福王朝での直言
- 慈谿の人。崇禎十三年(1640年)進士、行人に授けられ、使いを奉じて郷里に帰った。福王が立って復命し、御史に抜擢された。
- 疏して五事を陳べ、いずれも時弊に切であった。続いて群臣が正しき者を醜み邪に党すると論じ、王に臥薪嘗胆して恥を雪ぎ讐に報いる計をなすよう請うた。まもなく詞臣の黄道周・劉同升・葛世俊・徐汧・呉偉業らを薦めた。
- また言った。「山東・河南を経略したのは王永吉と張縉彦である。永吉は機を失ったのに先帝は抜いて總督とした。兵を擁して近郊にありながら国の危急を救わなかった。縉彦は部曹の官であったのを先帝がにわかに抜いて中枢を掌らせたのに、率先して賊に従った。二人に極刑を加えても過ぎることはない。陛下は法を屈して用いられたが、永吉は観望して逗留し、縉彦は狼狽して南に逃げた。死んでは何をもって先帝に対し、生きては何をもって陛下に対するのか。昌平巡撫の何謙が諸陵を失陥させた罪もまた按ずべきである。都城が陥ちた以上、守土の臣はみな兵を厲まし馬を秣んで国の讐に報いるべきなのに、賊の塵がまだ揚がらぬうちに先に去って民の望むところとなった。河道總督の黄希憲、山東巡撫の邱祖德のような者を、なお家に安らかに臥せさせておいてよいのか」。疏が入り、謙・祖德らはみな逮治を命ぜられたが、永吉と縉彦は罪せられなかった。
- 時に朝政は大いに乱れ、宸荃ひとりが正を持したので、要人の多くがこれを憎んだ。
魯王への従行と海没
- 翌年、年例によって蘇松兵備僉事に出されたが、赴かぬうちに南都が破れた。宸荃は邑中で兵を挙げ、魯王監國が右僉都御史に抜擢した。
- まもなく事が敗れ、宸荃は家を棄てて王に従って海外へ出た。王が長垣に次すると続けて大學士まで抜擢され、王に従って舟山におり、また海に泛かんで厦門・金門に至り、後に南日山に舟を着けたとき、風に遭って海に没した。
- その邑の子弟の沈履祥はかつて知縣となり、監國の時に御史として台州で兵糧を督した。城が破れて山中に避けたが、捕らえられて死んだ。
史論
- 贊に曰く。甲申の後、明の祚はすでに終わり、一年も経たぬうちに南都もまた覆り、勢いはもとよりどうしようもなかった。朱大典・張國維らはささやかな義を抱き、いたずらに海辺に名号を借りて旦夕を支えたが、上は衰え下は凌ぎ、事に統紀が無かった。それで偏安の効を収めようとしても、どうして得られようか。