明史卷二百七十六 列傳第一百六十四 錢肅樂

太倉知州としての治績

  • 字は希聲、鄞縣の人。臨江知府の若賡の孫、寧國知府の敬忠の兄の子である。
  • 崇禎十年(1637年)進士に及第し、太倉知州に授けられた。豪家の奴僕が狡猾な吏と姦をなし、兇徒が党を結んで人を殺しその屍を焼いたが、肅樂が痛く懲らしたのでみな手を斂めた。また朱と白の榜で善人と悪人の名を列し、白榜の者を階下で械につないで大杖を加えた。久しくして杖たれる者が日に少なくなった。
  • かつて崑山・崇明の事を代行し、両県の民はみな碑を立てて徳を頌えた。刑部員外郎に遷り、まもなく母と父の喪に遭った。

寧波での挙兵と魯王の擁立

  • 順治二年(1645年)、大兵が杭州を取り、属郡の多くが迎え降った。閏六月、寧波の郷官が降伏を議したが、肅樂は挙兵を建議し、諸生の華夏・董志寧らが遮って拝し、肅樂を首唱者とした。集まった士民は数万人。
  • 肅樂は牙旗を建てて事を執った。郡中の監司・守令はみな逃げ、ただ一人の同知が府の事を治めていた。肅樂は倉庫の帳簿を取り立て、守備の具を修繕し、總兵の王之仁と盟を結んでともに守った。
  • 魯王が台州にいると聞き、挙人の張煌言を遣わして表を奉じ監國を請うた。ちょうど紹興・餘姚もまた兵を挙げたので、王は紹興に赴いて監國の事を行い、肅樂を右僉都御史に召して銭塘を画して守らせ、まもなく右副都御史に進めた。
  • このとき之仁および大將の方國安がともに封爵を加えられたが、その兵食は寧波・紹興・台州三郡の田賦で賄いきれず、つねに食を欠いた。まもなく兵部右侍郎を加えられた。
  • 翌年五月、軍の食が尽きてことごとく散じ去り、魯王は海に出、肅樂もまた舟山に行った。唐王が召したが、境に入ったばかりで王はすでに没しており、海壇山に隠れて山薯を採って食とした。

魯王の下での大學士

  • 翌年、魯王が長垣に次して兵部尚書に召し、劉沂春・呉鍾巒らを薦めて用いた。その翌年、肅樂を東閣大學士に拝した。
  • 唐王は歿していたが、その將の徐登華が富寧を守っていた。魯王が大學士の劉中藻を遣わして攻めさせ、登華は降ろうとしたが疑って決しかね、「海上にどうして天子がいよう、舟中にどうして國公がいよう」と言った。肅樂が書を送って「将軍は南宋の末に二帝がともに舟中にあったのを聞かないのか」と言い、登華はついに降った。
  • 鄭彩が権柄を専らにし、続けて熊汝霖・鄭遵謙を殺した。肅樂は憂憤して舟中で卒した。故相の葉向髙の曾孫の進晟が福清の黄蘗山に葬った。

劉中藻・鄭遵謙(附伝)

  • 劉中藻は福安の人。進士から行人となる。賊が京師を陥れ、髪を剃られ拷問を受けた。賊が敗れて南に還り、唐王に仕え、のち魯王に仕えた。福寧を攻め降してこれを守り、福安に移駐した。大清の兵が城を破ると、冠帯して堂上に坐し、文を作って自ら祭り、金屑を呑んで死んだ。
  • 鄭遵謙は會稽の人、諸生であった。潞王が杭州をもって大清に降ると、遵謙は衆を倡えて兵を起こし、魯王に仕えて浙・閩の間を苦労して往来し、王に従って航海し、汝霖とともに彩に害された。