火薬を置き、端座して待った。やがて賊の騎兵が川を渡ったと聞くと、すぐ火を放たせ、火が起こって刃に触れ、胸を貫かれて死んだ。賊はその忠を歎じて棺に収めて葬った。その墨跡は年を経るほど新しく、洗っても消えなかった。二十餘年ののち州の人が祠を建てて祀ったが、祭りが終わるとすぐ壁が崩れ、遠近の人が不思議がった。
  • これより先、十三年(1640年)に賊が仁壽を犯し、知縣で鄱陽の人の劉三䇿が拒み守り、城が陥ちて屈せず死に、尚寶司丞を贈られた。このとき再び陥ちて知縣の顧繩貽が殺された。賊が郫縣を陥すと、主簿で山陰の人の趙嘉煒が都江堰を守り、賊の誘降に従わず川に投じて死んだ。緜竹が陥ちると典史の卜大經がその下僕とともに縊れて死に、郷官の户部郎中刁化神も死んだ。
  • そのほか榮縣知縣で漢陽の人の秦民湯、蒲田知縣で江夏の人の朱蘊羅、興文知縣で漢川の人の艾吾鼎、南部知縣の鄭夢眉、中江教諭で劍州の事を摂した單之賔が、みな難に殉じた。夢眉は夫婦ともに縊れ、蘊羅と吾鼎は一家をあげて難に遭った。宗室の朱奉□(底本欠字)は進士から御史を歴任し、督師の丁啟睿を弾劾した諸疏が当時称賛された。ちょうど郷里にいて難に及んだ。

尹伸――辺境での軍功と罷免

  • 尹伸は字を子求といい、宜賔の人。萬厯二十六年(1598年)の進士で、承天推官に任じられた。たびたび転じて南京兵部郎中・西安知府・陝西提學副使・蘇松兵備參政となった。公正廉潔で気骨があり、その場しのぎの追従をせず、三つの任のいずれでも自ら弾劾を上申して去った。
  • 天啟のとき旧官で起用され、貴州威清道を分守した。貴陽の囲みが解けたのち、巡撫の王三善が深入りしようとし、伸は大いに賛成して監軍として西征した。三善が敗死すると伸は囲みを破って帰り、官を奪われ罪を負ったまま賊に当たることになった。
  • 四年(1624年)、賊が普安を囲み、伸が救援に赴くと賊は囲みを解いて去ったので、そのままその地に移駐した。賊が再び来攻すると參將の范邦雄を率いて破って走らせ、北へ追って三岔河に至った。總督の蔡復一がその功を上申し、罪を免ぜられ一階を下げて職務に就いた。崇禎五年(1632年)に河南右布政使を歴任したが、流賊を防げなかったとして罷免され帰郷した。
  • 伸は行く先々で長官と衝突したが、人に対しては終始変わらず、分限と義理に篤かった。詩に巧みで書を善くし、日課として楷書五百字を書き、寒暑を問わずやめなかった。

尹伸――張獻忠に殺される・蜀中在籍の殉難者

  • 張獻忠が敘州を陥すと、伸は山中に隠れたが捜し出され、罵って行こうとしなかった。賊はその名を重んじて殺さなかったが、井研に至って罵りがいよいよ激しくなったので、ついに寄ってたかって殺した。福王のとき太常卿に起用されたが、伸はすでに先に死んでいた。
  • 蜀中の士大夫で郷里にありながら難に死んだ者は、成都では雲南按察使の莊祖誥、廣元では户科給事中の吳宇英、資縣では工部主事の蔡如蕙、郫縣では舉人の江騰龍。また安岳の進士王起峩、渠縣の禮部員外郎李含乙は、みな義兵を挙げて賊を討ち、勝てずに死んだ。

高其勲――雲南の沙定洲の乱と諸人の死

  • 高其勲は字を懋功という。初め千户を襲い、のち武郷試に及第して黔國公の旗下の中軍となった。吾必奎が反すると參將に抜擢されて武定を守った。沙定洲が再び反して兵を分けて攻めてきたので、月餘り固く守ったが城は陥ちた。衣冠を正して北を望んで拝し、毒を仰いで死んだ。
  • そのころ陳正という者があり、代々大理衞指揮であったがまだ職を継いでいなかった。沙賊が城を陥すと部下を督して市街戦を戦い、自ら数人の賊の首を取って死んだ。
  • 王承憲は祖父の職を襲って楚雄衛指揮となり、遊擊に抜擢されて副使楊畏知の先鋒となった。定洲が攻めてきたとき守禦の備えを万事整えたので、畏知は深く頼りにした。賊が去ってまた来ると、承憲は土官の那籥らとともに城を出て突撃し、賊はことごとく崩れた。だがにわかに流れ矢に当たって死んだ。弟の承瑱も力戦して死に、一軍はすべて死んだ。
  • 賊は進んで大理を囲んだ。そのとき太和縣丞の王士傑が上官を助けて力の限り防ぎ、城が陥ちて城上で死んだ。同じく死んだ者は、大理府教授の段見錦、經歴の楊明盛とその子の一甲、司獄の魏崇治であった。また元永昌府同知の蕭時顯は任を解かれたが道が塞がって大理に寓居しており、これも首を吊った。
  • 士人で同じく死んだ者は、舉人では高拱極が池に投じて死に、楊士俊は母・妻・妹とともに焼身して死んだ。諸生では尹夢旗・夢符・馮大成が義を唱えて守りを助け、賊を罵って死に、楊憲は妻・娘・子の妻・姪の娘・孫娘・弟の妻と一門で焼身して死に、楊愻はいったん死んで生き返ったが妻はついに死んだ。人々は太和の節義が独り盛んであったと称した。
  • 單國祚は會稽の人で、通海の典史であった。城が陥ちると印を握って堂上に坐し、賊を罵って殺された。印はなお手に握られたままで、県人は諸葛山の下に葬った。

張耀――貴陽の陥落

  • 張耀は字を融我といい、三原の人。萬厯年間に郷試に及第し、聞喜縣の知縣となった。慈しみをもって民を撫したので、民は祠を立てた。崇禎年間に貴州布政使を歴任した。
  • 張獻忠が死ぬと、その部将の孫可望・李定國らが衆を率いて貴州に奔った。耀は急ぎ巡撫に言って兵と民を出して守禦するよう請うたが、巡撫は衆寡敵せずとして難色を示した。にわかに賊の大軍が押し寄せ、耀は一家の者を率いて城壁に上って防ぎ戦った。城が陥ちて捕らえられ、賊の首領と耀はともに秦の人であったので、「公が降れば宰相に用いよう」と説いた。耀は怒って罵り屈しなかった。賊がその妾たちを捕らえて「降れば一家の死を免ずる」と脅すと、耀の罵りはますます激しくなった。賊は耀を殺し、あわせてその家族十三人も殺した。
  • そのとき郷官の吳子騏・劉琯・楊元瀛らが兵を率いて賊を破ったが、賊がいよいよ多く来て戦いに敗れ、捕らえられていずれも屈せず死んだ。
  • 子騏は字を九逵といい、貴陽の人。萬厯年間に郷試に及第し、興寧縣の知縣となった。天啟のとき安邦彦が貴陽を囲むと、子騏は母が城内にいたので慌てて官を棄てて帰った。崇禎十年(1637年)、蛮賊の阿烏謎が叛いて大方城を陥し守将を追い払った。總督の朱燮元が子騏に命じて六廣に行かせ、書を回して諸族長を召し、利害を説かせた。果たして降伏を乞うたので、燮元はその功を上申し、優詔をもって賞された。
  • 琯は户部主事、元瀛は府同知で、ともに郷試の出身であった。
  • 同じころ譚先哲は平壩衞の人で子騏と同年の及第、户部郎中に任じた。賊がその城を陥すと、同郷の石聲和とともに一家をあげて難に殉じた。聲和は天啟年間に郷試に及第し、寧前兵備參議に任じた。
  • 顧人龍という者は定番州の人で、かつて仕えて職を解かれ家にいた。流賊が来襲すると士民を率いて拒み守り、賊を殺すこと甚だ多かった。城が破れて大いに罵って死んだ。
  • 可望が安平を寇すと、僉事で臨川の人の曾益が衆を集めて拒み守り、城が陥ちて死んだ。
  • 曾異撰は榮昌の人で、郷試に及第して永寧州の知州となった。可望がすでに貴州を陥して長駆して雲南に入ろうとしたとき、異撰はその食客の江津の進士程玉成・貢生龔茂勲と謀って「この州は盤江の天険に拠って滇と黔を扼している。これを棄てて守らなければ事は成らない」と言い、衆を集めて城壁に登って守った。城が陥ち、焼身して死んだ。

米壽圖――言官としての弾劾

  • 米壽圖は宛平の人。崇禎年間に舉人から新鄉縣の知縣となった。土寇が来襲すると吏民を督して破り走らせ、首を斬ること千二百餘級。治績によって召されて南京御史に任じられた。
  • 十五年(1642年)四月、監軍の張若騏の罪を極論した。若騏はもともと軍事に通じておらず、楊嗣昌に諂って刑曹から職方に移された。督臣の洪承疇が孤軍で遠出したとき、若騏は勝手に指図し、辺境の事を児戯のように扱い、偽って大勝を報じて光禄卿の位を飛び越え、功を騙って上を欺いた。同郷の謝陞を内応の頼みとしているが、陞は奸険な小人である。若騏と並べて斬らなければ、何によって九廟の霊を慰められようか、と。ちょうど廷臣の多くが若騏を糾弾したので、ついに死罪と議され、陞も名を除かれた。
  • 初め嗣昌が練兵の議を唱えて民を煩わせることが特に甚だしかったので、壽圗は上疏して十の害を陳べた。また、かつては督撫に京卿を多く用いたが、今は辺境が鎮まらないので、卿貳の職には争って推し、督撫となると引き退く。厳しく選び分けて内外を兼ね補うべきだ、と言った。そこで偏沅巡撫の陳睿謨、廣西巡撫の林贄の貪欲を弾劾し、帝はその言を容れた。
  • 甲申の年(1644年)五月、福王が立ち、馬士英が阮大鋮を推挙して用いたので、壽圖はこれを弾劾した。

米壽圖――四川・貴州での最期

  • 七月、四川の巡按として出た。そのとき川の地はすでに張獻忠に占拠されていた。吏部に命じて監司・守令に堪える者を選ばせ、壽圖に従って西へ行かせた。着任すると督師の王應熊、總督の樊一蘅らと諸将を連絡し、遠近に呼びかけて次第に川南の郡県を回復した。唐王が立つと右僉都御史・貴州巡撫に抜擢された。
  • 大清の順治四年(1647年)、獻忠の残党の孫可望らが貴陽を陥し、壽圖は沅州に逃れた。十一年(1654年)、沅州もまた陥ち、壽圖は死んだ。

耿廷籙・馬乾――言事と四川の戦い

  • 耿廷籙は臨安河西の人。天啟四年(1624年)に郷試に及第し、崇禎年間に耀州の知州となって有能の評判があった。
  • 十五年(1642年)夏、時政について上疏し、「将は多いより良いのに如かず、兵は多いより練れているのに如かず、餉は多いより実を調べるのに如かない」と言った。また「諸臣は恩讐を忘れ廉恥を励むべきである。小さな怨みを必ず報いるというなら、なぜ首を斬り血を啜るべき元凶に対して大いにそれを用いないのか。私の恩を必ず酬いるというなら、なぜ痩せ衰えた赤子に対して広くそれを用いないのか」と述べた。優詔をもって褒め容れられ、山西僉事に抜擢され、のち宣府の軍を監することに改められた。
  • 十七年(1644年)京師が陥ちると南都に走った。十一月、張獻忠が四川を乱したため太僕少卿を加えられ、雲南に赴いて沙定洲の軍を監し、建昌から川に入って賊を討つよう命じられた。翌年三月、四川巡撫の馬乾が罷免され、ただちに廷籙を右僉都御史に任じて代わらせたが、赴任しないうちに定洲が乱を起こし、蜀の地もことごとく失われたので、そのまま留まって行かなかった。のちに李定國が臨安を掠めて河西を通ったので、廷籙はこれを聞いて水に投じて死んだ。妻の楊も捕らえられ、屈せず死んだ。
  • 馬乾は昆明の人。崇禎六年(1633年)の郷試に及第し、四川廣安の知州となった。䕫州が警急を告げると、巡撫の邵㨗春が乾に檄して府事を摂らせた。張獻忠が二十餘日攻め囲んだが、固く守って落ちず、督師楊嗣昌の兵が至って囲みが解けた。川東兵備僉事に抜擢された。
  • 成都が陥ちて巡撫の龍文光が死ぬと、蜀の人々はこぞって乾を推して巡撫の事を摂らせた。賊が重慶を陥して部将の劉廷舉を残して守らせたが、乾はこれを撃って走らせ城を回復した。督師の王應熊が乾の淫掠を弾劾して免職・引致取り調べとしたが、ちょうど蜀の地が大乱で詔命が届かず、乾は従来どおり職務を行い、遠近に檄を伝えて力を合わせて賊を討たせた。廷舉が敗れ去ると、賊は劉文秀らに数万の兵をつけて攻めさせた。乾は固く守り、曽英らの援軍が至って賊は敗れて還った。獻忠が死ぬと、その党の孫可望らは南に奔った。
  • 大清の兵が重慶に追い迫り、乾は戦いに敗れて死んだ。

席上珍――雲南各地の抗戦と殉難

  • 席上珍は姚安の人。崇禎年間に郷試に及第し、磊落で節義を尊んだ。孫可望・李定國らが雲南に入ったと聞き、姚州知州の何思、大姚の舉人金世鼎とともに姚安城に拠って拒み守った。可望が張虎を遣わして攻め陥した。世鼎は自殺し、上珍と思は捕らえられて昆明に送られた。可望は張虎を遣わした。上珍は声を励まして「私は大明の忠臣だ。どうしてお前などに屈しようか」と言った。可望は怒って引き出して斬らせようとしたが、上珍は罵り続け、ついに市で裂かれた。思もまた屈せず死んだ。
  • 孔師程という者は昆明の人で、従軍して官を得た。このとき晉寧・呈貢の諸州県を糾合して兵を挙げ賊を拒んだ。定國が衆を率いて急襲すると師程は逃れた。晉寧知州で石阡の人の冷陽春、呈貢知縣で嘉興の人の夏祖訓がともに死んだ。晉寧の舉人段伯美、諸生の余繼善・耿希哲は陽春の城守を助け、これも難に殉じた。
  • 賊が富民を陥すと、貢生の李開芳の妻と二人の子はみな井戸に投じて死んだ。開芳は松花壩まで走って首を吊り、その友の王朝賀は埋葬を終えてから自らも首を吊った。
  • 郷里にいた元知縣の陳昌裔は偽の官職を受けず、賊に杖で打ち殺された。
  • 楚雄の舉人杜天禎は初め楊畏知を助けて沙賊を拒み、たびたび功があった。のち畏知が兵を督して可望を撃って敗れると、天禎はこれを聞いてすぐ自ら命を絶った。
  • 臨安が陥ちたとき、進士の廖履亨が水に投じて死んだ。

徐道興――師宗州での死

  • 徐道興は睢州の人。崇禎の末に雲南都司經歴に任じ、師宗州の事を代行した。清廉で民を愛した。
  • 孫可望らが雲南に入って曲靖を破ったとき、巡撫の羅國瓛はちょうどその地を巡察しており、知府の焦潤生とともに捕らえられた。可望は降らせようとしたが國瓛は屈せず、昆明に連れて行かれて焼身して死んだ。潤生もまた屈せず死んだ。
  • 道興は賊が迫るのを見て士民を集めて諭し、「力は薄く兵は少なく賊に抗しきれない。私が死ぬのは分である。お前たちは速やかに去れ」と言った。民が同行を願うと、道興は声を励まして「封疆の臣は封疆に死ぬもの。私はどこへ行こうというのか」と言った。一同は雨のように涙を流して辞し去った。役宅にはただ下僕一人が残った。俸給の金二錠を出して与え、「一つはお前に賜う。一つは棺を買って私を納めよ」と言った。僕は大いに哭して従死を願ったが、道興は「お前が死んだら誰が私の骨を収めるのか」と言った。僕は叩頭し号泣して去った。
  • 賊が役所に入って、出迎えてその将に会えと命じると、道興は大いに罵り、酒杯を投げつけて撃ち、罵りを口から絶やさず、ついに殺された。
  • 國瓛は嘉定州の人で、崇禎十六年(1643年)の進士。潤生は修撰の竑の子である。
  • 同じころ張朝綱は廣通の人で、貢生から渾源州同知に任じられ、職を解かれて帰郷していた。可望らの兵が至ると妻の馮とともに縊れて死んだ。子で諸生の耀は親を葬り終えてから自らも縊れて死んだ。

劉廷標・王運開――永昌での死節

  • 劉廷標は字を霞起といい、上杭の人。王運開は字を子朗といい、夾江の人。廷標は貢生から永昌府通判を歴任し、運開は郷試に及第して永昌推官に任じられた。
  • 沙定洲の乱で黔國公沐天波が永昌に走った。孫可望らが雲南に入ると、檄を飛ばして天波に降伏を諭した。そのとき運開は監司の事を摂り、廷標は府の事を摂って、まさに兵を出して瀾滄を守ろうとしていた。天波が子を遣わして降を申し入れようとし、二人に印を持って行けと諭したが、二人は堅く渡さず、それぞれ家人を騰越に走らせた。
  • 永昌の士民は、賊が至る先々で虐殺していると聞き、号泣して運開に降を申し入れて禍いを和らげるよう請うたが、運開は承知せず、慰めて帰らせた。次いで廷標のもとに行ったが、廷標も承知しなかった。一同が大いに哭すると、廷標は毒酒を取って飲もうとしたので、みな散り去った。
  • 二人は語り合って「人々の心はこのとおりだ。我らはただ一死して自ら心を安んずるだけだ」と言った。その夕べ、運開は自ら縊れた。廷標はこれを聞いて「私は年上だから先に死ぬべきなのに、王公が先を越された」と言い、沐浴して詩三章を賦し、これも自ら縊れた。
  • 両家の子弟が騰越から来て弔い、仮埋葬を終えてまた帰った。可望らは二人の死節を重んじてその後継者を求め、ある者が運開の弟の運閎を挙げたので、ただちに招聘した。運閎は行って潞江に至ると、下僕に「私と兄が別の道を行ってよいものか。私が死んだら、お前は私の骨を収めて兄と合葬してくれ」と言い、そのまま川に躍り込んで死んだ。