出自と諫諍
- 字は載寧、松江華亭の人。天啓五年(1625年)進士、濬縣知縣に授けられる。崇禎七年(1634年)御史に抜擢される。
- 翌年春、賊が鳳陽を陥れると、賊を滅ぼす五事を条上した。ほどなく皇陵が震え驚かされたことについて、輔臣が秦と越のように無関係の顔をしていてよいはずがないと責めたが、帝は取り合わなかった。
- 福建を按察し、たびたび寇を平らげた功で褒賞を受けた。還朝して言った。監司の営みと競い合いが紛々としており、就きたい任地なら久任を理由に留任させ、避けたい任地なら易地借才を理由に移す。今年は燕・秦、明年は閩・粤と、往復は数千里に及び、程限は遅れて数月を越える。一度の異動ごとに一段の弊害が加わる。帝はその言を是とした。
- 崇禎十二年(1639年)十月、楊嗣昌が督師として出るにあたり、肻堂が奏して言った。古来、乱を鎮める法は、起こったばかりなら解散させ、勢いが成れば剪り除くもので、招撫を専ら任じた例はない。今、撫の任にある臣が新たな命を受けて出れば、賊は必ずまた旧来の手を用い、偽って尾を振り憐れみを乞うだろう。失敗した諸臣はこれまでの敗局を掩おうとして多方に惑わし、なお撫議を進めるだろう。特に一令を申して専ら剿除に務め、招撫を進言する者は重典に処せと請うた。帝は偏執の臆見だとして責めた。
- 崇禎十四年(1641年)四月、流寇が城を毀ち邑を破って縦横に無人の境を行くようであるが、これは督師の嗣昌が任に就く前にはなかったことだ、目前の大計はまず嗣昌の権を釈くことにあると言った。疏が入ったときには嗣昌はすでに死んでいた。
- 十二月、また言った。今、賊を討つのに人がいないとは言えない。巡撫の外にさらに撫治があり、總督の上にまた督師がある。位号は異なるが職権に区別がない。今、楚は捷を報じ豫は敗を報じ、甚だしくは南陽が失守して禍が親藩に及んだ。督師の職掌はどこにあるのか。今の督師は、中央にいて采配し、獲物を指し示すのを功とするのか、それとも賊を分担して片付け、焦頭爛額を仕事とするのか。今の秦・保二督は、提封を兼ね顧みて掎角の勢をなすのか、それとも賊に遭えば追討して専ら境を出る軍を提げるのか。今の撫は、一に督師の令を受けて進退はその指揮のままなのか、それとも賊勢の緩急を見て戦守の利を選べるのか。この急所を一切問わず、中枢は暗いまま決し、諸臣は暗いまま任じ、地を失い軍を喪うに至れば、中枢は督撫を糾弾して自ら言い逃れ、督撫はまた互いに責任を委ね合って過ちを謝し、疆事は問うに堪えぬものになる。帝はその言を納れて所司に下して詳議させた。
- 崇禎十五年(1642年)、建言によって譴謫された諸臣を召還するよう請い、給事中の陰潤・李清・劉昌、御史の周一敬の官が復された。
福建巡撫と唐王
- 大理丞に遷り、ほどなく右僉都御史・福建巡撫に抜擢される。
- 總兵の鄭鴻逵が唐王聿鍵を擁して閩に入り、その兄の南安伯芝龍および肻堂とともに即位を勧め、太子少保・吏部尚書を加えられた。曾櫻が至ると、言官が櫻に吏部を掌らせるよう請うたので、肻堂には都察院を掌らせた。
- 肻堂は、自ら出て舟師を募り海路から江南に至って義兵を倡え、王は仙霞から浙東へ趨って互いに声援せよと請うた。そこで少保を加えられ、敕と印を給されて便宜行事を許されたが、芝龍が異心を懐いて陰かに妨げ、実行できなかった。
舟山の陥落と殉節
- 順治三年(1646年)、王が敗れて死に、肻堂は海外を漂泊した。六年(1649年)舟山に至り、魯王が東閣大學士に用いた。
- 八年(1651年)、大清の兵が濃霧に乗じて螺頭門に集まり、定西侯の張名振が王を奉じて海へ去り、肻堂に城守を委ねた。城中の兵は六千、居民は一万余。十余日堅く守って城が破れた。
- 肻堂は蟒玉を着けて南に向かって坐し、四人の妾・一人の子婦・一人の孫娘を先に死なせ、そのうえで従容と詩を賦して自ら縊れた。
- そのとき同時に死んだのは、兵部尚書の李向中、禮部尚書の呉鍾巒、吏部侍郎の朱永佑、安洋將軍の劉世勛、左都督の張名揚。さらに通政使の會稽の鄭遵儉、兵科給事中の鄞縣の董志寧、兵部郎中の江陰の朱養時、戸部主事の福建の林瑛と蘇州の江用楫、禮部主事の會稽の董元、兵部主事の福建の朱萬年・長洲の顧珍・臨山衛の李開國、工部主事の長洲の顧中堯、中書舎人の蘇州の蘇兆人、工部所正の鄞縣の戴仲明、定西侯參謀の順天の顧明楫、諸生の福建の林世英、錦衣指揮の王朝相、内官監太監の劉朝、あわせて二十一人であった。
李向中(附伝)
- 鍾祥の人。崇禎十三年(1640年)進士、長興知縣に授けられ、秀水に転じた。福王の時に車駕郎中・蘇松兵備副使を歴任し、唐王が尚寳卿とした。
- 閩の事が敗れて海辺に避けた。魯王監國が右僉都御史に召し、航海に従って兵部尚書に進み、舟山まで従った。
- 舟山が破れると大帥が向中を召したが赴かず、兵を発して捕らえさせた。向中が喪服のまま大帥に見えると、大帥が呵して「招いたときは来ず、捕らえたらすぐ来たのはなぜだ」と言った。向中は従容として「前は官を辞したのだ。今はただ戮に就くだけだ」と答えた。
呉鍾巒(附伝)
- 字は巒稚、武進の人。崇禎七年(1634年)進士、長興知縣に授けられる。旱と水害のために練餉の徴収が額に達せず、紹興照磨に謫され、年を越えて桂林推官に移った。
- 京師の変を聞いて涙を流し「馬君常は必ず節に死ぬだろう」と言い、果たして世竒は死んだ。
- 福王が立って禮部主事に遷り、南雄に至ったところで南都の失陥を聞き、福建へ転じて国家の計を痛切に陳べた。魯王が兵を起こすと鍾巒を禮部尚書とし、普陀山の中を往来した。
- 大清の兵が寧波に至ると、鍾巒は慷慨して人に言った。「昔、仲達は宦官の禍に死んだが、自分は諸生の身で死ねなかった。君常は賊難に死んだが、自分は遠臣であって従い死ねなかった。今こそその時だ」。そこで急ぎ海を渡って昌國衛の孔廟に入り、左の廡の下に薪を積み、孔子の木主を抱いて自ら焼け死んだ。
- 仲達とは江陰の李應昇で、鍾巒の弟子であり、魏忠賢に忤って党禍に死んだ者である。
朱永佑・張名揚・王朝相ら(附伝)
- 朱永佑は字は爰啓。崇禎七年(1634年)進士、刑部主事に授けられ、吏部に改まる。罷めて帰り、唐王に仕え、のち舟山に至った。城が破れて捕らえられ、僧になりたいと願ったが許されず、戮に就いた。
- 名揚は名振の弟である。城が破れ、母の范氏以下、自ら焼け死んだ者数十人。
- 王朝相は城の失守を聞いて、王の一族の陳氏貴嬪・張氏・義陽王妃の杜氏を護って井に入らせ、巨石でこれを覆い、その傍らで自ら首を刎ねた。開國の母、瑛、明楫の妻はみな自ら命を絶った。