明史卷二百七十 列傳第一百五十八 馬世龍

馬世龍(字は蒼元、?–1634年頃)。寧夏の人で、世職から武挙に及第した。天啓年間、孫承宗に非凡と見込まれて山海總兵となり、尚方劍を賜って関門の諸軍を節制した。耀州襲取に失敗して魯之甲らの軍を全滅させ、言官の攻撃が承宗にまで及ぶと職を退いた。崇禎二年の都城戒厳で起用され、潰えた祖大壽の軍をまとめ、滿桂の戦死後は總理として諸鎮の援軍を統べ、遵化・永平・遷安・灤州の四城を回復して太子少保を加えられた。晩年は郷里の寧夏鎮に起用され、半年に何度も大捷を奏して西辺に威名を轟かせたが、在官のまま四十餘歳で卒した。太子太傅を贈られた。

年表(15件)

篇首の立伝者一覧

  • 馬世龍(附 楊肇基)
  • 賀虎臣(子 讚・誠)
  • 沈有容
  • 張可大(弟 可仕)
  • 魯欽(子 宗文)
  • 秦良玉
  • 龍在田

出自と山海鎮の大将

  • 馬世龍は字を蒼元といい、寧夏の人。世職の家柄から武挙の会試に及第し、宣府の遊擊を歴任した。
  • 天啓二年(1622年)、永平副總兵に抜擢されて兵部の職を署理した。孫承宗がその才を非凡と見て推薦し、署都督僉事として三屯營總兵官に充てられた。承宗が出鎮するにあたって山海總兵に推され、中部を領し、總兵の王世欽・尤世祿がそれぞれ南北の二部を分け領した。
  • 翌天啓三年(1623年)正月、尚方劍を賜り、都督府の官銜を実授された。承宗は壇を築いて大將に拝し、天子に代わって鉞を授ける礼を行い、軍馬も銭穀もすべて世龍に属させた。まもなく分担の地が定まり、世龍は中央にあって衛城に駐し、世欽は南海、世祿は北山に置かれ、いずれも世龍の節制を受けた。兵力は各一萬五千人。
  • 世龍は承宗の知遇に感じて力を尽くし、承宗と計を定めて関外の諸城を出て守った。四年(1624年)、巡撫の喻安性および袁崇煥とともに東のかた廣寧を巡り、また崇煥・世欽と海路をとって蓋套に至り、地形を見きわめて還った。功を叙されて右都督を加えられた。
  • 当時、承宗は士馬十餘萬を統べ、将校数百人を用い、歳ごとの軍需は数百萬にのぼった。承宗に何かを求める者はみな世龍を通したので、通らないと大いに怨んだ。世龍は容貌こそ堂々としていたが内実は臆病で、承宗を憎む者の多くは世龍を攻撃して承宗を揺さぶった。承宗は朝廷で抗弁し、「世龍を貪淫・搾取と言う者があるが、臣は一族百口を賭してそのようなことは無いと保証する」と述べた。帝は承宗のゆえに問わなかった。

耀州の敗と失脚

  • 五年(1625年)九月、世龍は投降者の劉伯漒の言を誤って信じ、前鋒副將の魯之甲・參將の李承先に兵を率いさせて耀州を襲取させたが、敗れて全滅した。言官が次々と弾劾の上奏をし、厳しい聖旨で叱責され、罪を戴いたまま功を立てて償うよう命ぜられた。
  • このころ魏忠賢は「君側を清める」と称して承宗を疑っており、その一党で世龍を攻める者は承宗にも及んだ。承宗はその地位に安んじられず職を去り、兵部尚書の高第が代わった。職方主事の徐日乆はさきに高第を助けて遼事を妨げ、第に従って軍務を補佐すると力を入れて世龍を攻撃した。世龍はひそかに忠賢と結び、逆に日乆を除籍させた。その冬、世龍もまた病と称して去った。
  • 崇禎元年(1628年)、王在晉が兵部尚書となると、世龍は上疏してその罪を極論した。世龍を逮捕せよとの詔が出たが、久しく出頭せず、在晉が罷免されてはじめて獄に赴いた。

四城の恢復

  • 二年(1629年)冬、都城が戒厳となり、刑部尚書の喬允升が世龍の才を推薦し、功を立てて自ら罪を贖うよう詔された。折しも祖大壽の軍が潰えて京師は大いに震えた。承宗が再び起用されて督師となり、便宜の権をもって世龍を遣わし、馳せて大壽を諭させ、大壽は命に従った。滿桂が戦死すると、世龍を代わりに總理とし、尚方劍を賜って諸鎮の援軍をすべて統べさせた。
  • 三年(1630年)三月、左都督に進んだ。当時、遵化・永平・遷安・濼州の四城が失われてすでに三か月、承宗・大壽は関門を隔てて世龍の諸軍と音信が絶えていた。帝は四方の兵に急ぎ勤王を詔し、昌平の尤世威、薊鎮の楊肇基、保定の曹鳴雷、山海の宋偉、山左の王國梁、固原の楊麒、延綏の吳自勉、臨洮の王承恩、寧夏の尤世祿、甘肅の楊嘉謨が来た。率いるのはいずれも辺境の精鋭であり、内地からは山東・河南・南都・湖廣・浙江・江西・福建・四川の諸軍も前後して至った。しかし薊門に肩を並べて壁するばかりで、様子をうかがって進まなかった。
  • 給事中の張第元が上言した。世龍は関にあること数年、目立った功績が聞こえず、衛青・霍去病の類のように功名で人を服させる者ではない。諸帥はみな宿将で世龍の副将あがりではないのに、駆り立てて節制しようとして誰が甘んじよう。軍は疲れ財は尽き、鋭気は日々に消えて、夏秋に及べば言うに堪えぬ事態になろう、と。帝は世龍がまさに進取を図っているとしてこの言を容れなかった。
  • 五月十日、大壽が灤州に迫り、翌日世龍らが軍を合わせ、さらに翌日その城を回復した。十三日、遊擊の靳國臣が遷安を回復し、翌日、副將の何可綱が永平を回復し、さらに二日して別将が遵化を回復した。五か月を経て四城がようやく回復した。功を論ずるに大壽が第一、世祿がこれに次ぎ、世龍は太子少保を加えられ、本衛の世襲千戸を廕された。八月、また病と称して帰った。

寧夏鎮の再起と最期

  • 六年(1633年)五月、察罕呼爾敦圖が河套の寇と合して寧夏を侵し、總兵の賀虎臣が戦死したので、詔して世龍を起用して代えた。世龍は寧夏に生まれ育ってその地形に通じており、大いに戦備を整えた。
  • 翌七年(1634年)正月、二部が侵入したので、參將の卜應第を遣わして大破させ、二百餘級を斬った。ひと月あまり後、套寇が賀蘭山を侵すと、世龍は投降した者を潜入させてその長の薩爾謙を討ち取らせ、斬首は前と同数であった。
  • まもなく察罕の部が大挙して侵入した。世龍は副將の婁光先らを遣わして五道に分かれて要害に伏せさせ、自らは中道でこれを待ち受けて挟撃し、八百餘級を斬った。巡撫の王振竒も三百餘級を斬った。
  • 寇はさらに河西の玉泉宫を侵したが、世龍がまた迎え撃って五百餘級を斬った。その年七月には棗園堡を侵したが、世龍はまた大敗させ、捕虜と斬首は一千あまりにのぼった。
  • 世龍は半年のうちに何度も大捷を奏し、威名は西方の辺塞に轟いた。まもなく在官のまま卒した。年は四十餘。のちに功を論じて太子太傅を贈られ、錦衣衞僉事を世襲させ、恤典は制のとおり賜わった。

楊肇基――徐鴻儒の乱の平定と三屯營

  • 楊肇基は沂州衛の人。世職から身を起こし、官を累ねて大同總兵に至った。
  • 天啓二年(1622年)、妖賊の徐鴻儒が山東で反し、鄆・鉅野・鄒・滕・嶧を次々に陥れ、衆は数萬に達した。巡撫の趙彦は都司の楊國棟・廖棟に配下の民兵を訓練させ、諸要地の守備兵を増した。当時肇基は郷里にいたが、彥が在家のまま推薦して山東總兵官に起用させ、賊を討たせた。
  • 肇基が到着する前に、廖棟および楊國棟らが鄒を攻めて兵が潰え、遊擊の張榜が戦死した。彥が兗州で軍を視察していて賊に遭遇したところ、肇基が到着して急ぎ迎え撃ち、國棟と棟に挟撃させて横河で大敗させた。
  • 当時、賊の精鋭は鄒と滕に集まっていた。肇基は遊撃部隊で鄒城の賊をつなぎとめ、大軍で黄陰の紀王城の賊を撃って大敗させ、追い詰めて嶧山で殲滅し、そのうえで鄒を囲んだ。國棟らも前後して鄆・鉅野・嶧・滕の諸県を回復し、また沙河で大破した。そこで長囲を築いて鄒を攻めること三か月、賊は食が尽きてその一党が出て降り、ついに鴻儒を捕らえ、俘を献じて市中に磔にした。
  • 賊が平らぐと、肇基は署都督僉事から右都督に進み、本衛の世襲千戸を廕された。まもなく沈有容に代わって登萊を鎮し、延綏に転じ、套寇を撃った功で左都督に進み、錦衣衞千戸を廕され、たびたび太子太保を加えられた。崇禎元年(1628年)、薊鎮の西協に移った。
  • 二年(1629年)冬、大清の兵が三屯營を攻め落としたが、肇基は隙に乗じてこれを回復し、数か月にわたって苦しみながら守り抜き、ついに孤城を全うした。錦衣衞の世襲千戸を廕された。のちに四城恢復の功を録して太子太師を加えられ、錦衣衞僉事に改めて廕された。翌年、在官のまま卒した。子の御蕃は徐從治傳に見える。