明史卷二百八十八 列傳第一百七十六 文苑四
篇首の立伝者一覧
- 李維楨(割注: 郝 敬)
- 徐 渭(割注: 屠 隆)
- 王穉登(割注: 俞允文・王叔承)
- 瞿九思
- 唐時升(割注: 婁 堅・李流芳・程嘉燧)
- 焦 竑(割注: 黄 輝・陳仁錫)
- 董其昌(割注: 莫如忠・邢 侗・米萬鍾)
- 袁宏道(割注: 鍾 惺・譚元春)
- 王惟儉(割注: 李日華)
- 曹學佺(割注: 曽異撰)
- 王志堅
- 艾南英(割注: 章世純・羅萬藻・陳際泰)
- 張 溥(割注: 張 采)
李維楨――出自と長い外官暮らし
- 李維楨は字を本寜といい、京山の人。父の裕は福建布政使。
- 隆慶二年(1568年)の進士に及第し、庶吉士から編修を授けられた。萬厯のとき穆宗實録が成って修撰に進み、陝西右參議として出て、提学副使に遷った。地方官として浮沈すること三十年近くに及んだ。
李維楨――晩年の起用
- 天啓の初め、布政使のまま家におり、年はすでに七十余であった。折しも朝議で老練の旧臣を登用することになり、召されて南京太僕卿となり、まもなく太常に改まったが、赴任前に諫官の言があると聞いて辞退した。
- 当時ちょうど神宗實録の編修中で、給事中の薛大中が特に上疏して推薦したが、用いられぬうちに終わった。四年(1624年)四月、太常卿の董其昌が改めて推薦し、そこで召されて礼部右侍郎となり、わずか三か月で尚書に進んだ。いずれも南京在勤である。
- 維楨は史事にかかわって起用されたのだが、史館の諸臣は先輩に圧されるのを憚り、館に入れず、ただ官だけを飛び越えて進めた。維楨も年老いていたので、翌年正月に強く辞職を願って去り、さらに翌年、家で卒した。年は八十。崇禎のとき太子太保を贈られた。
李維楨――文名と評
- 維楨は二十歳前後で朝に上り、博聞強記で、同館の許國と名を斉しくした。館中では「覚えていなければ老許に問え、書けなければ小李に問え」と言われた。
- 人となりは温和で開けっ広げ、賓客が雑多に出入りした。その文章は宏大で才気があり、海内から依頼の来ない日はなく、よく調子を変えて相手の望みに応じた。碑や版に刻まれた文は四方の異域まで輝いた。門下の者が富人や大商人を招いて金銭を受け取り、代わりに依頼を取り次いでも、倦まずに応じた。
- 重い名声を負うこと四十年に垂んとしたが、文の多くは思いつきの応酬で、品格は高くなり得なかった。
郝敬――生涯
- 同郷の郝敬は字を仲輿という。父の承健は郷試に及第し、肅寜知県を務めた。敬は幼くして神童と称されたが、性は放縦で、かつて人を殺して獄に繋がれた。維楨は父の友人であったので救い出し、家に住まわせた。これより節を折って読書を始めた。
- 萬厯十七年(1589年)の進士に及第し、縉雲・永嘉の二県を知して、いずれも有能の評があった。召されて礼科給事中を授けられ、暇を乞うて親を養い、久しくして戸科に補された。
郝敬――鉱税をめぐる諫諍と晩年
- しばしば論奏した。山東の税監陳増が貪欲横暴で、益都知県の呉宗堯に弾劾されたが、帝は罪としなかった。敬は上言した。「開採を罷めなければ、陛下の明旨は臣民をたぶらかす空文にすぎなくなります。まずこれを停止し、しかるのち宗堯の上奏を撫按に下して調べさせ、増の不法の罪を正されますよう」。聞き入れられなかった。
- まもなく山東巡撫の尹應元もまた増の罪を極論した。帝は怒って應元を厳しく責め、宗堯を民に落とした。敬は再び上言した。「陛下が陳増の一件を処された仕方は、はなはだ人心を失っております」。帝は怒り、一年の俸を奪った。
- 帝が中官の高宷を遣わして京口で税を榷し、暨禄を遣わして儀眞で税を榷させたときも、敬は重ねて力めて諫めた。
- 宗堯が増を弾劾したことで、増はひどく怒り、その不正蓄財を誣告し、青州一府の官僚を巻き込み、さらに商民の吳時奉らを引き合いに出して、みな籍没するよう請うた。帝はただちに許した。敬はまた力めて増を非難し、その上奏を速やかに取り消すよう乞うたが、これも容れられなかった。
- 事に坐して江隂知県に謫され、貪汚で身を慎まず、世評はみな認めなかった。そこで自ら弾劾の書を投じて帰り、門を閉ざして著述した。崇禎十二年(1639年)に卒した。
徐渭――出自と胡宗憲の幕下
- 徐渭は字を文長といい、山隂の人。十余歳で揚雄の「解嘲」に倣って「釋毁」を作った。長じて同郷の李季本に師事し、諸生となって大いに名があった。
- 総督の胡宗憲が幕府に招き、歙の余寅、鄞の沈明臣とともに書記を掌らせた。
- 宗憲が白鹿を得て朝廷に献じようとし、渭に上表を草させ、あわせて他の食客にも草させて、親しい学士に送って最も優れたものを奉らせたところ、学士は渭の表を進めた。世宗は大いに喜び、いっそう宗憲を寵遇したので、宗憲はこれによりますます渭を重んじた。
- 宗憲がかつて爛柯山で将吏を宴したとき、酒がたけなわで楽が奏されるなか、明臣が鐃歌十章を作り、その中に「狭い巷で短兵相接するところ、人を殺すこと草のごとくにして声も聞こえず」の句があった。宗憲は立ち上がってその鬚を撫で、「沈生とは何者か、雄壮痛快なことよ」と言い、ただちに石に刻ませた。寵遇は渭と等しかった。
- 督府の権勢は厳めしく、将吏は仰ぎ見ることもできなかったが、渭は角巾に布衣のまま長揖して思うままに談じた。幕中に急な用があれば夜更けでも門を開いて待ったが、渭は酔って来ないこともあった。それでも宗憲はよしとした。寅と明臣もまた気位が高く、剛直さで礼遇された。
- 渭は兵を知り奇計を好み、宗憲が徐海を捕らえ王直を誘ったのは、いずれもその謀に与った。宗憲の勢いを借りてかなり横暴でもあった。
徐渭――発狂と晩年
- 宗憲が獄に下ると、渭は禍を恐れて発狂し、大きな錐を耳に数寸も刺し、また槌で陰嚢を砕いたが、いずれも死ななかった。のちに後妻を撲殺して死罪と論ぜられ獄に繋がれたが、同郷の張元忭が力めて救い、免れた。
- そこで金陵に遊び、宣府・遼東に至って辺境の要害をあまねく見、李成梁の子らと親しくなった。京師に入って元忭のもとに身を寄せたが、元忭が礼法をもって導いたので、渭は従いきれなかった。久しくして怒って去った。のち元忭が亡くなると、白衣で弔いに行き、棺を撫でて慟哭し、姓名を告げずに去った。
- 渭は天才が抜きん出て、詩文は同輩に絶し、草書をよくし、花草竹石を描くのに巧みであった。かつて自ら「わが書が第一、詩がこれに次ぎ、文がこれに次ぎ、画がまたこれに次ぐ」と言った。
- 嘉靖のとき王世貞・李攀龍が七子の社を興し、謝榛が布衣であるゆえに斥けられた。渭は、位ある者が布衣を圧するのを憤り、二人の党には入らぬと誓った。二十年後、公安の袁宏道が越中に遊んで渭の残った稿を得、祭酒の陶望齡に示して、ともに激賞し、その集を刻んで世に行った。
- 余寅は字を仲房、沈明臣は字を嘉則といい、いずれも詩名があった。
屠隆――生涯
- 屠隆は字を長卿といい、明臣と同じ邑の人。生まれつき異才があり、かつて詩を明臣に学んだ。筆を下せば数千言がたちどころに成った。一族の大山、同郷の張時徹がちょうど貴官であって、ともに推挙し宣伝したので、名は大いに響いた。
- 萬厯五年(1577年)の進士に及第し、潁上知県に除せられ、事務の繁多な青浦に移された。当時、名士を招いて酒を飲み詩を賦し、九峰・三泖に遊び、仙人めいた県令をもって自任したが、吏務を怠らず、士民はみな慕った。
- 礼部主事に遷った。西寜侯の宋世恩が隆を兄として仕え、宴遊してたいそう睦まじかった。刑部主事の俞顯卿は陰険な人物で、かつて隆に謗られて恨みを抱いており、隆と世恩が淫らに放縦であると訐告し、その言葉は礼部尚書の陳經邦にまで及んだ。隆らは上疏して弁明し、あわせて顯卿が仇を挟んで誣告した状を並べたので、担当官は両者ともに罷免し、世㤙は俸を半年停めた。
- 隆が帰る途中、青浦の父老は田千畝を集めて移り住むよう請うたが、隆は許さず、三日歓飲して謝して去った。
- 帰ってからはますます詩酒に耽り、賓客を好み、文を売って生計とした。詩文はおおむね気を入れず、一気に数枚を書いた。かつて戯れに二人に机を挟ませ、二つの題を引かせて各々百韻を賦させ、たちまちのうちに二章とも成した。また人と碁を打ちながら詩文を口ずさんで書き取らせたが、書く方が誦するのに追いつかなかった。
- 子の嫁の沈氏は修撰の懋學の娘で、隆の娘の瑶瑟とともに詩をよくし、隆が作るたびに二人は和した。両家の兄弟がその詩を合刻して『留香草』と名づけた。
王穉登――出自と文名
- 王穉登は字を伯榖といい、長洲の人。四歳で対句をなし、六歳で擘窠の大字をよくし、十歳で詩を作れた。長じてますます才気が発し、大いに名があった。
- 嘉靖の末、京師に遊んで大学士袁煒の家に客となった。煒が諸吉士に紫牡丹の詩を試させたが意にかなわず、穉登に作らせたところ警句があった。煒は諸吉士を呼び集めて「君らは文章を職としながら、王秀才の一句を得られるか」と言い、朝廷に推薦しようとしたが実現しなかった。
- 隆慶初年、再び京師に遊んだ。徐階が国政を執って袁煒にかなり恨みを抱いていたので、ある人は袁公の客と名乗らぬよう勧めたが、従わず、『燕市』『客越』の二集を刻んでその事を詳しく書いた。
- 吳中では文徴明の後、風雅の主が定まらなかったが、穉登はかつて徴明の門に及んで遥かにその風を継ぎ、詞翰の座を主宰すること三十余年に及んだ。
- 嘉靖・隆慶・萬厯の間、布衣・山人で詩に名のある者は十数人、俞允文・王叔承・沈明臣らがとくに世に称されたが、声望の華やかさでは穉登が第一であった。申時行は元老として郷里に居ながら、特に彼を推重した。王世貞は同郡で親しかったが、さほど推さなかった。世貞が没して次子の士驌が事に坐して獄に繋がれると、穉登は身を傾けて救援したので、人はこれによってその風義を重んじた。
- 萬厯年間、国史を修めよとの詔があり、大学士の趙志臯らが穉登および同邑の魏學禮、江都の陸弼、黄岡の王一鳴を推薦した。徴用の詔があったが、上京しないうちに史局が罷められた。七十余歳で卒した。子の留は字を亦房といい、やはり詩名があった。
俞允文・王叔承
- 俞允文は字を仲蔚といい、崑山の人。父は進士に及第して大理評事を務めた。允文は十五歳で「馬鞍山賦」を作り、典拠の引き方が博かった。四十にならぬうちに諸生をやめ、詩文と書法に専心した。王世貞と親しかったが李攀龍の詩を好まず、その持論は安易に同調しないことこのようであった。
- 王叔承は字を承父といい、呉江の人。幼くして父を失い、経生の業を修めたが、古を好んで辞めた。貧しくて妻の家に入り婿となったが、妻の父に追い出され一銭も与えられなかったので、妻を連れて帰り母に仕え、いよいよ貧しくなった。
- 都に入って大学士李春芳のもとに客となった。性として酒を嗜み、春芳が撰述しようとして探すと、たいてい酒楼に寝そべって欠伸をし、応じようとしなかった。久しくして辞して帰った。
- 太倉の王鍚爵は布衣時代からの友であり、再び招いた。折しも三王を並べて封ずるという議があり、叔承は数千言の書を送って、大義を掲げて進退を賭して力争すべきで、どっちつかずで主恩に背き人望にそむいてはならぬ、と述べた。鍚爵は書を得て感嘆した。
- その詩は世貞兄弟に大いに認められた。萬厯年間に卒した。
瞿九思――出自と流刑
- 瞿九思は字を睿夫といい、黄梅の人。父の晟は嘉靖三十二年(1553年)の進士で、官を厯て廣平知府となり、長さ三百里の渠を鑿ち、水を引いて四つの閘を設け、数十万畝の田を得た。在官のまま卒した。
- 九思は十歳のとき父の任地の吉安に従い、羅洪先に師事した。十五歳で「定志論」を作り、のちに同郡の耿定向に従って遊学し、学問はますます進んだ。萬厯元年(1573年)の郷試に及第した。
- 二年目、県令の張維翰が制に違えて苛酷な賦課をしたので、民が集まって殴りかかった。維翰は九思が乱を唱えたとして罪に問い、巡按御史の向程は維翰が変を激発させたと弾劾した。吏部尚書の張瀚が御史の議は非であると言ったため、九思はついに辺塞の下に長く流された。
瞿九思――赦免と晩年
- 子の甲は十三歳で数千言の書を作り、公卿を歴訪して父の冤を訴えた。甲の弟の罕もまた闕に伏して上書し赦しを求めた。屠隆は「訟瞿生書」を作って中外にあまねく告げ、馮夢禎もまた楚中の当路者に申し立てた。しかも張居正がもとより九思の才を認めていたので、九思は釈放されて帰ることができた。
- 三十七年(1609年)、撫按の推薦の疏により翰林待詔を授けられたが、力めて辞して受けず、詔して有司が生涯にわたり毎年米六十石を給することとした。そこで樂章および『萬厯武功録』を撰し、罕を遣わして闕に詣り献上させた。七十一歳で卒した。
- 九思の学問はきわめて奥深く博かったが、その文章は雅馴でなかった。それでも当時、古を嗜み志の篤い士としては、ならぶ者は稀であった。
- 甲は字を釋之といい、十九歳で郷試に及第したが早く卒した。罕は字を曰有といい、七歳で文を作れた。父の冤を晴らすため往復するとき、徒歩で寒さも飢えも避けなかった。天下は「双孝」と称した。崇禎のとき辟挙されて知州となった。
唐時升――生涯
- 唐時升は字を叔達といい、嘉定の人。父の欽訓は歸有光と親しかったので、時升は早くから有光の門に入った。三十にならぬうちに挙子業をやめ、古学に専念した。
- 王世貞が南都で官に就いていたとき邸に招いて疑義を弁じ合ったが、時升は自分が歸氏の門から出た者であることから、あらためて王氏の弟子と称することを潔しとしなかった。
- 王鍚爵が国政を執ると、その子の衡が時升を都に招いた。折しも塞上で戦があり、時升はその情勢の虚実、将帥の勝敗をあらかじめ断じて、一つとして外れなかった。
- 家は貧しかったが施しを好み、園に水を注ぎ野菜を作って、飄然と自ら楽しんだ。詩は筆を執ればそのまま成り、手直しをしなかった。文は有光の伝を得ており、同郷の婁堅・程嘉燧とともに「練川三老」と称された。崇禎九年(1636年)に卒し、年は八十六。
婁堅・李流芳・程嘉燧
- 婁堅は字を子柔といい、幼くして学を好み、その師友はみな有光の門から出た。堅の学問には師承があり、経に明るく行いを修め、郷里は大師と推した。国学に貢されたが、仕えずに帰った。書法に巧みで、詩もまた清新であった。
- 四明の謝三賔が県の政をとったとき、時升・堅・嘉燧および李流芳の詩を合わせて刻み、『嘉定四先生集』と名づけた。
- 李流芳は字を長蘅といい、萬厯三十四年(1606年)に郷試に及第した。詩に巧みで書をよくし、とくに絵事に精しかった。天啓の初め、会試のため北上して近郊に至ったが、警報を聞いて詩を賦して引き返し、そのまま仕官の志を絶った。
- 程嘉燧は字を孟陽といい、休寜の人で、嘉定に仮寓した。詩に巧みで画をよくした。通州の顧養謙と親しく、友人が訪ねるよう勧めたので長江を渡り、古寺に宿って酒飲みと三日三晩歓飲し、詠古五章を賦して、養謙には会わずに帰った。崇禎年間、常熟に至って耦耕堂で読書し、士林はみな重んじた。十年を経てようやく休寕に戻り、そこで卒した。年は七十九。
焦竑――出自と国史・経籍志
- 焦竑は字を弱侯といい、江寜の人。諸生のときすでに大いに名があり、督学御史の耿定向に従って学び、さらに羅汝芳に疑義を質した。嘉靖四十三年(1564年)の郷試に及第したが会試に落ちて帰った。定向が十四郡の名士を選んで崇正書院で読書させたとき、竑をその長とした。定向が郷里に居るようになると、また往って従った。
- 萬厯十七年(1589年)、殿試第一人として翰林修撰となり、いっそう本朝の典章を究めた。二十二年(1594年)、大学士の陳于陛が国史を修めるよう建議し、竑にもっぱらその事を領させようとしたが、竑は辞退した。そこでまず「經籍志」を撰し、その他はおおむね撰するに至らず、館もついに罷められた。
焦竑――皇長子の講官として
- 翰林で小内侍に書を教える役は、多くの者が形式と見ていたが、竑ひとりは「この者たちは他日、帝の側にいるのだ。どうして疎かにできよう」と言い、古の宦官の善悪の例を取って、折々に説き聞かせた。
- 皇長子が出閣すると、竑は講官となった。故事では講官が進講しても質問することはまれであった。竑は講義を終えるとおもむろに「博学と審問は功用が等しいものです。陳述に足らぬところがあれば、殿下どうか明らかにお尋ねください」と言った。皇長子はよしと言ったが、質すところはなかった。
- ある日、竑はまた進み出て「殿下がお言葉を出しにくいのは、誤りを恥じておいでだからではありませんか。解する側にこそ誤りはあります。問うことに何の誤りがありましょう。古人は下問を恥じませんでした。それに倣われますよう」と言った。皇長子はまたよしと言ったが、やはり問うところはなかった。
- 竑は同僚と謀ってまず端緒を開くことにし、ちょうど「舜典」を講じたとき、「衆に稽り、己を舍てて人に従う」の句を挙げて問うた。皇長子は「稽とは考えることだ。衆人の思いを集めて考え、しかるのち己の短を舍てて人の長に従うのだ」と答えた。
- また別の日、「上帝、衷を降し、恒性あるがごとし」を挙げると、皇長子は「これは他でもない、天命これを性と謂う、ということだ」と答えた。当時わずか十三歳で、問答に滞りがなかった。竑もまた誠意を尽くして導いた。
- あるとき講義の途中で鳥の群れが飛び鳴いて皇長子が仰ぎ見ると、竑は講義をやめて粛然と立った。皇長子が容を改めて聴くと、また初めのように講じた。
- 竑はかつて古の儲君の事で模範や戒めとなるものを採って『養正圖説』を作り、進呈しようとしたが、同官の郭正域らが自分たちに知らせなかったのを憎み、名誉を買うものと見なしたので、竑は取りやめた。
焦竑――失脚と学問
- 竑は重い名声を負ううえ、性が率直で、時事に不可があればすぐ言論に表したので、政府もこれを憎み、張位がとくにひどかった。
- 二十五年(1597年)、順天の郷試を主宰したところ、挙子の曹蕃ら九人の文に危険で荒唐な語が多かったため、竑は弾劾されて福寜州同知に謫された。一年余りののち大計でさらに秩を削られ、そのまま出仕しなかった。
- 竑は群書を博く極め、経史から稗官・雑説に至るまで通じないものはなかった。古文をよくし、典正で馴雅、卓然たる名家であった。集を『澹園』と名づけたが、澹園は竑の自号である。
- 講学は羅汝芳を宗とし、耿定向兄弟および李贄と親しかったので、当時、禅学だとかなり譏られた。萬厯四十八年(1620年)に卒し、年は八十。熹宗のとき、先朝の講読の恩により官を復され、諭徳を贈られ、祭を賜り子に廕を与えられた。福王のとき文端と追諡された。子の潤生は忠義伝に見える。
黄輝――生涯
- 黄輝は字を平倩、一に昭素といい、南充の人。竑と同年の進士である。
- 幼くして聡明で、父の子元が湖廣御史であったとき、疑わしい獄の訊問を委ねられたが、輝は老練な吏のように律を検した。御史は聞いて異とし、負ぶって連れて来させ、銭穀の帳簿を与えると、一覧しただけで記憶した。
- やや長じて群書を博く究め、十五歳で郷試に第一となり、久しくして進士に及第し、庶吉士に改まった。館の課題の文はおおむね陳腐な因襲で「翰林体」と目され、李攀龍・王世貞の学が行われると、また改めてそれに従った。輝は意を刻んで古を学び、ひとえに韓愈・歐陽脩を師としたので、館閣の文はやや変わった。
- 同館の中では詩文は陶望齡、書画は董其昌が推されたが、輝の詩と書はこれと名を斉しくし、事実の考証に至っては輝が十のうち八九を得た。竑は博雅で名があったが、自らも輝に及ばぬとした。
- 編修から右中允に遷り、皇長子の講官を務めた。当時、帝は鄭貴妃を寵愛して皇后を疎んじ、皇長子の生母である王恭妃はほとんど危うい状態にあった。輝は内侍から事情を知り、同郷の給事中王徳完に「これは国家の大事だ。旦夕に何が起こるか分からぬ。史冊に書かれれば朝廷に人なしと言われ、我らは万世の恥辱を受ける」と言った。徳完は奮い立って輝に草稿を委ね、これを上奏したが、獄に下されて廷杖を受け、死に瀕した。輝は食料や物資を運んで世話をし、危険を避けなかった。危ういと言う者もあったが、輝は「私が人を禍に陥れておいて、坐視できようか」と言った。
- 輝はつねづね禅学を好み、方外との交わりが多かったので、言者に論ぜられた。当時すでに庶子として司經局を掌っていたが、そこで暇を請うて帰った。のちに旧官に起用され、少詹事兼侍讀学士に抜擢され、在官のまま卒した。
陳仁鍚――生涯
- 陳仁鍚は字を明卿といい、長洲の人。父の允堅は進士で、諸暨・崇徳の二県を知した。
- 仁鍚は十九歳で萬厯二十五年(1597年)の郷試に及第した。武進の錢一本が易に精しいと聞いて往って師とし、その要旨を得た。久しく及第しなかったが、いよいよ経史の学に心を究め、論著が多かった。
- 天啓二年(1622年)、殿試第三人として翰林編修を授けられた。このとき第一の文震孟もまた老成の宿学であり、海内はみな人を得たと慶んだ。翌年、母の喪に遭って墓のかたわらに廬した。喪が明けて旧官に起き、まもなく經筵に侍り誥敕を掌った。
- 魏忠賢が辺功を冒して詔を偽り、公爵を賜り世券を与えようとした。仁鍚は草案を検すべき立場にあったが、不可として持した。その党が威嚇すると、毅然として「世に草案を見る者はいくらでもいる。何も私でなくてよい」と言った。忠賢は聞いて怒った。
- 数日せぬうちに、同郷の孫文豸が「歩天歌」を誦したことで捕らえられ、妖言の罪に問われて、拷問で獄が作り上げられ、供述は仁鍚および震孟にまで及び、罪は測りがたい情勢となったが、ひそかに救う者がいて、削籍で帰るにとどまった。
- 崇禎の改元(1628年)に召されて旧官に復し、まもなく右中允に進んで国子司業の事を署理し、再び經筵に侍り、神宗・光宗二朝の實録の編修に与った功で右諭徳に進み、暇を乞うて帰った。三年後、家に居ながら南京国子祭酒に起用されたが、拝命したばかりで病を得て卒した。福王のとき詹事を贈られ、文莊と諡された。
- 仁鍚は経済を講求し、天下の事に志があり、性として学を好み著述を喜んだ。当時の館閣で博洽な者としては、ならぶ者が稀であったという。
董其昌――出自と官歴
- 董其昌は字を元宰といい、松江華亭の人。萬厯十七年(1589年)の進士に及第し、庶吉士に改まった。礼部侍郎の田一儁が教習の任のまま在官で亡くなると、其昌は休暇を請うて数千里を走り、その喪を護って帰葬した。
- 還って編修を授けられ、皇長子が出閣すると講官を務め、事に寄せて誠意を尽くして導いたので、皇長子は毎度目を留めた。執政の意に背いて湖廣副使として出され、病と称して帰った。
- 旧官に起用されて湖廣の学政を督したが、依頼や口利きに従わなかったため権家に恨まれ、生員数百人を扇動させて騒がせ、その公署を壊させた。其昌はただちに上疏して辞職を求め、帝は許さず担当官に取り調べを命じたが、其昌はついに職を辞して帰った。
- 山東副使・登萊兵備・河南參政に起用されたが、いずれも赴かなかった。
董其昌――神宗實録の史料採輯と晩年
- 光宗が立つと「昔の講官の董先生はどこにいるか」と尋ね、召されて太常少卿となり、国子司業の事を掌った。
- 天啓二年(1622年)、太常寺卿兼侍讀学士に抜擢された。当時、神宗實録を修めるにあたり、南方へ赴いて先朝の章疏および遺事を採輯するよう命ぜられた。其昌は広く捜し博く徴して録すること三百本、さらに留中となった上奏のうち国本・藩封・人才・風俗・河渠・食貨・吏治・辺防に切実なものを採って別に四十巻とし、史贊の例に倣って毎篇に自らの断案を付した。書が成って表とともに進めると、詔して褒め、史館に付するよう宣した。
- 翌年秋、礼部右侍郎に抜擢されて詹事府の事を協理し、まもなく左侍郎に転じた。五年正月、南京礼部尚書を拝した。当時、政は宦官の手にあり党禍は酷烈だったので、其昌は深く身を引き、一年余りで暇を請うて帰った。
- 崇禎四年(1631年)、旧官に起用されて詹事府の事を掌り、三年いてたびたび引退を願い、詔して太子太保を加えて致仕させた。さらに二年して卒した。年は八十三。太子太傅を贈られ、福王のとき文敏と諡された。
董其昌――書画
- 其昌は天分が優れて名声が高かった。もともと華亭では沈度・沈粲以後、南安知府の張弼、詹事の陸深、布政の莫如忠およびその子の是龍が、みな書をよくすると称された。其昌は後に出て諸家を越え、初めは宋の米芾を宗とし、のちに一家を成して、名は外国にまで聞こえた。
- その画は宋元の諸家の長を集め、自らの意で運んだもので、瀟洒で生き生きとしており、人力の及ぶところではなかった。四方の金石の刻は、その制作と自筆を得れば二絶とされ、訪ねて来ない日はなかった。短い書状や紙片も世間に流布し、人が争って買い求め宝とした。品題に精しく、収蔵家は片言隻字を得ても重んじた。
- 性は温和で禅理に通じ、悠然として一日中俗な言葉を出さなかった。人は米芾・趙孟頫になぞらえたという。
莫如忠・邢侗・米萬鍾ほか
- 同時に書をよくすると名のあった者に、臨邑の邢侗、順天の米萬鍾、晉江の張瑞圖がおり、当時の人は「邢・張・米・董」と言い、また「南董北米」とも言った。しかし三人は其昌にはるかに及ばなかった。
- 莫如忠は字を子良といい、嘉靖十七年(1538年)の進士。累進して浙江布政使となった。潔く身を修めて好み、夏言が死ぬとその喪を取りしきった。草書をよくし、詩文には体要があった。
- 是龍は字を雲卿といい、のちに字を通称とし、さらに廷韓と字した。十歳で文を作り、長じて書をよくし、皇甫汸・王世貞らがしきりに称賛した。貢生のまま世を終えた。
- 邢侗は字を子愿といい、萬厯二年(1574年)の進士。陝西行太僕卿で終わった。家産は巨万であったが、古犂邱に来禽館を築き、資産を減らして客をもてなし、ついに家運は傾いた。妹の慈靜は兄の書に倣うのが巧みであった。
- 米萬鍾は字を友石といい、萬厯二十三年(1595年)の進士。官を厯て江西按察使となったが、天啓五年(1625年)、魏忠賢の党である倪文煥に弾劾されて削籍された。崇禎の初めに太僕少卿として起用され、在官のまま卒した。
- 張瑞圖は官が大学士に至ったが、逆案(魏忠賢一味の断罪)に入った人物である。
袁宏道――三袁と官歴
- 袁宏道は字を中郎といい、公安の人。兄の宗道、弟の中道とともに才名があり、当時「三袁」と称された。
- 宗道は字を伯修といい、萬厯十四年(1586年)の会試で第一となり、庶吉士を授けられ編修に進み、右庶子で在官のまま卒した。泰昌のとき光宗の講官の功が追録されて礼部右侍郎を贈られた。
- 宏道は十六歳で諸生となり、すぐ城南で社を結んでその長となり、暇には詩歌と古文を作って郷里に名があった。萬厯二十年(1592年)の進士に及第し、家に帰って帷を垂れて読書し、詩文は妙悟を主とした。
- 吳縣知県に選ばれ、裁断は敏速で、法廷に事が少なく、士大夫と詩文を談じて風雅をもって自任した。やがて官を解いて去った。
- 起用されて順天教授を授けられ、国子助教・礼部主事を厯たが、病と称して帰った。久しくして旧官に起き、まもなく清らかな声望によって吏部驗封主事に抜擢され、文選に改まり、まもなく考功員外郎に移った。年末に群吏を考察する法を立てて、「外官は三年に一度、京官は六年に一度、武官は五年に一度考察される。この曹だけがどうして免れられよう」と言い、上疏して裁可され、そのまま定制となった。稽勲郎中に遷り、のち病と称して帰り、数か月で卒した。
- 中道は字を小修といい、十余歳で「黄山」「雪」の二賦を作って五千余言に及んだ。長じてますます豪邁となり、二人の兄に従って京師に遊宦し、四方の名士と多く交わり、足跡は天下の半ばに及んだ。萬厯三十一年(1603年)にようやく郷試に及第し、さらに十四年して進士となった。徽州教授から国子博士・南京礼部主事を厯て、天啓四年(1624年)に南京吏部郎中に進み、在官のまま卒した。
公安体と竟陵体
- これより先、王世貞・李攀龍の学が盛んに行われていたが、袁氏兄弟だけは心の中でこれを非とした。宗道は館中で同館の黄輝とともに力めてその説を排し、唐では白樂天を、宋では蘇軾を好み、書斎を「白蘇」と名づけた。
- 宏道に至ってはいっそう矯めて清新軽俊を旨としたので、学ぶ者の多くは王・李を捨ててこれに従い、「公安体」と目された。しかし戯れやからかいの中に俚語が混じり、内容の空疎な者に好都合であった。
- その後、王・李の風はしだいに息み、鍾・譚の説が大いに盛んになった。鍾・譚とは鍾惺と譚元春である。
- 鍾惺は字を伯敬といい、竟陵の人。萬厯三十八年(1610年)の進士に及第し、行人を授けられ、やや遷って工部主事となり、まもなく南京礼部に改まって郎中に進み、福建提学僉事に抜擢されたが、父の喪で帰り、家で卒した。惺は容貌が貧相でやせて衣の重さにも堪えぬほどで、人となりは厳しく冷やかで俗客に会うのを喜ばなかった。これによって人事から離れることができた。南都で官に就いていたころ、秦淮の水閣を借りて史を読み、いつも真夜中に及び、見るところがあればそのつど書き留めて『史懐』と名づけた。晩年は禅に逃れて世を終えた。
- 宏道が王・李の詩の弊を矯めて清真を唱えたのに対し、惺はさらにその弊を矯め、変じて幽深孤峭とした。同郷の譚元春とともに唐人の詩を評選して『唐詩歸』とし、また隋以前の詩を評選して『古詩歸』とした。鍾・譚の名は天下に満ち、「竟陵体」と呼ばれた。しかし二人は学識がさほど豊かでなく、その見解には偏りが多く、通人に大いに譏られた。
- 譚元春は字を友夏といい、名輩は惺より後だが、『詩歸』のゆえに名を斉しくした。天啓七年(1627年)にようやく郷試で第一となったが、惺はすでに先に亡くなっていた。
王惟儉――生涯
- 王惟儉は字を損仲といい、祥符の人。萬厯二十三年(1595年)の進士に及第し、濰縣知県を授けられ、兵部職方主事に遷った。
- 三十年(1602年)春、遼東総兵官の馬林が税使の高淮に逆らって逮捕され、兵部尚書の田樂らが救おうとした。帝は怒って、職方が代わりの者を推さないと責め、司を空にして追い出したので、惟儉も削籍されて帰り、家に二十年いた。
- 光宗が立つと光禄丞に起用され、三たび遷って大理少卿となった。天啓三年(1623年)八月、右僉都御史に抜擢されて山東を巡撫した。折しも徐鴻儒の乱で民の逃亡が多く、遼東から避難して来た人々も居所を失っていたので、惟儉は心を用いて安撫し集めた。
- 五年三月、南京兵部右侍郎に抜擢されたが赴かず、内に入って工部右侍郎となった。魏忠賢の党である御史の田景新に弾劾され、職を落とされて閑居した。
王惟儉・李日華――博物の名
- 惟儉は資質が敏く学を嗜んだ。初めて廃されたとき経史百家に力を尽くし、宋史の繁雑さを苦にして手ずから刪定し、独自に一書を成した。書画古玩を好み、萬厯・天啓の間に世が「博物の君子」と称したのは惟儉と董其昌で、嘉興の李日華がこれに次いだ。
- 李日華は字を君實といい、嘉興の人。萬厯二十年(1592年)の進士で、官は太僕少卿に至った。恬淡温和で人と衝突しなかった。
- 惟儉のほうは口に皮肉が多く、道学を攻撃するのを好んで、人は堪えられなかった。かつて当時の人々と宴に集まったとき、漢書の一事を問われて本末を悉く述べ、自分の腹を指して笑い、「名の知れた者に、まさか実の無い者があろうか」と言った。その自負ぶりはこのようであった。
曹學佺――官歴と野史紀畧の禍
- 曹學佺は字を能始といい、侯官の人。二十歳前後で萬厯二十三年(1595年)の進士に及第し、戸部主事を授けられた。考察の典に引っかかって南京に調され、添注の大理左寺正となり、閑職に七年いて学問に力を尽くした。
- 累進して南京戸部郎中、四川右參政・按察使となった。蜀王府が火事で焼け、修復費が七十万金と見積もられたが、學佺は宗藩条例を根拠に退けた。またも考察の典で調任を議された。
- 天啓二年(1622年)、廣西右參議に起用された。もともと梃撃の獄が起きたとき、劉廷元らは犯人を狂人とする説を主張したが、學佺は『野史紀畧』を著して事の本末をありのままに書いていた。六年秋、學佺は陝西副使に遷ったがまだ赴かぬうちに、廷元が魏忠賢に取り入って大いに寵を得たので、學佺が私に野史を撰して国家の記録を乱したと弾劾した。ついに削籍され、彫った版木は焼かれた。巡按御史の王政新も、かつて學佺を推薦したことで閑居を命ぜられた。
- 広西の大官は學佺が必ず重い禍を受けると推し量って留め置き様子を見たが、忠賢に殺す意がないと分かってようやく釈放され帰ることができた。
曹學佺――著述と殉節
- 崇禎の初め、廣西副使に起用されたが強く辞して就かず、家に二十年いて著述した。住まいの石倉園の中で『石倉十二代詩選』を作り、世に盛んに行われた。
- かつて「仏老の二氏には蔵があるのに、わが儒だけがどうして無かろう」と言い、「儒藏」を修めて鼎立させようとし、四庫の書を採取して類ごとに分けて編み、十年余りを費やしたが、功が成らぬうちに南北二京が相次いで陥ちた。
- 唐王が閩中で立つと、起用されて太常卿を授けられ、まもなく礼部右侍郎兼侍講学士に遷り、尚書に進み太子太保を加えられた。事が敗れると山中に逃げ入り、首をくくって死んだ。年は七十四。
- 詩文はきわめて多く、総名を『石倉集』という。萬厯年間、閩中の文風はかなり盛んになったが、學佺がこれを唱えたのであり、晩年はさらに節に殉じたことで知られたという。
曾異撰――生涯
- 學佺と同邑の後進に曾異撰がいる。字を弗人といい、晉江の人で、家は侯官にあった。父は諸生で早く亡くなり、母の張氏が遺腹の子として産んだ。家はひどく貧しく、紡績で朝夕をしのいだ。
- 異撰は孤児として身を起こし、母に仕えて至孝であった。飢饉の年には薯の葉を採り糠を混ぜて食べ、母も妻もかつて畚と鋤を担って乾草を集め炊事に充てた。しかし性はきわめて節操が固く、長吏がその貧しさを知って便宜を図ろうとしても潔しとしなかった。
- 吳興の潘曾紘が学政を督したとき、その母の節行を上申して朝廷から旌表を受けた。曾紘が南贛を巡撫したとき、王惟儉の撰した宋史を得て、異撰と新建の徐世溥を招いて改訂させたが、成らぬうちに罷めた。
- 異撰は長く諸生であって経世の学に心を究め、その詩には奇気があった。崇禎十二年(1639年)に郷試に及第したが、年はすでに四十九であった。再び会試に赴いて帰り、そのまま卒した。
王志堅――生涯と読書の法
- 王志堅は字を弱生といい、崑山の人。父の臨亨は進士で杭州知府。
- 志堅は萬厯三十八年(1610年)の進士に及第し、南京兵部主事を授けられ、員外郎・郎中に遷った。暇な日には同じ役所の郎を集めて読史社を作り、『讀史商語』を撰した。貴州提学僉事に遷ったが赴かず、親の世話を願い出て帰った。
- 天啓二年(1622年)、浙江の駅伝を督することで起用されたが、母の喪に奔って帰った。崇禎四年(1631年)、再び僉事として湖廣の学政を督し、礼部は学政の第一と推した。六年(1633年)、在官のまま卒した。
- 志堅は若いころ李流芳と同学で、詩文は唐宋の名家に法を取った。仕官してからは吳門の古南園に居を定め、門を閉ざして客を絶ち、思うままに読書した。
- その読書は、まず経、のちに史、まず史、のちに子・集の順とした。経を読むには先に箋疏、のちに弁論。史を読むには先に証拠、のちに発明。子については、唐宋以後には子書が無いから、経史を補うに足る説家の書を取るべきだとした。集については、秦漢以後の古文を定めて五編とし、唐宋の碑志を考証し、史伝を援き雑説を集めて、事の異同、文の純駁を照合した。仏典についても性・相の宗を深く弁じた。
- 詩ははなはだ多く作ったが、自ら選んだのは七十余首にとどまる。
- 弟の志長は字を平仲といい、郷試に及第し、やはり経学に深かった。
艾南英――出自と時文の革新
- 艾南英は字を千子といい、東鄉の人。七歳で「竹林七賢論」を作った。長じて諸生となり、学を好んで見ないものはなかった。
- 萬厯の末、科場の文は腐り崩れており、南英は深くこれを憎み、同郡の章世純・羅萬藻・陳際泰とともに斯文を興すことを任として、四人の作を刻んで世に行った。世人はこぞって帰服し、「章・羅・陳・艾」と称した。
艾南英――魏忠賢の忌諱と晩年
- 天啓四年(1624年)、南英はようやく郷試に及第した。座主の検討丁學乾と給事中郝士膏が策問を出して魏忠賢を非難し、南英の対策にもまた譏刺の語があった。忠賢は怒って考官の籍を削り、南英も三科にわたり受験を停められた。
- 莊烈帝が即位すると詔して会試を許したが、久しくしてついに及第しなかった。それでも文名は日ごとに高まった。気概が高く人を圧したので、その舌鋒を憚る者が多かった。
- はじめ王・李の学が天下に大いに行われ、古文を談ずる者はみなこれを宗としたが、のちに鍾・譚が出て一変した。ここに至って詞林に重い名を盗む者があり、痛烈に糺弾されたので、南英もこれに和し、王・李を排斥して余力を残さなかった。
- 南北二京が相次いで陥ち、江西の郡県がことごとく失われると、南英は閩に入った。唐王が召見し、「十可憂」の疏を陳べて兵部主事を授けられ、まもなく御史に改まった。翌年八月、延平で卒した。
章世純・羅萬藻・陳際泰
- 章世純は字を大力といい、臨川の人。博聞強記で、天啓元年(1621年)の郷試に及第した。崇禎中に累進して桞州知府となり、年はすでに七十であった。京師の変を聞いて悲憤のあまり病を得て卒した。
- 羅萬藻は字を文止といい、世純と同県の人。天啓七年(1627年)に郷試に及第した。崇禎中に保挙の法が行われ、祭酒の倪元璐が萬藻を推して詔に応じさせたが、辞して就かなかった。福王のとき上杭知県となり、唐王が閩で立つと礼部主事に抜擢された。南英が卒すると哭してこれを殯し、数か月してやはり卒した。
- 陳際泰は字を大士といい、やはり臨川の人。父が汀州の武平に流寓し、その地で生まれた。家が貧しくて師に就けず、書もなかったので、隣家の子の本を借りては人を避けて盗み読んだ。従兄のところから得た『書經』は四隅がすでにすり切れており、句読も無かったが、自分の判断で区切ってその義に通じた。
- 十歳のとき、母方の家の薬籠の中に『詩經』を見つけ、取って走った。父が見て怒り、田へ行くよう督したので、田まで携えて行き、高い丘に腰かけて吟じ、ついに生涯忘れなかった。
- 久しくして臨川に帰り、南英らとともに時文で天下に名を成した。その作文は極めて速く、一日に二三十首も作れた。前後の作は一万首に達し、経生の挙業の多さでは際泰に及ぶ者がなかった。
- 崇禎三年(1630年)に郷試に及第し、さらに四年して進士となったが、年は六十八であった。さらに三年して行人に除せられ、四年いて故相の蔡國用の喪を護って南行し、途中で卒した。
張溥――出自と復社
- 張溥は字を天如といい、太倉の人。伯父の輔之は南京工部尚書。
- 溥は幼くして学を嗜み、読む書は必ず手写し、写し終えると一度朗誦してすぐ焼き、また写した。これを六七度繰り返してようやく止めた。右手の筆を握る所は指も掌も繭になり、冬には手がひび割れ、日に何度も湯に浸した。のちに書斎を「七録」と名づけたのはこのためである。
- 同郷の張采とともに学んで名を斉しくし、「婁東の二張」と号された。崇禎元年(1628年)、選貢生として都に入り、采はちょうど進士となり、二人の名は都に響いた。
- やがて采が臨川に赴任すると、溥は帰って郷里の名士を集め、ともに古学を復興し、その文社を「復社」と名づけた。四年(1631年)に進士となり庶吉士に改まったが、親の葬りのため暇を乞うて帰り、寒暑を問わず経生のように読書した。
- 四方の名を求める者が争ってその門に走り、みな復社を名乗った。溥もまた身を傾けて結び、交遊は日ごとに広まり、その声気は朝廷の要路に通じ、その品定めの甲乙はかなり栄辱を左右した。走り寄って付き従う者たちは「われらは東林を継ぐのだ」と誇ったので、執政の大官はこれを憎んだ。
張溥――復社をめぐる訐告
- 同郷の陸文聲は財を納めて監生となり、社に入ることを求めたが許されず、采にもかつて事にかこつけて打たれた。文聲は闕に詣り、風俗の弊はすべて士子に原因があり、溥と采が盟主となって復社を唱え天下を乱している、と述べた。
- 温體仁がちょうど国政を執っており、事を担当官に下したが、久しく引き延ばされた。提学御史の倪元珙、兵備參議の馮元颺、太倉知州の周仲連が、復社に罪とすべきものはないと述べたところ、三人ともに貶斥され、厳しい詔で追及がやまなかった。
- 閩の人、周之夔はかつて蘇州推官であったが、事に坐して罷免され、溥の仕業ではないかと疑って深く恨んでいた。文聲が溥を訐告したと聞いて、闕に伏し、溥らが考課の典を握っており、自分が罷職されたのも実はその仕業だと述べ、あわせて復社の恣意横暴の状に及んだ。
- 章が巡撫の張國維らに下されると、之夔の去官は溥とかかわりがないと述べたので、國維らも詔を受けて譴責された。
- 十四年(1641年)に至り、溥はすでに卒していたが事はなお決着しなかった。刑部侍郎の蔡奕琛が薛國觀に党したことで獄に繋がれ、溥の死を知らずに、溥が遠くから朝廷の権柄を握っており、自分の罪は溥に由来すると訐告し、ついでに采が党を結んで政を乱していると述べた。
- 詔して溥と采に回答を責めた。采は上言した。「復社は臣の関知するところではありません。しかし臣と溥は生涯たがいに励まし合ってきました。死者を網羅から逃れさせるために義に背いて身の安全を図るなど、誼としてできません。溥は日夜、経を解き文を論じ、心を尽くして報いようとしながら、ついに一日も官に服さぬまま忠を懐いて地に入りました。今この厳しい詔の下、血の涙を流して自ら明らかにすることもできぬのは、まことに哀悼に堪えません」。
張溥――死後の名誉と張采
- このころ體仁はすでに罷められ、後任の張至發・薛國觀もみな東林を喜ばなかったので、担当官は再び奏することができなかった。ここに至って至發・國觀も相次いで罷められ、周延儒が国政を執った。延儒は溥の座主であり、再び相となったのは溥の力によるところがあった。それゆえ采の疏が上ると事はすぐに解けた。
- 翌年、御史の劉熙祚と給事中の姜埰が相次いで上章し、溥は行いを磨き博聞であって、その纂述した経史は聖学に功があり、夜半の御覧に備えるべきだと述べた。帝が經筵に出て二人のことを問うと、延儒は「読書好きの秀才です」と答えた。帝が「溥はすでに卒し、采は小臣である。言官はなぜ推薦するのか」と言うと、延儒は「二人は読書を好み文章をよくします。言官が挙子であったころその文を読み、また用いられ尽くさなかったことを惜しんでいるのです」と答えた。帝が「それも偏りを免れまい」と言うと、延儒は「まことに聖諭の通りです。溥と黄道周はいずれも偏っていますが、よく書を読むために惜しむ者が多いのです」と述べ、帝はうなずいた。
- そこで溥の遺著を徴する詔が出、道周もまた官を復された。有司が前後に三千余巻を録して献じ、帝はすべて留めて閲覧した。
- 溥の詩文は敏捷で、四方から求められると下書きもせず、客に向かって筆を揮い、たちどころに成した。それゆえ一時に名が高かった。卒したとき年はわずか四十であった。
- 采は字を受先といい、溥と親しかった。溥の性は寛やかで交わりを広く愛したが、采はことに厳しく毅然として、可否を分けるのを喜び、人に過ちがあれば面と向かって叱った。
- 臨川を知して強きをくじき弱きを扶け、声望が大いに上がった。病と称して帰るとき、士民は泣いて見送り道に満ちた。知州の劉士斗・錢肅樂は采を厳かに重んじ、奸悪や害虫のような者について問えば、采が紙一枚で答え、みな法に処した。
- 福王のとき礼部主事に起用され、員外郎に進んだが、暇を乞うて去った。南都が失われると、かねて采を恨んでいた奸人たちが群がって撲ち殺し、さらに大きな錐で滅多刺しにした。やがて蘇生し、隣邑に避けて、さらに三年して卒した。