出自と居庸・山海の鎮守
- 榆林衛の人。兄の世功、弟の世禄とともに勇敢で名を知られた。天啓年間、世威は官を積んで建昌營參將となり、牆子路の守りに転じた。天啓七年(1627年)、山海中部副總兵に遷った。寧遠が急を告げると、大帥の滿桂に従って救援に赴き、城の東で力戦して功があり、秩を増され賜与を受けた。
- 崇禎二年(1629年)、総兵官に抜擢されて居庸・昌平を鎮守した。その冬、京師が戒厳となり、兵五千を率いて順義を防ぐよう命じられたが、にわかに鎮所に戻って諸陵を防護するよう命じられた。
- 崇禎四年(1631年)、宋偉に代わって山海総兵官となり、資格を積んで左都督に至った。
- 崇禎七年(1634年)、寧遠総兵官の吳襄とともに宣府に馳せ救うよう命じられたが、兵を擁したまま進まなかったことに坐して職を剥奪され流刑と論じられた。まだ発たないうちに流賊が河南を蹂躙したので、詔して世威を為事官に充て、副将の張外嘉とともに関門の鉄騎五千を統べて討伐に向かわせた。
河南・盧氏の敗戦
- 翌崇禎八年(1635年)正月、賊が鳳陽を陥れた。世威は二千五百騎で駆けつけ亳州に至った。折しも総督の洪承疇が関を出て賊を討ち信陽に宿営していたので、世威に汝州へ赴くよう命じ、二日して承疇も到着した。当時、賊は河南の兵が盛んなのを見てことごとく関中に逃げ込んだ。承疇は関に入って征討しようとし、諸将を大いに集めて汝・雒の諸要害を分けて防がせた。世威の部下はみな精鋭なので、參將の徐來朝とともに永寧・盧氏の山中に分駐して雒南・蘭草川・朱陽關の険を扼するよう命じ、「靈宝・陝州は賊が出入りするところである、怠るな」と戒めた。
- 承疇が関に入ると賊はこれを避けて南へ向かい、また藍田から盧氏へ走ったが、世威に扼されて、なお商雒の山中に入った。來朝の部下三千人は山に入るのを拒んで大いに騒ぎ、賊が至ると來朝は逃げ、一軍はことごとく壊滅した。世威の軍は野営が長く大疫にかかり、賊と戦って利を失い、世威および遊撃の劉肇基・羅代がともに重傷を負って軍は大潰した。賊はそのまま盧氏を越えて永寧に走った。事が聞こえ、任を解いて取り調べを待つよう命じられた。
- 崇禎十年(1637年)、宣大総督の盧象昇が、世威は士卒をよく撫し軍機に通じている、ただ数千の他所者の兵で長く荒れ山に戍り、疫病が起きて利を失っただけである、今は用兵の時であり棄てるのは惜しい、と述べた。そこで象昇の軍に赴いて自ら効すよう命じられた。象昇が戦没すると、自ら免ぜられて帰った。
- 崇禎十五年(1642年)、廷臣の推薦により弟の世禄とともに京に赴いて任命を待つよう命じられ、中左門で召対を受けたが、また帰郷を願い出た。
榆林の籠城と最期
- 翌崇禎十六年(1643年)十月、李自成が西安を陥れ、榆林に檄を伝えて降伏を勧めた。総兵官の王定は恐れて部下の精兵を率いて逃げた。当時、巡撫の張鳳翼はまだ着任しておらず、城中の兵馬は手薄で人心は□□(底本欠字)としていた。
- 布政使の都任が急ぎ副将の惠顯・參將の劉廷傑らを集め、郷里に居る将帥である世威および王世欽・王世國・侯世禄・侯拱極・王學書、元延綏総兵の李昌齡と城の守りを議した。衆は世威を推して主帥とした。
- まもなく賊十万の衆が延安を陥れ綏徳を下し、また使者を遣わして降伏を説いた。廷傑は大声で「長安は破れたが三辺は元のままだ。賊はみな中州の子弟で、その父兄を殺して駆り立てて戦わせているのだから、必ずしも本意ではない。榆林は天下の精兵、一戦してその気勢を奪い、そのうえで寧夏・固原と申し合わせて三軍で交互に進めば賊は平らげられる」と言った。衆はその言を是とし、血をすすって誓い、兵と馬を選び甲冑と武具を修繕し、それぞれ私財を出して軍を助けた。
- 守りの備えがまだ整わないうちに賊はすでに城下に至った。廷傑は決死の士を募って套部に援軍を乞うた。その軍が到着しようとすると賊は兵を分けてこれを退けた。城攻めははなはだ激しく、官軍は力戦して賊を殺すこと無数であった。賊はますます多く攻め寄せ、飛楼を組み上げて城に迫り、矢と石が交々降り注いだ。世威らは戦いをいっそう激しくし、七昼夜守った。賊はついに城壁に穴を穿ち大砲を据えて撃ち、城はそこで破られた。
- 世威らはなお衆を督して市街戦を行い、婦人や子供までも屋根瓦を剥がして賊を撃ち、賊の屍が折り重なった。やがて力が支えきれなくなり、都任は死んだ。侯世禄父子および學書はともに屈せず死んだ。賊は廷傑が套部を引き入れたことを怒って磔にしたが、死ぬまで罵り声を絶やさなかった。
- 世威・世欽・世國・昌齡はともに捕らえられ、縛られて西安に送られた。自成は秦王府に坐して降そうとしたが、四人は膝を屈しなかった。自成が「諸公はみな名将である。私を助けて天下を平らげれば封侯も得られよう」と言うと、衆は罵って「お前は駅卒の分際で大言して我らを侮るのか」と言った。自成は笑って進み出てその縄を解こうとした。世欽は唾して「駅卒よ、近寄って将軍の衣を汚すな」と言った。自成は怒って全員を殺した。この時、惠顯もまた捕らえられて大いに賊を罵った。賊はその勇を惜しみ、繋いで神木まで送ったが、毒を仰いで死んだ。
附伝・王世欽と王世國
- 王世欽は大将の威の子である。山海左部総兵官を歴任し、病と称して去った。崇禎八年(1635年)、洪承疇が家から起用し、李自成を撃って功があったが、そのまま辞して帰った。崇禎十六年(1643年)、中左門で召対を受けたが、用いられないうちに帰り、そのまま賊に殺された。
- 世國は威の弟で、保定総兵官であった。その継子は柳溝総兵官を罷めて帰り、わずか数日で賊を拒んで死んだ。
附伝・尤世禄・尤翟文・尤岱・劉廷傑・李昌齡
- 世威の弟の世禄は寧夏総兵官となり、重ねて戦功を著した。ここに至って世威とともに死んだ。
- 世威の従弟の翟文は靖辺營副将であった。かつて洪承疇に従って鳳翔の官亭で高迎祥を破り、斬首七百余級。ここに至って決死の士を率いて南門を出て奮撃し、殺傷はきわめて多かったが、矢に当たって死んだ。
- また尤岱という者がいた。歩卒から身を起こして山海鉄騎營參將に至り、たびたび功があったが、上官に逆らって職を棄てて帰った。水西門を守り、城が陥ちて自殺した。
- 廷傑が死ぬと、その父の副使の彛鼎はそれを聞いて泣かず、「わしには子があった」と言った。その弟の廷夔は兄の屍を収め、自らも楼閣から身を投げて死んだ。
- 昌齡は字を玉川といい、鎮番衛の人。延綏総兵官となってたびたび功があったが、剛直なため罷めさせられ、榆林に移り住んだ。賊が至ったとき、ある人が去るよう勧めたが、昌齡は「賊が来て遁げるのは勇ではない、難を見て避けるのは義ではない」と言い、立って世威らとともに城を守り、ついに同じく死んだ。