明史卷二百七十八 列傳第一百六十六 萬元吉

萬元吉は字を吉人といい、南昌の人。天啟五年の進士から潮州推官・歸德を歴任し、督師の楊嗣昌に才を認められて軍前の監紀となり、左右の手のように頼られた。福王のもとでは四鎮の不和を調停し、太僕少卿として江北の軍務を監視するかたわら、建文の実録と尊号の回復、寛厳の用い方と議論に任せる道の偏りを説く上奏を行って容れられた。南京が覆ると唐王に帰し、兵部右侍郎兼右副都御史として江西・湖廣の諸軍を総督し、巡撫を兼ねた。吉安を失ってからは士卒が命に従わず、贛州に籠って守ったが、水師の潰滅で援軍は総崩れとなり、城が破れると贛州の人に詫びて水に赴いて死んだ。享年四十四。

年表(15件)

出自と楊嗣昌の軍

  • 萬元吉は字を吉人といい、南昌の人。天啟五年(1625年)の進士となり、潮州推官に任じられた。歸德に補せられ、大盗の李守志を捕らえてその一党を解散させた。崇禎四年(1631年)の大計(官吏考課)で降格された。
  • 崇禎十二年(1639年)秋、曽櫻の推薦により、永州檢校の身分で推官の事を署することを命じられた。二年在任し、督師の楊嗣昌がその才を推薦したので、大理寺評事に改められ軍前の監紀となった。嗣昌は左右の手のように頼り、諸将もまた悦服した。軍中を駆け回り、一夜も安らかに眠ったことはなかった。嗣昌が没し、元吉は母の喪に遭って帰った。
  • 崇禎十六年(1643年)、南京職方主事として起用され、郎中に進んだ。

四鎮の調停

  • 福王が即位するともとの官のままであった。四鎮(江北の四将)が不和であったため、元吉は詔を奉じて宣諭したいと請い、また万金を発して揚州の髙傑を犒い、大義を諭して江淮を保たせるよう請うた。そこで江を渡って諸将の陣営に赴いた。
  • 傑は黄得功・劉澤清とちょうど揚州を争っていた。元吉は得功に書を送り、共に王室を助けるよう説いた。得功は元吉の意のとおりに返書したので、元吉はその草稿を写して澤清に示し、傑との間の隔たりは次第に解けた。
  • 朝議では元吉が諸鎮をまとめられるとして、太僕少卿に抜擢し、江北の軍務を監視させた。

建文の実録と尊号に関する上奏

  • 元吉は身は外にあっても朝廷を忘れず、たびたび条奏した。建文の実録を修め、その尊称を復し、あわせて懿文太子にもとの号を追尊して寝園に祀り、建文帝を配し、また靖難で死んだ諸臣および近ごろ北都や各地で難に殉じた者を速やかに褒賞して忠義の気を興すよう請い、容れられた。

寛厳と議論についての上奏

  • また次のように述べた。先帝は天資英武で鋭意事を明らかにしようとされたのに禍乱はいよいよ増した。それは寛と厳の用い方がどちらかに偏り、議論に任せる道があまりに片寄っていたからである。
  • 先帝は初め逆璫(魏忠賢)の専権に懲り、臣下に委任して寛大を力めて行われた。諸臣はこれに慣れて意見の異同を争い、事前の備えをおろそかにし、敵が郊外に入ると手をこまぬいて策がなかった。先帝は激怒し、小人がその隙に乗じて厳を用いるよう仕向けた。そこで廷杖・告密・加派・抽練が行われ、朝にある者は過ちを救う暇もなく、野にある者は生きる術を失った。廟堂は振作を唱えたが敵は相変わらず強く、賊の禍はいよいよ広がった。十余年、小人が厳を用いた効果はこのとおりであった。
  • 先帝もまた悔いて寛大に戻り、以前の規定をことごとく覆されたので、天下は太平が招けると思った。ところが諸臣はまた賄賂を競い、ほしいままに欺き、進むほどに下劣になり、ふたたび先帝の怒りに触れて誅殺が始まり、宗社は続いて滅んだ。思うに諸臣の悪は常に先帝の寛に乗じて生じ、先帝の厳は常に諸臣の怠慢に激されて起こった。臣のいう寛厳の用い方が片寄っているとは、このことである。
  • 国運の困難は今きわまっている。それなのに論者は理屈で勝とうとして勢いの軽重を審らかにせず、自説を伸ばすことばかり好んで事の損得を顧みない。殿上では互いの立場を日ごとに争い、城外の従うか否かは遠くから制せられる。一人が事に当たれば衆口がこれを議する。孫傳庭が關中を守ったとき、識者はみな軽々しく出るべきでないと言ったが、すでに逗留し怯懦だと議する者があった。賊が河を渡ったとき、臣は史可法・姜曰廣に、急ぎ關寧の吳三桂の兵を撤して枢輔とともに迎え撃つべきだと語り、先帝の召対のときにも群臣がこれに触れたが、すでに□(底本欠字)地であると議する者があった。賊の勢いが燎原の火のようになったとき、朝臣のある者は南幸を勧め、ある者は皇儲に南都で監国させることを勧めた。いずれも臨機の善策であったが、すでに邪妄だと議する者があった。
  • 事の後から見ればみな論者が国を誤ったことを追って恨むが、もし事が幸いに敗れなければ、必ずともに論者が経を守ったことに服したであろう。おおよそ天下の事に全き害もなく全き利もない。当局者が朴実誠実で通達した者でなければ、誰があえて衆に逆らって独り行おうか。傍らで持論を張る者は意気と筆鋒を競い、必ず人を自分に従わせようとする。臣のいう議論に任せる道が片寄っているとは、このことである。
  • 前事の失を究めて後事の師とし、寛を体とし厳を用とされたい。簡易を尊び真誠を推すのが寛であって、濫りに賞し罪を放置するのは寛ではない。邪正を弁じ名実を照合するのが厳であって、探りを入れ隠し事を穿つのは厳ではない。寛厳が相補って初めて議論に任せることも道理に合う。なお、事に当たる人については、登用の初めに厳しく吟味し、寛やかに後の成果を期すべきである。軍中でふたたび垢を隠すことを繰り返させず、辺境の人材を長く借り置いたまま埋もれさせてはならない。厳をもって収めてのちに、寛をもって任せることができるのである。
  • 詔があって褒めて容れられた。

江西の戦局

  • 翌年(1645年)五月、南京が覆り、福建に走って唐王に帰した。
  • 六月、大清の兵はすでに南昌・袁州・臨江・吉安を取り、一か月あまりのちには建昌をも取った。ただ贛州だけが上流に孤立していたが、兵力は少なかった。
  • おりしも益府の永寧王慈炎が峒賊の張安を招降した。いわゆる龍武新軍である。これを遣わして撫州を回復させた。南贛巡撫の李永茂は副將の徐必達に泰和を扼して大兵を拒ませたが、ほどなく戦って敗れ、永安で永茂に出会い、永茂はそのまま贛州に奔った。
  • 八月、叛将の白之裔が萬安に入り、江西巡撫の曠昭が捕らえられ、知縣の梁于涘が死んだ。于涘は江都の人、崇禎十六年(1643年)の進士である。
  • このとき唐王の詔がちょうど贛州に至ったので、永茂は楊廷麟・劉同升とともに兵を挙げた。ほどなく王は永茂を召して兵部右侍郎とし、張朝綖を後任とした。着任したばかりで、元吉を兵部右侍郎兼右副都御史に抜擢し、江西・湖廣の諸軍を総督させ、朝綖を召し還して同升を代わりとした。元吉が贛州に至ったとき同升はすでに没していたので、元吉が巡撫を兼ねた。

吉安の失陥

  • 順治三年(1646年)三月、廷麟が王に朝謁しようとしたので、元吉が代わって吉安を守った。
  • はじめ崇禎末に中書舍人の張同敞が雲南の兵を調発するよう命じられていたが、このころ江西に着いたときには両京がすでに相次いで失われていたので、退いて吉安に還った。廷麟は留めてともに守り、客の礼で待遇した。その将の趙印選・胡一青はしばしば功を立てたが、元吉の統制がはなはだ厳しかったので諸将は次第に不満を抱いた。このとき廣東の兵もまた援けに来ていた。
  • 新軍の張安は汀州・贛州の間の峒賊四営の一つで、驍勇よく戦い、降ってのちは撫州回復の功があり、さらに他の営を招いてことごとく降らせていた。元吉は新軍を頼みにできると思い、雲南・廣東の軍を軽んじたので、二軍はともに離反した。しかし安の兵はもと賊であり、贛州に居ては淫らな掠奪をし、湖西の援けに遣わされても通る先を荒らした。
  • ここに至って大兵が吉安に迫った。諸軍はみな内心が離れ、新軍はまた湖西にあった。城中の軍は戦わずして潰え、城はついに破れた。元吉は退いて皂口に屯し、贛州に檄を発して雲南兵の棄城の罪を極言した。その衆はそのまま西へ去った。
  • 四月、大兵が皂口に迫り、元吉は防ぎきれず贛州城に入った。

贛州籠城

  • 大兵は勝ちに乗じて城下に至った。給事中の楊文薦が命を奉じて湖南に向かう途中で贛州を通り、入城して共に守禦したので、城中はこれを頼みとした。文薦は元吉の門生である。
  • 元吉はもともと才があり、事にあたって精敏であったが、吉安を失ってからは士卒が命に従わなくなり、ぼんやりと城上に坐り、将吏と一言も交わさなかった。河を隔てた大営が山麓一帯にあるのを、空の営だと言い、大営の中から来た兵民が敵の勢いが盛んだと言うと、間諜だと叱って斬った。
  • 江西巡撫の劉遠生は張琮という者に兵を率いて湖東に赴かせていたが、贛州の包囲が急になると、遠生は自ら城を出て雩都に琮を召しに行った。贛州の人は「撫軍が逃げた」と言い、怒ってその舟を焼き、遠生の妻子を拘束した。ほどなく遠生が琮の兵を率いて至ったので、贛州の人は大いに悔いた。
  • 琮の軍は河を渡って梅林に至ったが、伏兵に遭って大敗し、河まで還ったところで舟を争い、多くが水に溺れて死んだ。遠生ははなはだ憤り、五月一日に河を渡ってふたたび戦い、士卒に先んじたが、大兵に遭って捕らえられ、また逃げ帰った。
  • 一方、先に湖西へ行っていた新軍は、吉安がふたたび失われたと聞いて雩都に還った。廷麟は自ら赴いてこれを迎え、大兵と梅林で戦って再び敗れたので、その軍を解散させ、自身は入城して元吉とともに守った。
  • 遠生が敗れてからは、援軍はみな前進しようとしなかった。六月十五日、副將の吳之蕃が廣東の兵五千を率いて至り、包囲は次第に解けたが、ほどなくまた合わさり、城中の守りはもとどおりであった。
  • 王は贛州の包囲が長引いていると聞いて労をねぎらい、忠誠府という名を賜り、元吉に兵部尚書、文薦に右僉都御史を加え、尚書の郭維經を援けに遣わした。

水師の潰滅と贛州陥落・殉節

  • 維經は御史の姚竒允とともに沿道で兵を募り、八千人を得た。元吉の部将の汪起龍が数千を率い、雲南の援将の趙印選・胡一青が三千を率い、大學士の蘇觀生も同数の兵を遣わし、両廣總督の丁魁楚もまた四千を遣わし、廷麟もまた散り散りになった者を集めて数千を得た。前後して贛州に至り、城外に陣営を布いた。
  • 諸将は戦おうとしたが、元吉は水師が着くのを待って同時に撃とうとした。中書舍人の來從諤が砂兵三千を募り、吏部主事の龔棻と兵部主事の黎遂球が水師四千を募っていたが、みな南安に屯して下ろうとしなかった。主事の王其宖は元吉に「水師の帥である羅明受は海賊です。荒々しく制しにくいのに、棻と遂球は慈母が驕った子に仕えるように扱っています。しかも今は水が涸れて大船は進みにくい。どうして約束どおりにできましょう」と言ったが、聴かれなかった。
  • 八月、大兵は水師が来ようとしていると聞き、その夜のうちに江を遮って大船八十を焼いた。死者は数え切れず、明受は逃げ帰り、舟中の火薬と武器はすべて失われた。ここに至って両廣・雲南の軍は戦わずして潰え、他の営もややもすれば散り去った。城中に残るのは起龍と維經の部下の兵四千余人、城外に残るのは水師の後営二千余人だけであった。參將の謝志良は一万余の衆を擁して雩都にいたが進まず、廷麟が調発した廣西の狼兵八千人は嶺を越えたもののすぐには赴かなかった。おりしも汀州が破れたと聞き、人心はいよいよ震え懼れた。
  • 十月初め、大兵は道案内を用いて夜に城に登った。郷勇はなお市街戦を続けたが、夜明けに兵が大挙して至り、城はついに破れた。元吉は死んだ。
  • これより先、元吉は婦女が城を出ることを禁じていたが、その家人がひそかに元吉の妾を乗せて城壁から吊り降ろして去らせたことがあった。元吉は早馬を遣わして追い還し、その家人を打ったので、城中の者はあえて出ようとしなかった。城が破れたとき、部将が元吉を擁して城を出ようとした。元吉は嘆いて「私のために贛州の人に詫びてくれ。城じゅうを塗炭に落としたのは私だ。私だけがどうして生き残れよう」と言い、そのまま水に赴いて死んだ。享年四十四。

楊文薦(萬元吉の附伝)

  • 楊文薦は字を幼宇といい、京山の人。進士から兵科給事中となった。城が破れたとき病で臥せって起き上がれず、捕らえられて南昌に送られ、食を絶って没した。