遼陽の戦傷と各鎮の歴任
- 榆林の人。世襲の職から官を累ねて涼州副總兵となった。遼東の事態が急となり、詔して総兵官に抜擢され、兵を率いて救援に赴いた。世禄は勇悍で兵にすぐれ、経略の熊廷弼に知られた。袁應泰が廷弼に代わってからもまた重く用いられた。
- 天啓元年(1621年)、應泰が撫順・清河を回復することを議し、世禄および姜弼・梁仲善にそれぞれ兵一万を率いて清河に駐屯させた。まだ発たないうちに遼陽が破られ、仲善は陣没し、世禄と弼はともに重傷を負って囲みを破って脱出した。世禄は傷が重かったが、功を立てて自ら効すよう命じられた。まもなく固原総兵官に用いられた。
- 天啓六年(1626年)、軍政の拾遺により罷免された。翌天啓七年(1627年)、寧遠・錦州が急を告げ、家丁を率いて関に赴いて指揮を受けるよう命じられ、ついで出て前屯を守るよう命じられた。着いたばかりのところで、元の官のまま山海に鎮するよう令された。
- 崇禎元年(1628年)、宣府に移鎮した。翌崇禎二年(1629年)冬、京師が戒厳となり、師を率いて入衛した。兵は再び潰え、世禄は傷を負い、部下の兵は民間から略奪して鎮所へ逃げ帰った。事が聞こえ、重罪に当たるべきであったが、勤王に先んじて到着したことにより死を減じて辺境に戍ることとされた。
- 崇禎九年(1636年)八月、京師が兵を被ると、子弟を率いて従軍した。功を叙されて戍を免ぜられ本籍に還った。廷臣は多く推薦したが、ついに再び用いられなかった。
- 崇禎十六年(1643年)、李自成が榆林を囲んだ。世禄は子の拱極とともに新添門を固守した。城が陥ちて父子ともに捕らえられ、ともに屈せず死んだ。
附伝・子の侯拱極
- 拱極は參將を歴任した。常に総兵の尤世祿に従って河曲で賊を破り、功があった。崇禎九年(1636年)冬、山海総兵官に任じられたが、まもなく病と称して帰った。
- のち廷臣の推薦により詔に応じて都に入り、王洪・王世欽・尤世威とともに中左門で召対を受けたが、用いられず帰され、ついに父とともに死んだ。