明史卷二百七十六 列傳第一百六十四 何楷

給事中としての弾劾

  • 字は元子、漳州鎮海衞の人。天啓五年(1625年)進士。魏忠賢の乱政に当たって選に謁せずに帰郷した。
  • 崇禎の時、戸部主事に授けられ、員外郎に進み、刑科給事中に改まる。流賊が鳳陽を陥れ皇陵を焼いたとき、楷は巡撫の楊一鵬・巡按の呉振纓の罪を弾劾し、あわせて輔臣の温體仁・王應熊を刺した。振纓は體仁の私人であり、一鵬は應熊の座主だからである。「逆賊が皇陵を犯し神も人もともに憤り、陛下は講筵を輟め正殿を避けて臣民を感動させたのに、二人の輔臣だけはこれを漫然と視て、一鵬・振纓に罪を戴いて自ら贖わせようとしている。情実を重んじて祖宗の陵寝を軽んじ、朋党の深さは天下の譏りを買っているのに恤みない」。旨に忤って一秩を削られたまま職務に当たった。
  • また言った。應熊と體仁が奏弁して自ら門生・姻戚を引き合いに出しているが、刑官が顔色をうかがって曲庇するのは実にここから来ている。輔臣に恩讐で区別せず国事を戯れとするなと宣諭されたい。應熊がまた奏弁すると、楷は「臣の疏はまだ旨を奉じていないのに、應熊は前日に臣の疏の文言を引いている。禁中の語を漏らす者があるに違いない」と言った。帝は心を動かして應熊に自ら陳べさせ、應熊はついにこれによって去った。
  • 吏部尚書の謝陞が、登萊は要地であり巡撫の陳應元が病を理由に去るのを許すべきだと言い、勞永嘉を應元の代わりに推すときには登萊巡撫はもともと余計な官だと言ったので、楷もまた疏して駁した。
  • 楷はまた都御史の髙攀龍に官誥を追贈し、左光斗ら諸臣に諡を賜り、惠世揚を召還するよう請い、その疏の多くが聴き入れられた。しばしば遷って工科都給事中となった。

楊嗣昌の和議に反対する

  • 崇禎十一年(1638年)五月、帝は火星の逆行によって減膳修省した。兵部尚書の楊嗣昌はちょうど和議を主張し、前代の史を歴々と引いて進言した。楷と南京御史の林蘭友が前後してその非を言った。
  • 楷は言った。嗣昌が建武の款塞の事を引くのは市賞の説を申べるためであり、元和の田興の事を引くのは招撫の説を申べるためであり、太平興國の連年の敗戦を引くのは兵を用いるべからずの説を申べるためであって、ただ巧みに附会しているにすぎない。永平二年の馬皇后の事に至っては、何を指して斥けているのか分からない。帝はちょうど嗣昌を庇っていたので聴かなかった。
  • 月を越えて嗣昌が奪情のまま入閣すると、楷はまたこれを弾劾し、旨に忤って二秩を貶され南京國子監丞となった。母の憂で帰り、服喪を終えて廷臣が交々薦めて京に召されたが、都城はすでに陥ちていた。福王が楷を戸部右侍郎に抜擢して銭法を督理させ、兼工部右侍郎を命じた。続けて疏して辞任を請うたが許されなかった。

閩での鄭氏との対立と死

  • 順治二年(1645年)南都が破れ、楷は杭州へ走り、唐王に従って閩に入り、戸部尚書に抜擢された。
  • 鄭芝龍・鴻逵の兄弟は横暴が甚だしく、郊天の儀のとき病と称して出なかった。楷が芝龍には人臣の礼が無いと言うと、王はその気節を奨めて察院の事を掌らせた。鴻逵が殿上で扇を使ったのを楷が呵して止めたので、二人はますます怒った。
  • 楷は容れられまいと知り、続けて辞任を請うて去ったが、途中で賊に遭って片耳を切られた。芝龍が使わした部將の楊耿であった。漳州が破れ、楷はついに鬱々として卒した。
  • 楷は群書を博く綜べ、寒暑にも読書をやめず、とくに経学に深かった。

林蘭友(附伝)

  • 字は翰荃、仙游の人。崇禎四年(1631年)進士、臨桂知縣に授けられ、南京御史に抜擢された。
  • 大學士の張至發・薛國觀、吏部尚書の田惟嘉らを疏して弾劾し、あわせて嗣昌が忠孝ともに欠けると論じたことで、浙江按察司照磨に貶された。楷および黄道周・劉同升・趙士春とともに「長安五諫」と称された。光祿署丞に遷った。
  • 京師が陥ちて髪を剃り自ら匿れたが、賊に捕らえられて拷問を残らず受けた。賊が敗れて南に還り、唐王が太保少卿に用い、僉都御史に遷した。事が敗れて家族を挈げて海隅に遁れ、十余年で卒した。