明史卷二百七十一 列傳第一百五十九 黄龍

東江鎮の再建

  • 黄龍は遼東の人。はじめ小校として錦州の回復に従い、功を積んで參將に至った。崇禎三年、大軍に従って灤州を回復し功は第一で、副總兵に遷り、まもなく功を論じて三等の官秩に進んで都督僉事となり、副千戸を世廕された。
  • 登萊巡撫孫元化は、劉興治が東江で乱を起こしたので、龍を遣わして鎮せしめるよう請うた。兵部尚書梁廷棟も龍を總兵官に薦め、元化とともに四衛を回復させるよう請い、聴き入れられた。

劉興治の乱

  • これより先、毛文龍が死んだとき、袁崇煥はその兵二萬八千を四協に分け、副將陳繼盛・參將劉興治・毛承祚・徐敷奏にこれを主らせた。のち二協に改め、繼盛が東協を領し、興治が西協を摂した。いきさつは崇煥の𫝊に詳しい。
  • 興治は凶悍狡猾で乱を好み、繼盛と折り合わなかった。その兄の參將興祚が陣没したとき、繼盛は諜報を誤り信じてまだ死んでいないと言った。興治は憤って日を選んで興祚の喪を行い、諸將がみな弔問した。繼盛が来ると伏兵を置いて捕らえ、あわせて理餉經厯楊應鶴ら十一人を捕らえた。
  • 興治は袖から一通の書を出して衆に宣し、これは繼盛が興祚を詐死と誣い、また謀叛をもって自分を誣陥した証拠だと偽って、繼盛と應鶴らを殺した。さらに島中の商民の名を騙って上奏一通を偽作し、興祚を厚く恤み、興治に東江を鎮させるよう請うた。朝廷じゅうが大いに驚いたが、海外のことで詰問する余裕がなかった。
  • 興治は諸弟兄とともに舟を長山島に放って大いに殺掠した。島は登州を去ること四十里である。当時、登萊總兵官張可大は永平の救援に赴いていたが、帝は廷棟の言を用いて可大を登州に還らせ、副將周文郁に大將の印を授けて興治を撫定させた。ちょうど永平が回復されたので、興治はやや収まり東江に返った。
  • 龍が皮島に赴任して事を受けても、興治はなお以前どおり驕り猛った。四年三月、ふたたび乱を起こし、弟の興基を杖ち、參將沈世魁の家人を殺した。世魁はその一党を率いて夜襲し興治を殺し、乱はようやく収まった。

孔有德・耿仲明の叛乱

  • 遊擊耿仲明の一党である李梅という者が外国と通じているのが発覚し、龍はこれを獄に繋いだ。仲明の弟の都司仲裕は龍の軍中にあって乱を謀り、十月、部下の兵を率いて餉を求めるという名目で龍の役所を囲み、演武場まで連行して股を折り耳鼻を削ぎ、殺そうとしたが、諸將が救って免れた。まもなく龍は仲裕を捕らえて斬り、上疏して仲明の罪を正すよう請うた。
  • 折しも元化が、龍が餉を横領して兵の騒擾を招いたと弾劾したので、帝は龍を為事官(戴罪の身で職務を執る者)とし、仲明が主使したかどうかを調べさせた。仲明はついに孔有德とともに叛き、五年正月に登州を陥れ、島中の諸將を招いた。旅順副將陳有時・廣鹿島副將毛承祿はみな行って従った。
  • 龍は急ぎ尚可喜・金聲桓らを遣わして諸島を撫定させ、自ら各地を巡って商民を慰め、叛党を誅し、火を放ってその舟を焼いた。賊党の髙成友が旅順に拠って関寧・天津の援軍を断ったので、龍は遊擊李惟鸞に可喜らとともにこれを撃退させ、そのままその地に移駐したので、援けの道がはじめて通じた。
  • その冬、有德らが登州を棄てて海に出ようとしたので、龍は副將龔正祥に舟師四千を率いさせて廟島で迎え撃たせたが、颶風で舟が破れ、正祥は賊中に陥った。のち登州にあって内応を謀ったが露見して殺された。
  • 当初、龍が旅順に駐して大いに兵を治めたとき、賊は龍の母・妻・子を捕らえて脅したが、龍は顧みなかった。

旅順の戦死

  • 六年二月、有德・仲明はたびたび巡撫朱大典に敗れ、海路を遁れ去った。龍は有德らが必ず逃げ、逃げれば必ず旅順を経ると読んで迎え撃った。有德はあやうく捕らえられるところを逃れたが、賊魁李九成の子の應元を斬り、毛承祿・蘇有功・陳光福およびその党の髙志祥ら十六人を生け捕り、首級一千餘を得て、奪われていた婦女を数知れず取り戻した。俘虜を朝廷に献じると帝は大いに喜び、承祿らを磔にして首を九辺に伝え、龍を復官させた。承祿は文龍の一族の子である。
  • 有德らは大いに憤り龍に報いようとした。ちょうど賊の舟が鴨綠江に泊まったので、龍は水師を挙げて討った。七月、有德らは族順(旅順の誤りか)が手薄と探り知り、大清兵を引いて襲来した。
  • 龍は数戦してみな敗れ、火薬も矢石も尽きた。部將譚應華に「敵は多く我は少ない。今夜には城は必ず破れる。急ぎ私の印を持って登州に送れ。行けなければ海に投げてよい」と言った。應華が出たのち、龍は惟鸞らを率いて力戦したが、囲みが急で脱出できないと悟り、自刎して死んだ。惟鸞および諸將の項祚臨・樊化龍・張大祿・尚可義もともに死んだ。
  • 事が奏聞され、龍に左都督を贈り、祭葬を賜り世廕を与え、顯忠と名づけた祠を建て、惟鸞らを附祀した。

沈世魁と東江の消滅

  • 副將沈世魁が龍に代わって總兵官となった。世魁はもと市井の仲買人で、その娘が絶世の美貌で毛文龍の側室となったため、世魁は勢いを頼んで島中で横行し、このとき大帥となった。
  • 七年二月、廣鹿島副將尚可喜が我が大清に降り、島中の勢いはいよいよ孤立した。十年、朝鮮が急を告げ、世魁は皮島に軍を移して声援した。有德らが襲来すると世魁は戦い敗れ、舟師を率いて石城へ走り、副將金日觀は陣没した。登萊總兵陳洪範が救援に来たが戦わずに逃げ、世魁も陣没し、士卒の死傷は一萬餘であった。
  • 甥の副將志科は敗残兵を集めて長城島に至り、世魁の敕印を得ようとしたが、監軍副使黄孫茂が渡さなかったので、志科は怒ってこれを殺し、あわせて理餉通判卲啓・副將白登庸を殺し、部下を率いて降った。
  • 大清の諸島には残兵はあったが軍を成せず、朝廷もまた大帥を置かず、登萊總兵に遥かに領させるにとどめた。翌年夏、楊嗣昌が策を決してその兵民をことごとく錦州へ移し、諸島は空になった。