明史卷二百九十二 列𫝊第一百八十 忠義四
篇首の立伝者一覧
- 張允登(郭景嵩・郭應響)
- 張光奎(楊于楷ら)
- 李中正(馬足輕ら)
- 方國儒(王紹正・常存畏・劉定國)
- 何承光(髙日臨ら)
- 龎瑜(董三謨ら)
- 尹夢鼇(趙士寛ら)
- 盧謙(張有俊ら)
- 龔元祥(子の炳衡・姚允恭)
- 王信
- 史記言(李君賜ら)
- 梁志仁(單思仁ら)
- 王國訓(胡爾純ら)
- 黎𢎞業(馬如蛟ら)
- 張紹登(張國勛ら)
- 王燾(魏時光)
- 蔣佳徵(吴暢春ら)
- 徐尚卿(王時化ら)
- 阮之鈿
- 郝景春(子の鳴鑾ら)
- 張克儉(鄺日廣ら)
- 徐世淳(子の肇梁・金塙ら)
張允登――出自と甘泉での死
- 張允登は漢州の人。萬厯三十八年(1610年)の進士。寧陽・咸陽を知って善政があった。進士となったとき湯賓尹の門から出たが、賓尹は彼をよしとせず、それでいて東林は賓尹のゆえに彼を憎んだ。
- 卓異に挙げられて刑部主事となり、累進して河安兵備副使となった。鄜延は年々飢饉で、しばしば盗に遭ったが、允登は手厚く慰撫したので士民は徳とした。
- 崇禎四年(1631年)閏十一月、督餉のため甘泉に至ったとき、降卒がひそかに流賊と通じた。賊は知縣の郭永固を捕らえて餉を奪おうとし、允登は力を尽くして防いだが敵わず死んだ。鄜の人は素服してその喪を迎え、哭する声は十里を震わせ、三日間市を罷めた。
張允登――郭景嵩・郭應響
- このとき流賊は日に日に盛んで、總督の洪承疇は往来して奔り撃ち、日々暇がなかった。ひと月あまりで宜君が陥ち、また葮州が陥ちて、僉事の郭景嵩が死んだ。
- 翌年(崇禎五年、1632年)二月、鄜州が陥ちて兵備副使の郭應響が死んだ。應は福清の人。萬厯丙午(三十四年、1606年)の郷試第一。寧塞の残賊が犯してきたとき、應響は防いで賊の常山虎ら十五人を斬った。ここに至って混天猴が衆を率いて夜襲すると、應響は北闕に登って士卒を集めて拒み守り、自ら三賊を殺したが、力尽きて死んだ。
- 事が聞こえると光禄寺少卿を贈られ、諡を忠烈とし、祭葬を与え、子一人を廕せしめて監に入って読書させた。
張光奎――澤州の陥落
- 張光奎は澤州の人。山東右參政に至った。
- 崇禎五年(1632年)、流賊が山西を蹂躙した。監司の王肇生は便宜をもって歙の人の吴開先を将に署し、賊を撃たせた。澤州城の西で戦い、賊は敗れて去り、心水を経て陽城を掠めた。開先は勇を恃んで沁を渡り、北留墩の下で戦い、数百人を撃ち斬ったが、砲弾が尽き援軍もなく、一軍がことごとく没した。
- 賊はそこで再び澤州を犯した。光奎はちょうど里居しており、兄で守備の光壐、千總の劉自安らとともに衆を率いて八日間固く守ったが、援兵は至らず城は陥ち、ともに死んだ。澤は大州であったので遠近が震動した。事が聞こえると光禄卿を贈られ、光壐らも差をつけて贈恤された。
張光奎――楊于楷ら山西各地の死節
- この年、紫金梁らが遼州を寇したとき、里居の行人の楊于楷は主事の張友程とともに、知州で信陽の人の李呈章を助けて拒み守った。力尽きて城が陥ち、于楷は捕らえられて賊を罵って死に、呈章・友程および挙人の趙一亨・侯標もともに死んだ。
- 翌年(崇禎六年、1633年)六月、賊が和順を陥れると、里居の昌平副使の樂濟衆が傷を負って屈せず、井に投じて死んだ。于楷に光禄少卿、濟衆に太僕少卿を贈った。
- 徐明揚という者は浮梁の人。選貢生から平順知縣となった。崇禎六年(1633年)四月に賊が犯してくると、策を設けて守禦し、城が破れて屈せず死んだ。
李中正――盧氏の死守
- 李中正は盧氏の人。萬厯末に会試に挙げられ、天啟二年(1622年)に廷対に赴き、承天府推官に授けられ、兵部主事に遷った。崇禎初年に病と称して帰郷した。
- 崇禎六年(1633年)、群盗が河北を大いに乱し、その冬に承化から河を渡って澠池を経て盧氏を犯した。中州は久しく平穏で備えがなく、賊が至ったと聞いて吏民は狼狽し、知縣の金會嘉は城を棄てて遁げた。
- 十二月、賊が入城すると、中正は家の衆と里中の壮士を率いて奮撃したが、衆寡敵せず力戦して死んだ。賊は城中を掠め、挙人の靳謙書を捕らえて跪かせようとしたが、屈せず大いに罵って死んだ。
李中正――河南の布衣の死節者
- 賊はこの冬にはじめて河南に入り、以後しばしば名城を陥れ、殺した将吏は数え切れず、郷官・挙貢の多くが難に遭った。
- 宜陽の馬足輕、靈寳の許煇、新安の劉君培・馬山、李登英、偃師の裴君合、陜州の張我正・張我徳、孟澤の孫挺生、嵩縣の傳齊世・李佩玉、上蔡の劉時寵らは、前後して布衣の身で節に抗したことで名を顕した。
- 足輕は孝友の性で、弟が妻の言に惑わされて財産の分割を迫ったとき、痩せた田のほうを自分に取った。萬厯末年の大凶作には粟六百石を出して振済し、証文千余を焼いた。崇禎六年(1633年)冬、流賊が河を渡って南へ向かうと、家族を携えて石龍崖に避けた。三人の娘はみな美貌だったので、賊に汚されるのを慮ってことごとく崖に投じて死んだ。足輕は捕らえられ、厲声で大いに罵り、賊は怒って三子ともども殺した。家の者はみな害に遭い、ただ次子の駿だけが残り、のちに郷薦に登った。
- 煇は県の陰陽官であった。賊に掠われて大いに罵り殺された。
- 君培は義行があった。子と従孫を連れて避難する途中で賊に遇い、賊が従孫を殺そうとすると、君培は「私にはまだ男子がいる。この子は遺孤だ。どうか助けて私を殺してくれ」といった。賊はその言のとおりにし、二子は助かった。
- 山は剛直な性で、土寇の于大中が新安を陥れて山に米を負わせようとすると、「私は天朝の百姓だ。賊のために米を負うものか」と叱り、大いに罵って死んだ。
- 登英も賊を罵って死んだ。
- 君合は幼くして父を失い、苦節を守る母に孝養を尽くした。賊が至ると衆を集めて沙岸寨を保ち、十昼夜攻め囲まれても落ちなかった。降るよう説かれても大いに罵って従わず、寨が破れて磔にされた。
- 我正はもとより豪俠で、衆を集めて郷里を保ち、一方はこれに頼った。崇禎十四年(1641年)に衆を率いて賊を防ぎ三人を馘したが、まもなく賊が大挙して至り、衆はことごとく逃げた。我正は腕を奮って独り戦い、賊はその勇を愛して生け捕りにしようとしたが、罵って自刎して死んだ。
- 我徳は賊が至ったと知り、妻子が辱めを受けるのを恐れて、一家二十七人を楼に登らせて焼身した。
- 挺生は星術に精しく、崇禎十五年(1642年)に寇禍があると予言し、茅を編んで渚河に住んだ。賊が跡をたどって見つけると、妻の梁氏に「これは匹夫が義に殉ずる秋だ」といい、夫婦向かい合って泣き、賊を面罵して死んだ。
- 世濟は兄の世舟とともに土寇の于大中に捕らえられ、殺されようとしたとき、兄弟は抱き合って泣いた。賊が一人を釈そうと議すると、世濟はすぐに賊の刀を奪って自殺し、世舟は助かった。
- 佩玉は御史の興元の孫である。崇禎末に中州が尽く荒廃すると、佩玉は遺民を結んで郷里を守り、隣の寨と犄角をなし、しばしば賊の後尾についてその輜重を奪ったので、賊は憚ってその境に出ようとしなかった。のちに賊が大挙して別の寨を囲んだとき、佩玉は救援に行って力戦して死に、里人は集まって哭した。
- 時寵は孝行があった。賊が城を陥れたとき、父の宗祀は年老いて動けないので早く避けよと命じ、そのまま自殺した。時寵は慟哭して一子三女を刺殺し、夫婦ともに自刎した。その妹はちょうど里帰りしていて、やはり従死した。一家で死んだ者は八人であった。
方國儒――保康の陥落
- 方國儒は字を道醇といい、歙縣の人。四歳で父を失い、母に仕えて孝で聞こえた。天啟元年(1621年)に郷試に挙げられ、崇禎年間に保康知縣に授けられた。
- 流賊が大挙して湖廣に入ると、将吏や卒は風を望んで先に逃げた。保康は小邑でもとより兵がなかった。崇禎七年(1634年)正月、賊が至ると、國儒は急ぎ郷兵を率いて防いだが支えきれず、城はついに陥ちた。
- まもなく賊が退いたので國儒は城に戻ったが、ひと月あまりで再び至った。吏民を督して固く拒んだが、賊はいよいよ多く、また陥ちた。國儒は官服のまま堂上に坐し、捕らえられて大いに罵り、身に七か所の刃を受けて死んだ。
- 賊が竹溪を陥れると訓導の王紹正が死んだ。榖城の挙人の常存畏は会試のため京に赴く途中で賊に遭い、首領に立てようとされたが、罵り止まずに死んだ。別の賊が興山を犯すと、知縣の劉定國が堅く守り、城が陥ちようとするとき吏に印を懐かせて上官のもとへ送り、賊を罵って死んだ。
何承光――夔州の陥落
- 何承光は貴州鎮逺の人。萬厯四十年(1612年)に郷試に挙げられ、崇禎年間に夔州同知を歴任した。
- 崇禎七年(1634年)二月、賊が荆州から夔門に入って夔州を犯した。副使の周士登は涪州にあり、城上はにわかのことで備えがなく、通判・推官・知縣はことごとく遁げた。承光は府の事を摂して吏民を率いて固く守ったが、力尽きて城は陥ちた。承光は冠帯を整えて危坐し、賊が入って殺し、屍を江に投じた。事が聞こえると承光に夔州知府を贈った。
- 賊が陜西に起こって以来、山西・畿輔・河南北および湖廣・四川と転じて寇し、陥れた州県は数十を数えたが、大郡を破ったことはまだなかった。ここに至って天下は震動した。
何承光――髙日臨ら四川各地の死節
- 別の一隊が漢中から大寧を犯した。知縣の髙日臨は勢いが弱く守れないと見て、指を齧って牒を書いて援けを乞い、衆を率いて北門で防いだが、兵が敗れて捕らえられ、大いに罵って屈しなかったので、賊はその体を砕いて焼いた。訓導の髙鍚とその妻子、巡檢の陳國俊とその妻もみな害に遭った。日臨は字を嚴若といい、鄱陽の恩貢生である。
- 賊が夔州を陥れると、別の賊が翌日に巫山を陥れ、通江巡檢の郭纘化が陣没し、通江指揮の王永年が力戦して死んだ。
- 四月に至って守備の郭震辰、指揮の田實が百丈關で賊を撃ち、兵が敗れて捕らえられ、賊を罵って死んだ。
龎瑜――崇信の死守
- 龎瑜は字を堅白といい、公安の人。家が貧しく自ら耕して生計を立て、夏に水を転じて田に灌ぐときも、書を手に牛の後ろについて朗誦をやめなかった。嵗貢生から京山訓導に授けられた。
- 崇禎七年(1634年)、陜西の崇信知縣に抜擢された。県には城がなく、兵乱と飢饉で貧民はわずか百余户だった。瑜は賊が必ず来ると知り、監司の陸夢龍に告げたが、兵がないと断られた。瑜は士民を集めて土塁を築いて守り、涙を流して職に死ぬと誓った。
- 閏八月、大雨で土塁がことごとく崩れ、賊が不意に至った。瑜は急ぎ印を解いて家人に持たせて上官のもとへ送らせ、堂上に端坐して待った。賊は至って跪かせようとしたが、瑜は罵って「賊め、官長を辱めるとは何事だ」といった。賊は怒って刀を抜いて脅したが、罵声はいよいよ厲しかった。賊は城中を掠めたが何もなかったので、野外に引き出して心を剖き屍を裂いて去った。固原知州を贈られた。
龎瑜――秦中各地の死節
- 当時、賊はことごとく秦中に向かい、長吏で城に殉じた者が多かった。
- 山陽が陥ちて知縣の董三謨が死んだ。黎平の挙人である。父の嗣成、弟の三元もともに死に、妻の李氏も子女を携えてともに死んだ。光禄丞を贈られ、祠を立てて嗣成・三元を並び祀り、妻と娘には坊を建てて旌表した。
- 吉永祚は輝縣の人。鳳縣主簿となり、辞職して帰ろうとしたとき賊が至った。知縣が城を棄てて遁げると、永祚は義を倡えて拒み守った。城が陥ちると北に向かって再拝し、「臣は小吏とはいえかつて朝廷の禄を食んだ。辞職を口実に責めを逃れることはできない」といい、大いに罵って死んだ。子の士樞・士横もみな死んだ。教諭の李之蔚、郷官の魏炳も屈せず死んだ。永祚には漢中衛經厯を贈り、他は差をつけて贈恤した。
- 婁琇は涇州を知り、閏八月に城が陥ちて死に、太僕少卿を贈られた。
- 蒲來知は甘泉を知り、賦を集めた。守備の孫士法らが兵を擁して救わず、城が破れると、來知は手ずから一賊を斬り六賊を傷つけて死んだ。光禄少卿を贈られた。
- 吕鳴世は福建の人。恩貢生から麟遊知縣となり、兵火の後に居民を撫した。城が陥ちたとき、賊は恩を思って害を加えるに忍びなかったが、自ら食を絶って七日で卒した。
- 宋緒湯という者は耀州の諸生で、捕らえられて大いに罵って死んだ。
尹夢鼇――潁州の陥落
- 尹夢鼇は雲南太和の人。萬厯年間に郷試に挙げられ、崇禎年間に潁州を知った。
- 崇禎八年(1635年)正月、ちょうど鳳陽で上官に謁していたところ、流賊が大挙して至ったと聞き、ただちに馳せ帰った。賊はすでに城下に迫っていたので、通判の趙士寛とともに民を率いて固く守った。
- 城北に高楼が城を□(底本欠字)していた。城中の諸生の劉廷傳が先にそこを押さえるよう請い、夢鼇はもっともだとしたが、廷傳の統べる者はみな市人で使いものにならなかった。賊はついにその楼に拠って攻め、そのうえ城を掘って数丈を崩した。城上の者はみな逃げ、止めても聞かなかった。
- 夢鼇は大刀を持って独り城の崩れた所に当たり、賊十余人を殺し、身に数か所の刀傷を受けた。賊の衆がことごとく登ったので、城下の烏龍潭に投じて死んだ。弟や甥七人もみな死んだ。
- 廷傳は故布政使の九光の甥で、任俠で義を好み、やはり賊を罵って死んだ。九光の子の廷石は西城の分守にあたり、賊の刃を受けたが息絶えるまでに友人に方略を授け、牘を作って当事者に上げさせ、まもなく卒した。
- 士寛は字を汝良といい、掖縣の人。門廕により鳳陽通判となり、潁州に駐した。元日に郡城へ赴いていたところ警報を聞き、一昼夜に三百里を馳せて州に返った。城が陥ちると家の衆を率いて巷戦し、力尽きてやはり烏龍潭に投じて死んだ。妻の李は三人の娘を携えて楼に登って焼身し、僕の王丹も賊を罵って死んだ。
尹夢鼇――潁州の忠烈と潁州衛
- 郷官の尚書の張鶴鳴、弟で副使の鶴騰、子の大同、中書舍人の田之潁、知縣の劉道逺、光禄署正の李生白、訓導の丁嘉遇、挙人の郭三杰、諸生の韓光祖らがみな死んだ。
- 光祖は進士の獻策の父である。捕らえられ、賊が跪かせようとすると叱って「私は生涯書を読み、ただ忠義を知るのみだ」といい、そのまま大いに罵ったので、賊は殺してその屍を砕いた。妻の武は一人の妹・一人の娘、および獻策の妻の李とともに井に赴いて死んだ。妾の李はちょうど身重で、賊は腹を剖いて胎を剔り出して死なせた。次子の定策、孫の日㬢も賊を罵って死に、ただ獻策だけが生き残った。
- このとき難に遭った者は合わせて百三人、城中で節に死んだ婦人は三十七人、烈女は八人であった。潁州の忠烈は独り盛んであったといわれる。
- 潁州衛は河南に隷していた。流賊が至ると、指揮の李從師・王廷俊、千户の孫升・田三震、百户の羅元慶・田得民・王之麟がみな城に上って戦死した。
尹夢鼇――鳳陽の陥落
- 賊は潁州を陥れるとその民を屠り、その別隊はこの月のうちに夀州から鳳陽を犯した。鳳陽にはもとより城がなかった。中都守留の朱國相が指揮の袁瑞徵・吕承廕・郭希聖・張鵬翼・周時望・李郁兵・光祚、千户の陳𢎞祖・陳其忠・金龍化らを率い、兵三千で賊を上窰山に送り、斬獲が多かった。まもなく賊が数万で至り、矢は蝟のように集まってついに敗れ、國相は自刎して死に、他はみな陣没した。
- 賊はそこで皇陵を犯し、大いに焼き掠めた。知府の顔容暄は囚服で獄に隠れたが、賊が囚を釈して捕らえた。容暄が大いに罵ったので賊は杖殺し、血が石段に染みてその姿のようになり、洗っても消えなかった。士民はそこでその石を取って塚を立て祠を建てて祀った。
- 推官の萬文英は病臥していて賊に探された。子の元亨は十六歳で、泣いて父に「私はもう親に仕えられません」といい、門を出て「官を探して何とする、私が官だ」と呼んだ。賊は縛りあげたが、師の萬師尹も縛られているのを見て、賊を欺いて「捕らえるべきは官だけだ。なぜこれを縛る、これは賊の下僕だ」といったので、賊は師尹を釈した。元亨はそこで口を極めて大いに罵り、賊は怒って脛を断って死なせた。文英は難を免れた。容暄は漳浦の人、文英は南昌の人で、ともに進士。
- このとき同時に死んだ者に千戸の陳永齡、百户の盛可學ら四十一人、諸生六十六人がいる。挙人の蔣思宸は変を聞いて縊れて死んだ。
- のちに給事中の林正亨がその状を録して上申し、夢鰲に光禄少卿、士寛に光禄丞を贈り、他は差をつけて恤典を与えた。
盧謙――盧江の陥落
- 盧謙は字を吉甫といい、盧江の人。萬厯三十三年(1605年)の進士。永豐知縣に授けられ、御史に抜擢され、出て江西右參政となり、病と称して帰郷した。
- 崇禎八年(1635年)二月、流賊が盧江を犯した。士民は財帛を出して赦しを求め、賊は偽って許したが、まもなく襲ってその城を陥れた。謙は命服を着けて中門に危坐した。賊が至って屈せさせようとすると、罵って「私は朝廷の憲臣だ。賊に屈するものか。鼠輩め、滅亡は目前だぞ。無礼を働くとは」といった。賊は怒って殺し、屍を池に投げ、池の水はすべて赤くなった。挙人の張受、畢尹周も屈せず殺された。
盧謙――霍邱・巢縣・太湖の死節
- この年正月、賊が霍邱を陥れ、縣丞の張有俊、教諭の倪可大、訓導の何炳、郷官の田既庭・戴廷對、挙人の王毓貞が死んだ。
- 賊が巢縣を陥れると、知縣の嚴寛は捕らえられて屈せず、一門がみな死んだ。
- 二月に太湖を犯すと、知縣の金應元が城東の大濠に拠って守ったが、奸人が賊を導いて濠を渡らせ、應元を捕らえて斬った。絶命しないうちに自ら縊れて死んだ。訓導の扈永寧も死んだ。
- 謙には光禄卿を贈り、他は制に従って贈恤した。覺は歸安の人、應元は浙江山陰の人で、ともに挙人である。
龔元祥――霍山での死
- 龔元祥は字を子禎といい、長洲の人。郷試に挙げられ、崇禎四年(1631年)に霍山教諭となった。廉潔に励み名教をもって任じ、訓導の姚允恭と親しかった。
- 崇禎八年(1635年)、賊が鳳陽を陥れると、元祥は県人とともに守禦した。賊がにわかに至ったとき、県令は逃げ去った。元祥は士民を督して固く守り、避けるよう勧める者があると、「禄を食んで難を避けるのは不忠、危うきに臨んで城を棄てるのは不義。私が平生講説してきたのは何のためか。もしものときは死ぬまでだ」といった。
- 賊が城を陥れると、元祥は衣冠を整えて危坐し、賊が至ると侃々と大義を諭した。賊が屈せさせようとすると、厲声で「死ぬなら死ぬまでだ。賊輩め、よくも私を辱めるか」といった。賊は怒って引き立てたが、罵り止まずについに害された。子の炳衡が号泣して賊を罵ったので、賊はこれも殺した。
- 五日後、允恭がその屍を殮してすぐ縊れたが、たまたま県令が来て助かった。翌日、賊がまた入り、允恭はついに死んだ。
- 事が聞こえると元祥に國子助教を贈り、忠孝という祠を建ててその子を配し、允恭も旌表された。
王信――真陽での死
- 王信は陜西寧州の人。父が没すると三年墓に廬し、母が没したときはすでに六十歳であったが、三年間敷居をまたがなかった。
- 崇禎初年に嵗貢生から靈壁訓導に除せられ、真陽知縣に遷った。崇禎八年(1635年)二月、土寇を撫するため出たとき、たまたま流賊がにわかに至り、羅山と真陽に降伏を諭す使いに立てられた。信は大いに罵って従わず、首を斬られ腹を剖かれて死んだ。四日後、その子が探しに来ると、なお指を伸ばして子の手を握ったという。光禄丞を贈られ、祠を建てて祀られた。
史記言――陜州の陥落
- 史記言は字を司直といい、當塗の人。崇禎年間の挙人。長沙知縣から陜州知州に遷った。陜は賊の要路に当たるので、記言は私財を出して士を募り、少室の僧を招いて訓練させた。
- 崇禎八年(1635年)冬十一月、流賊が陜を犯すと、記言はこれを防いで数十級を斬り、二十余人を生け捕った。老□□は憤って数万人を率いて城を攻めたが落とせず、夜の雪に乗じて襲った。訓練した士はちょうど他郡に調されていたので、城はついに陥ちた。
- 記言は火を放って焼身しようとしたが、二人の僧が助け出し、「ここで死んでは何をもって自らを明かすのか」といった。そこで女牆を越えて下りたところ、賊が追って捕らえ、降るよう命じた。記言は叱って「死ぬ知州はいても、降る知州はいない」といい、ついに殺された。
- 指揮の李君賜は数賊を殺して死んだ。訓導の王誠心、里居の教諭の張敏行・姚良弼、指揮の楊道泰・阮我疆、鎮撫の陳三元も屈せず死んだ。
- この年十月に賊が盧氏を陥れ、知縣の白楹が自刎した。崇禎十年(1637年)九月に城池が陥ち、知縣の李邁林が死んだ。
- 記言に光禄少卿を贈り、他は差をつけて贈恤した。
梁志仁――羅田の陥落
- 梁志仁は南京の人。保定侯の銘の裔である。萬厯末年に郷試に挙げられ、崇禎六年(1633年)に衡陽知縣に授けられ、羅田に調された。大賊が湖廣を荒らしたので、志仁は日夜警戒し備えた。
- 羅汝才は左右に「羅田は城が小さく落としやすいが、梁君は長者だから兵を加えるに忍びない。彼が去るのを待って取ろう」といった。ところが邑の豪族の江猶龍が賊と通じたので、志仁は捕らえて獄に下した。猶龍は必ず死ぬと知り、ひそかに汝才の別働の将を導いて攻めさせた。
- 崇禎八年(1635年)二月、にわかに城を攻めた。志仁は急ぎ典史の單思仁、教諭の吴鳯來、訓導の盧大受とともに民を督して守禦した。城が陥ちると志仁は長矛を持って巷戦し、六賊を殺したが、力尽きて縛られた。跪かせようとされると罵って「私は天子の命官だ。賊輩に膝を屈するものか」といった。賊は怒ってその四肢を砕いて焼いた。妻の唐は迫られて大いに罵り、賊の刀を奪おうとして果たせず、口で賊の手を齧って害に遭った。思仁らも屈せず死んだ。
- 汝才は英山にいてこれを聞き、羅田に馳せてその別働の将を斬り、「なぜ勝手に長者を害したのか」といい、錦繡でその夫婦の屍を殮した。
- 鳳來は福建の挙人、大受は寳慶の貢生。詔して志仁に蘄州知州、思仁に羅田主簿、鳯來に國子助教、大受に學録を贈り、差をつけて子を廕せしめ祭葬を与えた。
王國訓――扶風の陥落
- 王國訓は字を振之といい、觧州の人。天啟二年(1622年)の進士。金鄉・夀張・滋陽・武清を知り、大計に坐して久しく経ってから扶風に調補された。國訓は剛厳の性で、官を求めることを恥じたので、久しく昇進しなかった。
- 崇禎八年(1635年)秋、賊が犯してくると、主簿の夏建忠、典史の陳紹南、教諭の張𢎞綱、訓導の陳繻とともに城に拠って固く守った。二か月経っても外からの援けは至らず、城は陥ちて賊を罵って死に、建忠らも屈せず死んだ。國訓に光禄少卿を贈り、建忠らもみな贈恤された。
王國訓――關中各地の死節
- このとき大帥の曺文詔・艾萬年らが相次いで戦没し、賊の勢いはいよいよ張って、關中の諸州県はことごとく荒廃した。
- 八月、賊が永夀を陥れて知縣の薄匡宇を殺し、ついで咸陽を陥れて知縣の趙躋昌を殺した。
- そのとき長吏で死んだと聞こえた者に、隴州知州の胡爾純がいて縊れて死んだ。延長知縣の萬代芳は教諭の譚恩、驛丞の羅文魁と力を合わせて城を守り、城が陥ちてみな死んだ。代芳の妻の劉、妾の梁も従死した。
- 爾純は山東の人で光禄少卿を贈られ、代芳は光仁丞を贈られ、妻妾には坊を建てて旌表し、恩らにも祭を賜った。
- 孫仲嗣という者は膚施の人。貢生から階州學正となった。当時その才を知られて城守を委ねられ、賊が大挙して至ると力を尽くして死守し、城が破れて妻子十余人とともに死んだ。國子博士を贈られた。
- また楊呈秀は華陰の人。進士から順慶知府を歴任し、大計で罷免されて帰郷した。賊が城を攻めると有司を助けて賊を防ぎ、死んだ。制に従って贈恤された。
黎𢎞業――和州の陥落
- 黎𢎞業は字を孟擴といい、順徳の人。挙人から和州を知った。崇禎八年(1635年)に流賊が和州を犯したときは防いで退けた。
- 十二月にまた至ると、隣の官の馬如蛟とともに決死の士を募り、城壁に登って固く守った。城が陥ちようとするとき、𢎞業は印を肘に繋ぎ、跪いて母に「不肖の子が微官を貪って母上に累を及ぼしました。どういたしましょう」と告げた。母の李は泣いて「私のことは気にするな。事ここに至れば死ぬだけです」と諭し、そのまま縊れた。妻の楊、妾の李および四人の娘がこれに続いた。
- 𢎞業は北に向かって慟哭し再拝して自刎したが、絶命しなかったので、頭の血に筆を浸して「臣として忠を尽くし、子として孝を尽くす。一死を何ぞ惜しまん」と大書した。賊が入って数刀を加え、死んだ。太僕少卿を贈られ、子一人を任官させた。
- 判官の錢大用は妻妾・子・嫁とともに死んだ。吏目の景一髙は傷を負って死んだ。學正の康正諌は祁門の人で挙人。妻の汪、嫁の章とともに水に赴いて死に、國子監丞を贈られた。訓導の趙世選は屈せず死に、國子學録を贈られた。
黎𢎞業――馬如蛟
- 馬如蛟は字を騰仲といい、和州の人。天啟二年(1622年)の進士。浙江山陰知縣に授けられ、清廉な操があった。
- 崇禎元年(1628年)に徴されて御史に授けられ、魏忠賢の党の徐紹吉・張訥を弾劾して罷めさせた。出て四川を按じた。蜀中では奸民がことごとく他人の田産を勢家に投じていたので、如蛟は十条を列挙して上申し、永くその弊を革めた。
- 還朝して武會試を監した。董姓の武挙が技と勇で帝に聞こえていたが、入試して文が程式に合わず落第させられた。帝は怒って落第させた考官を退け、如蛟も職を落とされた。
- 崇禎八年(1635年)に安邦彦平定の功を論じて旧官に復したが、父の憂でまだ赴任していなかった。賊が至ると、如蛟は財を傾けて士を募り、𢎞業を助けて固く守り、壮士を指揮して出撃し、二度戦っていずれも勝った。賊将が奔ろうとしたところで風雪が大いに起こり、人の顔も見分けられなくなって守る者はみな潰えた。賊はそこで入城した。
- 如蛟は急ぎ「賊を撃つ者には百金を与える」と令し、たちまち百余人を得て巷戦した。賊は多く傷ついたが、力尽きて戦死した。兄で鹽運司判官の如虯、諸生の如虹および家属十四人がみな死んだ。事が聞こえると太僕少卿を贈り、子一人を官に任じた。
張紹登――應城の陥落
- 張紹登は字を振夫といい、南城の人。崇禎年間の挙人。應城縣を知った。
- 崇禎九年(1636年)に賊が犯してくると、訓導の張國勛、郷官の繞可乆とともに力を尽くして防いだ。國勛は「賊に一撃を加えなければ城は守りにくい」といい、壮士を率いて出撃し、一昼夜力戦して斬獲がはなはだ多く、賊は去った。
- 邑の侍郎の王瑊の子の權が一族と怨みを結んでいたので、怨家がしだいに賊を導いてまた攻めさせた。國勛は紹登を助けて力守し、上官に援けを乞うた。副將の鄧祖禹が救援に来て西南を守り、國勛が東北を守り、紹登は往来して指揮した。
- そのとき賊が書を射込んで權を求めた。權は恐れて北關を斬り開いて出たので、賊はその隙に南城に登った。紹登は署に戻って堂上に端坐し、賊が至ると拳を振るって撃ったが、賊が大挙して至って殺された。賊の首領はその忠に嘆じ、冠帯で屍を覆って堂のかたわらに埋めた。
- 國勛は黄坡の嵗貢生。賊が入ると朝服で北に向かって拝し、走って先聖の神主を捧げ、拱手して待った。賊は文廟を焼き、國勛を烈火の中に投じた。祖禹も屈せず死んだ。
- 可乆は幼くして父を失い母に孝であった。郷試に挙げられ大興縣を知り、崇禎初年に三朝要典の改訂を疏請したが、宦官が権を擅にしていた時で光禄典簿に謫された。應天府推官・刑部主事に遷り、知府を歴任して丁艱で帰郷した。賊が入ると妻の程に「臣は忠に死に、婦は節に死ぬのが分だ」といい、そこで妻と娘は向かい合って縊れた。可乆は捕らえられ、賊が無理に拝させようとすると「頭は断てても膝は屈せぬ」といい、ついに害された。瑊は賊に支解された。
- 事が聞こえると紹登に尚寳少卿、國勛に國子學正を贈った。
王燾――隨州の死守
- 王燾は字を濬仲といい、崑山の人。幼くして父を失い貧しく、九歳で人の後嗣となった。族人にその産を狙う者があると、燾は挙げて譲り、嗣祖母と母を迎えて丁重に養った。萬厯年間に郷試に挙げられ、教諭から隨州知州を歴任した。
- 州は群盗の焼き討ちを経て戸数が千に満たなかった。燾は民兵を訓練し守備の道具を整え、土寇の李良喬が乱を起こすとこれを殲滅した。
- 崇禎十年(1637年)正月、大賊がにわかに至った。燾は守りつつ戦い、三百余人を撃ち斬った。賊は敗れていよいよ激しく攻め、二十余日相持した。大風雪の日、守る者の多くが散り、燾は必ず敗れると知って署に入り、冠帯を整えて縊れた。
- 賊がその署を焼いたが、燾の死んだ所だけ火が及ばず、屍は直立して倒れなかった。賊は望み見て驚いて走った。のちに州印を探すと、燾が立っていた足下の土の中から出てきた。
- 事が聞こえると太常少卿を贈り、福王のとき諡を烈愍と賜り、雙忠祠を建てて同邑の蔡懋徳と並び祀った。
王燾――魏時光
- 魏時光という者は南昌の人。双刀を舞わすのが巧みで、崇禎九年(1636年)夏に廣濟典史となった。邑は荒廃していたので、長吏は排兵三百人を設けてその教練を委ねた。
- その冬、賊が蘄州の河口に拠ったが、時光を憚って渡ろうとしなかった。時光はさらに決死の士を募り、夜にその営を襲って自ら数賊を殺したので、賊は近づけなかった。
- まもなく賊が大挙して至り、部下の卒はみな散った。時光は単騎で高い坂に拠り、また数人を殺したが、馬の胸帯が切れて捕らえられ、屈せず死んだ。
- その兄が上官に訴えたが取り上げられず奏されなかった。兄は憤って病を発して死んだ。友人が遺骸を収めて哭し、哀しみを尽くして「弟は国のために死に、兄は弟のために死んだ。私だけがこれを世に顕せぬものか」といい、牘を具えて力説したので、ようやく奏聞された。廣濟主簿を贈られ、恤典を与えられた。
蔣佳徵――盱眙の死守
- 蔣佳徵は灌陽の人。天啟四年(1624年)に郷試に挙げられ、崇禎年間に盱眙縣を知って声望があった。県にはもとより城がなく、佳徵は賊が必ず来ると知って民を訓練して兵とした。
- 崇禎十年(1637年)秋、賊が果たして犯してくると、要害に伏兵を設け、自ら兵を率いて誘い出し、はなはだ多く殲滅した。賊は怒って取り囲み、佳徵は力戦して死んだ。母はこれを聞いてやはり縊れて死んだ。
- 兵部が奉大夫・尚寳少卿を贈るよう議したが、まもなく巡按御史が、佳徵は子として忠、母は義であるから諡と廕を賜って倫常を植えるべきだと述べたので、表忠祠を建てて母をあわせて祀った。
蔣佳徵――吴暢春・王寅
- 同時に北江で死難した者に吴暢春がいる。崇禎八年(1635年)に天山天堂寨の巡檢となり、郷兵を練って賊に備えた。翌年冬に賊が至ると、夜に篝火を設けたので賊は大いに驚いて去った。年を越えて賊が再び至ると、暢春は死守したが力尽き、天を仰いで「私は死に所を得た」と嘆じ、手ずから数賊を斬った。捕らえられて屈せず死んだ。迪功郎・安慶府經厯を贈られ、子を所鎮撫に廕せしめた。
- また王寅は錢塘の人。膂力が人に絶し、武郷試に挙げられ、父の播州征討の功により千戸となった。崇禎年間に撫標守備に抜擢された。歩卒の脆弱なのを見て「かつて戚将軍が浙兵を練って天下に聞こえたのに、今はこの有様か」と詫り、督して教えたので卒ははじめて使えるようになった。
- 崇禎十年(1637年)に龍江都司に遷り、泗洲に調されて祖陵を護った。賊が犯してくると、寅は「賊は多くわが方は少ない。まだ集まらぬうちに破れる」といい、甲を巻いて疾駆し、盱眙に至ってその先鋒一人を斬った。午から申まで戦ったが賊はいよいよ多く来り、守備の陳正亨とともに陣に陥って死んだ。鎮國將軍・都指揮僉事を贈られ、正亨は昭勇將軍・指揮使を贈られ、ともに子一人を任官させた。
徐尚卿――劍州の陥落
- 徐尚卿は南平の人。郷試に挙げられ劍州を知った。
- 崇禎十年(1637年)十月、李自成・恵登相らが数十万の衆で四川に入った。大将の侯良柱が廣元で敗死し、賊はついに昭化を攻め陥れ、知縣の王時化が死んだ。
- 尚卿は賊が必ず来ると知り、士民を集めて泣いて「城は必ず守れない。お前たちは早く去れ。私はここで死ぬ」といった。衆は泣いてともに去るよう請うたが、尚卿は聴かなかった。二日後に城が陥ち、縊れて死んだ。吏目の李英俊もこれに従った。
- 賊はそのまま長駆して江油・彰明・安縣・羅江・徳陽・漢州を陥れたが、吏目はみな先に遁げた。ついで郫縣を掠め、主簿の張應竒が死んだ。金堂を陥れ、典史の潘孟科が死んだ。
- この月、賊が陥れた州県は三十六だったが、死んだと聞こえた者は四人であった。事が定まると尚卿に右參議、時化に光禄丞、應竒に按察司知事、孟科に將仕郎を贈り、ともに恤典を賜った。時化は湖廣の人で、郷試第一であった。
阮之鈿――榖城での抗議
- 阮之鈿は字を實甫といい、桐城の諸生。崇禎年間に人材を保挙する詔が下ったとき、同郡の諭徳の劉若宰が之鈿を挙げ、榖城知縣に授けられた。
- 崇禎十一年(1638年)正月、之鈿がまだ着任しないうちに張獻忠がその城を襲い陥れ、そこに拠って招撫を求めた。總理の熊文燦がこれを許し、その衆数万を四郊に置いたので、居民は騒然として逃げようとした。之鈿は着任すると心を尽くして調整し、民は少し落ち着いた。
- そこで上疏して述べた。「獻忠は邑城に虎踞し、その謀は測りがたい。要求している地は実は兵餉の取り道であり、咽喉の地で、秦と蜀の交会する脈絡である。今はみな彼に占められ、奸民は喜んで用いられ、善良な民はことごとく脅迫されている。臣は守土牧民の官でありながら、守るべき土もなく牧すべき民もなく、庫の蓄えは尽き、心産は奪われ、徴すべき賦もない。名は県令でも実は無用の員にすぎない。それなのに廟堂は専ら撫の議を主としている。臣は愚かながら、撫と剿の二策は合わせて論ずべきで、分けて論じては国威を損ない士気を挫くと考える」。時に用いられなかった。
- 賊の衆はしだいに野外に出て掠奪した。之鈿は捕らえてその営将に告げ、少しは処罰させたが、再び告げると応じず、「役所が餉を出さないからだ。餉さえ得られればおのずと止む」というだけだった。これによって村民はほとんど逃げ散り、掠奪は市街にまで及び、少しでも拒めば刃を向け、日々死者が出て、城中は大いに騒いだ。監軍僉事の張大經が文燦の令で鎮撫に来たが、これも禁じえなかった。
阮之鈿――張獻忠の反乱と死
- 翌年(崇禎十二年、1639年)、獻忠の反意がしだいに露わになると、之鈿は行って説いた。「将軍が初めにしたことは甚だ悖ったものだったが、幸いにいま王臣となった。従軍して功を立て、名を竹帛に垂れるべきだ。それに劉将軍國能を見ないか。天子は手詔で官を進め、金帛を厚く賜った。これは赤誠の効である。将軍がもし天朝に異論があると疑うなら、之鈿が一族百口をもって保証しよう。何を嫌い何を疑って、なお他志を懐くのか」。
- 獻忠はもとより之鈿を憎んでおり、そこで悪言を極めて罵った。之鈿は憂憤して病み、壁に数語を題して死をもって自ら誓い、そのまま執務をやめた。
- 五月に至って獻忠は果たして反き、庫を劫し囚を放ち、城を毀った。之鈿は毒を仰いでまだ絶命しないところへ、獻忠が使いを遣わして印を求めたが、堅く渡さなかったので、賊はついに殺した。ほどなく火を放って公署を焼き、骸骨は灰となった。
- 大經は賊に劫し去られながら死ぬこともできず、瑪瑙山の敗戦のあと賊将の曹威らとともに出て降ったので、士論はこれを醜とした。之鈿はのちに尚寳少卿を贈られた。
郝景春――房縣での招撫
- 郝景春は字を和滿といい、江都の人。郷試に挙げられ鹽城教諭に署されたが、事に坐して罷められた。起用されて陜西苑馬寺萬安監録事となり、黄州照磨に量移され、黄安縣事を摂した。着任わずか三日で群賊がにわかに至ったが、八日八夜堅く守ってようやく囲みを解かせた。
- 崇禎十一年(1638年)に房縣知縣に抜擢された。羅汝才が九営の衆を率いて熊文燦に降を請い、文燦がこれを受けたが、汝才は猶予していた。景春は単騎でその営に入り、汝才およびその党の曰貴・黒雲祥と血をすすって盟い、汝才は軍門に詣でて降った。諸営を竹谿・保康・上津に分け、自身は曰貴・雲祥とともに房縣の野に居した。
- 当時、鄖陽の諸属邑の城郭は廃墟となっていたが、房だけは景春の慰撫によっておおむね守ることができた。大衆が雑居して居民は日々おびえたので、景春は主簿の朱邦聞、守備の楊道選とともに守備の道具を整え、諸営を宥めた。
郝景春――房縣の陥落と父子の死
- 翌年(崇禎十二年、1639年)五月、張獻忠が榖城で反き、汝才に同時の挙兵を約した。景春の子の鳴鑾は諸生であったが、万人を敵とする力があり、父に「わが城は賊の要路に当たるのに弱卒はわずか二百。何をもって守りますか」といい、甲を着けて汝才のもとに行き、「香火の盟を思わないのか。慎んで乱に従うな」といった。汝才は偽って承知したが、鳴鑾はその偽りを見抜き、帰って道選とともに兵に武器を授け城壁に登らせた。
- そこへ獻忠の遣わした前鋒がすでに至ったので、その将の上天龍を撃ち斬った。使いを城から縋らせて文燦に援けを乞うこと十四度に及んだが、報はなかった。
- やがて賊将が至った。獻忠の兵は白旗を、汝才の兵は赤旗を張り、まもなく二つの旗が入り混じって城を取り巻いて力攻した。曰貴・雲祥は馬を進めて「城を我らに譲れば他意はない」と呼ばわり、獻忠はまた張大經の檄をもって降を諭したが、景春は大いに罵って引き裂いた。
- 鳴鑾は守りつつ戦い、五日のあいだに賊の死者は多かった。賊は板を負って城に穴を掘り、城が崩れようとすると、鳴鑾は熱した油を注ぎ、また獻忠の左足を撃って傷つけ、その愛馬を殺した。そこで間諜を賊塁に入れ、ひそかに獻忠の寝所の帳を見定めて襲って擒えようとした。
- ところが指揮の張三錫が北門を開いて汝才を迎え入れた。道選は巷戦して死んだ。大經が汝才を使って景春に降を説かせたが、怒って答えなかった。庫の蓄えの所在を問われると、叱って「庫に物があったなら、城がお前たちに陥れられるものか」といった。賊は怒って典史一人、守備一人を殺して脅したが、ついに屈せず、鳴鑾とともに殺された。僕の陳宜も死に、邦聞とその家人もともに屈せず死んだ。
- 事が聞こえると景春に尚寳少卿を贈り、祠を建てて祀り、道選らにも贈恤した。のちに帝が輔臣の賀逢聖を召見してその死事のさまを詳しく述べたので、太僕少卿に贈り直した。三錫はのちに官軍に捕らえられ磔にされた。
張克儉――出自と襄陽での憂慮
- 張克儉は字を禹型といい、屯留の人。崇禎四年(1631年)の進士。輝縣知縣に授けられた。崇禎六年(1633年)春、賊が武安を犯して守備の曹鳴鶚が戦死し、ついで輝縣を犯したが、克儉は城に拠って固く守り、賊は落とせず百泉書院に屯して三日で去った。
- 兵部主事に遷り、推薦されて召対し旨に称った。崇禎十二年(1639年)に湖廣僉事に抜擢され、鄖・襄の諸軍を監した。楊嗣昌は襄陽に鎮して深く彼を頼りにした。
- 張獻忠・羅汝才が敗れたとき、小秦王・混世王・過大星らがみな降った。嗣昌はこれを房・竹山の中に置き、克儉に安撫させたが、諸賊は免死の牌を得ると散ろうとせず、自ら便宜の地を択んで数百里に連なって営した。
- 当時、河南・河北の大飢饉で襄漢に食を求める流民が日に数万おり、降卒の多くが流民に紛れ込んだ。克儉は深く憂えて嗣昌に上書した。「襄陽は古来の要地で、本朝の管鑰であり、獻陵を擁して昔よりいっそう重い。近ごろ両河の飢民が雲集し、新旧の降丁がそのあいだに逼っている。一人が叫べば乱を招くに足りる。まして秦兵は長武の変によって西へ帰り、鄖房の軍府は粗く立ったばかりで、降営が碁のように置かれている。虎を放って自らを衛らせるのと変わらない。紫漢の西の興は初めから重門の備えもない。何を恃んで恐れずにいられよう」。
- 嗣昌は意に介さず、「昔、髙仁厚は六日で百万の賊を降し、ついに阡能を擒えた。監軍はなぜそう怯えるのか」と言い張った。
張克儉――襄陽の陥落と死
- 嗣昌が蜀に入ると、克儉に留守の務めを委ねた。賊を破った功を録して右參議を加えられ、監軍は元のままであった。まもなく本官のまま下川南道の守に移されたが、鄖陽廵撫の袁繼咸が奏して留めた。
- 崇禎十四年(1641年)二月、右僉都御史・河南巡撫に抜擢されたが、まだ命を聞かないうちに、獻忠が人に督府の軍符を偽らせて襄陽城に誑し入れた。克儉は見破れず、夜半に賊が中から起こって襄王府を焼いた。克儉は慌てて救いに走り、賊に捕らえられ、大いに罵って死んだ。
- 推官の鄺曰廣、県事を摂していた李大覺、游擊の黎民安が死んだ。曰廣は番禺の人。崇禎十年(1637年)の進士。官にあって節操があった。檄を奉じて荆州で軍儲を検分し、帰任したばかりで難が起こり、刃を受けて死んだ。妻子・娘もみな害に遭った。大覺は字を覺之といい、金谿の人。郷挙から榖城を知り、あわせて襄陽縣を署した。変を聞いて印を肘に繋ぎ、堂上で縊れた。民安は大覺と同県の人。城中に火が起こると部下千余人を率いて格闘し、矢が尽きて縛られ、抗して罵り死んだ。
- ひとり知府で夏邑の人の王承曽だけが遁げて免れた。
- はじめ獻忠が瑪瑙山で敗れたとき、その妻の敖氏・髙氏が捕らえられ、他の将が山狩りをしてその軍師の潘獨鰲も捕らえ、みな襄陽の獄に繋いだ。承曽は年若く軽佻で、毎夕、賊中の情勢を問うと称して獻忠の二人の妻と笑い語り、獄吏も賊の金を多く受け取ったので、禁防はすっかり弛み、獨鰲らは桎梏を脱いでほしいままに飲んだ。嗣昌が牒を移して戒めたが、承曽は笑って「これが飛んで来られるものか」といった。ここに至って獨鰲は果たして獄中から事を起こし、承曽は衆を率いて門を奪って走った。
- 事が聞こえて逮治を命じられたが、時に河南も大いに乱れていて、久しく逮えられず、行方は知れなかった。
徐世淳――父必達の履歴
- 徐世淳は字を中明といい、秀水の人。父の必達は字を徳夫といい、萬厯二十年(1592年)の進士。溧水縣を知り、石臼湖の堤を築き、徐齊泰の姻戚で軍籍にある二十六家を奏上した。
- 累進して吏部考功郎中となり、吏科給事中の儲純臣とともに考察を領した。純臣が吏の賄を受けたので、大計の日に必達は状を進めて純臣を黜けるよう請い、面と向かって揖したうえで退いたので、一座は大いに驚いた。
- 光禄丞に遷り、白糧の利弊十一事を陳べてことごとく実行され、少卿に進んだ。巡漕御史の孫居相が船が壊れて修理できないので民船を雇って運ばせたいと請うたとき、必達は争って止めさせた。
- 天啓初年に右僉都御史として操江の軍を督した。白蓮の賊が徐州をうかがおうとすると、必達は精鋭を募り山東の兵と合わせて撃ち破った。兵部右侍郎に遷り、拾遺に坐して罷めて帰り、卒した。
徐世淳――隨州の死守と戦死
- 世淳は崇禎年間の挙人。崇禎十三年(1640年)冬、隨州知州を歴任した。州はかつて賊に遭って居民は寂れていた。世淳は賊が必ずまた来ると知り、士民を集めて隨とともに死守しようと誓った。
- ちょうど大凶作で士人の多くが粥の施しに並んだので、「士に飢えて礼を失わせてよいものか」と嘆じ、粟を分けて振済した。
- 潰兵が隨を通って餉を求めると、世淳は兵に武器を授けて城壁に登らせたうえ、単騎でその軍師に会い、「軍の食が足りないのは有司の罪だ。私を殺せばよい。私を械につないで督師に会わせてほしい」といった。帥は気を呑まれ、衆をまとめて去った。
- 翌年(崇禎十四年、1641年)三月、張獻忠が襄陽から犯してきた。世淳は南城の譙楼に寝食して朝夕固く守り、巡撫の宋一鶴に急を告げた。一鶴が援兵を遣わしたが、承天を守る監司に途中で引き取られてしまった。ひと月あまり守って援けが絶え、力尽きた。賊は南城を急攻しながら、ひそかに兵を回して北城から入った。
- 世淳は子の肇梁に印を役所の裏に埋めさせ、馬を駆って巷戦したが、矢が頤を貫いて耳と鼻が横に裂け、馬から墜ちて乱刃に斬られて死んだ。肇梁は駆けつけて哭しつつ罵り、賊が殺そうとしたので、州人を呼んで印を埋めた所を告げてから死んだ。世淳の妾の趙・王および奴僕十八人がみな死んだ。
- のちに太僕少卿を贈られ、祠を建てて肇梁を祔祀した。
- 隨は崇禎十年(1637年)正月に陥ちて以来、ここでまた陥ち、七月にまた陥ちて判官の余塙が死んだ。三度陥ちた後、城中にはほとんど生き残る者がなかった。