明史卷二百七十一 列傳第一百五十九 羅一貫

西平堡の死守

  • 羅一貫は甘州衛の人。參將として西平堡を守った。遼陽が陥落すると西平は最も要衝となり、一貫は力を尽くして防いだので、巡撫王化貞が朝廷に言上して副總兵を加えられた。
  • 当時、化貞は廣寧に、經畧熊廷弼は右屯に駐屯し、總兵劉渠は二萬人で鎮武を、祁秉忠は一萬人で閭陽を守り、一貫は三千人で西平を守った。すでにそれぞれ濠を修め塁を堅くし、急のときは互いに援けあい、違背する者は必ず誅すると議定してあった。
  • 天啟二年(1622年)正月、大清兵が西へ河を渡った。經畧は軽々しく戦うなと戒めた。兵が近づくと參將黒雲鶴が出撃しようとし、一貫が止めたが従わなかった。翌日、雲鶴は戦い敗れて城に逃げ戻り、追撃してきた兵に全滅させられた。
  • 一貫は城に拠って固く拒み、砲を用いて撃ち、傷ついた者は数知れなかった。
  • 大清は旗を立てて降を招き、また使者を遣わして説いたが、一貫は従わなかった。またその翌日、騎兵はさらに増して城を囲んで力攻めした。一貫は流矢が目に当たって戦えなくなり、火薬も矢石も尽きた。そこで北に向かって再拝し「臣の力は尽きました」と言って自刎した。都司陳尚仁・王崇信もともに死んだ。

劉渠・祁秉忠――平陽の敗戦

  • 化貞は城がまだ落ちていないと思い、遊擊孫得功の言を信じて廣寧の兵をすべて出し、得功と中軍遊擊祖大壽を前鋒とし、祁秉忠と合流して救援に赴かせた。廷弼も使者を遣わして劉渠に進撃を督促した。
  • 平陽で大清兵に遭遇したが、得功は異心を抱いて引き揚げようとし、兵を左右の翼に分けてやや退き、渠と秉忠を前に押し出した。渠らは力戦してかなりの殺傷を与えたが、得功と副將鮑承先が逃げ、後軍がこれを見てやはり奔り、ついに大潰した。
  • 渠は戦死した。秉忠は二刀三矢を受け、家人が扶けて馬に乗せ、囲みを破って出たが、傷が重く途上で死んだ。副將劉徵は十餘人を撃ち殺して死んだ。大壽は覺華島に逃れ、得功はついに降った。二日後に廣寧は破られた。
  • 事が奏聞され、一貫に都督同知を贈り副千戶を世廕した。渠と秉忠には少保・左都督を贈り、世廕三級を加え、さらに指揮僉事を廕し、いずれも祭葬を賜り祠を建ててともに祀った。
  • 一貫の子俊傑は廕を継ぎ、崇禎年間に宣府總兵官に至って免ぜられ帰郷したが、李自成が甘州を侵し城が陥ちたときに死んだ。

劉渠・祁秉忠――経歴と遼左の戦死者

  • 渠は京城巡捕營の副將であった。御史楊鶴の推薦で總兵官に抜擢され、遼東に援𠞰した。遼陽が包囲されたとき、廣寧總兵李光榮は救えなかったばかりか河橋を断って軍民の帰路を遮ったので、總督文球が弾劾して罷免させ、渠がこれに代わった。西平が急を告げると鎮武の兵を率いて救援に向かい、そこで戦死した。
  • 秉忠は陝西の人。萬厯四十四年(1616年)に永昌參將となった。伊勒敦達春が二千餘騎で塞に入ったとき、秉忠は兵三百を提げて拒み、二昼夜転戦して、援軍が到着してようやく敵は遁走した。秉忠は掠奪された人畜を追って取り戻し、辺境の人々に称えられた。涼州副總兵に抜擢された。
  • 經畧袁應泰がその智勇を薦め、私兵を率いて蒲河を守らせたが、着いたときには遼陽はすでに破れていた。援𠞰總兵官に任じられて閭陽に駐防し、西平を援けてついに死んだ。
  • 遼左の用兵以来、陣没した總兵官は全部で十四人である。撫順では張承廕、四路出師では杜松・劉綎・王宣・趙夢麟、開原では馬林、瀋陽では賀世賢・尤世功、渾河では童仲揆・陳䇿、遼陽では楊宗業・梁仲善、そしてこの戦いで渠と秉忠が続いた。朝廷の恤典はいずれもきわめて手厚かったが、軍をつぶした將である李如柏・麻承恩らは、ついに公然たる処刑を受けずに済んだ者さえあった。