馬蘭峪の守備
- 金日觀はどこの人か分からない。天啓五年、將才があるとして守備に任じられ關門で働き、鎮標中軍遊擊に抜擢されて參將を加えられ、薊鎮東路遊擊の事を行い、専ら南兵を領した。崇禎初、副總兵を加えられ馬蘭峪を守った。
- 三年正月、大清兵が京東の諸城を破った。兵部侍郎劉之綸が部將吴應龍らを遣わして毛山に営を結び羅文峪關を取ろうとしたが、軍は敗れた。日觀は二將を遣わして救援に馳せさせたが、これも敗れて戦死した。
- 大清兵が勝ちに乗じて府君山・玉皇山の二山を占め、馬蘭城を攻めることきわめて急となった。日觀は堅く守り、自ら大砲に火を点じたが、砲が炸裂して頭・手足を焼いた。それでも意気は衰えず、總理馬世龍に援けを乞い、參將王世選らを救援に来させて、敵はようやく退いた。
- まもなく敵はふたたび二千餘騎で攻めてきたが、日觀は世選らとともに死守して落ちなかった。朝廷はその功を奨し、にわかに都督同知を加えた。
- 四月、副將謝尚政・曺文詔らとともに大安城を攻め復し、そのまま諸軍とともに遵化を回復した。功を録して左都督に進んだ。
- 当時、總兵鄧玘が馬蘭・松棚の二路を轄していたので日觀は節制を受けるべきであったが、玘の銜が都督同知であることを理由にその下に立つのを潔しとしなかった。總督曺文衡は日觀を「器が小さくすぐ満ち足り、功を恃んで驕り縦にしている」と弾劾したが、帝はただ特に戒飭しただけであった。久しくして萊州副總兵に移った。
皮島の陥落と戦死
- 十年春、大清兵が朝鮮を攻め、日觀は登萊總兵陳洪範に従って救援に赴くよう命じられ、皮島に駐軍した。
- 大清は孔有德・耿仲明・尚可喜らを遣わしてまず鐵山を攻め、四月には兵を分けて皮島を攻め、水陸から挟撃した。副將白登庸がまず逃げ、洪範も避けて石城へ走り、登庸はまもなく部下を率いて降った。
- 日觀は諸將楚繼功らとともに七昼夜持ちこたえたが、力尽きて陣没し、島城もそれとともに破れた。特進光祿大夫・太子太師を贈られ、錦衣副千戸を世廕され、祠が建てられた。繼功らにもそれぞれ差をつけて贈卹があった。
史論
- 贊に曰く。古人の言に「彼が我のために死ぬからこそ、我は彼とともに生きられる」とある。ゆえに封疆に死ぬ臣を君子は重んじる。遼左の諸將が身を委ねて国に許し、危難を前にして避けなかったのを見れば、死に場所を得た者と言えよう。当時、恤典は手厚くなかったわけではない。それでも危亡を救えなかったのは、朝廷の計略が定まらず、事を誤った者が誅せられず、文墨と議論を事とする輩がそれを掣肘したからである。忠義をいたずらに激励しても益はないのである。