出自と諫言
- 字は玉笥、東陽の人。天啓二年(1622年)進士、番禺知縣に授けられる。崇禎元年(1628年)刑科給事中に抜擢され、副都御史の楊所修と御史の田景新を弾劾して罷免させた。いずれも魏忠賢の党である。
- 続いて時政五事を陳べた。うち三条は次のとおり。第一に、陛下は治を求めることが鋭すぎ、綜核が厳しすぎるので、拙い者は身を縮めて咎を避け、巧い者は言を曲げて容れられようとし、誰も四体を伸ばして国家のために職務を営もうとしない。だから治のかたちは精明でも腹心手足の情誼が実は薄い。これは英察を斂めるべきである。第二に、祖宗の朝には閣臣に詔旨を封じて返す者があり、疏や掲をたびたび上って一事を争う者があった。今は一度詰責を受ければ首を垂れて暇もなく、一度改擬を承ければ旨に順うのに後れまいとする。処置が宜しきを失っても必ず執奏しない。これは将順を戒めるべきである。第三に、召対はもともと下情を通ずるためのもので、それによって罪を得た者はなかった。今はただ天語を伝えるばかりで、拝揚の礼を見ることがない。同僚の熊奮渭は還朝して十日、傍らから一言を措いただけで譴謫を蒙った。少しは罰を軽くして寛容の度を示せないのか。これは上下が洽うべきである。
- 残る二条は刑罰を平らかにし恩沢をあまねくすることを請うものであった。帝はことごとくは用いなかった。
- 禮科都給事中に進む。京師の地震のとき、弊政を規すること甚だ切であった。太常少卿に遷る。
應天巡撫としての賊防ぎ
- 崇禎七年(1634年)右僉都御史に抜擢され、應天・安慶等十府を巡撫した。その冬、流賊が桐城を犯して官軍が全滅し、國維は壮年でありながら一夜で鬚髪がすっかり白くなった。
- 翌年正月、副將の許自強を率いて救援に赴いた。遊擊の潘可大・知縣の陳爾銘らが桐城を守って落ちなかったので、賊は潛山を攻め、知縣の趙士彦が重傷を負って卒し、太湖を攻めて知縣の金應元・訓導の扈永寧が殺された。國維が至って桐城の囲みを解き、守備の朱士允を潛山へ、把總の張其威を太湖へ赴かせた。士允は戦死した。自強は宿松で賊に遭い、殺傷は互角であった。安慶の山民が石を積み上げて賊に投げつけ、賊に死者が多かったので、英山・霍山を越えて逃げた。
- 九月、賊がまた宿松から潛山・太湖に入り、別の賊「掃地王」もまた宿松など三縣を陥れた。國維は土着の者二千人を募って戍らせ、兵事を監軍の史可法に委ねた。
- 翌年正月、賊が江浦を囲み、守備の蔣若來・陳于王を遣わして退けた。十二月、賊が兵を分けて懷寧を犯し、可法および左良玉・馬爌がこれを遏めた。また江浦を犯し、副將の程龍と若來・于王らが拒み守って諸城はすべて保たれた。また望江が囲まれたが、兵を援けて解かせた。
- 崇禎十年(1637年)三月、國維は龍らを率いて安慶に赴き、酆家店で賊を防いだが、龍の軍数千はことごとく全滅した。賊は東へ和州・含山・定遠を陥れ、六合を攻め陥れて知縣の鄭同元が潰走し、賊はそのまま天長を攻めた。
- 國維は賊勢が日に熾んになるのを見て、安慶・池州・太平を割いて別に巡撫を置き可法に任せるよう朝廷に請うた。安慶が江南巡撫に属さなくなったのはここに始まる。議論する者は江浦・六合をも割いて國維に江南を専ら護らせようとしたが、許されなかった。
治水と河道總督
- 國維は人となりが寛厚で士大夫の心を得た。属郡が災害に遭えばその都度救済を請うた。
- 太湖・繁昌の二城を築き、蘇州の九里石塘および平望内外塘・長洲至和等塘を建て、松江の捍海堤を修め、鎮江および江陰の漕渠を浚い、いずれも成績を挙げた。
- 工部右侍郎兼右僉都御史・總理河道に遷る。その年は大旱で漕運の水が涸れ、國維は諸水を浚って漕運を通じた。山東が飢えたときは窮民を救って生かした者が無数であった。
- 崇禎十四年(1641年)夏、山東で盗が起こったので兵部右侍郎に改め、淮・徐・臨・通の四鎮の兵を督して漕運を護らせた。大盗の李青山は衆数万で梁山濼に拠り、その一党を遣わして韓莊など八閘を分け拠らせ、運道が塞がった。周延儒が召に応じて北上したとき、青山が謁して「衆を率いて漕を護っているので乱ではない」と言い、延儒は朝廷に言って職を授けようと許した。ところが青山はついに漕舟を截って大いに焼き掠め、臨清に迫った。國維は所部の兵を合わせて撃って降し、俘虜を朝廷に献じ、市で磔にした。
兵部尚書と螺山の敗戦
- 兵部尚書の陳新甲が下獄すると、帝は國維を召してこれに代えた。そこで戦守と賞罰の規格を定めて列挙して上り、世職を厳しくし、推陞を酌み、咨題を慎むなど七事を上り、帝はみな可とした。開封が陥ちて河北が震動すると、防河の数策を条陳し、帝もこれを納れた。
- 崇禎十六年(1643年)四月、大清の兵が畿輔に入った。國維は趙光抃に檄して螺山を拒ませたが、八總兵の軍はみな潰え、論者が國維を詆ったので解職され、まもなく下獄した。帝はその治河の功を念じて釈し、中左門で召対して故官兼右僉都御史に復し、江南・浙江へ馳せて練兵・輸餉の諸務を督させた。都を出て十日で都城が陥ちた。
- 福王が召して協理戎政とした。まもなく山東で賊を討った功を叙して太子太保を加え、錦衣僉事の蔭を与えた。吏部尚書の徐石麒が位を去り、衆議は國維に帰したが、馬士英は用いず張㨗を用いた。國維は親を省みると乞うて帰郷した。
魯王の監國と自決
- 南都が覆り、月を越えて潞王が杭州で監國したが、数日にして出て降った。
- 閏六月、國維は台州で魯王に朝し、王に監國を請い、即日紹興に移駐させた。國維は少傅兼太子太傅・兵部尚書・武英殿大學士に進み、江上を督師した。
- 總兵官の方國安もまた金華から至った。馬士英はもとより國安と親しく、その軍中に匿れて入朝を請うたが、國維がその十大罪を弾劾したので敢えて入れなかった。
- 続けて富陽・於潛を回復し、木城を樹て、江の要害に沿って連ね、國安および王之仁・鄭遵謙・熊汝霖・孫嘉績・錢肅樂の諸営を連合して持久の計とした。
- 順治三年(1646年)五月、國安らの諸軍が兵糧に乏しくて潰え、王は台州に走って海に出た。國維もまた東陽に還って守った。六月、勢いが支えきれぬと知り、絶命の詞三章を作って水に赴いて死んだ。年五十二。