明史卷二百七十八 列傳第一百六十六 陳泰來

出自と兵事の献策

  • 陳泰來は字を剛長といい、江西新昌の人。崇禎四年(1631年)の進士。宣城知縣から入って戸科給事中となった。
  • 崇禎十五年(1642年)冬、都城が戒厳となると、泰來は戦守の数策を陳べた。總督の趙光抃が、泰來と同僚の荆祚永は平素から辺境の事情に明るいので、軍中の奏報にこの二臣を参与させるよう勅していただきたいと言い、許された。
  • 泰來はまた自ら一万の兵を借りて輦轂を粛清したいと請うた。帝はその意気を壮とし、ただちに兵科に改めて諸軍の戦守の方略を視察させ、中左門で召対した。軍中に至って界嶺での失態の状を奏し、副將の柏永鎮を弾劾して死罪に定めた。功により吏科右給事中に移り、休暇を願い出て帰郷した。

新昌での挙兵と戦死

  • 福王のとき刑科左給事中に起用されたが赴かなかった。唐王は太僕寺少卿に抜擢し、萬元吉とともに贛州を守らせ、さらに右僉都御史に抜擢して江西の義軍を提督させた。
  • 李自成が敗れて武昌に走ると、その部下が散じて新昌の境を掠めた。泰來はこれを大いに破った。
  • はじめ益王が建昌で兵を起こしたとき、泰來はこれに従おうとしたが、同郷の按察使漆嘉祉と舉人の戴國士が不可と主張した。ほどなく新昌が破れると國士は出て降ったので、泰來はこれを憎んだ。おりしも上髙の舉人曹志明らが兵を起こしたので、泰來はこれと結んだ。
  • 十二月、上髙・新昌・寧州を攻め取り、國士の妻子を殺し、そのまま萬載を取った。ほどなく大兵が新昌に迫ると守将は出て降り、泰來は界埠に走った。志明らは上髙から軍を移してこれに合流し、進んで撫州を攻めたが、兵は敗れてみな死んだ。