明史卷二百九十三 列傳第一百八十一 忠義五
篇首の立伝者一覧
- 武大烈(徐日泰等)
- 錢祚徵
- 盛以恒(高孝誌等)
- 顔日愉(艾毓初等)
- 潘𢎞(劉振世等)
- 陳豫抱(許 宣等)
- 劉振之(杜邦舉 費曽謀等)
- 李乗雲(余 爵等)
- 闗永傑(侯君擢等)
- 張維世(姚若時等)
- 王世琇(顔則孔等)
- 許永禧(髙斗垣等)
- 李貞佐(周卜厯等)
- 魯世任(張 信等)
- 劉 禋(陳顯元等)
- 何 燮(左相申等)
- 趙興基(鄭元綬等)
武大烈――永寧知縣として
- 武大烈は臨潼の人。天啟七年(1627年)の郷試に挙げられ、崇禎年間に永寧知縣を授かった。萬安郡王の威を頼んで無法を働く奸人を厳しく処罰した。
- 崇禎十三年(1640年)十二月、李自成が南陽から宜陽を陥とし、知縣唐啟泰が殺された。ついで永寧を攻めた。大烈は郷官の四川巡撫張論と協力して防いだ。論が死ぬと、その子の吏部郎中鼎延と、従父の治中讚が引き継いだ。
- 獄囚が賊を手引きし、都司馬有義は城を棄てて逃げた。大烈・鼎延らは三日固守したが、賊は夜半に城壁に登り大烈を捕らえた。自成は同郷のよしみで生かそうとしたが大烈は屈せず、印を求められても渡さず、焼き焙られて死んだ。
- 鼎延は涸れ井戸に隠れて免れ、讃と子の國學生祚延は死んだ。主簿魏國輔・教諭任維清・守備王正已・百戸孫世英もみな屈せず死に、萬安王采□(底本欠字)も殺された。
- 賊は偃師へ移って一日で陥とし、知縣徐日泰は大いに罵って屈せず、賊に切り刻まれて死んだ。啟泰は掖縣の人、日泰は金谿の人、ともに郷挙から起家した。
武大烈――河南諸邑の相次ぐ陥落
- 翌十四年(1641年)正月、賊は寳豐を陥とし知縣朱由椷が死んだ。宻縣を陥とし、知縣朱敏汀と、里居の太僕卿魏持衡・舉人馬體健が死んだ。由椷は益府鎮國将軍常澈の子、敏汀も宗室で、ともに貢生出身。敏汀の妾張、娘一人、孫一人、および臧獲数人もみな死に、由椷とともに僉事を贈られた。
- この月、洛陽が陥ち、郷官の来秉衡・劉芳奕・常克念・郭顯星・韓金聲・王明・楊萃・荀良翰らが節に抗して死んだ。
- 秉衡は天啟四年(1624年)に郷試に挙げられたがまだ仕えていなかった。城が陥ちて賊将劉宗敏に捕らえられ、服を改めて官に就けと迫られたが応じず、南郊の民家に繋がれた。友に会って「賊は私に官を強いるが、義として辱めは受けぬ。母が老い子が幼いまま死ぬのが心残りだ」と言った。賊はこれを聞いて焼けた鉄索を脛にかけたが、ついに従わず殺され、母の劉、妾の吳、幼子もともに殺された。
- 芳奕は慷慨で知略があり、秉衡と同年に郷試に挙げられ、昌樂知縣となって官を解いて帰った。大凶作で人が人を食う有様となると、私財を傾けて救済した。賊が次第に迫ると義士を集めて干城社をつくり、有司を助けて守りを固めた。城が陥ちると西城の戍樓で縊れて死んだ。
- 克念は進士に挙げられ平陽推官となって声望があった。顯星は郷試に挙げられ翰林待詔。金聲と明はともに進士で、金聲は邯鄲知縣、明は行人の官にあった。萃と良翰はともに舉人で、萃は辰州知府、良翰は未仕であった。
錢祚徵――汝州知州
- 錢祚徵は字を錫言といい、掖縣の人。崇禎中に郷挙から歴官して汝州知州となった。汝州は流賊が行き来する要路で、そのうえ土宼が山中に拠っていた。
- 祚徵はまず土宼を除こうと考え、壮士千人を募って訓練する一方、人を遣って言葉巧みに招撫させ、夜半に間道を取ってその巣を直撃した。宼は大敗した。そこで民に千家ごとに一つの大寨を立てさせ、急あれば鉦を鳴らして助け合わせた。宼の勢いは衰え、その魁もついに降った。
- 十四年(1641年)正月、李自成が急襲した。祚徵は城に登って守り、流矢に中たってもいよいよ力を尽くした。一月余りののち、大風と砂塵のなか礮が炸裂して樓が焼け、城はついに陥ちた。賊を罵って死んだ。汝州の人は廟を立ててこれを祀った。
盛以恒――商城の守り
- 盛以恒は潼闗衛の人。崇禎十三年(1640年)に舉人から商城知縣となった。着任して一月余りで流賊が突如至ったが撃退した。
- 翌年、張獻忠が襄陽を陥とし隣境が大いに恐れた。以恒はすでに開封同知に遷って出発しようとしていたが、士民が懇ろに引き留めたので城壁に登り、郷官の楊所修・洪允衡・馬剛中・段增輝とともに城を守った。
- 二月中、賊がにわかに至った。折しも雨雪で守兵は凍え飢えて戦えず、以恒は家の者を督して賊十七人を射落とした。賊は怒って力を併せて攻め、矢が以恒の右額に中たったが、傷を裹んでなお拒み戦った。賊が北城に登り、家の者は巷戦してほとんど死に尽くし、以恒は捕らえられ、賊を罵って屈せず、手足を裂かれて死んだ。孫の覺、および典史吕維顯・教諭曺維正もみな死んだ。
- 所修はもと魏忠賢の党で左副都御史を歴任し、逆案に入れられて贖罪のうえ徒刑となり民に落とされていたが、ここで賊を罵って死んだ。允衡は萬厯中の進士で陽和兵備副使を歴任し、北門を分け守って力戦して死んだ。剛中は字を九如といい、崇禎七年(1634年)の進士。大同知縣に除せられ、行取されて檢討を授かり、休暇を乞うて帰郷していた。賊が入ると大いに罵り、磔にされて死んだ。增輝は字を含素といい、諸生として学行を称された。朝廷が保舉の令を下したとき薦められたが吏となるのを喜ばず、教授に擬せられたものの選に謁せず帰り、変に遭って賊を罵って死んだ。
盛以恒――信陽・光山の陥落と贈䘏の制の改定
- 賊は商城を陥とすとただちに信陽に迫った。城が陥ちて知州高孝誌、訓導李逢旭・程所聞、里居の靜海知縣張映宿が死んだ。光山が陥ちたときは典史魏光逺も死んだ。所司が贈䘏を請うたが返答がなかった。
- 十五年(1642年)七月、帝が詔を下した。近ごろ州縣の有司は守備を設けず、賊が至ればただちに城が陥ちる。長く力を尽くして戦った者と同列に、天啟年間の例をそのまま援いて贈廕を優遇しては、どうして功臣を旌し勧めることになろうか。今より五品以下は監司を贈るにとどめ、四品および方面の官から京卿を贈ることとし、これを令とする、というのである。
- そこで以恒に副使、孝誌に叅議を贈り、維顯らにも差をつけて贈䘏した。天啟中は州縣の長吏で殉難した者にはおおむね京卿を贈り、錦衣の世職を廕し、祭葬を賜い、有司が祠を建てていた。崇禎初めに廕を國子生に改めて出仕させたが、京卿を贈ることは元のままであった。ここに至って初めて外僚の官を贈る形に改まったのである。
顏日愉――葉縣・靜寧から南陽知府へ
- 顏日愉は字を華陽といい、上虞の人。萬厯中に郷試に挙げられ、崇禎初めに葉縣知縣に除せられた。惠政があったが上官に憎まれ弾劾されて罷められ、部民が争って闕に詣でて冤を訴えたので叙用を得た。
- のち靜寧知州となった。玀賊が乱を起こすと馳せて固鎮五道の兵を請い、合わせて𠞰することとしたが、まず自ら敢死の士数人を率いて招諭した。賊が備えを緩めたところで精卒を遣ってその営を突かせ、賊は倉皇として潰え、数百級を斬った。夜明けに五道の兵が続いて到着し、さらに大破した。
- 開封同知に遷った。流賊の勢いがまさに熾んで、上官は南陽が要衝であるとして日愉を知府に挙げた。守りの備えを大いに整え、人心はやや固まった。
- 十四年(1641年)五月、賊がにわかに至り、百余人が雨を冒して城に登った。日愉はこれをほとんど殺し尽くし、残った賊は引き揚げ、城は全うされた。日愉は手に矢一本を受け、頭と項に二つの刃を受けて城上で死んだ。事が聞こえて太僕卿を贈られた。
顏日愉――艾毓初と南陽の再陥落
- 賊は志を得ずに去り、そのまま近隣の州縣を掠め、その冬ふたたび南陽を囲んで攻め陥とした。參議艾毓初がここで死んだ。
- 毓初は字を孩如といい、米脂の人。戸部侍郎希淳の曽孫である。崇禎四年(1631年)の進士で内鄉知縣を授かった。辺境に生い育って戦事に習熟していた。六年冬、流㓂が来襲すると、滚地龍と名づけた大礮を城外に埋め、城中から導火線に火をつけて発した。賊は数知れず死んで囲みを解いて去った。内鄉と隣邑の淅川は深山幽谷が多く盗の巣となり、民は怯えていたが、毓初が至って守備を設けたので民はいくらか安んじた。
- 翌年冬、唐王聿鍵が上言し、祖制では親王の封地の有司は朝夕必ず謁見するはずなのに、今の艾毓初らは謁見しない、と述べた。帝は怒ってことごとく捕らえて法司に下し、禮部に典制を申し明かすよう命じた。のち王が逮えられ、毓初は補官を得て右參議に累遷し、南陽を分け守り、日愉とともに賊を退けて功があった。
- 自成は宋獻策の計を用い、南陽を取って關中を図ろうとして大衆を率いて再び来襲した。毓初は総兵官猛如虎らとともに堅守した。賊が南門に攻め入ったが、折しも総督楊文岳の援軍が到着して賊は退いた。文岳が去ると賊はまた攻め、糧食は尽き援軍も絶えた。毓初は城樓に詩を題して自ら縊れた。南陽知縣姚運熙、主簿門迎㤙、訓導楊氣開も死んだ。
- 翌年十月、自成はふたたび南陽を陥とし、知府邱懋素は賊を罵って屈せず、一門ことごとく殺された。
- この月、賊が扶溝を過ぎ、衆は城を守る議をした。舉人の劉㤙澤はかつて献策して当事者に多く用いられていたが、県令が愚かで事を解さないので痛哭し、「私は不幸にも木偶人に従って死ぬのだ」と言い、みずから樓の壁に「千古綱常事、男兒肯讓人(千古の綱常のこと、男児あに人に譲らんや)」と題した。翌日、城が陥ちると樓下に身を投げて死んだ。
潘𢎞――舞陽知縣
- 潘𢎞は字を若稚といい、淮安山陽の人。貢生から起家し、崇禎十三年(1640年)に舞陽知縣となった。当時、流賊が猖獗をきわめ土㓂も時おり起こったが、𢎞は幾度もこれを討ち破った。
- 翌年十一月、李自成と羅汝材(羅汝才の誤りか)が南陽を陥とし、兵を放って属する州縣を覆し、舞陽を攻めようとした。𢎞は士民に諭してともに拒んだ。諸生は屠城を恐れて事を穏便にして禍を和らげるよう請うたが、𢎞は叱って退けた。
- 賊が城に迫ると礮を発して多くを斃し、弓に巧みな小校が幾度も賊を退けた。しかし諸生はひそかに人を遣って降を約した。賊が再び至ると、𢎞は先聖に告げる文を作って必死を誓ったが、諸生はひそかに門を開き、𢎞を縛って賊に差し出した。賊が印を求めても宏(𢎞と同人。底本で字が揺れる)は渡さず、降を強いられて怒り罵り屈しなかったので、手足を裂かれて死んだ。子の澄瀾は痛み憤って大いに哭し、井に身を投げて死んだ。
潘𢎞――鄧州・鎮平・信陽方面の陥落
- このとき鄧州・鎮平・内鄉・泌陽・新野が相次いで陥ちた。鄧州知州劉振世、吏目李國璽、千戸余承廕・李鍚、諸生丁一統・張五美・王鍾・王子章・海寛・傅彥がみな節に抗して死んだ。鎮平知縣で成縣の人の鍾其碩は捕らえられ賊を罵って死んだ。内鄉知縣で南昌の人の龔新、新野知縣で四川の人の韓醇も、ともに屈せず死んだ。泌陽は二度にわたって陥ちた。
- この年五月、張獻忠が信陽を破った。左良玉の旗幟を奪い、それを掲げて城に登ったのである。知縣で雲南南寧の人の王士昌は印を懐いて端坐し、縛られてもなお罵り死んだ。臨昌の姚昌祚が代わったが、わずか数月でまた陥ち、昌祚は自ら数賊を斬り、力尽きて死んだ。典史雷晉暹は捕卒を率いて戦死した。また武職の王衍范・錢繼功・海成もみな死難した。
- 鄧州は十年春に張獻忠に破られ、知州孫澤盛・同知薛應齡がともに戦死しており、ここでまた陥ちたのである。
陳豫抱――一家三世九人の殉節
- 陳豫抱は舞陽の人。母の段は早くに寡となり、豫抱と弟の豫飬・豫懐を育てた。三人はみな諸生で、力田好学、よく母の志を承けた。
- 崇禎十四年(1641年)、流賊が舞陽を陥とすと、母がまず井に赴き、三人の子がこれに従った。豫抱の妻の黄はその子の黙通を携え、豫飬の妻の馬は子の黙恒・黙言を携えてともに従い、三世九人が一時に節を尽くした。
陳豫抱――許氏七烈と偃師・唐縣の死節者
- このとき郡邑の諸生で死んだ者は甚だ多く、その著しい者を録す。内鄉の許宣とその二人の弟の寀・宫は慷慨で義を好んだ。賊が鄧州を陥とすと、宣の兄弟は里中の壮士を結んでその城に直入し、偽官を擒にした。許家寨に拠って守ったが賊は怒って攻め破った。寀は母の常に従ってまず井に投じて死に、宣と宫はともに賊を罵って殺された。宫の妻の鍾、寀の妻の陳はともに自ら縊れ、その妹も賊を罵って殺された。時に許氏七烈と称された。
- 賊が偃師を攻めたとき、張毓粹は二人の子を率いて有司を助けて固守した。城が陥ちて大いに罵り、ともに殺された。妻の藺と三人の娘・二人の孫はことごとく井に赴いて死んだ。賊が武同芳の母を殺すと、同芳は血を噴いて大いに罵り、手足を裂かれて死んだ。劉芳名・劉芳世・藺之粹・喬于昆・藺完馪・王光顯・喬國屏・王邦紀・藺相裔・張一鷺・張一鵬・牛一元がみな節に抗して死んだ。芳名と完馪の妻はともに張氏で、邦紀の妻の髙とともに従って死んだ。一鷺・一鵬の父も賊を罵って死んだ。
- 唐縣の許曰琮は早くに父を喪い、母が没すると三年廬墓した。城が破れて南山に遁れ住み、賊が徴しても出ず、死をもって脅されると背に「誓不從賊(誓って賊に従わず)」と鐫り、血を吐いて死んだ。
劉振之――鄢陵知縣
- 劉振之は字を而強といい、慈谿の人。性は剛方で学行に篤く、郷人に重んじられた。崇禎初めに郷試に挙げられ、教諭から鄢陵知縣に遷った。
- 十四年(1641年)十二月、李自成が許州を陥とし、知州王應翼が殺され、都司張守正、郷官魏完真、諸生李文鵬・王應鵬がみな死んだ。許州以南に堅城はなく、日ごろ賊に通じていた奸人が「城は小さいから速やかに降るべきだ」と唱えたが、振之は怒って叱り退けた。典史杜邦舉が「城が存すれば与に存し、亡べば与に亡ぶ。これが人臣の大義です。公の言こそ正しい」と言い、振之は吏民を集めてともに守った。
- 賊が大挙して至り城が陥ちると、振之は笏を秉って堂上に坐した。賊が印を求めても与えず、雪の中に縛って置かれ、三日三晩罵り続け、乱刃を浴びて死んだ。
- はじめ振之は小さな書付を一つ箱に蔵し、毎年元旦に取り出して見ては、その上に紙を貼り重ねていた。死後、家人が箱を開くと、「不貪財(財を貪らず)・不好色(色を好まず)・不畏死(死を畏れず)」の三語であった。志の立てようがこのようであった。光禄寺丞を贈られた。
- 邦舉は富平の人。許州が屠られて鄢陵の人が恐れ、守る者に逃げ出す者が出ると、邦舉は捕らえて斬り、晒して見せしめとした。城が陥ちると自成は降そうとしたが、邦舉は「朝廷の臣子がどうして賊に用いられようか」と罵った。賊がその舌を抉ると、血を含んで吹きかけ、ついに殺された。
劉振之――開封属邑の死節者
- 開封の属邑は多く陥ち、殉難した者に費曾謀・魏令望・柴薦禋・楊一鵬・劉孔暉・王化行・姚文衡らがいる。
- 曽謀は鉛山の人、少師宏の裔。郷挙から通許を知り、わずか四十日で賊がにわかに至った。曽謀は父老を召して「私が死んだら、汝らは城を挙げて降れば屠戮を免れよう」と言い、北に向かって再拝し、印を抱いて井に投じて死んだ。
- 令望は字を于野といい、武鄉の人。進士に挙げられ商邱知縣を授かり、太康に調された。㓂が至ると固守して落ちず、賊は怒って攻め破り城を屠った。令望は一門で自ら焼け死んだ。
- 薦禋は江山の舉人で洧川を知り、城が陥ちて大いに罵って死んだ。
- 一鵬は河津の人、崇禎九年(1636年)の郷試に挙げられ尉氏知縣となった。わずか数月で政声が四方に起こったが、城が破れて賊を罵って死んだ。
- 孔暉は邵陽の人、天啟元年(1621年)の郷試に挙げられ新鄭を知った。固守したが支えきれず死んだ。士民は子産祠に祀った。
- 化行は商水を知り、城が陥ちて殺された。代わった文衡は着任数月で賊がまた至り、印を携えて井に赴いて死んだ。
- 小吏では臨潁千總賈廕序・長葛典史杜復春、郷居の者では長葛の舉人孟良屏・諸生張範孔ら、汜水の舉人張治載・馬徳茂がみな死んだ。
李乗雲――禹州の死守
- 李乗雲は高陽の人。郷試に挙げられ、崇禎初めに浮山縣を知った。流賊数万が来襲したが、乘雲はみずから一書を発してその魁を斃し、衆は遁走した。屢遷して山西僉事となった。
- 十四年(1641年)秋、才を認められて河南大梁道に調され禹州に駐した。十二月、李自成が鄢陵・陳留の諸縣を連ねて陥とし、そのまま禹州に迫った。乗雲は死を誓って固守し、賊は礮に多く斃れた。にわかに十万の衆が城壁をよじ登り、乗雲を捕らえて跪かせようとしたが、乗雲は怒って賊を叱った。引き倒されて杖打たれても大罵をやめず、樹に縛られて矢を集中して射られてもなお罵り、舌を断たれ、乱刃を浴びて死んだ。光禄卿を贈られた。
- 禹州にはもと徽王府があったが、嘉靖のとき王の載埨が罪あって爵が絶え、延津など五郡王もみな難に遭っていた。
李乗雲――余爵と任棟
- 翌年、賊が開封を犯し、監軍主事の余爵と監軍僉事の任棟が前後して戦死した。
- 棟は永夀の人。貢生から萊州通判となった。崇禎四年(1631年)に李九成らが叛くと、棟は知府朱萬年を佐けてともに守った。萬年と巡撫謝璉が賊に誘い出されて捕らえられると、棟は同知の㓂化、掖縣知縣の洪恩炤とともに大帥楊御蕃を助けて力を尽くして拒み、囲みは解けた。功を論じて秩を進め、保定監軍僉事に累遷した。十四年、総督楊文岳に従って南征し、鳴臯鎮の捷に功があった。ついで総兵虎大威とともに平峪で賊を破り、さらに鄧州で破った。翌年正月、開封の囲みを解くのに従い、ついで郾城に戦って大勝した。のち開封の救援に従ったが、左良玉が朱仙鎮で大潰し、賊が追ってきて棟は力戦して陣没した。
- 余爵は禹州の人。崇禎元年(1628年)の進士。府寧・章邱を歴知し、職方主事に遷って罷めて帰った。楊嗣昌が督師として出るとき、爵を故官のまま參謀軍事とするよう請うた。嗣昌が蜀に入ると、張克儉とともに㐮陽を守らせた。城が陥ちて爵は脱走し、督師丁啟睿に従って河南にあり、鄧州で賊を破った。十五年、開封の囲みが急となり、左良玉の軍を監して救援に赴いたが、戦い敗れて捕らえられ、賊を罵って死んだ。姪の敦華も殺された。棟に太僕卿、爵に太僕少卿を贈った。
闗永傑――陳州の防戦
- 闗永傑は字を人孟といい、鞏昌衛の人。代々百戸の官にあった。読書を好み、忠義の事に出合うたびに壁に書きつけた。容貌は奇偉で、世に描かれる闗忠義の像に似ていた。
- 崇禎四年(1631年)、會試のため都に入り、仲間と忠義祠に遊んだ。ある道士が進み出て「昨夜、神が『わが後人に登第する者が出よう。その者はさらにわが忠義を継ぐ。告げてよい』と夢に告げた」と言った。永傑は驚きつつ内心喜んだ。果たして登第し、開封推官を授かった。剛直で阿らず、民に畏れられ愛された。憂に服して帰り、紹興で起官、兵部主事に遷った。
- 督師楊嗣昌がその才を薦め、軍前に用いるよう請うたので、睢陳兵備僉事に擢でられ陳州に駐した。陳はもと賊の要衝で毎年蹂躙されており、永傑は日夜警備を怠らなかった。
- 十五年(1642年)二月、李自成の数十万が来攻した。永傑は知州侯君擢、郷官崔泌之、舉人王受爵らと士民を率い、城壁を分けて守った。賊が使者を遣って降を説かせると、その首を斬って城上に懸けた。賊は怒って攻め破り、永傑は数賊を格殺し、乱刃に中って死んだ。
闗永傑――侯君擢・崔泌之・王受爵
- 君擢は字を際明といい、成安の人。舉人から起家した。城が囲まれたとき士卒に先んじて木石を運んで賊を撃ち、城濠を埋め尽くした。のち縛られたが罵り続けて死んだ。
- 泌之は鹿邑の人、進士。䧺縣を知り清苑に調され、建てるところが多かった。前任の令の黄宗昌が御史となって周延儒を弾劾したので、延儒は保定知府に宗昌の罪を拾い集めさせ、知府はそれを泌之に命じた。泌之は「人を殺して人に媚びてよいものか」と言い、知府は恥じかつ怒った。泌之が戸部主事に遷ると、知府は錢粮三万を侵し隠したと言い立てたが聴かれなかった。行御史が部を巡って至ると、泌之は進み出て知府と争い、御史がこれを上聞して下獄・遣戍となり、久しくして釈されて帰った。ここで変に遭い、鉄杖で賊数人を斃して自ら剄して死んだ。守備の張鷹揚は力戦して捕らえられ屈せず、受爵も数賊を撃ち殺し大いに罵って、ともに死んだ。
- 永傑に光祿卿、君擢に右叅議を贈り、泌之には故官を復し、受爵には宛平知縣を贈った。
- 龔作梅という者があり、年十七。父母がともに亡くなって舎に殯していた。賊が民家を焼くと、作梅は柩の前に跪いたまま焼け死んだ。
張維世――太康の陥落
- 張維世は太康の人。萬厯四十四年(1616年)の進士。平陽知府を歴任し、絳州の奸猾数十人を捕らえて治め、副使に遷り、右僉都御史に累官して陳新甲に代わって宣府を巡撫した。ところが視事わずか十日で防を失した咎により削籍・遣戍となり、のち釈されて帰った。
- 崇禎十五年(1642年)二月、李自成が睢州を陥とし太康を犯すと、維世は知縣魏令望を佐けて力を尽くして拒み守り、城が陥ちて節に抗して死んだ。
張維世――中州の縉紳の死難
- このとき中州の縉紳で前後して死難した者は甚だ多い。十三年、登封の土㓂李際遇が飢饉に乗じて乱を唱え、旬日で衆は数万となった。前の鳳陽通判姚若時は魯荘に居て捕らえられ、降を誘われて大いに罵って死んだ。族の諸生丕顯も死んだ。若時の子で諸生の城は父の讎に報いようと幾度も兵を請うて賊を討とうとしたが、賊が路上でこれを捕らえ、やはり抗し罵って死んだ。
- 陝州の趙良棟は蓬莱教諭に仕えて罷めて帰り、澠池に寓した。宼が澠池を陥とすと、子の徳易とともに賊を罵って死に、子の婦と孫も井に赴いて殉じた。
- 陝州が陥ちたとき、平定知州梁可棟は大いに罵って死に、淮安同知萬大成は井に投じて死んだ。商水が陥ちて臨汾知縣張質は賊に抗して死に、西平が陥ちて懐仁知縣楊士英が死に、その子の婦の王も死んだ。睢州が陥ちて太平知府杜時髦が屈せず死んだ。時髦は字を觀生といい、崇禎七年(1634年)の進士。
- 息縣が陥ちると、賊は前の項城殺諭(教諭の誤りか)王多福を召して官に就けようとしたが、堅く拒んで赴かず、賊に逼られて縊れて死んだ。
- その後、国変によって死んだ者に洛陽の阮泰がいる。廣靈を知り職を解いて帰り、京師陥落を聞いて食を絶って死に、妻の朱氏も従った。
- 睢州の楊汝經は崇禎十年(1637年)の進士。戸部主事を授かり、井陘兵備僉事に擢でられた。十七年(1644年)、甘肅が陥ちて巡撫林日瑞が殉難すると、汝經は右僉都御史に超拝されてこれに代わった。林縣まで来たところで京師の陥落を聞き、南京に赴こうとして東明に至り、壮士百余騎を率いて引き返して林縣の偽官を討とうとしたが、賊に遇って戦い敗れ捕らえられた。偽官はその縛を解いて幾度も降を説いたが従わず、獄で殺された。
王世琇――歸徳の防戦
- 王世琇は字を崑良といい、清苑の人。崇禎十年(1637年)の進士。歸徳推官を授かり、工部主事に遷った。
- 十五年(1642年)二月、李自成が陳州を陥とし、勝ちに乗じて歸徳を犯した。世琇は出発しようとしていたが、僚属が引き留めてともに守ることを請うた。世琇は慨然として「久しくこの地の官にあった者が、難に臨んで去るのは義ではない」と言い、同知顔則孔、經歴徐一源、商邱知縣梁以樟、教諭夏世英、里居の尚書周士樸らとともに衆に誓って堅く守った。
- 賊は七日にわたって攻め囲んだ。総督侯恂の家は商邱にあり、その子の方夏が家の者を率いて関門を斬り開いて出、守兵を傷つけたため衆が乱れ、賊がそれに乗じて入った。世琇と則孔はともに殺され、則孔の娘はそれを聞いてただちに自ら縊れた。一源は北城を分け守って賊を多く殺し、城が陥ちると巷戦して賊を罵って死んだ。以樟は賊の刃に中り、久しくして蘇生した。妻の張と子女・僕従はみな死んだが、以樟はついに免れた。世英は刀を持って賊を罵り、明倫堂で死に、妻の石も自ら刎ねた。
王世琇――ともに死んだ者
- ともに死んだ者は、尚書士樸、工部郎中沈試、主事朱國慶、中書侯忻、廣西知府沈仔、威縣知縣張儒、および舉人の徐作霖・吳伯允・周士美ら六人、官生の沈泌・侯晙ら三人、貢生の侯恒・沈誠・周士貴ら八人、國學生の侯悰・沈倜ら四人、諸生の吳伯裔・張渭・劉伯愚ら百十余人である。
- 試は商邱の人で、大學士鯉の孫。作霖・伯允・伯裔・渭・伯愚はみな郡中の名士。則孔は忻州の人、一源は海鹽の人、世英は祥符の人。士樸には別に𫝊がある。
- 賊は歸徳を破ると、ついで鹿邑を陥とし知縣紀懋勛が死に、虞城を陥として縣事を署した主簿孔亮が死んだ。
許永禧――上蔡知縣
- 許永禧は曲沃の人。郷挙から上蔡知縣となり、惠政が多かった。性は耿介で、笑顔ひとつ人に借さなかった。
- 崇禎十五年(1642年)春、李自成が数騎を城下に遣って降を脅した。永禧はただちに吏民を督して城を守った。賊が「今日降らねば明日は屠るぞ」と大呼して衆は懼れた。永禧は嘆じて「賊の勢いは猖獗、弾丸のごとき小邑がどうして守れよう。私は一死して職を尽くすまでだ」と言い、衆はみな泣いた。翌日、賊が果たして大挙して至り、守る者は驚いて潰えた。永禧は袍と笏を着けて北面再拝し、案に凭れ燭を秉って端坐し、賊が入るとみずから剄して死んだ。
許永禧――西平・遂平と官篆
- このとき西平・遂平も相次いで陥ちた。西平知縣の高斗垣は繁峙の人、崇禎十二年(1639年)に貢生から官を授かった。人となりは孤鯁で清慎の名があり、城が陥ちて捕らえられ屈せず死んだ。遂平知縣の劉英は貴州の貢生で、衆に誓って死守し、城が陥ちて賊を罵って死んだ。
- 上蔡が陥ちたのち、官篆という者が汝寕通判として県事を摂りに赴いた。城中の民家は焼き尽くされ、篆は広く流亡の民を招いたが、衆は様子をうかがって入ろうとしなかった。折しも左良玉が城南に駐して兵士が恣に淫掠したので、衆はようやく城に入って篆に依った。村民が難に遭って訴えて来ると、篆はただちに良玉の営に入り大義をもって責め、奪われたものを取り返した。悍卒が弓や刃を向けても、篆は腹をはだけて当たり、害することができず、家室を全うし得た民は甚だ多かった。
- この年の冬、汝寧が陥ちた。賊党の賀一龍が上蔡の地を掠め、土㓂が剽掠しているという誤報が伝わって、篆はこれを防ぎ、陣に陥って死んだ。篆は膠州の人で、任子から起家した。
李貞佐――郟縣知縣
- 李貞佐は字を無欲といい、安邑の人。若くして同里の曹于汴の門に学び、学行で知られ、のち郷試に挙げられた。崇禎十四年(1641年)、郟縣知縣に除せられた。
- はじめ李自成が郟に焼き掠めに至ったとき、土宼が導いて前令の邵可灼を害していた。貞佐は着任すると郷兵を練り、土宼の財を括って軍餉に充て、時おり郊に出て耕す者を労い、月ごとに士を課した。邑に賊に抗して死んだ姉妹二人がおり、その冢を拝して少牢で祀った。民の王允錫に孝行があり、廬を造って礼遇した。士民は大いに悦んだ。
- 翌年二月、自成がふたたび来襲した。貞佐は衆を集めて死守した。汝州吏目の顧王家は仁和の人で、賊を撫して功があり遷るべきところ、汝州の人が留任を乞うて貞佐を助けさせた。
- 城が陥ちると貞佐は走って母を拝し、「私は不忠不孝、母をここまで陥れました」と言った。微服して遁れるよう勧める者があったが応じなかった。賊が捕らえて連れ去るとき大いに罵り、賊が人を殺すのを見るたび厲声で「百姓を駆り立てて固守させたのは私だ。みだりに殺して何になる」と言った。賊はその舌を割き、手足を裂いて殺した。母の喬も死んだ。
- 友人の王昱は付き従って去らず、賊もその義を認めた。昱は貞佐を南郊に葬り、毎年寒食に士民が邑を挙げて祭奠し、その冢は二畆余りに広がった。河南僉事を贈られた。
- 王家も大声で賊を叱り、乱刃で斫り殺された。その子の國は、賊を誘って墟墓の間の金を掘らせ、巨石で撃ち殺した。賊はそこで郟の人をことごとく殺した。
李貞佐――陳心學・周卜厯と汝州四邑
- 郟に陳心學という者があり、知縣を授けられたが選に謁せず帰っていた。その友の周卜厯は郷試に挙げられ内黄を知り、父の喪で里に帰っていた。自成が郟を陥として二人を捕らえ、官に就けようとした。心學は従わず殺された。自成が卜厯に「私のために知縣を捕らえて来い。汝の死に代えてやろう」と言うと、「人を害して己を利するのは仁者のせぬことだ」と答え、賊は怒って併せて殺した。
- 汝州の管する四邑もみな陥ちた。寳豐知縣張人龍は遵化の人、城が陥ちて屈せず死んだ。その妻は年若く、悍奴四人が犯そうとしたが、妻は酒を飲ませて存分に楽しませ、ひそかに婢を遣って丞尉に告げ、奴を捕えて殺させ、そのうえで櫬を扶けて故里に帰った。魯山知縣楊呈芳は山海衛の人で惠政があった。練總の詹思鸞が進士の宗麟祥らと不軌を謀ったので、呈芳は捕らえて斬った。城が陥ちて死んだ。伊陽知縣孔貞璞は曲阜の人。賊が城に迫ったが守禦が堅く、囲みを解いて去った。後日、汝陽で用があり、道で賊に遇って捕らえられ、やはり屈せず死んだ。
李貞佐――李得笥と中州の舉人
- 寳豐が陥ちたとき、舉人の李得笥は短衣で衆に紛れていたが捕らえられた。賊の謀主の牛金星はもと舉人であり、賊に舉人を重く用いるよう勧めていたので、賊は至る所で舉人を得ると官を授けていた。得笥はついに自ら名乗らず、賊はその舉人であることを知らずに使役した。従おうとせず、賊が寝入った隙に刺そうとしたが気づかれて殺された。ある者が賊に「これは舉人だ」と告げると、賊は懼れてその屍を棄てて去った。
- このとき中州の舉人で節に殉じた者は、南陽の張鳳翷・王明物、洛陽の張民表、永城の夏云醇、商城の余容善、光州の王者琯、光山の胡植、嵩縣の王翼明で、みな賊を罵って死んだ。
魯世任――鄭州の学と最期
- 魯世任は字を媿尹といい、垣曲の人。性は端方で親に孝、安邑の曹于汴に学び、また絳州の辛全と交わって、学問は日ごとに聞くところがあった。天啟末に郷試に挙げられ、崇禎十年(1637年)に鄭州を知り、天中書院を建てて士子を集めて講義し、遠近から学ぶ者は千人に上った。
- 十三年秋、給事中范士髦が、世任および臨城の諸生喬已百、内邱の太原通判喬中和を朝に薦め、徳行醇儒であり薛瑄・陳獻章の後を継ぐに足るとして、平臺に召して試み、左右に置いて顧問に備えるよう乞うたが、報ぜられなかった。
- 十五年(1642年)、流賊が来襲した。世任は民兵を勒して河のほとりで防いだが、戦い敗れて自ら剄して死んだ。士民は書院の中に祀った。
魯世任――襄城・西華・汜水の陥落
- その年正月、賊が襄城を陥とし、知縣曹思正が殺され、訓導張信は賊を罵って屈せず死に、典史趙鳳豸は賊を拒んで死んだ。また西華を陥とし、知縣劉伯驂は印を懐いて井に投じた。翌年、汜水が陥ちて知縣周騰蛟も死んだ。
- 伯驂は河間の人。歳貢生から官を得た。賊の報が急となると妻に母を奉じて帰らせた。城が囲まれ、降を勧める者があるとただちに斬り、城壁に登って死守した。賊は配下を十隊に分けて代わる代わる攻め、城はついに陥ち、節に抗して死んだ。
- 騰蛟は香河の舉人。邑は兵乱と飢饉に苦しんでいたが撫育に術があり、その合間に徭役を釐定して民は大いに便とした。城は河畔に孤立しており、県人の吳邦清らが城南に七つの砦を立てて掎角をなし、摩天砦が最も険しかった。土㓂の李際遇は、騰蛟が河北へ行った隙をうかがって急ぎこれに拠り、そのまま県城を攻めた。騰蛟は聞いて上官に力めて救兵を請い、兵が至って囲みは解けた。騰蛟は旧城が守りにくいと考え、県治を摩天砦に移して賊の要衝を扼した。ほどなく賊が大挙して至り、十余日持ちこたえたが支えきれなくなった。砦は河に臨み、渡れば免れられたが、騰蛟は「どうして衆を捨てて独り生きられよう」と言って河に身を投じた。賊が退いてから人が河辺でその屍を得たが、印は肘に懸かっていた。
魯世任――河南の惨状と十六年の詔
- 河南はすべて八郡、うち三郡が河北にある。六年に蹂□(底本欠字)されて後、賊は再び河北を犯さなかった。
- その南の五郡十一州七十三縣は、残破しないものがなく、再び三たび破られた所もあった。城郭は丘墟となり、人民は百に一も残らず、朝廷ももはや官を置き直さず、置いてもその地に赴けず、遠く他所に寄せて治めた。残った遺黎はおおむね山寨を結んで自ら保ち、多い所で数千人、少ない所で数百人であった。
- 最大のものは、洛陽では李際遇、汝寧では沈萬登、南陽では劉洪起兄弟で、それぞれ数万の衆を擁し、小さな寨はみなこれに帰した。賊に附く者もあれば朝命を受ける者もあり、陰に陽に様子をうかがった。ただ洪起はかつて副總兵に官していたのでかなり恭順であった。その後、諸人は互いに併呑し合い、中原の禍乱はここに極まった。
- 十六年(1643年)四月、帝は特に詔を下して五郡の賦を三年免じ、諸人に罪を赦すと諭し、偽官を斬った者には職を授け、賊徒を捕えた者には金を賚い、城を復して俘を献じた者は次を越えて抜擢するとしたが、事はもはやどうにもならなかった。
劉禋――家系と孝行
- 劉禋は字を誠吾といい、中部の人。祖父は刑部郎中に仕え、大礼の議を諫めて廷杖され、のち李福達の獄を定めることに与って吏に下され遣戍された。穆宗の朝に太僕少卿に起されたが就かなかった。父の爾完は商邱・名山を歴知し、学行があった。
- 禋は孝であった。母が名山で没したとき、四千里の道を櫬を扶けて剣閣の雲棧に至り、肩に担いで運んだ。父は寝つきが悪く史記を聴くのを愛したので、禋は毎夕朗誦し、父が熟睡してからやめた。崇禎四年(1631年)、賊が中部を陥とすと父を背負って走り、免れた。
劉禋――登封知縣として
- 十四年(1641年)、郷挙から登封知縣を授かった。土宼が乱をなしたが、禋は壮士を練り、守りつつ戦い、宼は近寄れなかった。
- 十五年(1642年)、李自成がその城を陥とし、禋は縛られた。自成は同郡のよしみで降そうとしたが、禋は叱って「代々清白であった吏の家の者が、どうして賊に降ろうか」と言った。自成はその義を認めて賊将を遣り、繰り返し説かせたが、禋の守りはいよいよ厳しく、ついに殺された。僉事を贈られた。
- 陳顯元という者は、副榜から新安知縣を授かった。粗末な衣と粗末な食で、徒歩で民の疾苦を訪ねた。城壁が傾き崩れて宼が来れば守れないので、士民を率いて闕門寨に入って保った。賊が降を促す檄を送るとただちに砕き、来襲すると一月余り死守し、力尽きて陥ちた。賊を見て怒り罵り、賊が寨中の人を大いに殺すと「寨を守ったのは私だ。百姓に何の罪がある。むしろ私を殺せ」と叱り、賊は怒って手足を裂いて殺した。
劉禋――伝の記録が詳らかでない死節者
- このころ河南が賊に遭った酷さはとりわけ甚だしく、それゆえ死事の者もとりわけ多い。その𫝊の記録が詳らかでない者を挙げる。
- 開封の陥落では、同知蘇茂均、通判彭士竒、大使徐陞・閻生白がみな死んだ。士竒は高要の人、郷挙出身。
- 河南(府)の陥落では、前後の知府亢孟檜・王䕃長、通判白守文、訓導張道脉、靈寳知縣朱挺が、あるいは捕らえられて屈せず、あるいは城が陥ちて自尽した。孟檜は臨汾の人、䕃長は吳橋の人、ともに郷挙出身。
- 南陽の陥落では、葉縣知縣張我翼が殺され、新野の前後の知縣陳公・邱茂表がともに死んだ。
- 汝寧の陥落では、武臣として遊擊朱崇祖、千戸劉懋勲・楊紹祖・袁永基とその子の世䕃、百戸葉榮䕃・張承徳・李衍壽・閻忠國がみな力戦して死に、崇祖の妻の孫、永基の母の王も死んだ。歳貢生の林景暘、國學生の趙得庚・楊道臨ら、諸生の趙重明・費明棟・楊應楨・李士諤らもみな死んだ。
- 巡按御史蘇京が詔を奉じて録上したのは、あわせて二百四十九人である。のち国変によって諸籍が散佚し、武職および州縣の未秩の者、舉人・貢生・諸生で漏れた者は、およそ十のうち五、六に及ぶという。
何燮――亳州知州
- 何燮は字を中理といい、晋江の人。郷試に挙げられ、崇禎中に亳州を知った。州は八年以後、宼賊が入り乱れ、さらに飢饉が加わって、民は死に、また移り去って半ばを過ぎていた。燮は心を尽くして撫循し、戦守の備えを甚だ整えた。
- ほどなく山東・河南の土宼が次々に至り、燮は盧家廟に戦って賊魁二人を生け捕り、その腸を刳って衆に示し、降った者数千人を撫した。
- 十五年(1642年)二月、李自成が河南を陥とすと、居民は風を望んで逃げ散り、城は空になって守れなかった。賊が至って燮を捕らえ降そうとしたが、罵って屈せず、足を断たれ胸を割かれて死んだ。首を市に懸けること三日、耳と鼻がなお動いていたという。
何燮――霍邱・靈璧・盱眙
- 賊はそのまま兵を四方に放ち、霍邱・靈璧・盱眙がみな陥ちた。
- 霍邱は八年春に一度陥ち、ここでまた陥ちた。知縣左相申は兵を率いて巷戦し、力尽きて死んだ。吳姓の巡檢も闘って死んだ。
- 靈璧知縣唐良鋭は全州の舉人。城が陥ちて抗し罵って死んだ。
- 盱眙は先に陥ちており、賊が至ると士民はみな逃げたが、主簿の胡淵だけは去らなかった。県にはもと城壁がなく、淵は㦸を持って龜山寺に至り、力闘して数人を斃した。賊は驚いて遁れようとしたが、折しも馬が躓いて捕らえられ、奮って罵って死んだ。淵は永年の人、貢生から起家した。
趙興基――廬州の陥落
- 趙興基は雲南太和の人。崇禎初め、郷挙から廬州通判となった。賀一龍・左金王ら五部が英山・藿山の二山に拠り、夏に入って秋に出るのを常としていた。督師楊嗣昌が監軍僉事楊卓然を遣って招いたが、侮りを受けて帰った。
- 十四年(1641年)六月、賊は英山を襲って陥とし、知縣高在崙が賊に抗して死んだ。十二月、潛山を陥とし、知縣李孕嘉と、日ごろ苛酷で性急であった典史沈所安が奸民・盗賊に捕らえられ、ともに屈せず死んだ。所安の子も死んだ。
- 十五年(1642年)、張獻忠は左良玉に敗れて走り、諸部と合して、三月に舒城を攻めた。一月余りで城が陥ちると得勝州と改めてこれに拠り、党を分けて旁邑を掠めさせ、遊騎は日々廬州城下に至った。
- 興基は知府鄭履祥、經歴鄭元綬、合肥知縣潘登貴、指揮同知趙之璞、里居の叅政程楷とともに門を分けて守った。監司の蔡如衡は貪欲で酷く、民は附かず、賊の諜者が城中に満ちても察知できなかった。
- 五月、提學御史徐之垣が試士のため至った。獻忠はその徒に諸生を装わせ、儒者の冠をかぶらせて城内に入れ、夜半に礮を挙げて城中は大いに擾れた。之垣、如蘅(如衡と同人。底本で字が揺れる)、および履祥・登貴はともに城壁を縋って逃げた。
- 興基はそのとき水西門を守っていたが、変を聞いて刃を挺げて戍樓を下り、闘って数人を斬り、創を受けて死んだ。元綬と楷はともに南薫門を守り、元綬は力闘して死に、楷は屈せず死んだ。之璞は東門を守り、巷戦して死んだ。
- 賊は勢いに乗じて含山・巢縣・廬江および無為・六安を連ねて陥とし、また太湖を陥として知縣楊春芳、典史陳知訓、教諭沈鴻起、訓導婁懋履がともに死んだ。
趙興基――冤の晴れと胡守恒
- 廬州の城池は高く深く、八年春に賊が百方に力攻したが知府吳大樸が堅く守って落ちず、その後も度々犯されたがついに志を得なかったのに、ここに至って計略によって取られた。履祥と登貴は罪を懼れてその責を興基に負わせたが、総督史可法がその冤を察して上聞し、二人を治罪して、興基に河南僉事、楷に光祿卿を贈り、元綬にも贈䘏した。
- 賊が舒城を攻めたとき、県令はたまたま憂によって去っており、里居の編修胡守恒が遊擊孔廷訓とともに民兵を督して守った。ところが廷訓が部下の淫掠を放任したため、士民はついに叛いて賊に降り、城が陥ちようとするとき悍卒が守恒を殺した。事が聞こえて少詹事を贈り、文節と諡した。