明史卷二百七十五 列傳第一百六十三 髙倬

曹文衡と鄧希詔の論

  • 髙倬は字を枝樓といい、忠州の人。天啟五年(1625年)の進士。徳清知縣に任じられ金華に移った。崇禎四年(1631年)召されて御史を授かった。
  • 薊遼總督曹文衡と總監鄧希詔が互いに訐告し合い、詔して力を尽くして事を処理し委任に副えと命じられた。倬は上疏して言った。文衡は剛直な性で必ず中官の顔色をうかがうことはできず、希詔もにらみ合いを忘れておらず干戈を同気に変えることはできない。封疆の事は重いのだから希詔を撤して文衡の心を安んじるべきで、文衡が用いるに足りないなら差し替えて中官を関与させるな。諸辺の鎮臣に希詔のような者は少なくなく、人に希詔を真似させれば督撫の働きはますます難しくなる。諸辺の督撫にも文衡のような者は少なくなく、人に文衡を真似させれば辺事の荒廃はいっそうひどくなる、と。疏が入ると一秩を貶されて職務に当たった。
  • 草場を巡視して失火に坐し吏に下され、廷臣が救いを申し立てたが納れられなかった。翌年の熱審で給事中吳甘來が言ったので、ようやく釈されて帰った。

刑獄の期限と滁州の募兵

  • 上林署丞に起用され、やや遷って大理右寺副となった。十一年(1638年)五月、火星が逆行して修省の詔が下ると、倬は近ごろ刑獄が繁多で法官が案件を溜め込んでいることを挙げ、諸司に期限を切って奏報させ、大きな案件は十日、小さな案件は五日、旨を奉じて再審するものは五日か三日とし、滞った案件をことごとく処理して牢獄を減らすことを請うた。帝はこれを採納した。
  • しばしば遷って南京太僕卿となった。太僕はもと滁州に駐していたが、滁は南都の西北の門戸であるとして、州の人を募って兵とし郷土を守らせることを請い、聴き入れられた。
  • 十六年(1643年)二月、右僉都御史・提督操江に抜擢された。その秋、操江が武臣の劉孔昭に改任され、倬は別に用いるため召されたが、赴かないうちに京師が陥ちた。

弘光朝の刑部尚書と殉節

  • 福王が南京で立つと倬を工部右侍郎に拝した。御用監の内官が工料の銀を給して龍鳳の几や榻など諸器物、および宮殿に陳設する金玉の諸宝を作ることを請い、その費用は数十万を数えた。倬は削減を請うた。光禄寺が御用の器を調えること一万五千七百余に上ったときも倬は同じく言ったが、いずれも納れられなかった。
  • 翌年二月、左侍郎から刑部尚書を拝した。国が破れると倬は縄に首を掛けて死んだ。

黄端伯・劉成治・吳嘉允・龔廷祥ら――南都の殉難者

  • このとき大臣で殉難した者は倬と張捷・楊維垣であり、庶僚では黄端伯・劉成治・吳嘉允・龔廷祥がいた。
  • 黄端伯は字を元公といい、建昌新城の人。崇禎元年(1628年)の進士。寧波・杭州二府の推官を歴任し、行取されて都に赴いたが母の憂で帰郷し、服喪を終えて入京した。益王が建昌に居て不法を行っている状を疏に陳べた。王もまた端伯が親藩を離間したこと、妻を出し酒に酔い乱れたことなどを弾劾した。詔して調べを待つよう命じられ、廬山に避けて居た。福王が立つと大學士姜曰廣が薦めて起用させ、翌年三月に儀制主事を授けられた。五月に南都が破れて百官はみな迎え降ったが、端伯は出なかった。捕えて繋ぐこと四か月、降るよう諭したが従わず、ついに戮せられた。
  • 劉成治は字を廣如といい、漢陽の人。崇禎七年(1634年)の進士。福王のとき户部郎中を歴任した。国が破れ、忻城伯趙之龍が降ろうとして户部に入り府庫を封じると、成治は憤って自ら手で打ちかかった。之龍は跳んで逃れ、成治は自ら縊れた。
  • 吳嘉允は字を繩如といい、松江華亭の人。郷試の出身で户部主事を歴任した。使いを奉じて都を出た折に変を聞き、還って方孝孺の祠に詣で、縄に首を掛けて死んだ。
  • 龔廷祥は字を伯興といい、無錫の人。馬世竒の門人である。崇禎十六年(1643年)の進士で中書舎人となった。城が破れると衣冠を正して歩いて武定橋に至り、水に投じて死んだ。
  • このときまた欽天監博士陳于階、国子生吳可箕、武挙黄金璽、布衣陳士達がともに死んだ。