明史卷二百七十一 列傳第一百五十九 滿桂

滿桂(?–1629年)。蒙古の人で幼くして中国に入り宣府に家した。騎射に長じ、首級を挙げても官を受けず賞金で済ませるほど無骨だったが、忠勇絶倫で士卒と苦楽をともにした。孫承宗に見出されて山海の副總兵となり、袁崇煥とともに寧遠を築いて重鎮とし、天啓六年には紅夷砲を用いて大清の数萬騎を撃退した。のち崇煥と不和になって関門・大同へ移り、辺備を整えた。崇禎二年、大清兵が近畿に入ると五千騎で入衛し、德勝門で負傷しながらも戦い、武經畧として永定門外に出陣して孫祖夀らとともに戦死した。少師を贈られ、祠が建てられた。

年表(13件)

出自と昇進

  • 滿桂は蒙古の人。幼いころ中国に入り、宣府に家した。少し長じると騎射に巧みで、従軍のたびに多くの首級を挙げた。軍令では敵の首一つで官一つを与え、そうでなければ白金五十を賜ることになっていたが、桂はしばしば金を得ながら官を受けなかった。
  • 壮年になってようやく總旗となり、さらに十餘年で百戸となった。のちたびたび遷って潮河川守備となった。楊鎬の四路の師が敗れたのち、兵を知る小將数人が推薦され、その筆頭が桂であった。黄土嶺の守備に移り、總督王象乾に認められ、石塘路遊擊・喜峯口參將に進んだ。
  • 天啓二年(1622年)、大學士孫承宗が辺を巡ったとき、桂は謁見した。承宗はその容貌を壮とし、兵事を語らせて大いに非凡と認めた。山海に出鎮すると桂を副總兵に抜擢して中軍の事を領させた。承宗の幕下には文武の人材が集まっていたが、ひとり桂を重く用いた。桂はきわめて無骨であったが、忠勇は絶倫で、音楽や女色を好まず、士卒と苦楽をともにした。

寧遠の築城と守備

  • 翌年、承宗が関外に出て寧遠を修復することを議し、誰が守れるかと問うた。馬世龍は孫諌と李承先を薦めたが承宗は許さなかった。袁崇煥と茅元儀が進み出て「滿桂こそ適任ですが、公の中軍ですのでお願いいたしかねます」と言うと、承宗は「適任であるならば中軍かどうかを問うことはない」と言い、桂を呼んで語ると、桂は快く出向くことを請うた。世龍はなお不可を疑ったが、承宗は聴かず、その日のうちに酒を用意して自ら餞した。
  • 桂は寧遠に至り、崇煥と心を合わせ、城は屹然とそびえて重鎮となった。そのいきさつは崇煥の傳の中に詳しい。
  • 当時、蒙古の部落が寧遠の東の辺に駐牧し、帰順してきた遼の民はことごとく略奪に遭った。承宗はこれを憂い、四年(1624年)二月、桂と總兵尤世禄を遣わして大凌河でこれを襲わせ、諸部は号泣して西に逃げた。東の辺の以寧・恭圖・綽哈・宰桑の諸部は表向き款を受けながら内心では叛意を抱いていたが、桂は操縦に巧みで諸部はみな服し、毎年の撫賞の銀を莫大に節約できた。
  • 当初、城中も城外も一望の廃墟であったが、このころには軍民五萬餘家が屯田し、五十里の遠くまで耕作が及んだ。承宗がその功を上申し、詔により都督僉事に抜擢され總兵の銜を加えられた。承宗はそこで桂に後部を、前部の趙率教と互いに掎角をなさせた。
  • 督餉郎中楊呈秀が軍糧を横領し、副將徐漣がこれに乗じて変を起こし、崇煥の役所を囲んだ。ただ桂の家兵の勇猛を憚って犯すことはできず、隊を組んで東へ走った。桂は崇煥とともに追って首謀者を斬り、残る者を撫して帰った。

寧遠の勝利と崇煥との不和

  • 六年(1626年)正月、大清が数萬騎で攻めてきて、遠近が大いに震えた。桂は崇煥と死守し、まず西南の城隅を攻められると西洋の紅夷砲を放って攻め手を多く傷つけ、翌日南城に転じて攻められると火器で撃退し、包囲は解けた。
  • 帝は大いに喜び、都督同知に抜擢して總兵官に実授し、さらに功を論じて右都督を加え、副千戸の世襲を廕した。桂が謝表を上って前後の功を自ら述べると、優詔で褒め答え、さらに左都督に進めた。
  • 桂ははじめ率教と深く親しかったが、この戦いでは率教が自ら救援に来なかったことを怒り、互いに責め合った。帝はこれを聞いて敕を下して戒め諭した。
  • また崇煥が桂と不和になり、桂は意気が驕り高ぶり僚属を罵り、封疆の大計を壊しかねないとして、別鎮に移して関外の事の権を率教に帰すよう乞うた。朝廷じゅうが桂の有用を知ってはいたが、同じ城にいて事を誤ることを憂えて、ついに召還した。
  • 督師王之臣は桂を去らせてはならぬと力説し、召還の命がすでに下ってからは関門で用いるよう請うたが、崇煥はいずれも容れなかった。閏六月、もとの官秩のまま中軍府の事を僉書するよう命じられた。まもなく崇煥も後悔して、之臣の言のとおり用いるよう請い、帝はこれを可とした。桂は印を掛けて関門に移鎮し、関外四路および燕河・建昌の諸軍を兼ね統べ、尚方劍を賜って権を重からしめられた。

寧錦の戦いと大同鎮守

  • 七年(1627年)五月、大清兵が錦州を囲み、兵を分けて寧遠を侵した。桂が兵を遣わして救わせたが笊籬山で包囲されたので、桂は總兵尤世祿とともに赴き、大戦して互角となり、そのまま寧遠城に入って崇煥と守禦の計を立てた。
  • まもなく大清兵が城下に迫ると、桂は副將尤世威らを率いて出城して迎え撃ち、かなりの殺傷を与えたが、桂自身も重傷を負った。捷報が届き、太子太師を加えられ錦衣僉事を世廕された。
  • 崇煥が退いたのち、王之臣がふたたび督師となり、大いに桂の才を推して寧遠に鎮させるよう請うた。折しも蒙古の綽哈の諸部が離散し、桂と之臣はこれを多く収めて麾下に置いた。
  • 莊烈帝が即位すると、之臣に袁應泰・王化貞の轍を踏むなと詔し、あわせて桂が之臣の意に阿っていると責めた。桂は病と称して辞職を乞うたが許されなかった。
  • 崇禎元年(1628年)七月、言官が交々之臣を弾劾し、そのついでに桂にも及んだ。之臣は罷免され、桂も召還されて府に戻った。ちょうど大同總兵渠家楨が失態を犯したので、桂に代わらせた。
  • 大同は長く和議を頼んで備えを緩めており、察罕部が西を侵して順義王がついに境内に入り大いに掠め、家楨と巡撫張翼明は死罪を論じられた。察罕部はなお賞を要求して去らなかった。桂は着任すると八路七十二の城堡をあまねく見回り、辺備は大いに整い、軍民はこれを頼んで恐れがなくなった。

京師防衛と永定門の戦死

  • 翌年(崇禎二年、1629年)冬十月、大清兵が近畿に入った。十一月、勤王の詔が下り、桂は五千騎を率いて入衛した。順義に宿営して宣府總兵侯世祿とともに戦って敗れ、そのまま都城へ向かった。帝は官を遣わして慰労し萬金を犒い、世祿とともに德勝門に屯するよう命じた。
  • まもなく合戦となり、世祿の兵は潰えたが、桂は独り前進して戦った。城上から大砲を放って助けたが、誤って桂の軍を傷つけ、桂も負傷したので、甕城で休ませた。
  • ほどなく袁崇煥・祖大壽とともに召見され、桂は衣を解いて傷を示し、帝は深く嘉嘆した。十二月朔、ふたたび召見され、崇煥は獄に下された。桂には酒饌を賜り、関寧の将卒を総理して安定門外に営させた。
  • 桂は驍勇で戦いを恐れなかったが、その部下の降丁がときに民を騒がせても、桂はとがめられなかった。副將申甫の統べる兵は市井の者が多く、桂の軍がこれを侮り、夜に矢を放ってその営を驚かせ、死者が出た。御史金聲がこれを言上したが、帝もとがめなかった。
  • 大壽の軍が東へ潰えると、桂を武經畧に拝し、入衛の諸軍をすべて統べさせ、尚方劍を賜って出師を促した。桂は「敵は強く援軍は少なく、軽々しく戦うべきではない」と言ったが、中使の督促が急で、やむなく黒雲龍・麻登雲・孫祖夀ら諸大將を督し、十五日に永定門外二里ばかりに営を移し、柵を並べて待った。
  • 大清兵は良鄉から返り、翌日の未明、精騎で四面から迫った。諸將は支えきれず大敗し、桂と祖夀は戦死、雲龍と登雲は捕らえられた。
  • 帝は聞いて震え悼み、禮部侍郎徐光啓を遣わして致祭し、少師を贈り、錦衣僉事の世廕を襲うに三級を陞し、祭葬を賜り、有司が祠を建てた。

孫祖夀

  • 孫祖夀は字を必之といい、昌平の人。萬厯年間に武鄉試に及第し、固關把總に任じられた。天啓二年、官を歴て都督僉事を署し、薊鎮總兵官となった。
  • 孫承宗が辺を巡ったとき、薊鎮の三協十二路に三大將を分置することを議し、祖夀に西協を領させて石匣・古北・曺家・牆子の四路を轄し遵化に駐屯させ、江應詔に東協を領させて關門に駐屯し山海關・一片石・燕河・建昌の四路を轄させ、馬世龍に中協を領させて三屯營に駐屯し馬蘭・松棚・喜峰・太平の四路を轄させた。
  • 經畧王在晉と總督王象乾はそろって、永平に鎮を置いたのはもと山海を衛るためであるのに、いま三屯に移せば山海を去ること四百里で応援に疎くなる、遵化は三屯を去ること六十里にすぎず、いま両鎮を並べ立てるのは牙旗を立てるうえで無駄である、と言い、世龍をなお永平に鎮させて東協四路を世龍と應詔に分属させ、中・西二協は祖夀に専属させて三屯に鎮させるよう請うた。
  • 上奏は兵部に下され、署事侍郎張經世もその言のとおりに議したが、承宗は当初の案を堅く執ったので、祖夀に遵化へ移鎮するよう命じられた。
  • 七年、錦州が急を告げ、祖夀は救援に赴いたが戦おうとせず、弾劾されて罷免され帰郷した。このとき都城が兵を受けると、家財を散じて旧部を呼び集め、滿桂に従って戦い、ついに死んだ。贈卹は規定のとおりであった。
  • 祖夀ははじめ固關を守っていたとき危篤の病にかかり、妻の張氏が臂を割いて療し、七日間飲食を絶った。祖夀は生きたが張氏はまもなく死に、そこで生涯女性に近づかなかった。大帥となったとき、部將が五百金をその子の家に贈ったが、受け取らせなかった。後日その部將が挨拶に来ると、盃を賜って「金を却けた一事は、よく私の心を体してくれた。そうでなければ法はお前を赦さなかった」と言った。その義を守り節を執ることはこのようであった。