涇陽知縣と御史時代の弾劾
- 字は見白、曲周の人。天啓五年(1625年)進士、涇陽知縣に除せられる。大吏が魏忠賢に諂って涇陽に生祠を建てようとしたが、振飛は執って従わなかった。邑人の張問逹が宦官に忤って追贓十万に坐したが、振飛はわざと引き延ばし、宦官が敗れて事は解けた。流賊が境に入ったのを撃退した。
- 崇禎四年(1631年)徴されて御史に授けられる。周延儒を、卑汚・奸険で邪に党し正しき者を醜むとして弾劾し、直ちに斥けて宰輔の路を清めよと祈ったが、旨を被って切責された。
- まもなく時事の十大弊を陳べた。苛細に務めて政体を忘れる、廉恥を失って官の在り方を壊す、民はいよいよ窮するのに賦はいよいよ急である、事があるときは急ぎ事が無いときは緩む、顕れた患いは知って隠れた憂いを忘れる、事を治めることを求めて人を治めることが少ない、外には重く責め内には軽く責める、小事に厳しく大事に寛い、臣は日々怠り主は日々疑う、詔旨はあっても奉行が無い。疏が入り、所司に下された。
- 山東の兵が叛くと、□(底本欠字)撫の余大成・孫元化を弾劾し、あわせて延儒が曲庇した罪を論じたが、帝は取り合わなかった。
- まもなく吏部尚書の閔洪學が権勢に結び私人を植え、銓衡を握ってから吏治が日に壊れたと弾劾し、洪學は自ら身を引いて去った。南京吏部尚書の謝陞が左都御史に廷推されると、振飛はその醜い有り様を歴々と詆り、陞はついに用いられなかった。
福建巡按
- 崇禎六年(1633年)福建を巡按した。海賊の劉香がしばしば紅夷を手引きして侵入したが、振飛は千金を懸けて将士を励まし、遊擊の鄭芝龍らを遣わして大破させた。詔して銀と幣を賜り、俸の任期が満ちれば京卿として録用せよとした。
- 初め振飛は海賊の情勢を論じて、巡撫の鄒維璉では処理できないと言い、その言が維璉を傷つけ、維璉は罷めて去った。しかし命が下ってすぐにたびたび勝報が上がったので、振飛は力めてその功を明らかにし、維璉はふたたび召し用いられた。
- 崇禎八年(1635年)夏、帝が輔臣を選ぼうとしたとき、振飛は言った。「枚卜は盛典であり、縁故にすがる者がひそかに紛れ込んでは光らない。さきの周延儒・温體仁らのように、公論がともに棄てた者が宰輔の位に居てから、民は窮し盗は興った。己を辱める者が天下を正せるはずがない」。時に延儒はすでに斥けられ、體仁がまさに首輔にあったので、これを含んだ。
- まもなく振飛は蘇松を按じ、輸布・収銀・白糧・収兌の四大患を除いて民の困窮を蘇らせよと請うた。ちょうど常熟の瞿式耜が奸民の張漢儒に訴えられ、體仁は振飛が糾さなかった失として旨を擬し、状を陳べさせた。振飛の語が體仁を刺したので、體仁は憤って帝の怒りを煽り、江南按察司検校に謫された。入って上林丞となり、しばしば遷って光禄少卿となった。
漕運總督・淮揚巡撫
- 崇禎十六年(1643年)秋、右僉都御史・總督漕運・巡撫淮揚に抜擢された。
- 翌年正月、流賊が山西を陥れ、振飛は將の金聲桓ら十七人を遣わして道を分けて河を防がせ、徐・泗・宿遷から安東・沭陽に至らせ、あわせて郷兵を団練して牛と酒で犒い、両淮の間で精兵数万を得た。
- 福・周・潞・崇の四王が賊を避けて同じ日に淮に至り、大將の劉澤清・高傑らもまた汛地を棄てて南下したが、振飛はことごとくこれを迎え接した。
- 四月の初め、北都陥落を聞く。福王が南京で立った。河南副使の吕弼周が賊の節度使として代わりに来、進士の武愫が賊の防禦使として徐・沛を招撫し、賊將の董學禮が宿遷に拠った。振飛は撃って弼周を擒え、愫は學禮のもとへ走った。弼周を法場に竿にかけ、軍士に一人三矢ずつ射させたうえで、解いて磔にした。愫は縛って市中に引き回し、鞭八十を加え、檻車で朝廷に献じて伏誅させた。
- 五月、馬士英が親しい田仰を用いようとして振飛を罷めた。振飛はまた母の喪に遭い、家に帰る所も無く蘇州に流寓した。まもなく功を録して、家に居ながら右副都御史を加えられた。
- 振飛は初め漕運を督したとき鳳陽の皇陵に謁したが、望気者が「高牆に天子の気がある」と言った。唐王聿鍵はそのとき罪によって錮せられて陵を守り、宦官に虐げられていた。振飛は上疏して罪ある宗室を広く寛くするよう乞い、ついに聴かれた。
唐王への仕官と最期
- 順治二年(1645年)、大兵が南京を破り、聿鍵が福州で自立して振飛を左都御史に拝し、振飛を連れて来られる者には五品の官と二千金を賜ると募った。
- 振飛は召に赴き、途上で太子太保・吏部尚書兼文淵閣大學士に拝された。至ると王は大いに喜び、宴して夜半に及び、燭を撤して送り帰らせ、玉帯を解いて賜り、一子を職方員外郎に官した。また淮を守った功を録して錦衣衛世襲千戸の蔭を与えた。
- 王がしばしば廷臣の怠慢を責めたので、振飛は進み出て言った。「上は臣僚が因循を改めなければ必ず敗亡に至ると仰せですが、臣は上が操切を改めなければやはり中興できまいと思います。上には民を愛する心がありますが民を愛する政が見えず、言を聴く明はありますが言を聴いた効を収めておりません。喜怒を軽々しく発し、号令はたびたび改まり、群臣が凡庸なのを見て督責が過ぎ、書史を博覧されるので明備を求めすぎます。およそ上の長所とされるものこそ、臣が甚だ憂えるところです」。その言はことごとく王の短所に中った。
- 順治三年(1646年)、大清の兵が仙霞関に進み、聿鍵は汀州へ走った。振飛は追って赴いたが及ばず、汀州が破れて海島に走った。翌年、永明王の召に赴く途中で卒した。