明史卷二百七十八 列傳第一百六十六 郭維經

出自と温體仁批判

  • 郭維經は字を六修といい、江西龍泉の人。天啟五年(1625年)の進士となり、行人に任じられた。
  • 崇禎三年(1630年)、南京御史に移った。疏で時弊を陳べた中に人を挙げ人を刺す言があったので、帝は具体的に指摘せよと責めた。そこで順天府尹の劉宗周の賢を極力称え、吏部尚書の王永光の酷薄さと人事の顛倒ぶりを力を尽くして非難したが、帝は取り上げなかった。
  • 崇禎六年(1633年)秋、温體仁が周延儒に代わって輔政となった。維經は、執政は才のないことを憂えるのではなく、才がありながらそれを正しい人を排斥するのに用い、国事を計るのに用いないことを憂えるべきである、国事が日ごとに悪化すれば「私は知らぬ」と言い逃れ、盗賊が日ごとに猖獗となり辺境の警報が日ごとに急を告げるのを座視して、ただ二、三の小臣と口舌を争い是非を競うばかり、宰相の地位はほとんど訴訟の場と化している、これで才ありといえようか、と述べた。帝は厳しく責めた。
  • 喪により去った。久しくしてもとの官で起用された。

福王擁立と時政の上奏

  • 北都の変を聞き、南都の諸臣に潞王を立てようと議する者があったが、維經は力を尽くして福王を主張した。
  • 王が即位すると應天府丞に進み、なお御史を兼ねて中城を巡視した。ほどなく上言して、聖明が位に即かれてもうすぐ二十日になるのに、恥を雪ぎ凶を除き人心を収拾する事は毫も行われていない、いま偽官が鳳陽・泗州に縦横し、悍卒が𤓰洲・儀真で荒れ狂い、焼き殺し掠奪する惨状は次第に江南に迫っているのに、廊廟の上では顔色を変えて互いに戒め合う声も聞かれず、ただ緩やかで切要でない務めばかりが朝廷に満ちて議論されている、内外の文武の諸臣に肺腸を洗い清めさせ、刻薄・偏私および恩讐報復の旧習をことごとく去らせ、ひたすら賊を討ち仇を復すことを事とさせていただきたい、と請うた。上聞に達した。
  • ほどなく大理少卿に移り、左僉都御史となり、五城の御史を専ら督して非常を察し輦轂を清めるよう命じられた。
  • 翌年二月、隆平侯の張拱日、保國公の朱國弼が相次いで他の事で維經を弾劾して罷めさせたので、維經は郷里に帰った。唐王は召して吏部右侍郎とした。

贛州の援軍と殉節

  • 順治三年(1646年)五月、大兵が贛州を囲むと、王は維經を吏部・兵部二部の尚書兼右副都御史とし、湖廣・江西・廣東・浙江・福建の軍務を総理して師を督して援けに赴かせた。
  • 維經は御史の姚竒允とともに兵八千人を募って贛州に入り、楊廷麟・萬元吉と協力して守った。城が破れると、維經は嵯峨寺に入って焼身して死んだ。竒允もまた死んだ。

姚竒允(郭維經の附伝)

  • 竒允は字を有僕といい、錢塘の人。進士から南海知縣に任じられた。土地は富み栄えていたが盗賊が多かったので、竒允は贈賄を断ち、力を尽くして盗を鎮めることに努め、政治の評判が大いに上がった。
  • 都に入って兵部主事となり、監察御史に改められ、廣東を巡按することとなったが、着任せぬうちに維經と援けに赴き、そのままともに死んだ。