明史卷二百七十九 列傳第一百六十七 吴貞毓
字は元聲、宜興の人。崇禎十六年の進士で、唐王のもとで吏部文選主事、のち永明王を擁立して累進し、肇慶で戸部尚書、嚴起恒が殺されたあと東閣大學士となった。嚴起恒とともに孫可望への秦王封を阻んだため、可望とその意を迎える馬吉翔・龎天夀に憎まれた。可望が永明王を安龍府に迎え入れて挟むと、王は宮室も服車も粗末な扱いに堪えなかった。王が密かに李定國へ入衛の敕を下すことを謀ると、貞毓は林青陽を使者に立て蔣乾昌に敕を撰させて送ったが、事が吉翔に漏れ、可望の將鄭國が諸臣を捕らえて拷問した。王は廷議に下さざるを得ず、張鐫・張福禄・全為國が凌遲、他は斬、貞毓は大臣として絞に処された。諸人は顔色を変えず詩を賦して罵り死に、いわゆる十八先生の獄となった。のち定國が王を迎えて雲南に入ると貞毓に少師・吏部尚書・中極殿大學士を贈り文忠と諡し、馬場に「十八先生成仁処」の碑を建てた。吉翔は定國に諂って生き延び再び権を握ったが、緬甸で咒水の難に殺された。
年表(6件)
- 崇禎十六年1643年進士となり唐王に仕えて吏部文選主事となる
- 順治八年1651年南征に迫られ王の行き先を議すが貞毓は黔行きを決しかねる
- 順治十一年1654年十八先生の獄で貞毓は絞に処され諸臣は罵りつつ死ぬ
- 順治十五年1658年任國璽ひとり死守を請うも容れられず王に扈従して緬甸に入る
- 順治十八年1661年咒水の難で國璽・沐天波・馬吉翔ら四十二人が殺される
- 順治十八年1661年十二月に緬人が由榔を境外に送り出す
出自と入閣
- 字は元聲、宜興の人。崇禎十六年(1643年)進士。唐王に仕えて吏部文選主事となり、事が敗れると永明王を擁立して郎中に進んだ。王が全州に駐まると太常少卿を加えられ、なお選の事を掌った。まもなく吏部右侍郎に抜擢され、従って肇慶に至り戸部尚書に拝せられた。
- 廣東・廣西の会城が前後して失われ、王が潯州に、さらに南寧に移ると、貞毓はともに従った。
- 貞毓は嚴起恒とともに孫可望の秦王への封を阻んだ。可望が起恒を殺したとき、貞毓は使いに出ていたので免れた。還って東閣大學士に進み、起恒に代わった。
安龍への遷居
- 可望は雲南から貴陽に遷り、王を自分の近くに移して挟んで威を作そうと議した。その將で塘報を掌る曹延生が貞毓に、黔に移すべきでないと吹き込んだ。
- 時に順治八年(1651年)、大兵が南征して勢いが日々迫り、王は諸臣を召して議した。海辺に走って李元允に就こうと請う者、安南に入って難を避けようと議する者、海に泛かんで閩に至り鄭成功に依ろうと議する者があったが、ひとり馬吉翔・龎天夀だけが可望と結んで黔に赴くことを堅く主張した。貞毓は先に封を阻んだ議があり、かつ延生の言を入れていたので、敢えて決しなかった。元允が疏して海に出るよう請うたが、王は可望に就くことを望まず、しかも海辺は遠いとし、再び廷議に下したが、ついに決しなかった。
- まもなく開國公の趙印選・衛國公の胡一青の殿後の軍が戦い敗れて奔り、そののち王に速やかに行くよう請うたので、急ぎ水路から土司の地に走り瀬湍に至った。二將が大兵はますます近く、距離はわずか百里だと報じ、上下は色を失ってみな散り去った。すでに羅江の土司に宿ったときには追撃の騎兵との距離はわずか一舎であったが、ちょうど日暮れに引き揚げたのでやや安んじた。龍英に宿り廣南に至ったときには年が暮れていた。
- 可望は兵を遣わし、翌年二月に王を迎えて安隆所に入らせ、安龍府と改めて王を居らせた。宮室は低く粗末、服と車馬は粗悪、守護の将は不遜で人臣の礼が無く、王はその憂いに堪えなかった。
李定國への密敕と十八先生の獄
- 吉翔は戎政を掌り、天夀は勇衛営を督し、可望に諂って禅譲を謀り、貞毓が自分に附かないのを憎み、その党の冷孟銋・吴象元・方祚享に代わる代わる弾劾させた。かつ孟銋らに言った。「秦王が天下を宰する。私が内外の事を啓上すれば、ことごとく戎政・勇衛の二司に附いて大権は私に帰する。公らは羽翼となれ。貞毓に何ができよう」。
- 吉翔はそこで門生の郭璘を遣わして主事の胡士瑞を説いて秦王を擁戴させようとしたが、士瑞は怒って声を厲しくして叱り退けた。後日、吉翔は璘を遣わして郎中の古其品に堯舜禅受の図を描いて献じさせようとしたが、其品は拒んで従わなかった。吉翔が可望に讒言し、其品は杖殺された。可望は果たして朝廷の事をことごとく吉翔・天夀に委ねた。
- そこで士瑞は給事中の徐極、員外郎の林青陽・蔡縯、主事の張鐫と連ねて章を上りその奸謀を暴いた。王は大いに怒り、二人は太后に救いを求めてようやく免れた。
- 元御史の任僎、中書の方于宣が可望に勧めて内閣・九卿・科道の官を設け、印文を八疊に改め、旧いものをことごとく易え、大廟を立て朝儀を定め、国号を「後明」と改めることを議し、日夕に簒位を謀った。
- 王はこれを聞いて憂え懼れ、密かに中官の張福禄・全為國に言った。「聞けば晉王の李定國はすでに廣西を定め軍声大いに振るっているという。密かに一敕を下して兵を統べて入衛させたい。お前たちは密かに図れるか」。二人は「徐極・林青陽・張鐫・蔡縯・胡士瑞はかつて疏して吉翔・天夀を弾劾しました。ともに謀れましょう」と言った。王はただちに告げさせ、五人は許諾して貞毓に告げた。
- 貞毓は言った。「主上が憂え危ういのは、まさに我らが国に報いる時である。諸君のうち誰がこの使者を務められるか」。青陽が行くことを請うた。そこで偽って暇を乞い帰葬すると称させ、員外郎の蔣乾昌に定國に与える敕を撰させ、主事の朱東旦にこれを書かせ、福禄らが持って入って宝を捺した。青陽は年末に間道から馳せて定國のもとに至り、定國は敕を受けて感泣し、王を迎えると約した。
- 翌年夏、青陽が久しく還らず、王は使者を択んで催促に行かせようとした。貞毓は翰林孔目の周官をもって答えた。都督の鄭允元が「吉翔が朝夕に側にいる。他の事にかこつけて外に出せば成るだろう」と言った。王はそこで吉翔に命を奉じて梧州・南寧で先王および王太后の陵を祭らせ、周官を定國のもとに遣わした。
- 吉翔は道中でうすうす青陽の密敕の事を知り、人を定國の営に遣わして偵察させた。主事の劉議新という者が道で吉翔に遇い、必ず与するはずだと思って、二人の使者が敕を持って行った次第を告げた。吉翔は驚愕して可望に報せ、可望は大いに怒り、あわせて吉翔も謀に与ったと疑い、その將の鄭國を南寧に遣わして逮えさせた。
- ちょうど鐫・士瑞および李元開が王の親試により、極・縯・東旦および御史の林鍾が久しく次に在ったことにより、みな良い官を与えられた。天夀および吉翔の弟の都督の雄飛は甚だ忌み、その党の郭璘とちょうど陥れることを謀っていた。鍾・縯・極・鐫・士瑞もまた事が漏れたのを知り、倉皇として吉翔・天夀が表裏一体で奸をなしていると弾劾した。王は事が急だと見てただちに廷臣に罪を議させた。天夀は懼れて雄飛とともに貴陽に馳せて可望に告げた。
- 初め青陽は還って南寧に至ったところで守將の常榮に留められ、密かに新信の劉吉を遣わしてこれを王に告げた。王は喜んで青陽を給事中に改め、貞毓に諭してあらためて敕を撰せしめ、「屏翰親臣」の金印を鋳させ、吉に還って貴陽に付させた。廉州に至って周官は青陽と出会い、ともに高州に至って定國に賜り、定國は拝して命を受けた。
- しかしこのとき鄭國はすでに吉翔に械をつけて安龍に至り、諸臣と対質させていた。貞毓は知らぬと謝したが、國は怒って貞毓を挟み、王の居る文華殿にまっすぐ入り、王に迫って主謀者を索めた。王は懼れて正しく言えず、必ず外の者が敕と宝を偽って行ったのだろうと言った。國はそこで目を怒らせて出、天夀とともに朝房に至り、貞毓ならびに允元・鍾・縯・乾昌・元開・極・鐫・士瑞・東旦および太僕少卿の趙賡禹、御史の周允吉・朱議㞙、員外郎の任斗墟、主事の易士佳に械をつけて私室に繋いだ。また宮に入って福禄・為國を捕らえて出た。その党の冷孟銋・蒲纓・宋徳亮・朱企鋘らが王に速やかに主謀者の名を挙げよと迫り、王は悲憤して退いた。
- 翌日、國らは厳しく拷問した。ただ貞毓だけが大臣として免れた。衆は苦痛に堪えず、二祖列宗と大呼し、かつ大いに罵った。時に日はすでに暮れ、風雷が突然激しく震えた。縯が声を厲しくして「今日、縯らがこの獄をまっすぐ引き受ければ、いささか臣子が国に報いる苦衷が見えよう」と言い、これによって衆はみな自ら承服した。國はまた「主上は知っているか」と問い、縯は大声で「奏して明らかにしてはいない」と言った。そこであらためて収監し、君を欺き国を誤り宝を盗み詔を偽った罪として可望に報じた。
- 可望は王に自ら裁くよう請い、王は憤りに堪えず廷議に下した。吏部侍郎の張佐辰および纓・徳亮・孟銋・企鋘・蔣御曦らが國に「この輩はことごとく処死すべきだ。もし一人でも留めれば後患となろう」と言った。そこで御㬢が筆を執り佐辰が旨を擬し、鐫・福禄・為國を首罪として凌遲、他は従罪として斬とした。王が貞毓は大臣だと可望に言ったので、罪は絞となった。
- 吉翔は福禄らが内侍であることから、王后が事情を知っていたとして廃そうとし、主事の蕭尹に古の廃后の事を歴々と陳べさせた。后が泣いて王に訴え、それでやんだ。
- 諸人は刑に就いても顔色を変えず、それぞれ詩を賦し大いに罵って死んだ。その家人が安龍の北関の馬場に合葬した。まもなく青陽が逮えられて至り、これもまた殺された。ただ周官だけが走って免れた。順治十一年(1654年)三月のことである。
追贈と馬吉翔のその後
- 二年おいて定國はついに前の敕を奉じて王を迎え雲南に入れ、そこで貞毓に少師・太子太師・吏部尚書・中極殿大學士を贈り、祭を賜って文忠と諡し、子に錦衣衛世襲千戸を蔭せしめた。他の者も追贈と恤みに差をつけた。まもなく馬場に廟を建て、碑を刻んで「十八先生成仁処」と大書し、その忠を旌した。
- 定國は王を奉じて滇に居ってから、ただちに吉翔とその家人を捕らえ、步將の靳統武に収監させて殺そうとした。吉翔は日々統武に媚びた。定國の食客が統武を訪ねると、吉翔はまたこれに媚びた。そこで互いに定國に吉翔を誉め、それとなく冤を弁じた。定國が吉翔を召すと、吉翔は入謁してただちに叩頭して「王の再造の功は千古に二つと無い。吉翔は幸いにも御顔を仰ぐことができ、死んでも朽ちません。他の是非など弁ずるに足りません」と言った。定國は大いに喜んだ。
- 吉翔はそこで日々定國の食客に諂い、定國に説いて自分を薦めて内閣に入れさせ、ついに定國の食客と結託して中外の権をすべて握った。天夀もまたふたたび事を用いた。のちに王に従って緬甸に入り、天夀は先に死に、吉翔は緬人に殺された。
高勣(附伝)
- 字は無功、紹興の人。永明王に仕えて光禄少卿を歴任した。
- 馬吉翔・龎天夀が吴貞毓らを陥れて殺し、李定國が王を奉じて雲南に至って吉翔を捕らえ殺そうとしたが、諂いに乗せられて死を免れ、かつ薦められて閣に入り、ついに中外の権をすべて握り、天夀もまた事を用いた。定國と劉文秀は時に二人の家を訪れた。定國は時に晉王に、文秀は蜀王に封ぜられていた。
- 勣は御史の鄔昌期とともにこれを憂え、合わせて疏して「二人は功高く望重い。権佞の門に往来すべきではない。奸弊を滋くし秦王の轍を踏むおそれがある」と言った。疏が上ると二王はそのまま入朝しなくなった。吉翔が王の怒りを煽り、それぞれ杖百五十を加えて除名せよと命じた。定國の食客の金維新が走って定國に告げて「勣らにまことに罪はあるが、諫官を殺したという名は残すべきでない」と言い、定國はただちに文秀とともに入って救い、官に復した。
- 定國が孫可望の兵を敗ってから、自ら他に患いは無いとして軍備をすっかり弛めた。勣は郎官の金簡とともに進み諫めて言った。「今、内難は除かれたが外憂はまさに大きい。我らを窺う者が刃を研いで両虎の斃れるのを待っている。それなのに我らは水漏れする舟の中で歌に酔い、薪を焚く上で熟睡している。旦夕の安きが得られようか。二王は兵事に老練でありながら、どうしてこう気楽なのか」。定國はこれを王の前で数え立て、かなり王を煽って二臣を杖つことにして事を済ませようとした。朝士の多くが争って不可としたので、しばらく決しなかったが、三路の敗報が至って定國はようやく逡巡して謝り、二臣は免れた。
- 簡は字は萬藏、勣と同郷である。のちに王が緬甸に入ったとき、二人は扈従してともに死んだ。
李如月(附伝)
- 東莞の人。御史となった。王が安龍に駐まっていたとき、孫可望が叛將の陳邦𫝊父子を捕らえてその皮を剥ぎ、屍を安龍に伝えた。
- 如月は、可望が旨を請わずに勝手に勲鎮を殺したのは罪が莾□と同じだと弾劾し、かつ邦𫝊に悪諡を加えて不忠を懲らすよう請うた。王は可望が必ず怒るだろうと知り、その疏を留め、如月を召して「諡はもと忠を褒めるもので、悪諡の理は無い。小臣が妄言して制を乱した」と諭し、杖四十のうえ除名した。可望をなだめようとしたのである。
- ところが可望は大いに怒り、人を王のもとに遣わして如月を捕らえ、朝門の外に引き出して跪かせようとした。如月は闕に向かって叩頭し「太祖高皇帝」と大呼し、口を極めて大罵した。その者はついにその皮を剥ぎ、手足と首を断ち、皮の内に草を詰めて縫い、大通りに懸けた。
任國璽(附伝)と咒水の難
- 行人の官にあった。順治十五年(1658年)、永明王が出奔しようとしたとき、國璽ひとりが死守を請うた。章が廷議に下され、李定國らは「行人の議はもっともだが、前途はなお広い。しばらく蹕を移し、捲土重来して再び恢復を図っても遅くはない」と言った。そこで王に扈従して緬甸に入った。
- 緬の俗では中秋の日に諸蛮を大いに会させる。黔國公の沐天波に諸酋とともに髻を椎にし跣足で臣の礼で見えよと命じた。天波はやむを得ず従い、帰って泣いて衆に告げた。「私が屈辱を忍んだのは、主上を驚かせ憂えさせるのを懼れたからだ。さもなければ彼らが無礼を働き、私の罪はいっそう大きくなる」。
- 國璽は禮部侍郎の楊在とともに抗疏してこれを弾劾した。時に龎天夀はすでに死に、李國泰が代わって司禮監の印を掌り、吉翔はまた表裏をなして奸をなした。
- 國璽は宋末の大臣の賢奸の事を集めて一書とし、王に進めた。吉翔は深くこれを恨み、王が一日見ただけで國泰がただちに盗み去った。
- 國璽はまもなく御史に進み、疏して時事の解し難い三事を論じた。その中に「禍は眉に迫っている。険を出ることを思うべきだ」とあった。吉翔は悦ばず、ただちに國璽に脱出の策を献じさせようとした。國璽は憤然として「時事がここに至ってなお言官を抑えて言わせないのか」と言った。
- 時に緬甸では弟が兄を弑して自立し、文武の諸臣をことごとく殺そうとして、人を遣わして「蛮の俗は誓盟を貴ぶ。天朝の諸公と咒水を飲みたい」と言った。吉翔・國泰が諸臣を招いてみな行かせると、着くなり兵で囲み、諸臣を順に外に出させ、出るごとに殺した。殺された者は四十二人、國璽および在・天波・吉翔・國泰・華亭侯の王維恭・綏寧伯の蒲纓・都督の馬雄飛・吏部侍郎の鄧士廉らがみなこれに与かった。ただ都督同知の鄧凱だけが足を傷めて行かず免れた。
- 順治十八年(1661年)七月のことである。これより由榔(永明王)の左右に人が無くなり、十二月に至って緬人はついにこれを境外に送り出した。その事は国史に記す。
薛大觀一家(附伝)
- 初め由榔が緬甸に走ったとき、昆明の諸生の薛大觀は歎息して言った。「城を背にして戦い、君臣ともに社稷に死ぬこともできず、かえって蛮邦に走って苟くも生きようとするのは、重ねて恥ずべきことではないか」。
- 子の之翰を顧みて「私は七尺の躯を惜しまず、天下のために大義を明らかにする。お前も励め」と言った。之翰は「大人が忠に死ぬなら、私は孝に死にます」と言った。大觀は「お前には母がいる」と言った。ちょうどその母が傍らにいて、之翰の妻を顧みて「あの父子が忠孝に死ねるのに、我ら二人だけが節義に死ねないことがあろうか」と言った。その侍女がちょうど幼い子を抱いていて「ご主人がたが皆死なれるなら、私はどうすればよいのですか」と問うた。大觀は「お前が死ねるなら大いに結構だ」と言った。
- そこで五人そろって城北の黒龍潭に赴いて死んだ。翌日、諸々の屍が互いに引き合って水に浮かび、幼い子は侍女の懐の中で両手にしっかり抱かれたままであった。
- 大觀の次女はすでに嫁いでおり、兵を避けて山中におり、数十里を隔てていたが、同じ日に火に赴いて死んだ。
那嵩(附伝)
- 沅江の土官で、代々知府であった。嵩は職を嗣いで法に循い過ちが無かった。
- 王が緬甸に走る途中、沅江を過ぎたとき、嵩は子の燾とともに迎え謁し、供奉は甚だ謹み、宴を設けるにみな金銀の器を用い、宴が終わるとことごとくこれを献じて「この道中は供する物が少ないでしょう。いささか欠乏を補うためです」と言った。
- のちに李定國が諸土司の兵を号召すると、嵩はただちに兵を起こして応じた。まもなく城が破れ、楼に登って自ら焼け死に、一家みな死んだ。その士民もまた多く市街戦で死んだ。
史論
- 贊に曰く。明は神宗より後、次第に微かになり次第に滅び、二度と振るわなかった。その由って来たるところを推し量れば、国是が紛々と喧しく、朝廷の要路が水と火のごとく、社稷が相次いで沈むのを坐視してでも門戸の対立を破り除くことができなかったからである。だから桂林に流離して旦夕も支えられぬ有り様に至ってもなお、呉・楚が党を樹てて互いを傾けたのは、南都の翻案騒ぎの旧態そのままであった。顛覆の端はもとより由来があるのだ。当時に事に当たった諸臣を、どうして責められようか。