明史卷二百七十七 列傳第一百六十五 沈猶龍

出自と官歴

  • 沈猶龍は字を雲升といい、松江華亭の人。萬厯四十四年(1616年)の進士となり、鄞縣知縣に任じられた。天啟初年に召されて御史を授かり、出て河南副使となった。
  • 崇禎元年(1628年)に召されてもとの官に復し、太僕少卿に進み、右僉都御史を拝して福建を巡撫した。
  • 江西の妖賊張普薇らが乱を起こすと、猶龍は遊撃の黄斌卿を遣わして協力して討伐させ、大いに破った。位階を加えられ金を賜った。喪により帰り、服喪を終えて兵部右侍郎兼右僉都御史として起用され、両廣の軍務を総督し廣東巡撫を兼ねた。
  • 崇禎十七年(1644年)冬、福王が部務を処理させようと召したが就かず、親の葬儀を願い出て帰った。

松江の守城と殉節

  • 翌年(1645年)、南京が守れなくなり、諸城は風に靡いて下った。閏六月、呉淞總兵官の呉志葵が海から江に入り、泖湖に水寨を結んだ。總兵官の黄蜚が千艘を擁して無錫から来て合流した。猶龍は同郷の李待問・章簡らとともに壮士数千人を募って城を守り、二将と掎角の勢をなした。參將の侯承祖は金山を守った。
  • 八月、大清の兵が至り、二将は春申浦で敗れ、城はついに包囲され、ほどなく破れた。猶龍は走り出て矢に当たって死んだ。待問は東門を守り、簡は南門を守り、城が破れてともに殺された。
  • 華亭教諭の眭明永は明倫堂に詩を題して縊れて死に、諸生の戴泓は池に赴いて死んだ。嘉定の舉人傅凝之は志葵の軍事に参与し、兵が敗れて水に赴いて死んだ。
  • 大清の兵はそのまま金山を攻めた。承祖は子の世祿とともになお固く守り、城が破れると市街戦を一時ばかり続けた。世祿は四十本の矢を受け、捕らえられて死んだ。承祖もまた捕らえられ、降伏を勧められたが従わず、殺された。
  • 志葵と蜚は敗れて捕らえられ、江隂の城下に連れて来られて城中の人に降伏を説くよう命じられた。志葵は説いたが、蜚は口をきかず、城はついに下らなかった。のちに二人とも殺された。
  • 待問は字を存我といい、崇禎末の進士で、中書舍人に任じられた。文章に巧みで書法にも精しかった。簡は字を坤能といい、郷試に合格して羅源知縣となった。