明史卷二百七十六 列傳第一百六十四 王瑞柟

蘇州推官としての治績

  • 字は聖木、永嘉の人。天啓五年(1625年)進士、蘇州推官に授けられ、兌運を兼理した。軍と民の交兌はつねに軋轢して争いの端を開いたが、瑞柟の調整が宜しきを得て、年に浮費三万金を省き、上官が石に刻んで令とした。
  • 貴人の弟が法を犯し、律のとおりに取り調べたので、その人に中傷され、当路が転任を議そうとしたので帰郷した。

張獻忠の招撫に反対する

  • 崇禎七年(1634年)河間推官に起き、工部主事に遷り、兵部に移って職方員外郎に転じ、湖廣兵備僉事に抜擢されて襄陽に駐まった。
  • 崇禎十一年(1638年)春、張獻忠が榖城に拠って招撫を乞い、總理の熊文燦がこれを許した。瑞柟は計に非ずとし、巡按の林銘球・總兵官の左良玉と謀って、獻忠が来たところを捕らえようとしたが、文燦は固執して不可とした。
  • 瑞柟は言った。「賊は計略で我らを愚弄している。愚弄されてはならぬ。今、良玉および諸將の賈一選・周仕鳳の兵はみな近境にある。まことに合わせて撃てば、勝てぬ憂いはない」。文燦は怒って招撫の局を撓すものだと責めた。瑞柟は言った。「賊がまだ痛手を負わぬうちに遽かに招撫すれば、彼には懼れるものが無い。必ず討つという勢いを示してこそ心を折って二心を抱かなくなる。撫を撓すのではなく、実は撫を成すのだ」。文燦は従わなかった。
  • 瑞柟は従征・帰農・解散の三策を列挙して上ったが、文燦はこれも用いなかった。瑞柟は自ら檄を作って獻忠を諭したが、獻忠は文燦が己を庇うのを恃んで聴かなかった。
  • 翌年、獻忠が叛いた。瑞柟は先に丁憂で帰っていた。獻忠は壁に書き置きを留め、自分が叛くのは總理がそうさせたのだと言い、上官の姓名と賄賂を取った月日を具に列挙し、その末尾に「私の金を受け取らなかったのは王兵備ただ一人だけだ」と題した。これによって瑞柟の名は大いに顕れた。

晩年と自決

  • 服喪を終えたが用いられぬうちに都城が陥ちた。福王の時に太僕少卿に召され、有司が民を虐げる有り様を極めて陳べ、まもなく告げて帰った。
  • 唐王が福建に召し、故官のままとしたが、まもなくまた帰った。閩の地がことごとく失われ温州も守れなくなると、山中に避けた。出仕を薦めようとする者があったので、家廟に拝辞し、従容として室に入り自ら縊れて死んだ。