雲南の土官としての武功
- 龍在田は石屏州の土官舎人である。天啓二年(1622年)、雲南の賊である安效良・張世臣らが乱を起こした。在田は阿迷の普名聲、武定の吾必奎らとともに征討してたびたび功があり、土守備となることができた。新平の賊が石屏を掠め、安效良が霑益を攻めたが、在田はいずれも破って走らせた。巡撫の閔洪學がその功を上申し、坐營都司に抜擢された。崇禎二年(1629年)、必奎とともに烏撒を回復した。
中原での転戦
- 八年(1635年)、流賊が鳳陽を侵し、詔して雲南の土兵を徴した。在田は配下を率いて詔に応じ、湖廣・河南で賊を撃ってしばしば功があり、副總兵に抜擢された。總理の盧象昇が襄陽の賊の討伐を檄したが、着いてみると象昇はすでに詔を奉じて勤王に向かっており、熊文燦に属するよう命ぜられた。
- 十年(1637年)三月、大盗の郭三海を撃って捕らえた。十一年(1638年)九月、賀一龍・李萬慶を雙溝で大破し、都督同知に進んだ。翌十二年(1639年)三月、固始で賊を大破し、三千五百あまりを斬った。
- 張獻忠が叛いたとき、文燦は在田に穀城に駐屯して賊が東に突き進むのを遮らせた。諸将の多くが在田を忌み、讒言が日ごとに起こった。文燦が逮捕されると在田も罷免されて帰り、還る途中で貴州に至り、叛賊の安隴壁を撃って平らげた。
南兵起用の上疏と晩年
- 十五年(1642年)夏、中原の賊がいよいよ盛んになり、在田が上疏して言った。臣は石屏の世襲の武官であるが、流賊が陵墓を震わせたので国難に奮い立ち、私財を投じて精兵九千五百・戦象四・戦馬二千を募り、楚・豫に入って賊を破り、賊は江北の陵寝を窺えなかった。滇の兵の力である。五年のうちに二十八度の捷を挙げたが、讒言に遭って阻まれ、臣は病と称して帰ることを余儀なくされた。臣が罷めてから親藩が辱められ、名城がたびたび陥ちた。臣が愚考するに、賊を討つには必ず南方の兵を用いるべきである。諸将の統べるところは多くが烏合の衆で、賊に遇えば逃げ、兵糧が乏しければ騒ぐ。滇の兵は万里を長駆し、家人父子が志を同じくしており、他の軍のように潰えやすくはない。しかも一年のうち秋冬は気候が涼しく賊は駆け回れ、春夏は山に入って暑を避け鋭気を養って出て来るので、その勢いはますます盛んである。平原の戦でも勝てず、山道もあえて攻められず、軍は疲れ財は尽きて、平定はいつのことか。滇の兵は身軽に走り遠くまで跳び、山狩りを得意とする。臣は万の衆を整えて秦・楚・豫・𤾂の諸賊を掃討し、滅ぼすまでやめないことを願う。速やかに行軍の糧を給し、沿道で補給されんことを望む。臣は身を捨てて国に報いることを誓う。言って効果がなければ、甘んじて斧鑕の刑に伏す、と。
- 帝はこれを壮とし、兵部に下して議させたが、そのまま止められて実行されなかった。
- 二年を過ぎて乙酉(1645年)八月、吾必奎が叛き、黔國公の沐天波が在田と寧州土知州の禄永命に協力して討つよう檄し、撃って捕らえた。
- まもなく沙定洲が乱を起こして雲南府に拠ったが、在田は攻める勇気がなかった。翌年(1646年)、定洲が在田を攻めたが落とせず、移って寧州を攻め、ついで嶍峨を陥れ、在田は大理に走った。さらに翌年(1647年)、孫可望らが貴州に至り、在田が説いて定洲を攻めさせ、ついに滅ぼした。在田は帰って家で卒した。
史論
- 贊に言う。馬世龍らは辺境に事多い時に当たり、その勇と略とを発揮して軍中に功績を挙げ、あるいは身を捨てて力戦し、屍を野にさらした。爪牙の任に恥じぬ者と言える。そもそも鋒先を挫き敵陣を陥れることは、老練の将にとってもなお難しい。それを秦良玉は一土司の女の身で兵を率い糧を携え、険しい地を転戦した。公に急ぎ義に赴くさまには賞するに足るものが多い。鉞を執って戦に臨みながら尻込みして様子をうかがう者は、これを見て恥じずにいられようか。